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第四章 紬
6 紬になった葵
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「最初僕も彼を見たとき、目を疑った。紬が生き返ったかと思ったよ」
「黎人様、言っておられることがめちゃくちゃです。この本庄、全くもって理解が追い付きません」
ほんじょうさんと呼ばれた執事は、高見沢さんを見て、それでも主だからなのか、なるべく丁寧に反論する様、心掛けている風に僕には思えた。
――もう聞きたくない。
――イヤ、三淵葵、きちんと現実を受け入れろ。
僕の中のもう一人の僕が言った。
――受け入れたよ。だから僕は紬になったじゃないか。
――そうだ、最初から三淵葵なんか、あいつにはいなかったんだ。
――違うっ、東條さんは、大和さんは……確かに僕を愛してくれていた。
――いや、違いはしないさ。お前は存在していない。その証拠に貴様の事なんか覚えてもいないじゃないか。
僕の中にもう一人の自分がいる。
僕なんか最初からいなかったと、僕を嘲笑する。
――違う、今だけだ。今は忘れてしまっているだけだ。
――ほう、では西園寺紬になるといったその口で、まだ僕を愛して、僕は葵だよ、とでも貴様は言うつもりか。
――……違う、違う違う――。僕は、紬だ。僕は……西園寺……紬だ。
――そうだ、それでいい。お前なんか、最初からいなかった。三淵葵。
僕をあざけるような高らかな笑い声が、頭上から降り続けた。
――聞きたくない。
僕の意識は深淵の沼に引きずり込まれた。
「違うんだ。本庄。あいつは紬であって紬ではない」
沼の底に沈みそうになっていた僕の意識を引き上げたのは、高見沢さんの声だった。
――紬であって紬ではない?
「何がですか。私は反対です。あの方には、あの方の人生がおありです。巻き込むべきじゃない」
「分かっている」
「分かっておられません。坊ちゃまのされていることは、あの方に死んでくれと言っている事に外なりません。今は東條様は記憶が無いと伺いました。かん口令が敷かれるように、踏み込むなとの、余計なことを言うなとのお達しでした。それは何もするなとの意味だは無いのですか」
「違う! マスコミに騒がれたくなかったからだ。他意はない。では、他にどうしろというのだ。あいつを救うどんな手が」
「東條様が生きて下されば他の者はどうでもいいと? そもそも最初から東條様もそれが狙いですか?」
「それ……とは?」
「紬君の身代わりにしようとしたのではないかと申し上げています」
「本庄!」
引きあげられては沼に沈められる。
――ほおらみろ。
――やめてくれよぉ。
沈黙が流れた。
チラッと窓の外を眺める。薄暗い外界は、はるか上空から光が差し込まないことを指していた。
外では季節外れの雪が降り、地面に落ちては、消えた。
つもりもしないそれは、今の自分と同じだった。
跡形もなく消えていく。
降り注ぐ雪は、無駄な抵抗を試みる自分と重ねられた。
「少なくとも……………………」
僕は意識を壁の向こうにやった。
「大和にとって、三淵葵は、紬ではなかったんだ」
――どういう事?
「どういうことですか?」
――僕の心を執事さんが代弁されている。
「他人の空似にしては似すぎでしょう」
「そうだな」
高見沢は小さな声で相槌を打った。
「さっきも言ったが、私も同じことを大和に行ったことがある」
「黎人様……」
「紬君はもうこの世にはいないのだと、彼は紬君ではないんだぞ……とな」
「はい……」
重い。
ただひたすらに空気が重い。
「大和は言ったよ」
「……………………」
「当たり前だろう、と。しかもバカにするように鼻で笑いやがった」
「東條様には別の者に見えるのでしょうか」
「大和には三淵葵はアイドルに見えるらしい」
「は?」
「そうだよなぁ。当然の反応だ」
「はぁ……」
――アイドルに見える?
――大和さんが言った、社食のアイドルってやつ?
『おい!』
深く沈んだそこから這い上がる声がする。
――なに?
僕はもう一人の自分に返事をした。
『東條大和ってのはオタクなのか?』
――なにが?
沼の底に返事をした。
『アイドルに見えるんだろう。二次元オタクか』
――僕は生きているから、どちらにしても三次元でしょ。
あまりの馬鹿な質問に、僕の心は平静を取り戻すことが出来た。
あの時、大和さんとした約束が、今でも僕の心に力をくれる。
『約束したからね、もう僕の事、捨てさせないから』
『葵――』
「三淵葵は左利き、で紬君は右利き」
「いや、それは……」
「三淵葵は気が強くて、可愛くなくて、それなのに、そんなところが死ぬほど可愛いそうだ」
「紬君だって可愛かったでしょう」
本庄さんは譲らなかった。
「お前の言いたいことは解る。はたから見ればそっくりだから。でも全く似ていない、大和はそう言った」
「……しかし、黎人様」
「あの子は自分ってものを持っていなかった。流されて、拒否できなくて、命まで削った。三淵はなかなかだぞ。したたかで芯も強い。自分ってものを持っている。諦めなくてしつこくて、意思のある良い目をしている。そして何より慈悲深い」
「顔は……」
「偶然だそうだ。俺が似ていると言ったら、そうかぁ? 紬の方が美人だな、と宣ったからな」
――失礼な! 僕だって顔は人並み以上だよ。
「俺は三淵の慈悲深さにつけこんだ。そしてあいつの、決して諦めない強さにかけたんだ。正直、荷物まで捨ててしまうとは思っていなかったがな。でも三淵は、三渕葵を思い起こさせる全ての物を排除しても、決して自分を捨てたりはしないだろう。そういうところは頑固なんだ」
「黎人様は何故そう思うんですか?」
「それか? 大和に嬉しそうに報告を受けたからな」
――報告?
『報告? 報告ってなんのだ』
――僕が知るわけないだろう。少し黙れよ。聞こえない。
「報告……ですか?」
執事は言葉をつづけた。
「ああ、もう僕のことを捨てさせないと言われたんだと、あのおっさんは嬉しそうに報告してきたんだ。聞いてもいないのにな。性癖もばらして、逃げていいと言ったのに、なお、捨てさせないってしばりつけてきた。とな。変な奴だ……」
「変な奴……ですか」
「二人共バカだな、と俺はその時言った。するとな、葵はアイドルじゃなくて、悪魔だったんだとほざきやがった」
高見沢は思い出すように笑った。
「そうだよ、悪魔なんだから、取って食われたりするもんか。必ず、大和をこちら側に引きずり出して、むしろかっくらってくれるさ」
「東條様を信じるんですね」
「ああ。だが、信じるのは大和をじゃない。大和を救いたいといった、三淵の諦めない心をだ」
――そうだった。
あの時の約束はまだ反故にはなってない。
さっきまでちらちらと降っていた雪はもう止んで、遠くでは雨が降っていたのだろう。
光が差し込むその先に、綺麗な虹が出ていた。
ここからが僕のスタートだ。
いつか思い出してもらえた時に、僕が僕を失わないために。
――あ、時計、捨てなきゃよかったな。
こればっかりは仕方がない。
乾いた喉を潤そうと冷蔵庫を開け、腹が減っては戦は出来ぬと、中に入っていたチーズを口に入れた。
「なんだ、チーズを食べているのか」
戻ってきた高見沢に腹が減ったからというと、ちょっと早いが夕食にさせよう。と言われ、おいしいやつでお願いします。と憎まれ口を言った。
「黎人様、言っておられることがめちゃくちゃです。この本庄、全くもって理解が追い付きません」
ほんじょうさんと呼ばれた執事は、高見沢さんを見て、それでも主だからなのか、なるべく丁寧に反論する様、心掛けている風に僕には思えた。
――もう聞きたくない。
――イヤ、三淵葵、きちんと現実を受け入れろ。
僕の中のもう一人の僕が言った。
――受け入れたよ。だから僕は紬になったじゃないか。
――そうだ、最初から三淵葵なんか、あいつにはいなかったんだ。
――違うっ、東條さんは、大和さんは……確かに僕を愛してくれていた。
――いや、違いはしないさ。お前は存在していない。その証拠に貴様の事なんか覚えてもいないじゃないか。
僕の中にもう一人の自分がいる。
僕なんか最初からいなかったと、僕を嘲笑する。
――違う、今だけだ。今は忘れてしまっているだけだ。
――ほう、では西園寺紬になるといったその口で、まだ僕を愛して、僕は葵だよ、とでも貴様は言うつもりか。
――……違う、違う違う――。僕は、紬だ。僕は……西園寺……紬だ。
――そうだ、それでいい。お前なんか、最初からいなかった。三淵葵。
僕をあざけるような高らかな笑い声が、頭上から降り続けた。
――聞きたくない。
僕の意識は深淵の沼に引きずり込まれた。
「違うんだ。本庄。あいつは紬であって紬ではない」
沼の底に沈みそうになっていた僕の意識を引き上げたのは、高見沢さんの声だった。
――紬であって紬ではない?
「何がですか。私は反対です。あの方には、あの方の人生がおありです。巻き込むべきじゃない」
「分かっている」
「分かっておられません。坊ちゃまのされていることは、あの方に死んでくれと言っている事に外なりません。今は東條様は記憶が無いと伺いました。かん口令が敷かれるように、踏み込むなとの、余計なことを言うなとのお達しでした。それは何もするなとの意味だは無いのですか」
「違う! マスコミに騒がれたくなかったからだ。他意はない。では、他にどうしろというのだ。あいつを救うどんな手が」
「東條様が生きて下されば他の者はどうでもいいと? そもそも最初から東條様もそれが狙いですか?」
「それ……とは?」
「紬君の身代わりにしようとしたのではないかと申し上げています」
「本庄!」
引きあげられては沼に沈められる。
――ほおらみろ。
――やめてくれよぉ。
沈黙が流れた。
チラッと窓の外を眺める。薄暗い外界は、はるか上空から光が差し込まないことを指していた。
外では季節外れの雪が降り、地面に落ちては、消えた。
つもりもしないそれは、今の自分と同じだった。
跡形もなく消えていく。
降り注ぐ雪は、無駄な抵抗を試みる自分と重ねられた。
「少なくとも……………………」
僕は意識を壁の向こうにやった。
「大和にとって、三淵葵は、紬ではなかったんだ」
――どういう事?
「どういうことですか?」
――僕の心を執事さんが代弁されている。
「他人の空似にしては似すぎでしょう」
「そうだな」
高見沢は小さな声で相槌を打った。
「さっきも言ったが、私も同じことを大和に行ったことがある」
「黎人様……」
「紬君はもうこの世にはいないのだと、彼は紬君ではないんだぞ……とな」
「はい……」
重い。
ただひたすらに空気が重い。
「大和は言ったよ」
「……………………」
「当たり前だろう、と。しかもバカにするように鼻で笑いやがった」
「東條様には別の者に見えるのでしょうか」
「大和には三淵葵はアイドルに見えるらしい」
「は?」
「そうだよなぁ。当然の反応だ」
「はぁ……」
――アイドルに見える?
――大和さんが言った、社食のアイドルってやつ?
『おい!』
深く沈んだそこから這い上がる声がする。
――なに?
僕はもう一人の自分に返事をした。
『東條大和ってのはオタクなのか?』
――なにが?
沼の底に返事をした。
『アイドルに見えるんだろう。二次元オタクか』
――僕は生きているから、どちらにしても三次元でしょ。
あまりの馬鹿な質問に、僕の心は平静を取り戻すことが出来た。
あの時、大和さんとした約束が、今でも僕の心に力をくれる。
『約束したからね、もう僕の事、捨てさせないから』
『葵――』
「三淵葵は左利き、で紬君は右利き」
「いや、それは……」
「三淵葵は気が強くて、可愛くなくて、それなのに、そんなところが死ぬほど可愛いそうだ」
「紬君だって可愛かったでしょう」
本庄さんは譲らなかった。
「お前の言いたいことは解る。はたから見ればそっくりだから。でも全く似ていない、大和はそう言った」
「……しかし、黎人様」
「あの子は自分ってものを持っていなかった。流されて、拒否できなくて、命まで削った。三淵はなかなかだぞ。したたかで芯も強い。自分ってものを持っている。諦めなくてしつこくて、意思のある良い目をしている。そして何より慈悲深い」
「顔は……」
「偶然だそうだ。俺が似ていると言ったら、そうかぁ? 紬の方が美人だな、と宣ったからな」
――失礼な! 僕だって顔は人並み以上だよ。
「俺は三淵の慈悲深さにつけこんだ。そしてあいつの、決して諦めない強さにかけたんだ。正直、荷物まで捨ててしまうとは思っていなかったがな。でも三淵は、三渕葵を思い起こさせる全ての物を排除しても、決して自分を捨てたりはしないだろう。そういうところは頑固なんだ」
「黎人様は何故そう思うんですか?」
「それか? 大和に嬉しそうに報告を受けたからな」
――報告?
『報告? 報告ってなんのだ』
――僕が知るわけないだろう。少し黙れよ。聞こえない。
「報告……ですか?」
執事は言葉をつづけた。
「ああ、もう僕のことを捨てさせないと言われたんだと、あのおっさんは嬉しそうに報告してきたんだ。聞いてもいないのにな。性癖もばらして、逃げていいと言ったのに、なお、捨てさせないってしばりつけてきた。とな。変な奴だ……」
「変な奴……ですか」
「二人共バカだな、と俺はその時言った。するとな、葵はアイドルじゃなくて、悪魔だったんだとほざきやがった」
高見沢は思い出すように笑った。
「そうだよ、悪魔なんだから、取って食われたりするもんか。必ず、大和をこちら側に引きずり出して、むしろかっくらってくれるさ」
「東條様を信じるんですね」
「ああ。だが、信じるのは大和をじゃない。大和を救いたいといった、三淵の諦めない心をだ」
――そうだった。
あの時の約束はまだ反故にはなってない。
さっきまでちらちらと降っていた雪はもう止んで、遠くでは雨が降っていたのだろう。
光が差し込むその先に、綺麗な虹が出ていた。
ここからが僕のスタートだ。
いつか思い出してもらえた時に、僕が僕を失わないために。
――あ、時計、捨てなきゃよかったな。
こればっかりは仕方がない。
乾いた喉を潤そうと冷蔵庫を開け、腹が減っては戦は出来ぬと、中に入っていたチーズを口に入れた。
「なんだ、チーズを食べているのか」
戻ってきた高見沢に腹が減ったからというと、ちょっと早いが夕食にさせよう。と言われ、おいしいやつでお願いします。と憎まれ口を言った。
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