αと嘘をついたΩ

赤井ちひろ

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第一章 再会

2 皐月

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  二階にある新幹線ホームの窓からしばし下の街路樹を見つめ、ズボンの上からごしごしと両手を擦った。あいにくの雨に気分はブルーになり、プラットホームの看板を仰ぎホームに流れるアナウンスの声に体が過剰反応をした。
 ここ何日かよく眠れず、疲労と嘔吐に58キロしかなかった体重は更に2キロ減っていた。
 別段異動で体調不良なわけではないし、店の行く末に憂いているわけでもなかった。春は異動の時期であるし、大きく息を吸うと膨れ上がった感情に一旦蓋をした。
 一歩を気合いで歩き出せば曇天の色はそれでも青く、鳥の声に足は自然に前を向き歩を進め、傘という鎧が今回ばかりは役に立った。紫苑は寄り道もせず駅近の不動産屋に鍵をもらいに行った。
「すいません、チャオチャオバンビーノの者ですが」
 奥から顔だけひょいっと出すと人懐っこいおじちゃんの顔が紫苑をとらえた。
「あー、聞いてるよ。紫苑さんだっけ。これが鍵ね、2本有るから失くさないようにお願いしますよ」
「はい」
 紫苑はテンプレートの笑顔を張り付けて礼儀正しい好青年を演じた。
 表口と称される東側にはバス停も本屋もコンビニも駅地下もあり、カフェや食べ物屋もある。
 その一区画がチャオチャオバンビーノの小田原支店であった。大箱の青山本店とは違いマックス25席の小型の店舗だ。
 店から徒歩で15分程の所にあるマンションに向かう途中で雨音に交じり背後から何やら声がした。傘で声を遮断し、無視をして歩く紫苑に近づいてくる声は肩を叩き、その手の熱さに紫苑はびくりと肩をすくめた。
 目線だけ90度後ろを確認し、恐る恐る声のする方に顔を向けた。
「紫苑じゃん。何、今こっちに帰って来てんの」
 高校時代の同級生に肩を組まれ、パーソナルスペースが広い紫苑は肩の手を払いのけた。
「なにビクッとしてるんだよ。相変わらずアルファのくせに、女みたいに綺麗な顔してるよなー。それに今日はあんまりアルファ臭くないな」
 紫苑がじろりとにらむと、その男は悪気はなかったとばかりに舌を出した。これからもこんな事はあるだろう、なら味方につけない手はない。
「僕、東口のチャオチャオバンビーノに異動したんだ。今度売上協力よろしくね」
 お得意のポーカーフェイスで満面の笑みを張り付けた。
「まじで?でもあそこオープンに開いてなかったり料理糞不味かったりするんだよ、大丈夫なのかよ、評判わりーぜ」
 辛口の同級生の意見は本来ならもっと詳しく聞きたいところだ。しかし今は正直言ってありがたくない。
 ――飲み忘れた。いつもなら絶対に有り得ない失敗に小さく舌打ちが出た。気が付いたらダメだ。喉がゆっくりと上下に嚥下した。
「最低の店を、最高の店にしてみせるよ。その為に来たんだ。そんなことも出来なくて何の為のアルファだよ。オメガじゃあるまいし」
 汗をかいてる手を上着で拭くと嫌な汗が背中を伝った。
 チクン、何かが心臓にひっかかった。――オメガじゃあるまいし。自分のセリフが腹の中をぐちゃぐちゃにする。紫苑は大きく手を振り、唖然とする同級生に背を向け喧噪の中、足早にマンションに向かった。 
 ――あいつがベータで良かった。
 手が震えガチャガチャなる金属の物体は、幾度かののち穴の中に押し込まれ、カチャリ、マンションの鍵が開いた。セキュリティーは万全だ。重い扉を開け一歩中に入り込む。スーツケースを放り出し、ベッドに吸い込まれるように倒れ込んだ。事前にベッドとローテーブルにソファを入れに来てくれていた事務方のおかげでギリギリまで本店に居られたことはありがたかったし、何より今は何も考えたくなかった。スーツを脱ぎ散らかし裸のまま薄手のタオルケットに身を包む。自然と手が後ろを触っていた。
「10日か」
 携帯の日付を見ながら紫苑は重苦しいため息を吐いた。3月のあの日から間もなく3か月。体の中から湧き上がる疼き、カバンから小さな入れ物を出し、中に入っている白い錠剤を2種類、倍量飲んだ。飲み忘れただけだ、副作用はひどくても倍量飲めば早々に収まるはずである。一切のヒートを起こさせないつもりで毎日飲み続けているのだから。
 ――ヒート抑制剤。オメガがヒートの症状を緩和させるために飲む薬と、アルファと偽る紫苑は自分の特異体質を生かして疑似α剤なるものを併用していた。紫苑は携帯に手を伸ばし何度も打ち間違えてはタップした。番号は本社、話せるうちに電話をしなくては。引っ越し作業を早急に終わらせるという名目で3日間の有給をもぎ取った。
 躰が崩れ落ちる屈辱に唇を嚙んで、後ろに伸びた自身の指を懸命に引き抜き、自分の腕に爪を立てた。
「オメガなんて汚い……」
 
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