鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第二章 近づく夏

18th Mov. 予定と未定

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 伏見さんと楽器店に行く約束をしてからというもの、あっという間に時間が過ぎ去っていき、当日の土曜を迎えてしまった。

 この一週間ほど、自問自答を繰り返す日々を過ごしたことはなかったように思う。
 フェルマーの最終定理のように簡単そうなのに、全く答えに辿り着けない。どれだけアプローチの仕方を変えたところで、答えは出ずに堂々巡り。
 毎日、そんな感じだった。


 伏見さんと約束した待ち合わせ時間は10時。今は9時。
 待ち合わせ場所は、立川駅。今、僕のいる場所だ。

 前回同様に家で時間を持て余し、ゆっくり歩いてきたのだけれども、それでも一時間も余ってしまった。仕方なく、ファーストフードのバーガーショップに入り、アイスコーヒーを頼んだ。それをチビチビと飲みながら時間を潰す。

 その間、何度となく考えてきた今日の行動を確認する。不発に終わっても良いから、念のためと予定を立ててきた。ほとんど可能性の無い妄想に近いものだけれど、もし万が一、電子ピアノを見終わった後に「この後どうする?」なんて言われたら、固まる自信がある。僕にその場で良い場所なんて思いつくわけない。だからこそ、無駄になると思いつつも、一応の計画だけは立ててきたのだ。

 まず楽器店を見て、今日のお礼としてお昼に誘う。その後は、昭和記念公園をブラブラして、少し疲れたようなら眺めの良いカフェに立ち寄る。
 休んだ後は駅に戻って、夕方くらいに解散。

 これが今の僕の限界。
 映画とかウインドウショッピングは難易度高すぎたので、却下。五月の終わりなら、天気も良くて、過ごしやすい。自然の多い昭和記念公園なら、上手く話題を提供できなくても、何とかなる気がする。

 まあ、そもそもお昼に付き合ってくれるかすら未確定なので、この計画を活用出来るかは怪しい所だ。

 ※

 9時55分。立川駅の待ち合わせ場所。
 僕の心臓は、10時になると爆発するんじゃないかってくらいにバクバクしている。それは、待ち合わせ時間が近づくほどに、激しさを増してくる。もう爆発寸前だ。

 すると、聞きなれた声が僕の耳に届く。

「お待たせしました~」

 伏見さんは何の気負いもない、いつも通りの態度で現れた。僕との落差が激しいな。
 ただ、彼女が五分前に来てくれたおかげで、僕の心臓は守られたのも事実。
 そして、普段通りの伏見さんを見ると、安心している僕がいる。

「全然待ってないよ。今日は、わざわざありがとう」
「全然だよ~! 野田君がピアノ始めるって聞いて嬉しかったし! お役に立てて光栄です」

 そう言って頭を下げる伏見さん。協力してもらっているのは僕の方なのに。そう思って、急いで僕も頭を下げる。

「ご挨拶も済んだし、お店行こうか」

 少し、はにかみながら問いかけてきたその言葉に、僕はうなずいて後を追う。
 前を歩く彼女の長く柔らかなスカートがたなびき、軽く結んだ髪が揺れた。
 細かなレースがあしらわれたブラウス。焦茶のローファー。

 私服を褒めた方が良かったのだろうか。そんな風に思わないでもなかったけれど、どぎまぎしてしまって言葉にならず、胸の内で可愛いなと思うに留まった。

 この前、ピアノの発表会終わりにも私服を見たはずなのに。また違う一面を見た気がして、良く分からない感情が渦巻く。

 僕の感情とは正反対に、彼女は楽しそうだ。鼻歌が聞こえる。
 相変わらず彼女の音は軽やかに跳ねていて、顔を見ずとも彼女の感情が見て取れるようだ。

 僕は彼女の音に導かれるように後ろをついていくばかり。
 駅ビルにある楽器店には、すぐに着いてしまった。


 地元の駅ビルにあるお店なので、今まで通り掛かりに見ることはあっても、中に入ることは無かった。今回が初めての楽器店へ入店する。
 店内では、ギターやフルート、サックスなどが光を反射してキラキラと輝く。
 何に使うか分からない道具。楽譜。所狭しと置かれている。

 彼女は迷うことなく店内を進み、目的の場所に。
 そこにはアップライトピアノや電子ピアノ、キーボードが置かれたコーナー。
 ピアノらしきものたちだけでも所狭しと置かれている。
 こんなに数多くあるなんて思わなかったな。伏見さんに来てもらって正解だった。

「着いたね! 電子ピアノはあの辺りだから、さっそく触ってみよ~!」

 何気なく鍵盤を触っていく伏見さん。本当に何気なく触っているのに、奏でるメロディーは美しくて、複雑だ。彼女の技術の高さが良く分かる。
 数台の前を流れるように歩いて、鍵盤に触れていく。

「うーん、値段と音なんかのバランスが良いのはコレかな!」
「そうなんだ。どの音も綺麗だと思ったけど」

「うん、私も思った! 最近の電子ピアノは凄いね! だけど、やっぱり感触と音の精度の合格ラインはコレくらいかな」
「ブランドはヤマハで……、金額は二十万円か……。アップライトに比べれば全然安いけど、電子ピアノの中では、かなり高いやつなんだね」

「そうなの。どうしても私には感触に違和感を感じちゃって。でも、もっと安いのでも良い音出てるのはいっぱいあるから、その中からでも!」
「いや、伏見さんが合格点をくれたコレにするよ。と言っても、まだ軍資金が足らないから、超えなきゃならないハードルは多いんだけど」

「野田君、自分で買おうか悩んでるんだもんね。私だって払えないよ。選んだの高すぎたかな……。あっ! 野田君、アレ!」

 そう言うや否や、走り出した伏見さん。チラシのラックに駆け寄ると、一枚のチラシを取って戻ってきた。

「これ、メーカーのヤマハが電子ピアノのレンタルやってるみたい! 月に数千円からレンタル出来るなら、ハードル下がるんじゃない⁈」
「おっ、本当だ! 伏見さん、これ凄いよ! これなら僕でも払えそう!」

「やったね! ふっふっふ。私、お手柄ですな!」
「うん! お手柄です!」

 お手柄と認められて、今日一番の笑顔の伏見さん。自分の発見を嬉しそうに誇っている。
 今回のピアノ探しは僕の問題なのに、自分の悩みごとのように真剣に探してくれて、自分のことのように喜んでくれて。

 ――良い子だよな。伏見さんって。

 彼女の明るさは、周りの人の心を明るくする。
 だから自然と笑顔が増えて、楽しい気分になれる。

 伏見さんが友達といる時は、みんな良く笑っている気がする。
 きっと彼女の笑顔が伝播するんだな。
 そして、多分僕にも。
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