鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第二章 近づく夏

20th Mov. ピアノ選びとレンタル

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 電子ピアノは父さんとの話し合いの末、レンタルにすることが決まった。
 購入した方が安上がりなのは理解していたけど、いきなり二十万円のピアノを一括で買うのではなく、まず始めてみてからという様子見をすることに。

 レンタルにはなったけど、その費用も父さんが出してくれるという非常にありがたい結論になった。


 そして、立川駅のうさぎピアノ教室への入会も済み、レッスンが始まった。
 それは僕のピアノ人生の始まりでもある。

「まずはリズムや音符の長さを覚えましょうね。無料体験の授業でもやったけど、ここは疎かにしないで、しっかり覚えること」

 入会すると伝えた時は、非常に喜んでくれたのだが、レッスンとなると一転して厳しい印象に変わった。結先生は何度となく、基礎をしっかりという言葉を使い、簡単なことに重要なことが含まれていると言っていた。

 僕は右手で鍵盤を押しながら、音符の長さで離すという練習を繰り返している。
 頭の中で必死に拍を取って鍵盤を押す、離すを繰り返すので、簡単なことなのに忙しい。

 発表会で見てきた子供たちでも、指先が器用に動いていたのに、僕は人差し指ですら怪しい。一体、いつになったら曲を弾けるようになるだろうか。全くイメージが出来ない。

「ほら、気を抜かないで集中! 紬《つむぎ》みたいに人の心を動かしたいんでしょ? スタートが遅い野田君は、一分一秒も無駄に出来ないのよ」
「はい。すみません」

「じゃあ、目先を変えて、音階を弾いてくよ。指番号を間違えないように。1.2.3、1.2.3.4.5。そうそう、上手。そのまま戻るよ。5.4.3.2.1、3.2.1」

 親指から振られた指番号。親指が一番で小指が五番。
 親指でド、人差し指でレ、中指でミを押すと、ファは親指に戻ってから順番に。

 ややこしい……。
 思わず薬指が先に動いてしまいそうになる。僕の鳴らす音はリズムが一定じゃなくてガタガタしている。

「順番はちゃんと覚えられたね! あとは、それがスムーズに動くように。何も考えなくても、指が動くぐらいに練習してきて」
「はい」

 指示を受けている間も、指を止めて良いとは言われていない。ひたすら音階を行ったり来たり。

「やり方は教えたから、あとはおうちでね。その時に注意してほしいのは、リズムもそうだけど、音の大きさも気にして。どの音も同じ音の大きさになるように」
「音の大きさですか?」

 音の大きさという新しい視点を提示されて、思わず手を止めてしまう。
 今は指をスムーズに動かすことばかりに意識がいっていて、音の大きさにはこだわってなかった。

「そうなの。もちろん、強く押すってことじゃなくてね。指によって、押しやすいとか押しにくいってあるでしょ? 押しにくい所はどうしても音が小さくなるから。強い指も弱い指も同じ音の大きさになるように気を付けて」
「強い指と弱い指ですね。気を付けます」

「来週までに完璧に出来るようになってなくても良いから、その意識だけは忘れないように。あとは、慣れてきたら音符を変えたり組み合わせて練習するのも良いからね。余裕があれば、どんどんやってみて」

 とまあ、なかなかスパルタな感じで、どんどん課題を出された。
 結先生は、レッスン中の雰囲気と普段の雰囲気に凄い差があると思う。喋り方もハキハキしているような気もするし。不思議だけれど、レッスンは分かりやすいので問題はない。伏見さんのお母さんってところが問題と言えば問題かな。

 へたくそな僕の話が、彼女に伝わると思うと何となく恥ずかしい。
 そもそも、伏見さんのおうちで僕の話が出るかっていうところからなんだけどね。
 今はとにかくピアノの練習をしていこう。ピアノだけに集中していられる時間は少ないんだから。

 ※

 五月の終わりから始めたピアノのレッスン。
 電子ピアノは六月の頭には自宅に届いて、僕の部屋に設置してもらった。
 ピアノが自宅に届くまでは紙に印刷した鍵盤で指の練習ばかり。

 待ち望んだ電子ピアノはヘッドホンが使えるので、時間を気にせず弾けるのが良い。
 自分の部屋に置けたおかげで、へたくそでも親の目を気にせず、ひたすら練習出来た。

 教本として買った『オルガンピアノの本』には、単純な曲がたくさん。聞くだけならシンプルで簡単そうな曲ばかりなのだが、自分で演奏となるとそうもいかない。
 指の運びに気を取られ、音符の長さやリズムも整えようとすると、曲とも言えない出来になる。

 歪で引っ掛かりの多いメロディーは心地良さとは程遠い。
 それでも、いくらかスムーズに弾けるようになると、曲らしくなってくるから不思議だ。
 何より、地道にやってきた練習が、次第に曲らしくなっていく様がとても楽しい。

 初めて曲に取り組むときは、曲の形にすらならないのに、少しずつ、少しずつ曲らしくなっていく。コツコツと練習した分だけ、上達を感じられる。それ以上でもなくて、それ以下でもない。自分の進んだ分だけ、ピアノが上手くなる。

 当然のように、僕はピアノにのめり込んでいった。
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