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二人 其の三
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三
江戸には四宿あり。
五街道に存在する宿場町のうち、江戸に最も近い宿場町を指す。
東海道は品川宿、中山道は板橋宿、日光街道と奥州街道は千住宿。そして甲州街道の内藤新宿である。
修二郎の屋敷に近い内藤新宿は元禄12年(1699年)に開設された新しい宿場町。
しかしながら、わずかな期間で名だたる宿場町へと発展していた。
その背景には、江戸の都市部と武蔵国西部や甲州を結ぶ街道の起点であり、人や物資の往来が激しかったことが挙げられる。
しかしながら、必ずしも立地的な要因だけで成功したわけではない。宿場町の本来の役割である公用の伝馬。これにかかる費用がかさみ、他の収入源を確立しなければならなくなったことが発展を後押しした。
飯盛女を置く旅籠が増えたのである。飯盛女の役割は給仕だけではない。俗に言う私娼。岡場所である。四谷大木戸を出れば、そこは内藤新宿という宿場町。
江戸町民にとっては遊ぶにもってこいの場所であり、甲州街道を旅してきた者にとっては、旅の終わりに心も懐も緩む場所。
必然と発展してきた内藤新宿は、街道沿いに九町(1km)ほど広がり、旅籠は五十軒を超えている。加えて、宿泊施設の無い茶屋や飯屋、それらを支える各商店。旅に欠かせない足袋屋や髪結。飛脚の人足や馬の飼料である糠を売る糠屋など。
人が集まれば、様々な商売が成り立ち、新天地の内藤新宿には多くの人が流入してきた。江戸市中ではなく、宿場町に流れ込んでくる人間となれば、後ろ暗い過去を持つ者や、特別な事情を抱え込んでいる者が増えてしまうのが人の世の常というもの。
内藤新宿は新しい宿場町にも関わらず、古びた風情のある裏長屋があった。
まるで町中の欲望を吸い寄せたのではないかと思われるような陰鬱とした住まいであった。当然にして、そんなところに住むのは町でも最下層の人間。
人別帳に記載もなく、請人もいない。
そのような人物がまともな住まいを得られるはずもない。流れ者の宿命である。
そこの中でも、便所の傍の不人気な部屋。
そこには若干上方訛りのある中年と、娘が住んでいた。
油っ気のない中年は勝次という。侍には見えず、商家務めにも見えない。
ただ、常に笑みを湛えた顔は人の良さを感じさせる。話しぶりも穏やかで恨みを買うような人物ではない。これらを総合して裏長屋でも最も人気のない部屋であればと居住を許された経緯である。中年は寺小屋の真似事をしながら、僅かな銭を得ていた。
ここに居を構えて、かれこれ一年近くになる。
劣悪な住宅環境にあって、まっとうに銭を稼げているだけ上等であるといえるだろう。
銭はそこまでなくとも、勝次はあくせく働く様子はなく、長屋で一人のんびりと時間を過ごしていた。
そこへ来客があった。
「邪魔するぜ」
そう告げた男はガタガタと何度か力を入れて開けた。
築年数以上に古さを醸し出す建物では、戸の開け閉めにも苦労する。
来訪者はやくざ者とまではいかないものの、真っ当な町人には見えない男。
勝次はそのような男の来訪に怖れることもなく、穏やかに挨拶をした。
「これは哲蔵親分。ご苦労さまです」
「急に訪ねて悪かったな。御用だ」
「はい、何でしょう」
勝次は入口に立つ哲蔵親分に向かって座り直し、用向きを問うた。
「最近、人相の悪い男が町に流れ着いたようだ。凶状持ちの浪人である可能性が高い。何か知らねえか?」
「はて……。何分私はこのように出不精なもので。とんと心当たりはございません」
「そうかい。娘の郁にも聞いといてくれや。何か知っているようなら、知らせてくれ」
哲蔵親分は、端から勝次に期待していないようで、娘の方が本題のように見受けられた。
「承知致しました。それで、親分。娘の件ですが、その後どうでしょう?」
「あいつは話も聞かねえし、どうにもならねえや。俺も気にしてはいるんだがな」
それ以上の追及を避けるように、哲蔵親分は、またガタガタと戸を閉めてしまった。
残された勝次は、先程の穏やかな表情から思い詰めたような表情へと変わっていた。
一方、もう一人の住人である娘の郁はというと、旅籠で女中働きをしていた。
飯盛女ではなく、配膳や掃除などを行う仕事である。内藤新宿では旅籠ほど儲かる商売はない。郁の給金は父親よりも良かった。
郁は機転も利くが何より器量良し。あの子を呼んでくれと旅籠では大層な人気者。
飯盛女になれば数年で財産を築けると旅籠の親父に誘われるが、郁は笑顔で躱していた。
諦めきれない旅籠の親父は、人気者の娘を他所に取られるくらいならと、多めの給金で女中働きをさせている。
二人の収入であれば、もっと良い長屋を借りられそうなものだが、身寄りのない自分たちを受け入れてくれた家主に悪いと、今の住まいから離れようとしなかった。
掃き溜めに鶴とはこのことだろう。
郁の評判が宿場町に拡がる頃には、旅籠の人気も高まっていた。
しかし、集まるのは善意の人間ばかりではない。
町の若い破落戸にも評判が伝わると、郁に付きまとう輩が増えていった。
その中でも特に質の悪い男の態度には、郁も困惑を超えて怖がっていた。
本来なら町の親分に相談するのだろうが、その男は浅草の名主の倅だそうで、この哲蔵親分が預かり、世話をしているという経緯もあって、頼りにならない。
当人は、なよなよとした形と表情の割に、自尊心だけは高く、実家の家柄をひけらかす鼻つまみ者である。
助言をする者どころか、まともに取り合う者もおらず、改善の傾向は見えない。
特に最近では、付きまといは毎日のこととなっており、仕事前と後には必ず声をかけられる始末である。嫌がる郁は、帰路を変えたり、時刻を変えたりしているのだが、自宅前で待ち伏せされてしまい効果は無かった。当然、そのような行動をする男に言葉で拒絶しても微塵も態度が変わらない。どころか、段々と過度に接触を図り、腕を掴んだり、抱きしめたりと酷くなっていった。
そして今日も望まぬ男と帰り道で遭遇してしまった。
あと少しで我が家に着くというところで。
待ち伏せていた男は、薄ら笑いを浮かべて幼馴染に会ったかのように、気安い態度で声をかけた。
「よお、郁。相変わらず別嬪だな。お前くらいだぜ、この町で俺にふさわしい女は」
「知りません。それにふさわしくありません」
それなりに人の機微が分かる者であれば、ふさわしくないという郁の拒絶は、男の方が見合っていないという回答だ。
しかし、男はそうは取らなかった。郁自身が男にふさわしくないと固辞していると受け取ったようだ。
「そんなことねえさ。お前はこの町で一番だぜ。自信持ちな。俺の女になっても、ちっとも恥ずかしくねえ。なんせ、俺がこんなに気にかけてやってるんだぜ?」
「気にかけてくださらなくて結構です」
女の態度に関係なくズカズカと近づく男は、鳥肌の立ちそうな猫撫で声で自分勝手なことを言い放つ。
郁がどれだけ感情を込めず冷たく突き放そうとも、堪える様子は無い。
むしろ更に一歩近づいて息がかかりそうなほどだ。
得体の知れない人間を見るように、郁は男との距離を取ろうと後退る。
しかし、裏長屋につながるような道はさほど広くない。
劣悪な環境にある郁の住まいの通りには、まともな人物は通らず、助けを求めることも出来ない。
話の通じない男が何をするか想像など出来るはずもなく、恐怖を募らせる郁。
手を伸ばせば捕まってしまう。そんな状況に追い込まれた時、郁に声が掛けられた。
「おい! 娘に何する気だ!」
珍しく怒鳴るような声を上げたのは父の勝次。
小脇に豆腐を乗せた笊を抱え、小走りに近寄ってくる。
「郁から離れんかい! このアホンダラ!」
急に大きな声を聞き、驚いていた男だったが、声の主が小柄の中年だったと分かると、皮肉げな笑みを浮かべ宣う。
「おっさんは引っ込んでな。俺達はいま大事な話をしてるんだからよ」
「私は話したくありません! 離れてくださいな」
「ほれ! 郁がこう言うておろうが! 青っちょろい軟弱者は下がっとれ!」
「この俺に向かって軟弱者だと!? 痛い目に遭いたいらしいな」
その言葉も言い終わらぬうちに、勝次へと向き直った男は大きく腕を振り上げた。
なんの躊躇もなく顔に目掛けて突き出された拳。
勝次は慣れた様子で一歩片足を引き、男の拳を軽く避ける。
空振った男は勢いを止められず体勢が崩れたままだ。
勝次は空いた手で男の手首を掴むと引き倒す。
すると掴まれた手首を支点にして、くるりと地面に投げ飛ばされる男。
ドサリと背中から落ちた男は悶え苦しむ。
「これに懲りたら、郁に近寄るな。さあ、いくぞ」
何事もなかったかのように、娘とともに帰路につく勝次。
娘の郁は驚きながらも父の後に続く。その背に向かって起き上がれない男は負け惜しみの言葉をぶつける。
「ジジイだから手加減してやったんだ。俺が弱いわけじゃねえ」
勝次も郁もその言葉が聞こえたはずだが、反応することもなく長屋へと歩みを進めている。
郁は普段温和な父があのような強さを持っていることに驚き、聞かずにはいられなかった。
「お父さん、凄いじゃない。武芸の心得があるなんて知らなかった」
「あんなもんは武芸じゃないよ。あえて言うなら捕手術の一種だな。昔、仕事で必要だったのさ」
「昔のお仕事って、あの?」
「そうさ。頭に血が上るやつも多くて身に付けざるを得なかったのさ。もうそんな昔話は良いだろう。豆腐が売れ残りで安かったのだ。飯に乗せて、崩して喰おう」
ささやかな日常。
先程までの騒動はなかったかのように、肩を寄せ合い歩く父と娘。
流れ者の親子は、かつての生活の地を離れ、何とか江戸での暮らしを続けていた。
江戸には四宿あり。
五街道に存在する宿場町のうち、江戸に最も近い宿場町を指す。
東海道は品川宿、中山道は板橋宿、日光街道と奥州街道は千住宿。そして甲州街道の内藤新宿である。
修二郎の屋敷に近い内藤新宿は元禄12年(1699年)に開設された新しい宿場町。
しかしながら、わずかな期間で名だたる宿場町へと発展していた。
その背景には、江戸の都市部と武蔵国西部や甲州を結ぶ街道の起点であり、人や物資の往来が激しかったことが挙げられる。
しかしながら、必ずしも立地的な要因だけで成功したわけではない。宿場町の本来の役割である公用の伝馬。これにかかる費用がかさみ、他の収入源を確立しなければならなくなったことが発展を後押しした。
飯盛女を置く旅籠が増えたのである。飯盛女の役割は給仕だけではない。俗に言う私娼。岡場所である。四谷大木戸を出れば、そこは内藤新宿という宿場町。
江戸町民にとっては遊ぶにもってこいの場所であり、甲州街道を旅してきた者にとっては、旅の終わりに心も懐も緩む場所。
必然と発展してきた内藤新宿は、街道沿いに九町(1km)ほど広がり、旅籠は五十軒を超えている。加えて、宿泊施設の無い茶屋や飯屋、それらを支える各商店。旅に欠かせない足袋屋や髪結。飛脚の人足や馬の飼料である糠を売る糠屋など。
人が集まれば、様々な商売が成り立ち、新天地の内藤新宿には多くの人が流入してきた。江戸市中ではなく、宿場町に流れ込んでくる人間となれば、後ろ暗い過去を持つ者や、特別な事情を抱え込んでいる者が増えてしまうのが人の世の常というもの。
内藤新宿は新しい宿場町にも関わらず、古びた風情のある裏長屋があった。
まるで町中の欲望を吸い寄せたのではないかと思われるような陰鬱とした住まいであった。当然にして、そんなところに住むのは町でも最下層の人間。
人別帳に記載もなく、請人もいない。
そのような人物がまともな住まいを得られるはずもない。流れ者の宿命である。
そこの中でも、便所の傍の不人気な部屋。
そこには若干上方訛りのある中年と、娘が住んでいた。
油っ気のない中年は勝次という。侍には見えず、商家務めにも見えない。
ただ、常に笑みを湛えた顔は人の良さを感じさせる。話しぶりも穏やかで恨みを買うような人物ではない。これらを総合して裏長屋でも最も人気のない部屋であればと居住を許された経緯である。中年は寺小屋の真似事をしながら、僅かな銭を得ていた。
ここに居を構えて、かれこれ一年近くになる。
劣悪な住宅環境にあって、まっとうに銭を稼げているだけ上等であるといえるだろう。
銭はそこまでなくとも、勝次はあくせく働く様子はなく、長屋で一人のんびりと時間を過ごしていた。
そこへ来客があった。
「邪魔するぜ」
そう告げた男はガタガタと何度か力を入れて開けた。
築年数以上に古さを醸し出す建物では、戸の開け閉めにも苦労する。
来訪者はやくざ者とまではいかないものの、真っ当な町人には見えない男。
勝次はそのような男の来訪に怖れることもなく、穏やかに挨拶をした。
「これは哲蔵親分。ご苦労さまです」
「急に訪ねて悪かったな。御用だ」
「はい、何でしょう」
勝次は入口に立つ哲蔵親分に向かって座り直し、用向きを問うた。
「最近、人相の悪い男が町に流れ着いたようだ。凶状持ちの浪人である可能性が高い。何か知らねえか?」
「はて……。何分私はこのように出不精なもので。とんと心当たりはございません」
「そうかい。娘の郁にも聞いといてくれや。何か知っているようなら、知らせてくれ」
哲蔵親分は、端から勝次に期待していないようで、娘の方が本題のように見受けられた。
「承知致しました。それで、親分。娘の件ですが、その後どうでしょう?」
「あいつは話も聞かねえし、どうにもならねえや。俺も気にしてはいるんだがな」
それ以上の追及を避けるように、哲蔵親分は、またガタガタと戸を閉めてしまった。
残された勝次は、先程の穏やかな表情から思い詰めたような表情へと変わっていた。
一方、もう一人の住人である娘の郁はというと、旅籠で女中働きをしていた。
飯盛女ではなく、配膳や掃除などを行う仕事である。内藤新宿では旅籠ほど儲かる商売はない。郁の給金は父親よりも良かった。
郁は機転も利くが何より器量良し。あの子を呼んでくれと旅籠では大層な人気者。
飯盛女になれば数年で財産を築けると旅籠の親父に誘われるが、郁は笑顔で躱していた。
諦めきれない旅籠の親父は、人気者の娘を他所に取られるくらいならと、多めの給金で女中働きをさせている。
二人の収入であれば、もっと良い長屋を借りられそうなものだが、身寄りのない自分たちを受け入れてくれた家主に悪いと、今の住まいから離れようとしなかった。
掃き溜めに鶴とはこのことだろう。
郁の評判が宿場町に拡がる頃には、旅籠の人気も高まっていた。
しかし、集まるのは善意の人間ばかりではない。
町の若い破落戸にも評判が伝わると、郁に付きまとう輩が増えていった。
その中でも特に質の悪い男の態度には、郁も困惑を超えて怖がっていた。
本来なら町の親分に相談するのだろうが、その男は浅草の名主の倅だそうで、この哲蔵親分が預かり、世話をしているという経緯もあって、頼りにならない。
当人は、なよなよとした形と表情の割に、自尊心だけは高く、実家の家柄をひけらかす鼻つまみ者である。
助言をする者どころか、まともに取り合う者もおらず、改善の傾向は見えない。
特に最近では、付きまといは毎日のこととなっており、仕事前と後には必ず声をかけられる始末である。嫌がる郁は、帰路を変えたり、時刻を変えたりしているのだが、自宅前で待ち伏せされてしまい効果は無かった。当然、そのような行動をする男に言葉で拒絶しても微塵も態度が変わらない。どころか、段々と過度に接触を図り、腕を掴んだり、抱きしめたりと酷くなっていった。
そして今日も望まぬ男と帰り道で遭遇してしまった。
あと少しで我が家に着くというところで。
待ち伏せていた男は、薄ら笑いを浮かべて幼馴染に会ったかのように、気安い態度で声をかけた。
「よお、郁。相変わらず別嬪だな。お前くらいだぜ、この町で俺にふさわしい女は」
「知りません。それにふさわしくありません」
それなりに人の機微が分かる者であれば、ふさわしくないという郁の拒絶は、男の方が見合っていないという回答だ。
しかし、男はそうは取らなかった。郁自身が男にふさわしくないと固辞していると受け取ったようだ。
「そんなことねえさ。お前はこの町で一番だぜ。自信持ちな。俺の女になっても、ちっとも恥ずかしくねえ。なんせ、俺がこんなに気にかけてやってるんだぜ?」
「気にかけてくださらなくて結構です」
女の態度に関係なくズカズカと近づく男は、鳥肌の立ちそうな猫撫で声で自分勝手なことを言い放つ。
郁がどれだけ感情を込めず冷たく突き放そうとも、堪える様子は無い。
むしろ更に一歩近づいて息がかかりそうなほどだ。
得体の知れない人間を見るように、郁は男との距離を取ろうと後退る。
しかし、裏長屋につながるような道はさほど広くない。
劣悪な環境にある郁の住まいの通りには、まともな人物は通らず、助けを求めることも出来ない。
話の通じない男が何をするか想像など出来るはずもなく、恐怖を募らせる郁。
手を伸ばせば捕まってしまう。そんな状況に追い込まれた時、郁に声が掛けられた。
「おい! 娘に何する気だ!」
珍しく怒鳴るような声を上げたのは父の勝次。
小脇に豆腐を乗せた笊を抱え、小走りに近寄ってくる。
「郁から離れんかい! このアホンダラ!」
急に大きな声を聞き、驚いていた男だったが、声の主が小柄の中年だったと分かると、皮肉げな笑みを浮かべ宣う。
「おっさんは引っ込んでな。俺達はいま大事な話をしてるんだからよ」
「私は話したくありません! 離れてくださいな」
「ほれ! 郁がこう言うておろうが! 青っちょろい軟弱者は下がっとれ!」
「この俺に向かって軟弱者だと!? 痛い目に遭いたいらしいな」
その言葉も言い終わらぬうちに、勝次へと向き直った男は大きく腕を振り上げた。
なんの躊躇もなく顔に目掛けて突き出された拳。
勝次は慣れた様子で一歩片足を引き、男の拳を軽く避ける。
空振った男は勢いを止められず体勢が崩れたままだ。
勝次は空いた手で男の手首を掴むと引き倒す。
すると掴まれた手首を支点にして、くるりと地面に投げ飛ばされる男。
ドサリと背中から落ちた男は悶え苦しむ。
「これに懲りたら、郁に近寄るな。さあ、いくぞ」
何事もなかったかのように、娘とともに帰路につく勝次。
娘の郁は驚きながらも父の後に続く。その背に向かって起き上がれない男は負け惜しみの言葉をぶつける。
「ジジイだから手加減してやったんだ。俺が弱いわけじゃねえ」
勝次も郁もその言葉が聞こえたはずだが、反応することもなく長屋へと歩みを進めている。
郁は普段温和な父があのような強さを持っていることに驚き、聞かずにはいられなかった。
「お父さん、凄いじゃない。武芸の心得があるなんて知らなかった」
「あんなもんは武芸じゃないよ。あえて言うなら捕手術の一種だな。昔、仕事で必要だったのさ」
「昔のお仕事って、あの?」
「そうさ。頭に血が上るやつも多くて身に付けざるを得なかったのさ。もうそんな昔話は良いだろう。豆腐が売れ残りで安かったのだ。飯に乗せて、崩して喰おう」
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