黒祓いがそれを知るまで

星井

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閑話

目が覚めても ーアーシュ編ー

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 四日目の朝、放置されたままのカップを手に取り、彼の代わりに洗った。小さなキッチンに置かれた籠の中には以前愛用していたカップが逆さに置かれていて、まるで己の訪れを待っているあの頃のようだった。
 七日目の夜、窓から入るのを辞めた。解放されたままの部屋の鍵を手に持ち、隊服の内ポケットにしまう。この小さな町で目撃者もない事に数人の部下が何かを言いかけては飲み込んでいた。
 一ヵ月も経つと居住区の事務員がこの部屋を空けると言った。戻る可能性は捨てていないが、待つ理由はこちらにはないと淡々と。新しい隊員の部屋にすると言う。それなりの立場の者なので一人部屋が必要なのだと。
 確かに彼は長くここに住んでいた。普通ならばとうに出て行ってもおかしくはない年齢でもあったのだ。

「……どこにも、いないんです」

 一番下の弟が肩を落として自分を見た。その視線から逃れるように暗闇に包まれた中庭を見渡す。
 短い夏が終わる頃、彼がこの季節を嫌っていたと思い出した。年を取るのもあるが、なんでも母国では迫間の者が盛んに現れるからだと言う。でもこの国ではそのような慣習がないから救われていると言って、あれは──そう、まだ互いに距離を詰める前の話だったか。

「兄上」
「この部屋はナツの部屋ではなくなる。私もここに二度と戻るつもりはない」
「それで……っ、それで、いいんですか」
「いいも何もナツが姿を消したことは事実だ。我々にどうこうできるものじゃない」
「でも兄上、兄上だって納得していないはずです!」
「ナツの荷物は私が引き取る。……お前は、何をすべきか考えろ」

 そう言うとエンリルは僅かに目を見開き、次には開きかけた唇を引き締めた。一度顔を地面に向け、再び面を上げる。意志の強い瞳がアンシュルを射貫くように睨み、離れていく。
 踵を返したその背を見届け、アンシュルは抱えた木箱を持ち直す。
 ナツヤの少ない私物はその殆どが衣類で、貴重品はくたびれた皮の財布だけだった。鍵のかかった小さな木箱があったが、恐らくその中には貯めた金が入ってるのだろう。
 過去一度だけ、彼がここを離れると言った事があった。第二部隊の入隊をやめた時だ。

 ───俺は元々ここの人間じゃないから。

 諦めたような表情をして笑う彼に、瞬時に自分をも切り捨てるつもりなのだと悟り、あの時は何も言わず強く抱き寄せた。

 ───どこにも居場所がない。

 真我を倒す事は出来ず、覚えたての文字を駆使するのには若くもない。行く宛てなどどこにもないのに、不安は一度だって口にされなかった。それでもあっけらかんと仕事は駐屯地以外にもあるだろうと口にする彼は、暗い表情すら浮かべなかった。
 だが本当はこう叫んでいたはずだ。
 声に出さずともその細い体躯で、その黒い瞳で、
 ───アーシュ、俺にはお前だけだ、と。

「……何処にいる」

 その身体に触れなくなってその声を聴けなくなって無情にも日々は過ぎ去った。忽然と消えた彼を思い出す度、ここで膝を折り泣いていた華奢な背を腕に感じる。

 アンシュルは眉を寄せて歩を進める。
 街灯のない町を真っ直ぐに歩み、腰鞘の二つの剣がこすれてぶつかる音に苛立ちながら。





 酒に頼りすぎているのでは、と進言したのは一人の部隊員だ。名をアビと言い、襟足で切りそろえた赤髪を揺らし慇懃無礼な態度で隊長、早く家に帰って下さいとのたまった。

「報告はそれだけか」

 昨日は別の人間がここへやってきて、飲み過ぎだと言っていたがそんなものは百も承知だ。だがいくら飲んでもこの頭は明瞭のままで酔う事すら出来ない。

『アーシュ、お前酒弱いんだからもう飲むなよ』

 そう言って笑いながら手に持ったグラスを取り上げる一人の男の姿が浮かび上がる。
 仕事終わりのあの小さな部屋で喉を潤し、そのままベッドに倒れる己を呆れたような表情を浮かべながら見つめる彼。
 そんなこと言ったって、酒を飲むと眠くなるんだ。そう言おうと思うのに、口からはなんの発音も出ず強い睡魔に意識を持っていかれる。

『ったく、仕方ねえな』

 さわ、と額の髪を優しく掻き上げられ、その腕を掴んで頬に寄せた。細い手首だ。触り心地の良い肌に微睡み、この小さな部屋と彼だけが己の癒しなのだと噛み締めていた。

「隊長、俺が言うのもなんですが……。あの真我が現れた直後に彼の姿が消えたのだとしたら、彼はあの真我に……」
「喰われたと言いたいのか?」

 グラスを傾けながら見つめ返せば、アビは一瞬を息を飲んだようだった。だがすぐに頷く彼は、確かに厳しい場をくぐり抜けた部隊員に違いない。

「……お前、あの日の真我に食われていなかったな」

 言葉を交わす気はなかったのに、自然に口から出た発言にアンシュルは首を横に振った。
 確かに、頭は明瞭でも今の自分は違うのだろう。こうして部下の者が呼びに来るくらいには、狂ってきている。

「もう行け。私も出る」

 短く呟き立ち上がれば、アビは少し安堵したような表情で頷いた。金を置き、馴染みの食堂を出れば、それを静かに見送ったアビもまた逆方向へと歩き出す。
 アンシュルは満天の夜空を見上げて帰路を進んだ。
 そうして思う。

 ここには何も無くなった。

 世界を形成するものがなくなり、途方に暮れている。
 ナツ。
 お前が喰われたと言うのか。
 真我を殺せないお前が、真我もお前を喰わないと断言していたはずのお前が。

「……そんなはずはない」

 世界を形成するものがなくなったら、どうやって息をする。




 数日振りの自宅は変わらずに明かりが灯り、人の気配を漂わせていた。扉を開け足を踏み入れれば、眉を上げた女が出迎えた。

「お帰りなさい。……何かありましたか?」
「……大丈夫だ」

 淡々と問う妻の言葉に、アンシュルは短く答え自室へと歩を進める。これ以上の会話を望んでいないと彼女も察したのだろう。追撃する様子も無く見送られ、アンシュルは扉を閉めた。
 明かりを灯せば、整理された机が目に入った。書類は綺麗に整えられ、開きかけていたはずの本も閉じしまわれている。その横のベッドはいつ見ても綺麗に整えられて清潔さを保たれていた。
 向かいのテーブルには広げたままだった地図がそのままの状態だ。印をつけた箇所を目にやりながら、アンシュルは椅子に腰掛けた。
 ずっと追っていた真我は、なんとも呆気ない最期を迎えて消え去った。この地図もそれから印は増えていない。あれだけ憎んだ相手を前にし生かす選択はさすがに出なかったが、殺せばもっと気分も晴れるものだと思い込んでいた。
 だが現実は違った。
 それは真我が人の形を取ったからだろうとアンシュルは思う。
 憎き相手が獣じみた醜いままの真我の姿だったら。変わらずに自分に襲い掛かってきていたら。
 きっともっと心は落ち着いた。納得できた。姉だって、ナツヤだって喜んでくれたはずだ。

 なのに、あれ・・は人間の形で人間のふりをして喋りすらした。
 諦めたような眼差しで己のしてきたことすら理解していないような、他人事のような出で立ちで。
 そうだ、あの顔は、この世界に来たばかりのナツとおなじような表情だった。

「……は」

 一瞬浮かび上がった考えに、アンシュルは自嘲する。
 まさか、そんなはずはない。
 あんなにも必死に生きて十年以上も時を共にした彼だ。そんなこと、あってはならないしあるはずもない。

「……くそ」

 ずるずると足を投げ出し背もたれに首を預ける。
 安寧の場を失い、行方すら分からぬ彼の面影ばかり追う毎日にうんざりしていた。

『アーシュ』

 目を閉じれば、いつだって思い出せる。
 ぶっきらぼうで、顔に似合わず口が悪い。けれどその細い指は何かに触れる時繊細に動き、優しささえ纏う。多くの時間を傷付いて生きてきた彼は、何かを傷つける事に敏感でいつも細心の注意を払っていた。その不器用な優しさが愛おしかった。
 なのに目に見えないものを見る時の怯えた黒い瞳は、それでも真っ直ぐで力強ささえ感じ取れるのだ。

『こんなもん、俺だって見たくねーよ』

 悪態を吐きながら、しっかりと握りしめてくる指に笑いをかみ殺していると、少しだけ恨めしそうな視線を寄越して。

『お前には怖いものなんて、ないんだろうな』

 あるさ。
 だからお前と出逢ってからずっと、恐怖している。

 ナツ。

 どこにも行くな。






「出現する真我の数がこのまま減り続けるのならば、隊員の削減を要望されています」
「確かにな。一時期からすっかり大型が減っちまった。小型ばかり出るなら俺たちの役目も少ない」

 城内会議は相も変わらずの空気でどこかよそよそしい雰囲気を出しながら進んでいた。
 長い冬に入る前に、この国は以前より少し余裕を持ち始め、いつ出るか分からぬ真我に怯える生活を改め、人の手がついていない川の向こうの森林を開拓する案が出ていた。
 現に一部の金持ちが既に土地を買い、新たな土地を切り開いている。同時に他国からの観光客や移民も増え、僅かながらも人口に影響を与えていると言う。
 真我は、どこの国にも現れる。しかしその原因となる正体を知る国はそう多くはない。
 シュライル王国も今の今まで真我の正体について確信を得ぬままいた。人の負の感情がかたちとなる、と伝説のように言われていたが、その説に明確な証拠があったわけではない。
 目に見えないものを信じる人間はそういない。どこの国でもそれは変わらないのだろう。
 死んだ人間や殺された人間の魂の欠片が残され、それが何らかの引き金により真我に変わる。
 真我の発生を抑えられる方法を知りたいと、他国の要人が訪れる。その生態、発生条件、目的等の情報を求められ、シュライルはその要望にできうる限り応えている。
 ラシュヌ陛下は近頃は真我退治に出る事もなくなり、お飾りの王であると自負しながらもその立場に追われていた。
 アンシュルはその背を見送りながら、時代の変化を感じていた。

「第二部隊の予備を第三から下へ回す。……ナツヤが残したことを疑うのは簡単だ。だが信じる方を俺は選ぶ。……お前たちも相違ないか」
「はい」
「は」
「はい」

 数人の部隊長と副部隊長が頷く中、アンシュルもまた同意する。
 真我討伐部隊が減る事は幸せな事だ。多くの若い命を救える。

「最後の大型が出てから、もう半年か」

 国王が呟けば静寂が通り過ぎた。目も合わせぬ隊員達は無表情のまま前を向いていた。
 ふと国王陛下と目が合ったのはアンシュルだ。言わんとしていることが分かり自然と眉に力が入る。

「あれが食われたなどと、俺は一つも思っちゃいない」

 息を飲んだ気配がしたが、国王は意に介す事もなく続ける。
 周囲の視線が王家の男たちに集まる。彼等はこの話題をタブーとして扱っていたし、この時まで国王陛下も彼の事は口にしなかった。
 その国王が、アンシュルを真っ直ぐに見つめながら続けたのだ。
 彼が消えた事を認め、それに息子が参っている現状も認めると同時に。

「だが消えた原因が下らねえ痴情の縺れならまだしも、そうではないとこいつは言い切るしな。……ここにいるお前らは知っているだろう。あいつがこの国の、この世界の人間ではない事を。俺だって半分も信じちゃいなかったが、こうなった以上その考えを改めなくてはならないかもなぁ」

 ぎり、と唇を噛み締めてアンシュルは立ち上がった。
 突如席を離れた息子に口許を緩めた国王は、怒りのまま背を向けるその部下に言う。

「受け入れろ」

 受け入れろ、アンシュル。
 いつだって時は無情だ。

 長い冬が、始まる。






「……兄上」

 同じ金色の髪を靡かせ、同じ色の隊服を着込んだ末弟がアンシュルを見るなり声をあげた。
 巡回途中だったのだろう。腰鞘の剣を忙しなく揺らす彼の髪が背中まで垂れているのに気付いて、アンシュルは足を止めた。
 久々に会う二人は、あれから時を止めたままだ。変わらぬものなどないと誰かは言ったが、その顔を見てアンシュルは少し安堵した。
 エンリルはあの頃のまま、焦燥感に駆られ不安気な瞳を恥ずかしげもなく晒している。己の感情に素直で、誠実な男だ。毎日のように探しに出かけているという噂も耳に入っていたし、兄を心配する声も人伝には聞いていた。

「……無事なようだな」

 馬鹿げた言葉を放ってしまったと気付いたが、エンリルは気にした素振りもなく首を横に振った。

「見つからなくて……」

 どこにもいない。
 会いたい。
 会えない。
 触りたい。声を聴きたい。
 確かめたい。

 エンリルは蒼白な顔色のまま兄上も同じでしょう、と見つめてくる。躊躇もなくそうだと信じていて、それ以外を考えてもいない。
 アンシュルはエンリルから視線を逸らし、言った。

「無理するな。……ひどい顔色だぞ」
「兄上こそ」

 そう言って笑う末弟は、呆れたような声音でこちらを見た。互いに酷い状態だと分かるのは兄弟だからなのか、それとも。

「ナツヤは今、何してるんだろう」

 呟かれた言葉に聞こえぬふりをしてアンシュルは末弟の肩に手置いて歩き始めた。
 巡回中だったことを思い出したのか、エンリルも小さく頷き踵を返す。
 時は変わらずに進み続ける。誰が消えても変わらずに。
 この心臓だって鼓動する回数を増やしていく一方なのだ。





 帰る場所があるのは良い事だと彼は言った。

「お帰りなさい」

 駐屯地で眠る事もなくなり、自然とアンシュルの寝る場所は一つだけになった。
 今までとは違う日々に追われても以前より出動回数も減り帰宅する時間も自然と多くなった。
 妻はそれでも何も言わず、アンシュルの世話をする。長年多くの物事をそれぞれ独自に解決し歩んできた。今、互いに自由にしていた生活を変えられても彼女が不満を言う事はない。
 出された食事は常に温かく、磨かれた室内は隙もない。言葉こそ少ないものの、アンシュルが逃げ出したくなるような空気は存在しない。
 それはきっと彼女の努力だった。何も言わず、何も問わず、それでも己を受け入れようとする、彼女の努力だった。

「明日は、遠方に用があり少し遅くなります」
「そうか」
「食事はどうされますか」
「私の事はいいから、気にするな」

 二人きりのテーブルで優しい味付けの食事を喉に押し込み、アンシュルは言う。
 そのほっそりとした白い手を見ながら、今になって初めて彼女をじっくりと見つめた気がした。
 亜麻色の髪を綺麗に編み込み、同じ色の大きな瞳がアンシュルをただ見ていた。長い睫毛が揺れ、小さな唇は桃色に色づいている。
 美しい女だった。
 子を設けてしばらく経ったが、その美しさは少しも衰えてはいなかった。

「……今日も、美味しかった」

 言って、アンシュルは立ち上がった。

「はい」

 控えめに目を細めた妻が頷くのを見送り、アンシュルは自室へ引き返す。
 美しい女だった。

 でも、それだけだ。



 自室に戻り書類と本の山のテーブルを見て、アンシュルは片手で目を覆う。
 真我の発生理由をまとめた書類、影の目撃情報を集める調書、今後の隊員達の役目。
 最後の大型の真我から、一度も大型が現れない理由。憶測と推測は飛び交い、真我の声が聞こえていた彼の存在はあちこちで耳にし、いつだって忘れる隙もない。
 どこにも居場所がないと言ったナツヤが聞いたら、驚くほどだろう。今まさに駐屯地は彼を必要としている。
 部隊員は彼の言葉に頼っていた。影が見え、真我の声が聞こえる彼を。
 だが現状は確実性もない憶測が飛び交い、真我の存在理由を裏付ける証拠を探す始末。目に見えないものを信じる事、それを認める事、更にはそういった能力を持つ人間がいるのだと認識すること。
 腹の中で多くの疑問と猜疑心を飼いながら、彼等は真我へ立ち向かわねばならない。
 頼りの者が消えてしまっても立ち止まり振り返る時間はない。そうすることを許される事もなく人々は剣に希望を預けているからだ。
 もうずっと、討伐部隊と真我の関係は皮肉な仲だった。その皮肉さを解除できるならば、本当の意味での呪縛が解ける。
 呪縛が……。
 はあ、と吐息をつく。
 次の瞬間、こみ上げる衝動のままアンシュルは手を振りかぶってテーブル上のものをすべてなぎ倒した。
 宙に舞う書類と、壁にぶつかり息絶える数冊の分厚い本、水を注がれたままだったカップは壁に当たって砕け、筆は遥か彼方に飛んで行った。

 うんざりだった。
 何もかもが、

 うんざりだった。

「……はっ、はっ……」

 テーブル上の物が短い悲鳴を上げすべて床に朽ちたあと、部屋の扉を静かに叩かれ思わず叫ぶ。

「なんだ!」

 驚くほどの声量に自分でも我に返って、アンシュルは上がっていた息を整えた。
 見るも無残な姿になった部屋の中で、憤りに身を任せている自分が恐ろしかった。
 呼吸をなだめ、拳に力を入れる。そうしてそのまま、扉の向こうで息を殺している相手を思い、静かに開けてやった。

「……父上」
「……帰っていたのか」
「はい、先程」

 セトはアンシュルを戸惑ったように見上げ言った。
 少し見ない間にまた身長が伸びたのだろうか。自分と同じ色の金髪に、紫がかった瞳がうろうろと周囲を彷徨っている。アンシュルの衝動に驚いたのだろう。部屋の惨状を隠す気にもならなかったが、子供には悪い事をしたと反省する。

「今、大丈夫ですか。お話があって」
「なんだ」
「……進路の話です。討伐部隊には入らないと決めました」

 そうか。
 とアンシュルは言った。その方が良いと頷いて、とてもじゃないがその先を紡ぐことは出来ず、首を横に振った。

「すまない、今は……」
「大丈夫ですか」

 見ればセトは真っ直ぐに己を見つめていて、息を飲んだ。
 変わらぬものなど何もないと誰かは言った。掠れたその声が大人になるために足掻いているように、人は姿を変え思考を変え、星のように輝き、死んでいく。

「……大丈夫だ」

 次こそ扉を閉めて、ふらりとベッドへ座り込む。

 泣いていた。
 あの日、彼は膝を折りあの裏庭で絶望したように泣いていた。
 それは何かの決意のように。

「そんなはずはない」

 脳裏に浮かんでは消えるその想像にアンシュルは苦しむ。
 死んだ者が影となりあの化物になるのだと彼は言う。生きている完全な人間になるために、その魂を喰らい続けるのだと彼は言う。

 完全な人間など、一体どこにいるのだろうか。
 叫び出したくなる衝動を堪えてアンシュルは強く唇を噛み締めた。

 これは罰なのだろう。
 彼を一度だって自由にしなかった。こんな生活を許されて、誰かの想いまで傷つけてきた。
 これはきっと何もかもを手にしていた自分への罰なのだ。
 一番の、苦しみだった。

 それこそ、生きていたくないほどの。







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