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「あのね、芽々子」
ちょっと遅めの夕食も済み、母と二人の団欒のひととき。片付けが終わったテーブルの上には、返された答案用紙が並んでいた。
母に見せろと言われたのだった。テストが返されたはずだから、と。
本当は、出来るなら今からでも丸めてゴミ箱に投入したかったけど、仕方がない。これまでずっと見せてきたし、それに個人懇談で生徒の成績はその保護者に知らされる。どうあがいたところで、隠し通せない。
「勉強しなさいってうるさく言うつもりはないのよ。でもね、これではね」
答案を手に取り、肩を落として溜め息を吐いた母が、見ているのはもちろん数学。
「私がもっと勉強みてやれればよかったのね。ごめんね、ほったらかしで」
「ち、違うよ。お母さんのせいじゃないって。あたしが悪いの。数学元々苦手だし」
この結果はすべて自分が招いたことだ。母が悪いはずがない。
「でもねえ、いくら苦手でもねえ、これはちょっとねえ。問題作った先生が気の毒だわ」
数学の平均点を聞いた母は、またも深く息を吐いた。
「どうして?」
「テスト問題作るときって、ここまでは点を取って欲しいっていうラインがあるのよ。たいていそれが平均点くらいになるように作るんだけど」
そうだったのか。先生ってそんなこと考えて問題作るんだ。
……とういうことは。
「じゃあ、あたしって」
「先生の期待にみごとに応えられなかった生徒。それも数学の先生が担任だというのに。勅使河原君、かわいそう」
ばっさり言い切った母の言葉に、さすがにヤバさが身に沁みる。
脳裏には、答案を返す勅使河原先生の深く悲しそうな顔が思い出されてしょうがない。
あたしは、ははは、と上辺だけでも元気を貼り付けて笑ってみた。世の中に数学があるからこんなことになるんだとばかり、母を困らせている元凶をばさばさと、ファイルに挟み込む。いや困らせているのは、勉強が出来ないあたしなんだけど。
そうして「あれ?」と、先ほどの母の言葉がふと引っかかった。
勅使河原君? 何それ、担任の先生を保護者ってそう呼ぶ?
疑問に思ったあたしは、この際話題を変えるチャンスと聞いてみた。けれどそれが、このあと恐ろしいほどの墓穴を掘ることになるとは思いもしなかったワケで。
「ね、お母さん。先生のことを勅使河原君て? まるで前から知ってるみたい」
「勅使河原郁人、でしょ。あんたの担任の名前。年は二十六歳」
「……そうだけど」
下の名前は、持ち帰った保護者宛の連絡プリントに載っていたから知っていたとしても。どうして年まで?
「あんたの担任の勅使河原先生は、昔、お母さんの教え子だったのよ」
教師生活十八年の母は、さらりと予想だにしなかった言葉を投下した。
「はあ!?」
あたしは、がたんと椅子から立ち上がる。
何て言ったの今!? 先生がお母さんの教え子!?
「郁人君が中三のとき、担任やった。高校の教師になったって、連絡もらってたんだけど、それがまさかあんたの進学した学校で、受け持ちになるとはね」
世の中狭いわねと、横にあった急須でお茶を注いだ母は、湯飲みを手にしてずずっ啜る。
「冗談よね? お母さん」
ウソでしょ? ウソだと言って。それは同姓同名の別人、勘違いだと。
しかし母が冗談を言っていないのは、娘のあたしが一番よく分かっていた。
「だから余計にあんたのこの成績、つらいのよね」
湯飲みを置いて今度は溜め息吐く母を前に、あたしはただ瞬きを繰り返し、あうあうと、声にならない声を上げる。
そりゃ母にしてみればかつての教え子の手前、娘の成績がこれでは立場ないなと思う。
ごめんね、お母さん。出来の悪い子で。
と、それでも気を取り直そうとしたときだった。
母はさらに、あたしに衝撃の事実を言い放った。
「そうそう芽々子、あんた十年前に勅使河原君と会ってるんだけど、覚えてない?」
はい――?
「あんたが小学校上がる前の話なんだけど、卒業後、勅使河原君たちが一度ウチに遊びに来たことあるのよ」
いえ、そんな記憶ございません。
「そのときね、近くの公園に遊びに行っていたあんたがなかなか帰ってこなくて、心配して見に行ってくれたの。で、連れ帰ってくれたんだけど」
言われてみればそんなこともあったような? いやいや、ピンときません。
「聞けば、公園で水溜りにはまって泣いていたっていうじゃない。天気ずっとよかったから、水溜りっておかしな話なんだけど。勅使河原君もどうしてか濡れてたし」
いったい何なの、それ!? ワケ分からない。
何があった、十年前のあたし。それも先生と?
「知らないっ! まったく覚えてないっ!!」
首をぶんぶん横に振って叫んだあたしは、頭の中真っ白だ。
ただこれ以上の話はヤバそうだ。それだけは分かった。こういうときの直感は従ったほうがいい。
「あ、あたし! べべ、勉強するから。つ、追試っ、あるんだっ」
たとえ勉強する気になれなくても、あたしはそう言い残すと自分の部屋に逃げ込んだ。
人の出会いは異なもの奇なもの妙なもの。
四月、入った高校で初めて先生に出会い、あの階段で受け止められたのが運命の恋の始まり。
そう信じたあたしはまるでバカ。
その十年前の記憶は唐突によみがえった。寝付いた夜中、あまりのことに目が覚めた。
あたしと先生は十年前にすでに会っていた。それも最悪な、夢も希望もありゃしない出会いをして。
先生はすべて覚えていた?
自分が忘れていたように、先生も忘れていますように、とベッドの上で正座して手を組んだあたしは、祈らずにはいられなかった。
どんなに身勝手でも構わない。忘れていて、先生。十年前のことはなかったことにして。
お願いします。
それは五月の初めのよく晴れた日だった。
『卯ノ原芽々子ちゃん?』
家の近くの児童公園で、知らないお兄さんに声をかけられたとき、あたしは泣いていた。
理由は単純明快、公園のトイレが汚れていて使えなかったあたしは、ガマンしきれず恥ずかしくも漏らしてしまったのだ。
『俺ねイクト。芽々子ちゃんのお母さん、卯ノ原先生の教え子。今日芽々子ちゃんちに遊びに来たんだ』
お兄さんはあたしの前にしゃがむと、優しい声でそう言った。
見みれば、子供心にもカッコいい、まるで母が好きなアイドルのような人。
でもあたしは泣き続けた。だってそんな場合じゃなかったんだ。
年長にじ組。しっかりもののメメ子と、幼稚園で言われていたあたしがお漏らしをした。来年は小学生になるというのに、お漏らし。ともかく恥ずかしくて、どうしたらいいのか考えつかず、泣きじゃくっていた。それに濡れてしまった服をどうすればいいのか分からなくて。
『おかあさんにおこられる』
泣きながらあたしは、やっとそれだけ言った。たぶん。
母はそれくらいで怒ったりする人ではなかったのだけど、当時のあたしは、ただ自分の失敗が恥ずかしくて、よく考えもしないで口にしたのだ。たぶん。
『あ……』
そのお兄さんはあたしのなりを見て、小さな声を上げると、付いておいでと水飲み場に向かった。
『ようはさ、証拠隠滅しちゃえばいいんだ』
『ショウコインメツ?』
聞きなれない言葉に聞き返したあたしに、お兄さんは、これは秘密だからね、と笑った。
『ちょっと冷たいけど、ガマンしてね? でも今日は天気がいいから大丈夫かな?』
お兄さんは着ていた自分のシャツを脱ぐと脇に置いて、あたしに水をかけた。でもあたしひとりじゃなくて、一緒になって濡れてくれた。
『ほら、これで上書きされたよ。もうどこにも痕跡はない』
そう言って脱いだシャツをあたしにはおらせて。
あたしは、ぽかんとお兄さんにされるがままだった。お兄さんが話す言葉が難しくて分からなかった、というのもあった。
『おにいちゃんのふく』
『いいよ、芽々子ちゃんが着てれば』
そして濡れた靴がぶちゃぶちゃして気持ち悪いと言うあたしを抱き上げて、家まで連れ帰ってくれたのだ。
『公園のことは、お母さんにナイショにしよう。芽々子ちゃんもおウチに着いたら忘れちゃえ』
『うん』
そう家の前で言ったお兄さんの言葉どおり、あたしは――。
忘れた。まるっところりとすっかりと、母の顔を見たとたん催眠術にかかったように、証拠隠滅をしてくれたお兄さんに会ったことも。
何て単純、何てバカ。
公園で漏らしたことをなかったことにしたかったのだとしても、今の今まで忘れていたなんて。母が教えてくれなければ、今もあたしは記憶が飛んだままだ。
階段で抱きとめられて、前にもそんなことがあった気がしたのは、こういうことだった。
それに運命感じちゃうあたしって。バカ以外に何? 告白までしちゃったよ?
「もう最悪最低」
先生がもしあたしのことを覚えていたら、どんだけだ。
あたしはあまりのことに、先生に合わせる顔がなく熱を出して学校を休んだ――といきたかったのだけど。そうそう上手くいくワケない。
ただ何かまだ、大事なことを忘れているような、もやもやが胸あったけど。まったく健康なあたしは翌日もしっかり登校した。
ちょっと遅めの夕食も済み、母と二人の団欒のひととき。片付けが終わったテーブルの上には、返された答案用紙が並んでいた。
母に見せろと言われたのだった。テストが返されたはずだから、と。
本当は、出来るなら今からでも丸めてゴミ箱に投入したかったけど、仕方がない。これまでずっと見せてきたし、それに個人懇談で生徒の成績はその保護者に知らされる。どうあがいたところで、隠し通せない。
「勉強しなさいってうるさく言うつもりはないのよ。でもね、これではね」
答案を手に取り、肩を落として溜め息を吐いた母が、見ているのはもちろん数学。
「私がもっと勉強みてやれればよかったのね。ごめんね、ほったらかしで」
「ち、違うよ。お母さんのせいじゃないって。あたしが悪いの。数学元々苦手だし」
この結果はすべて自分が招いたことだ。母が悪いはずがない。
「でもねえ、いくら苦手でもねえ、これはちょっとねえ。問題作った先生が気の毒だわ」
数学の平均点を聞いた母は、またも深く息を吐いた。
「どうして?」
「テスト問題作るときって、ここまでは点を取って欲しいっていうラインがあるのよ。たいていそれが平均点くらいになるように作るんだけど」
そうだったのか。先生ってそんなこと考えて問題作るんだ。
……とういうことは。
「じゃあ、あたしって」
「先生の期待にみごとに応えられなかった生徒。それも数学の先生が担任だというのに。勅使河原君、かわいそう」
ばっさり言い切った母の言葉に、さすがにヤバさが身に沁みる。
脳裏には、答案を返す勅使河原先生の深く悲しそうな顔が思い出されてしょうがない。
あたしは、ははは、と上辺だけでも元気を貼り付けて笑ってみた。世の中に数学があるからこんなことになるんだとばかり、母を困らせている元凶をばさばさと、ファイルに挟み込む。いや困らせているのは、勉強が出来ないあたしなんだけど。
そうして「あれ?」と、先ほどの母の言葉がふと引っかかった。
勅使河原君? 何それ、担任の先生を保護者ってそう呼ぶ?
疑問に思ったあたしは、この際話題を変えるチャンスと聞いてみた。けれどそれが、このあと恐ろしいほどの墓穴を掘ることになるとは思いもしなかったワケで。
「ね、お母さん。先生のことを勅使河原君て? まるで前から知ってるみたい」
「勅使河原郁人、でしょ。あんたの担任の名前。年は二十六歳」
「……そうだけど」
下の名前は、持ち帰った保護者宛の連絡プリントに載っていたから知っていたとしても。どうして年まで?
「あんたの担任の勅使河原先生は、昔、お母さんの教え子だったのよ」
教師生活十八年の母は、さらりと予想だにしなかった言葉を投下した。
「はあ!?」
あたしは、がたんと椅子から立ち上がる。
何て言ったの今!? 先生がお母さんの教え子!?
「郁人君が中三のとき、担任やった。高校の教師になったって、連絡もらってたんだけど、それがまさかあんたの進学した学校で、受け持ちになるとはね」
世の中狭いわねと、横にあった急須でお茶を注いだ母は、湯飲みを手にしてずずっ啜る。
「冗談よね? お母さん」
ウソでしょ? ウソだと言って。それは同姓同名の別人、勘違いだと。
しかし母が冗談を言っていないのは、娘のあたしが一番よく分かっていた。
「だから余計にあんたのこの成績、つらいのよね」
湯飲みを置いて今度は溜め息吐く母を前に、あたしはただ瞬きを繰り返し、あうあうと、声にならない声を上げる。
そりゃ母にしてみればかつての教え子の手前、娘の成績がこれでは立場ないなと思う。
ごめんね、お母さん。出来の悪い子で。
と、それでも気を取り直そうとしたときだった。
母はさらに、あたしに衝撃の事実を言い放った。
「そうそう芽々子、あんた十年前に勅使河原君と会ってるんだけど、覚えてない?」
はい――?
「あんたが小学校上がる前の話なんだけど、卒業後、勅使河原君たちが一度ウチに遊びに来たことあるのよ」
いえ、そんな記憶ございません。
「そのときね、近くの公園に遊びに行っていたあんたがなかなか帰ってこなくて、心配して見に行ってくれたの。で、連れ帰ってくれたんだけど」
言われてみればそんなこともあったような? いやいや、ピンときません。
「聞けば、公園で水溜りにはまって泣いていたっていうじゃない。天気ずっとよかったから、水溜りっておかしな話なんだけど。勅使河原君もどうしてか濡れてたし」
いったい何なの、それ!? ワケ分からない。
何があった、十年前のあたし。それも先生と?
「知らないっ! まったく覚えてないっ!!」
首をぶんぶん横に振って叫んだあたしは、頭の中真っ白だ。
ただこれ以上の話はヤバそうだ。それだけは分かった。こういうときの直感は従ったほうがいい。
「あ、あたし! べべ、勉強するから。つ、追試っ、あるんだっ」
たとえ勉強する気になれなくても、あたしはそう言い残すと自分の部屋に逃げ込んだ。
人の出会いは異なもの奇なもの妙なもの。
四月、入った高校で初めて先生に出会い、あの階段で受け止められたのが運命の恋の始まり。
そう信じたあたしはまるでバカ。
その十年前の記憶は唐突によみがえった。寝付いた夜中、あまりのことに目が覚めた。
あたしと先生は十年前にすでに会っていた。それも最悪な、夢も希望もありゃしない出会いをして。
先生はすべて覚えていた?
自分が忘れていたように、先生も忘れていますように、とベッドの上で正座して手を組んだあたしは、祈らずにはいられなかった。
どんなに身勝手でも構わない。忘れていて、先生。十年前のことはなかったことにして。
お願いします。
それは五月の初めのよく晴れた日だった。
『卯ノ原芽々子ちゃん?』
家の近くの児童公園で、知らないお兄さんに声をかけられたとき、あたしは泣いていた。
理由は単純明快、公園のトイレが汚れていて使えなかったあたしは、ガマンしきれず恥ずかしくも漏らしてしまったのだ。
『俺ねイクト。芽々子ちゃんのお母さん、卯ノ原先生の教え子。今日芽々子ちゃんちに遊びに来たんだ』
お兄さんはあたしの前にしゃがむと、優しい声でそう言った。
見みれば、子供心にもカッコいい、まるで母が好きなアイドルのような人。
でもあたしは泣き続けた。だってそんな場合じゃなかったんだ。
年長にじ組。しっかりもののメメ子と、幼稚園で言われていたあたしがお漏らしをした。来年は小学生になるというのに、お漏らし。ともかく恥ずかしくて、どうしたらいいのか考えつかず、泣きじゃくっていた。それに濡れてしまった服をどうすればいいのか分からなくて。
『おかあさんにおこられる』
泣きながらあたしは、やっとそれだけ言った。たぶん。
母はそれくらいで怒ったりする人ではなかったのだけど、当時のあたしは、ただ自分の失敗が恥ずかしくて、よく考えもしないで口にしたのだ。たぶん。
『あ……』
そのお兄さんはあたしのなりを見て、小さな声を上げると、付いておいでと水飲み場に向かった。
『ようはさ、証拠隠滅しちゃえばいいんだ』
『ショウコインメツ?』
聞きなれない言葉に聞き返したあたしに、お兄さんは、これは秘密だからね、と笑った。
『ちょっと冷たいけど、ガマンしてね? でも今日は天気がいいから大丈夫かな?』
お兄さんは着ていた自分のシャツを脱ぐと脇に置いて、あたしに水をかけた。でもあたしひとりじゃなくて、一緒になって濡れてくれた。
『ほら、これで上書きされたよ。もうどこにも痕跡はない』
そう言って脱いだシャツをあたしにはおらせて。
あたしは、ぽかんとお兄さんにされるがままだった。お兄さんが話す言葉が難しくて分からなかった、というのもあった。
『おにいちゃんのふく』
『いいよ、芽々子ちゃんが着てれば』
そして濡れた靴がぶちゃぶちゃして気持ち悪いと言うあたしを抱き上げて、家まで連れ帰ってくれたのだ。
『公園のことは、お母さんにナイショにしよう。芽々子ちゃんもおウチに着いたら忘れちゃえ』
『うん』
そう家の前で言ったお兄さんの言葉どおり、あたしは――。
忘れた。まるっところりとすっかりと、母の顔を見たとたん催眠術にかかったように、証拠隠滅をしてくれたお兄さんに会ったことも。
何て単純、何てバカ。
公園で漏らしたことをなかったことにしたかったのだとしても、今の今まで忘れていたなんて。母が教えてくれなければ、今もあたしは記憶が飛んだままだ。
階段で抱きとめられて、前にもそんなことがあった気がしたのは、こういうことだった。
それに運命感じちゃうあたしって。バカ以外に何? 告白までしちゃったよ?
「もう最悪最低」
先生がもしあたしのことを覚えていたら、どんだけだ。
あたしはあまりのことに、先生に合わせる顔がなく熱を出して学校を休んだ――といきたかったのだけど。そうそう上手くいくワケない。
ただ何かまだ、大事なことを忘れているような、もやもやが胸あったけど。まったく健康なあたしは翌日もしっかり登校した。
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