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「あっち、あっち」
1歳10カ月になる息子の涼太が砂だらけの手で空を指さして、笑った。
「ん~何が見えるのかなぁ?」
昼下がりの、眠気を誘うような公園のベンチに座っていた春香は幼いわが子の指さす方向を見上げる。真っ青な空にぽっかりと浮かぶ白い雲。今日も昨日と同じようないい天気、まだまだよちよち歩きの息子とお散歩するには絶好の日和だ。春香は額に片手をかざして空をじっと見た。
飛行機か鳥でもいたのだろうか。別になんでもいいわ、それよりなんてかわいいのかしら。空に何が見えたかと言うより、空を指さす涼太のしぐさに春香はうっとりと見とれていた。
「もうおうち帰ろうか、ママと一緒にお昼寝しようね」
肌をじりじりと焦がすようになってきた日差しを感じて、ひょいと息子を抱きかかえる。
「夏ももうすぐかぁ」
独り言のようにつぶやく母親の肩に頭をよせながらも、幼い男の子の瞳は空のずっと向こうを透かすように見つめていた。
「あ~あ、すっかり重くなっちゃって」
よいしょっと我が子を抱き直す春香は、息子の待ち焦がれるような表情に気づかなかった。
抱っこされて母の背中越しに空を仰ぎ続ける幼子、そろそろおふとん取り込まなくちゃと息子が寝入った後の事をあれこれ思う母親。アパートの方へと向かう間、ふたりはそれぞれに違った方向に視線を向けていた。
――――外宇宙の果てしないほど遠くで何かが起こっている。
最初、そのニュースはまるで話題にも上らなかった。なにしろ外宇宙のまったく不確かな話だ。実際取り上げたマスコミはネットのごく一部のサイトくらい。気が遠くなるほど果てしない遠くで新たなブラックホールが発見されたとかいうニュースとほぼ同じ、それがどうした? というノリが大半だったろう。芸能タレントの出産話、スポーツの話題、そしていつも似たりよったりの政治関連の話の方がよっぽど興味をひく。宇宙に興味がある人やひまつぶしに隅々までニュースを見ている人々だけがそのニュースに気づいただけ。そんな彼らですら煩雑な日常の中で何となく忘れてしまっていったのだが。
「あっち、あっち」
お昼寝から目覚めた後も夕ごはんを食べさせている時も、涼太は同じ言葉を繰り返していた。
「今日、なにかおもしろいことあったのかい?」
お風呂からつやつやとピンクになった身体をほてらせて出てきた春香の夫が涼太の頭をタオルでわしゃわしゃと包み込みながら尋ねてきた。
「亮太ったらまだ言ってたの? 私もなんだかよくわからないの。空の雲が何かに見えたのかしら」
「なぁ涼太、あっちに何があるんだい? あっこら待て待て。パンツ!」
父親の手をすり抜けて、涼太は丸裸のままトタトタと駆け出して湯気をあげたままの身体で大きな声で叫ぶ。
「あっち!」
幼い子供、それもまだ2歳にならない子供達が同じことを言っている。
その事実に気付いたのは幼い子供達が集まる場所、保育園だった。園児達はハイハイや歩きはじめたばかりの子供たちを除いては一日を一緒になって過ごす。
変化に気づいたのは保育士だった。2歳過ぎの園児達はあちこちでしゃがみこみ砂をいじり、おもちゃの取り合いをして泣き、あるいは指をしゃぶりながら保育士にべったりとくっついたままだったりする。
毎日繰り返される風景の中、2歳前の子供達だけが違う様子を見せていた。真っ白な画用紙にクレヨンでぐるぐると丸い円をいくつも描きながらも時折り空を見上げる。あるいは砂場に座り込んだまま空をじっと見ている、子供達にとって一番のお楽しみのお昼やおやつの時も視線はちらちらと窓の外に走ってゆく。保育士達はそのたびに幼い子らのの目線を追って振り返ったり空を仰いだりした。保育士の視線の先には今にも降り出しそうな雨雲が垂れこめていたり、あるいは真っ青な空にすがすがしいほどに伸びる真っ白な飛行機雲が見えたりする。特に代わり映えのしない空の風景と幼い子供たちの顔をかわるがわる見ながら、保育士の中には幼い彼らに尋ねる者もいた。
「お空に何が見えるのかなぁ?」
「来るのー」
「おっきい、おっきいの」
保育士は目をキラキラさせて空を見上げる子供達を見てため息をつく。1歳児の語彙はたかが知れている、この子たちが3歳、いやせめて2歳を過ぎていたならばもうちょっと何が見えるのかわかるのだろうけれど。
「異変はかってないほど大規模なものらしい」
「なぜそれが今までわからなかったのだろう」
宇宙観測の関係者たちは困惑しきっていた。それは突然発見されたのだ。方向でいえば銀河系外、つまりまったく別の銀河系の方向から何かが迫っている。わかるのはそれだけだった。
それはどうもブラックホールのような点でもなく、あるいはSF映画に出てくるような侵略軍団のようなものでもない。言うならばとてつもなく大きな壁のようなもの。突如現れて、そしてそれがこちらに向かって迫っている……。迫っている何かは人間の理解能力をはるかに超えていた。
ついにそれは政治の舞台にも侵入してきた。だが対策は立てようもない、ただ我々はそれを待つしかないのか。いったいどうすればいい。関係者たちはそれが何か、という事よりもそれを公表すべきなのかどうかについても結論を出しかねていた。
それでも今はネット社会の時代、公式の発表はなされなくとも不確かな情報だけはネットのあちこちでささやかれ始めてはいた。もっともほとんどの人々は気にも留めなかった。ノストラダムスの1999年、2012年のマヤの予言、その他小さなものを入れたらどれだけの終末論があっただろう?
(よくわからないけれどなんだか気持悪い話ねぇ)
ネットで妙なうわさがささやかれ出した初夏の頃、春香が思ったのはその程度だった。涼太は相変わらず空を仰ぐことが多かったけれど、母親の春香にとってはおしっこのしつけとか、スプーンをきちんと持たせるのを教えるとか、そういう日常の事の方で頭がいっぱいだった。宇宙のどこかで何かがあったとしてもそれは遥か遠くの事、光速でやって来るにしてもそれはきっと何千年、あるいは何万年先のことだろう。
空に気を取られたのかソフトクリームを地面に落してしまって大声で泣き出した涼太の口の周りを拭いてやりながら、春香は今夜の夕飯は何にしようかと頭を巡らしていた。
異変が、避けようもない何かが迫っている、それは政府の発表を待つまでもなかった。夏の色合いが濃さを帯び始める頃に明らかな反応を見せたのは、やはり2歳前の子供達だった。彼らはつぶらな瞳を空に向けては何か楽しいことがやって来るような表情を見せる。幼い子供たちにとってそれはどうもうれしいものらしい。
何が来るの? 赤いの? 青いの? 丸いの? たくさんいるの? 親、保育士、そして幼児心理の専門家たちは何がやって来るのか探ろうとした。だが、尋ねられてもうまく答えることができた幼児はひとりもいなかった。幼な子達はただわくわくするような目を向けて「何か大きなもの」が空から「来る」というばかりだった。
関係者は戸惑った。2歳前の子供達が一斉に嘘をつくはずがない。なぜ幼い子供達、それも2歳前の年齢にだけにそれがわかるのか? それになぜ彼らはあんなにもうれしそうなのか。異変は良いものであって恐ろしいことはないのか? 彼らは不安そうに顔を見合わせる。
これは終末なのか、それとも新たな世界の始まりなのか。
「何か大きなものが空から来る」
ついにこれらのニュースが公式に報じられるようになる。人々は惑星ほどもある巨大な隕石、あるいは宇宙人が乗った超大型の飛行物体をイメージしていた。
だが実際にはそのようなちっぽけなものではなかった。人類が住む太陽系を含む銀河系の外、方向的にはおとめ座超銀河団と呼ばれる方向の星系が急速に消えている、というのだ。なぜ今になって急に判明したのか説明はつかなかった。それの迫り方は明らかに物理学上の常識を根底から覆すものだったのだ。
宇宙が四角い氷の塊なら『それ』は塊を溶かすレーザーの平面のようなもの。『それ』は全宇宙というちっぽけなものを一方的に消し去るとてつもなく巨大な壁そのものとしか言いようがなかった。
どう考えても逃げるすべはない、問題はそれがいつ地球にやって来るか、1年後なのか、1カ月後なのか。
時間の観念では測ることすら不能な『大きな壁』の迫り方の前に人々は茫然とする。
まるで宇宙全体を消し去るような大きな壁。これは宇宙全体の終焉を意味するのだろう。なすすべのない事態の前に人々の思いは千々に乱れるしかなかった。
私達の住むこの世界とは、宇宙とは一体何だったのだろう。宇宙もまた今まで一つの固まりとしてただ壁に向かって転がっていただけなのか、それとも自分達の宇宙に向かって壁は迫っているだけなのか。
人間の持つ科学の常識を覆すような現象の前に人々はなすすべもなかった。
ただわかる事は抗えない、という決して認めたくない事実のみ。
太陽系に最も近い恒星系が消滅したと伝えられたのは『大きな壁』説が取り上げられてわずか1週間後のことだった。
そんなにも早く! 誰もが愕然とした。このままでは太陽系が、つまり地球が壁に飲み込まれて消えてしまうまでいくばくもないのかもしれない。抗うことが不可能な事態に直面した時、人々はパニックにすらなれないらしい。家族や、知人がそばにいるならばその人々と寄り添い、そして一人きりの人すら見知らぬ誰かと手を取り合っていた。
2日後には太陽系の土星、まもなく木星が消えたと報じられる。やがて火星も消えそして地球に到達するのだろう。そしてついに『壁』は地球上の人々の肉眼でも確認できるところまで迫ってきた。
残り時間はあとほんの少し。
初めそれは空に浮かぶうっすらとした白っぽい雲の広がりのようにも見えた。それはじわじわと広がり近づいてくる。 宇宙の果てからあんなに大急ぎ出来たくせに、なぜここにきてゆっくりになったのだろう。
時間について持つ人間の常識がここでは通用しないというのはこういう事だったのか。
都会のあちこちで飼われている犬たちが空に向かって遠吠えを始める。一切合切がおしまいなのだと犬が叫んでいるようにも感じられて人々は唇を震わせる。その半面、まだ子犬と思われる犬たちはしっぽを激しく振りながら陽気にきゃんきゃんと幼い吠え声で走り回る。犬の場合、人間の2歳よりももっと小さなもの達しか対象とならなかったらしい。
空には鳥達が迫りくる壁から逃げるように黒い雲のような群れとなって反対方向へ飛んでゆくのが見える。陰鬱な影のような鳥の群れと交差するように白い靄のような壁に向かって必死で羽を動かす幼い小鳥達が見える。
結局は分別がつく前の世代しかダメなのだということか。ならば海の魚達は? 虫たちはどうなのだろう? ふとそう考えた人々もいただろう。だがそれを探求する時間があるはずもなかった。
今や見上げる空いっぱいに広がる真っ白な壁。それはぼんやりとした白だったが間違いなくずんずんとこちらにせまっている。春香は夫と子供と家にいた。夫は春香の肩に手を回している。夫の腕はわなわなと震えていた。春香は涼太を膝に乗せていた。ソファに座ったまま3人とも視線は開け放ったベランダの外に向けられている。4つの瞳は絶望に乾いたように見開かれ、小さなふたつの瞳はひたすらやってくるものを待ち望んで輝いていた。
あと少し、ほんの少し。
若い夫婦はお互いを見つめあう。この私達の幸せな家庭も未来もすべて消え去ってしまう。圧倒的な恐怖の中で唯一の救いは幼い息子のキャッキャッと笑う声だけだった。
真っ白なものは今や春香の眼前に迫っていた。空が、そして遠くの街並みが、ほど近くにある高層マンションが白い壁に吸い込まれてゆく。この子は、かわいい涼太はあの真っ白な壁の向こうの新しい世界に行けるのだろう。こんなにうれしそうなのだからきっとそこはいい所なのだろう。私も一緒に連れて行って欲しかったよ、涼太、あなたがうらやましい。
もうこれで何もかも終わりなのね、全身の力が抜けてくず折れてしまうような恐怖の中で春香は涼太をぎゅっと抱きしめ……。
1歳10カ月になる息子の涼太が砂だらけの手で空を指さして、笑った。
「ん~何が見えるのかなぁ?」
昼下がりの、眠気を誘うような公園のベンチに座っていた春香は幼いわが子の指さす方向を見上げる。真っ青な空にぽっかりと浮かぶ白い雲。今日も昨日と同じようないい天気、まだまだよちよち歩きの息子とお散歩するには絶好の日和だ。春香は額に片手をかざして空をじっと見た。
飛行機か鳥でもいたのだろうか。別になんでもいいわ、それよりなんてかわいいのかしら。空に何が見えたかと言うより、空を指さす涼太のしぐさに春香はうっとりと見とれていた。
「もうおうち帰ろうか、ママと一緒にお昼寝しようね」
肌をじりじりと焦がすようになってきた日差しを感じて、ひょいと息子を抱きかかえる。
「夏ももうすぐかぁ」
独り言のようにつぶやく母親の肩に頭をよせながらも、幼い男の子の瞳は空のずっと向こうを透かすように見つめていた。
「あ~あ、すっかり重くなっちゃって」
よいしょっと我が子を抱き直す春香は、息子の待ち焦がれるような表情に気づかなかった。
抱っこされて母の背中越しに空を仰ぎ続ける幼子、そろそろおふとん取り込まなくちゃと息子が寝入った後の事をあれこれ思う母親。アパートの方へと向かう間、ふたりはそれぞれに違った方向に視線を向けていた。
――――外宇宙の果てしないほど遠くで何かが起こっている。
最初、そのニュースはまるで話題にも上らなかった。なにしろ外宇宙のまったく不確かな話だ。実際取り上げたマスコミはネットのごく一部のサイトくらい。気が遠くなるほど果てしない遠くで新たなブラックホールが発見されたとかいうニュースとほぼ同じ、それがどうした? というノリが大半だったろう。芸能タレントの出産話、スポーツの話題、そしていつも似たりよったりの政治関連の話の方がよっぽど興味をひく。宇宙に興味がある人やひまつぶしに隅々までニュースを見ている人々だけがそのニュースに気づいただけ。そんな彼らですら煩雑な日常の中で何となく忘れてしまっていったのだが。
「あっち、あっち」
お昼寝から目覚めた後も夕ごはんを食べさせている時も、涼太は同じ言葉を繰り返していた。
「今日、なにかおもしろいことあったのかい?」
お風呂からつやつやとピンクになった身体をほてらせて出てきた春香の夫が涼太の頭をタオルでわしゃわしゃと包み込みながら尋ねてきた。
「亮太ったらまだ言ってたの? 私もなんだかよくわからないの。空の雲が何かに見えたのかしら」
「なぁ涼太、あっちに何があるんだい? あっこら待て待て。パンツ!」
父親の手をすり抜けて、涼太は丸裸のままトタトタと駆け出して湯気をあげたままの身体で大きな声で叫ぶ。
「あっち!」
幼い子供、それもまだ2歳にならない子供達が同じことを言っている。
その事実に気付いたのは幼い子供達が集まる場所、保育園だった。園児達はハイハイや歩きはじめたばかりの子供たちを除いては一日を一緒になって過ごす。
変化に気づいたのは保育士だった。2歳過ぎの園児達はあちこちでしゃがみこみ砂をいじり、おもちゃの取り合いをして泣き、あるいは指をしゃぶりながら保育士にべったりとくっついたままだったりする。
毎日繰り返される風景の中、2歳前の子供達だけが違う様子を見せていた。真っ白な画用紙にクレヨンでぐるぐると丸い円をいくつも描きながらも時折り空を見上げる。あるいは砂場に座り込んだまま空をじっと見ている、子供達にとって一番のお楽しみのお昼やおやつの時も視線はちらちらと窓の外に走ってゆく。保育士達はそのたびに幼い子らのの目線を追って振り返ったり空を仰いだりした。保育士の視線の先には今にも降り出しそうな雨雲が垂れこめていたり、あるいは真っ青な空にすがすがしいほどに伸びる真っ白な飛行機雲が見えたりする。特に代わり映えのしない空の風景と幼い子供たちの顔をかわるがわる見ながら、保育士の中には幼い彼らに尋ねる者もいた。
「お空に何が見えるのかなぁ?」
「来るのー」
「おっきい、おっきいの」
保育士は目をキラキラさせて空を見上げる子供達を見てため息をつく。1歳児の語彙はたかが知れている、この子たちが3歳、いやせめて2歳を過ぎていたならばもうちょっと何が見えるのかわかるのだろうけれど。
「異変はかってないほど大規模なものらしい」
「なぜそれが今までわからなかったのだろう」
宇宙観測の関係者たちは困惑しきっていた。それは突然発見されたのだ。方向でいえば銀河系外、つまりまったく別の銀河系の方向から何かが迫っている。わかるのはそれだけだった。
それはどうもブラックホールのような点でもなく、あるいはSF映画に出てくるような侵略軍団のようなものでもない。言うならばとてつもなく大きな壁のようなもの。突如現れて、そしてそれがこちらに向かって迫っている……。迫っている何かは人間の理解能力をはるかに超えていた。
ついにそれは政治の舞台にも侵入してきた。だが対策は立てようもない、ただ我々はそれを待つしかないのか。いったいどうすればいい。関係者たちはそれが何か、という事よりもそれを公表すべきなのかどうかについても結論を出しかねていた。
それでも今はネット社会の時代、公式の発表はなされなくとも不確かな情報だけはネットのあちこちでささやかれ始めてはいた。もっともほとんどの人々は気にも留めなかった。ノストラダムスの1999年、2012年のマヤの予言、その他小さなものを入れたらどれだけの終末論があっただろう?
(よくわからないけれどなんだか気持悪い話ねぇ)
ネットで妙なうわさがささやかれ出した初夏の頃、春香が思ったのはその程度だった。涼太は相変わらず空を仰ぐことが多かったけれど、母親の春香にとってはおしっこのしつけとか、スプーンをきちんと持たせるのを教えるとか、そういう日常の事の方で頭がいっぱいだった。宇宙のどこかで何かがあったとしてもそれは遥か遠くの事、光速でやって来るにしてもそれはきっと何千年、あるいは何万年先のことだろう。
空に気を取られたのかソフトクリームを地面に落してしまって大声で泣き出した涼太の口の周りを拭いてやりながら、春香は今夜の夕飯は何にしようかと頭を巡らしていた。
異変が、避けようもない何かが迫っている、それは政府の発表を待つまでもなかった。夏の色合いが濃さを帯び始める頃に明らかな反応を見せたのは、やはり2歳前の子供達だった。彼らはつぶらな瞳を空に向けては何か楽しいことがやって来るような表情を見せる。幼い子供たちにとってそれはどうもうれしいものらしい。
何が来るの? 赤いの? 青いの? 丸いの? たくさんいるの? 親、保育士、そして幼児心理の専門家たちは何がやって来るのか探ろうとした。だが、尋ねられてもうまく答えることができた幼児はひとりもいなかった。幼な子達はただわくわくするような目を向けて「何か大きなもの」が空から「来る」というばかりだった。
関係者は戸惑った。2歳前の子供達が一斉に嘘をつくはずがない。なぜ幼い子供達、それも2歳前の年齢にだけにそれがわかるのか? それになぜ彼らはあんなにもうれしそうなのか。異変は良いものであって恐ろしいことはないのか? 彼らは不安そうに顔を見合わせる。
これは終末なのか、それとも新たな世界の始まりなのか。
「何か大きなものが空から来る」
ついにこれらのニュースが公式に報じられるようになる。人々は惑星ほどもある巨大な隕石、あるいは宇宙人が乗った超大型の飛行物体をイメージしていた。
だが実際にはそのようなちっぽけなものではなかった。人類が住む太陽系を含む銀河系の外、方向的にはおとめ座超銀河団と呼ばれる方向の星系が急速に消えている、というのだ。なぜ今になって急に判明したのか説明はつかなかった。それの迫り方は明らかに物理学上の常識を根底から覆すものだったのだ。
宇宙が四角い氷の塊なら『それ』は塊を溶かすレーザーの平面のようなもの。『それ』は全宇宙というちっぽけなものを一方的に消し去るとてつもなく巨大な壁そのものとしか言いようがなかった。
どう考えても逃げるすべはない、問題はそれがいつ地球にやって来るか、1年後なのか、1カ月後なのか。
時間の観念では測ることすら不能な『大きな壁』の迫り方の前に人々は茫然とする。
まるで宇宙全体を消し去るような大きな壁。これは宇宙全体の終焉を意味するのだろう。なすすべのない事態の前に人々の思いは千々に乱れるしかなかった。
私達の住むこの世界とは、宇宙とは一体何だったのだろう。宇宙もまた今まで一つの固まりとしてただ壁に向かって転がっていただけなのか、それとも自分達の宇宙に向かって壁は迫っているだけなのか。
人間の持つ科学の常識を覆すような現象の前に人々はなすすべもなかった。
ただわかる事は抗えない、という決して認めたくない事実のみ。
太陽系に最も近い恒星系が消滅したと伝えられたのは『大きな壁』説が取り上げられてわずか1週間後のことだった。
そんなにも早く! 誰もが愕然とした。このままでは太陽系が、つまり地球が壁に飲み込まれて消えてしまうまでいくばくもないのかもしれない。抗うことが不可能な事態に直面した時、人々はパニックにすらなれないらしい。家族や、知人がそばにいるならばその人々と寄り添い、そして一人きりの人すら見知らぬ誰かと手を取り合っていた。
2日後には太陽系の土星、まもなく木星が消えたと報じられる。やがて火星も消えそして地球に到達するのだろう。そしてついに『壁』は地球上の人々の肉眼でも確認できるところまで迫ってきた。
残り時間はあとほんの少し。
初めそれは空に浮かぶうっすらとした白っぽい雲の広がりのようにも見えた。それはじわじわと広がり近づいてくる。 宇宙の果てからあんなに大急ぎ出来たくせに、なぜここにきてゆっくりになったのだろう。
時間について持つ人間の常識がここでは通用しないというのはこういう事だったのか。
都会のあちこちで飼われている犬たちが空に向かって遠吠えを始める。一切合切がおしまいなのだと犬が叫んでいるようにも感じられて人々は唇を震わせる。その半面、まだ子犬と思われる犬たちはしっぽを激しく振りながら陽気にきゃんきゃんと幼い吠え声で走り回る。犬の場合、人間の2歳よりももっと小さなもの達しか対象とならなかったらしい。
空には鳥達が迫りくる壁から逃げるように黒い雲のような群れとなって反対方向へ飛んでゆくのが見える。陰鬱な影のような鳥の群れと交差するように白い靄のような壁に向かって必死で羽を動かす幼い小鳥達が見える。
結局は分別がつく前の世代しかダメなのだということか。ならば海の魚達は? 虫たちはどうなのだろう? ふとそう考えた人々もいただろう。だがそれを探求する時間があるはずもなかった。
今や見上げる空いっぱいに広がる真っ白な壁。それはぼんやりとした白だったが間違いなくずんずんとこちらにせまっている。春香は夫と子供と家にいた。夫は春香の肩に手を回している。夫の腕はわなわなと震えていた。春香は涼太を膝に乗せていた。ソファに座ったまま3人とも視線は開け放ったベランダの外に向けられている。4つの瞳は絶望に乾いたように見開かれ、小さなふたつの瞳はひたすらやってくるものを待ち望んで輝いていた。
あと少し、ほんの少し。
若い夫婦はお互いを見つめあう。この私達の幸せな家庭も未来もすべて消え去ってしまう。圧倒的な恐怖の中で唯一の救いは幼い息子のキャッキャッと笑う声だけだった。
真っ白なものは今や春香の眼前に迫っていた。空が、そして遠くの街並みが、ほど近くにある高層マンションが白い壁に吸い込まれてゆく。この子は、かわいい涼太はあの真っ白な壁の向こうの新しい世界に行けるのだろう。こんなにうれしそうなのだからきっとそこはいい所なのだろう。私も一緒に連れて行って欲しかったよ、涼太、あなたがうらやましい。
もうこれで何もかも終わりなのね、全身の力が抜けてくず折れてしまうような恐怖の中で春香は涼太をぎゅっと抱きしめ……。
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