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第1式:神前の悪魔
第1式-12-「今どこにいやがるんでごぜーます?」
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幼稚園の前に着くと田上さんは、「駐車場を探してくる」と言い、僕と夫妻を降ろしてまた車を走らせた。
田上さんがいなくなった途端に、僕は妙に心細くなり、上司でもないのに指示を待つように夫妻の顔を仰ぎ見てしまう。夫妻も困ったように顔を見合わせた。
田上さんの意図することがわからなかった夫妻は、とりあえずお子さんを迎えに行こうという事になり、それに僕も同行することにする。
ここで田上さんを待っているべきかもしれなかったが、1人で待つ、というのはあまりに心細かった。
「えっと…」
広い運動場を横切り下駄箱を抜け、お子さんの待つ教室へと向かう間、気まずい沈黙に耐えかねて何か言おうとしてみるものの、何も話題が思いつかない。離れのホールが、ひっそりと僕を追い詰める。
いや、聞きたいことはたくさんあるのだ。しかし、田上さんによって暴かれる形になってしまったその話題を、振ってもいいものか、僕は考えあぐねていた。
「…前の夫とは、4年前に別れたんです」
僕の言わんとすることを察したのか、阿形さんは声を潜めて話し始める。
「暴力が酷くて…。でも、優しいところもあったんですよ」
辛い思い出というよりは、懐かしい話をするように、穏やかな口調で彼女は語る。
「勇太の為にも、このままじゃいけないって別れたんです。相手にはなかなか認めてもらえませんでしたけど…。そんな時、どこで話を聞いたのか、父が彼の実家に怒鳴り込んでくれて…」
驚きに目を見開く。ほぼ絶縁状態と聞いていたが、これは…。
「お父さん、阿形さんのこと、大好きなんですね」
家を出て行っても、娘は娘。やはり可愛いには違いないのだ。父1人子1人で生きていたならなおさら。年月や過程はどうであれ、大切という気持ちは褪せることはない。
「私が1度目の結婚を、あんな形で失敗してしまったから、彼との…山田さんとの結婚も、父は喜んではくれませんでした。それどころか、来週の日曜の予定を空けてくれないかと頭を下げた彼に、父は言ったんです。『子どもは片親だけでも育てられる。お前なんぞいらん』って」
阿形さんは、大切な人との板挟みで苦しんでいた。彼女は父の気持ちを汲みつつ、それでも自分の愛を全うする術はないかと、模索している。家族か、恋人か。どちらか選べなんて酷なことは言えない。形は違えど、阿形さんはきっとどちらも愛しているのだから。
しかし、同時に羨ましくもあった。お互いに思い合うことのできる家族は、決して当たり前に存在するものではない。
妙に長く感じる幼稚園の廊下。
山田さんは、阿形さんと僕の後ろを、黙って付いて来るだけだった。
「ままー!」
柔らかくもハリのある声がして、俯きがちだった視線を上げる。そこには、阿形さんの面影をほんのりと残した、可愛らしい男の子がいた。ゆり組の札が下がる小さなドアから、ひょこんと顔を出した男の子は、ふふ、と口で含むように笑うと、その小さな頭を引っ込める。
「せーんせー!きたー!」
橙色の笑い声は、部屋を忙しなく動き回っているようだった。
「あ、勇太君のお母さん。お父さん。こんにちは」
笑顔の反響する部屋から、エプロンをした大人しそうな女性が顔を出し会釈をする。勇太君の連絡帳だろうか、手には可愛らしい手帳を持っている。
「?えっと…そちらは」
夫妻と共にゆり組の前まで来た僕を見て、女性は小首を傾げた。
「え、えーっと…」
そういえば僕は何をしに来たんだろうか。返答に困ってしまい、曖昧な笑みを浮かべるに留まる。
「更級ウェディングのものでごぜーますよ」
いつの間に追いついたのだろう。田上さんが山田さんの背後から、ニュッと現れる。
「ひ、」
これは山田さんの声だ。田上さんの存在に気付き仰け反っている。それを一瞥しまたニタリと笑った田上さんは、ゆっくりと山田さんの隣、そして僕と阿形さんの隣も通り過ぎた。
女性、おそらく幼稚園の先生であろうその人の前で止まった田上さんは、まるでテイクアウトでも頼むかのような気軽さで言い放つ。
「来週日曜、ここで結婚式を挙げたいんでごぜーますが、この幼稚園で一番偉い奴は、今どこにいやがるんでごぜーます?」
バサリ、と手帳の落ちる音がした。
田上さんがいなくなった途端に、僕は妙に心細くなり、上司でもないのに指示を待つように夫妻の顔を仰ぎ見てしまう。夫妻も困ったように顔を見合わせた。
田上さんの意図することがわからなかった夫妻は、とりあえずお子さんを迎えに行こうという事になり、それに僕も同行することにする。
ここで田上さんを待っているべきかもしれなかったが、1人で待つ、というのはあまりに心細かった。
「えっと…」
広い運動場を横切り下駄箱を抜け、お子さんの待つ教室へと向かう間、気まずい沈黙に耐えかねて何か言おうとしてみるものの、何も話題が思いつかない。離れのホールが、ひっそりと僕を追い詰める。
いや、聞きたいことはたくさんあるのだ。しかし、田上さんによって暴かれる形になってしまったその話題を、振ってもいいものか、僕は考えあぐねていた。
「…前の夫とは、4年前に別れたんです」
僕の言わんとすることを察したのか、阿形さんは声を潜めて話し始める。
「暴力が酷くて…。でも、優しいところもあったんですよ」
辛い思い出というよりは、懐かしい話をするように、穏やかな口調で彼女は語る。
「勇太の為にも、このままじゃいけないって別れたんです。相手にはなかなか認めてもらえませんでしたけど…。そんな時、どこで話を聞いたのか、父が彼の実家に怒鳴り込んでくれて…」
驚きに目を見開く。ほぼ絶縁状態と聞いていたが、これは…。
「お父さん、阿形さんのこと、大好きなんですね」
家を出て行っても、娘は娘。やはり可愛いには違いないのだ。父1人子1人で生きていたならなおさら。年月や過程はどうであれ、大切という気持ちは褪せることはない。
「私が1度目の結婚を、あんな形で失敗してしまったから、彼との…山田さんとの結婚も、父は喜んではくれませんでした。それどころか、来週の日曜の予定を空けてくれないかと頭を下げた彼に、父は言ったんです。『子どもは片親だけでも育てられる。お前なんぞいらん』って」
阿形さんは、大切な人との板挟みで苦しんでいた。彼女は父の気持ちを汲みつつ、それでも自分の愛を全うする術はないかと、模索している。家族か、恋人か。どちらか選べなんて酷なことは言えない。形は違えど、阿形さんはきっとどちらも愛しているのだから。
しかし、同時に羨ましくもあった。お互いに思い合うことのできる家族は、決して当たり前に存在するものではない。
妙に長く感じる幼稚園の廊下。
山田さんは、阿形さんと僕の後ろを、黙って付いて来るだけだった。
「ままー!」
柔らかくもハリのある声がして、俯きがちだった視線を上げる。そこには、阿形さんの面影をほんのりと残した、可愛らしい男の子がいた。ゆり組の札が下がる小さなドアから、ひょこんと顔を出した男の子は、ふふ、と口で含むように笑うと、その小さな頭を引っ込める。
「せーんせー!きたー!」
橙色の笑い声は、部屋を忙しなく動き回っているようだった。
「あ、勇太君のお母さん。お父さん。こんにちは」
笑顔の反響する部屋から、エプロンをした大人しそうな女性が顔を出し会釈をする。勇太君の連絡帳だろうか、手には可愛らしい手帳を持っている。
「?えっと…そちらは」
夫妻と共にゆり組の前まで来た僕を見て、女性は小首を傾げた。
「え、えーっと…」
そういえば僕は何をしに来たんだろうか。返答に困ってしまい、曖昧な笑みを浮かべるに留まる。
「更級ウェディングのものでごぜーますよ」
いつの間に追いついたのだろう。田上さんが山田さんの背後から、ニュッと現れる。
「ひ、」
これは山田さんの声だ。田上さんの存在に気付き仰け反っている。それを一瞥しまたニタリと笑った田上さんは、ゆっくりと山田さんの隣、そして僕と阿形さんの隣も通り過ぎた。
女性、おそらく幼稚園の先生であろうその人の前で止まった田上さんは、まるでテイクアウトでも頼むかのような気軽さで言い放つ。
「来週日曜、ここで結婚式を挙げたいんでごぜーますが、この幼稚園で一番偉い奴は、今どこにいやがるんでごぜーます?」
バサリ、と手帳の落ちる音がした。
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