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いつかあなたに届きますように

5話「有頂天」

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 3日目。今日が卒業展示会の最終日、つまりラストチャンスだ。最も、彼女がここにいるかは彼女次第なわけで、今更私にできることは何もないのだけれど。昨日で展示されている残りの作品はすべて鑑賞し終えた。今日の目的は本当に彼女に会うことだけだ。2日間の経験を活かして、最短距離で「青い部屋」の展示室へ向かった。果たして彼女はいるだろうか。心臓の音が大きくなる。関節がさびた鉄の歯車のように動かしづらい。体がこわばっている。緊張、しているのだろうか。いやいや、どこに緊張する必要があるというのだ。とてもフレンドリーで話しやすい性格の人だったし、あらかじめ話題を考えてきているのだから、沈黙が気まずくなることもないだろう。深呼吸をして、思い切って展示室の中に入った。またしても彼女はそこにいなかった。まあまだ午前だし、少し時間をおいてまた来よう。展示室から出ようとしたとき、あるものを見つけた。それは声明文のすぐ隣にあった。彼女のSNSのQRコードである。なるほど、私のような芸術に関する素人が来ることは珍しいだろう。メインは芸術に精通している人で、もしかするとどこかしらの協会のも足を運んでいるのかもしれない。生徒たちにとってこの展示会は重要なアピールの場でもあるのだろう。試しにQRコードを読み取ってみると、彼女の作品に関する投稿がずらっと並んでいた。に閲覧されることを想定しているら、登録されている名前は本名である可能性が高い。ユーザー名は、藍美。読み方は「あいみ」で合っているだろうか。美しい名前だ。いずれにしろ、これがあるということはつまり、今日会うことはできなくても、DMやら何やらで連絡を取ることができるということだ。・・・けれどこれはあくまで最終手段にしよう。可能な限り、直接伝えたいし直接会いたい。

 昼食をとり適当に時間を潰し、再び彼女の展示室へと赴いた。この展示室の前に来るたびに、心臓の音が大きくなっている気がする。今や心臓の収縮がろっ骨に伝わっているようだった。もう何度目かもわからない深呼吸で心を落ち着かせ、中に入った。・・・いた。ついに見つけた。他の鑑賞者も、「青い部屋」の絵も、目に映る他の景色から得られるはずの情報を一切遮断して、私は藍美さんを見た。相変わらず愛らしい大きな目をしていた。いわゆるアーモンド形とよばれる、中心に向かって幅が広くなるまぶたに、少しだけウェーブを描きながら上に伸びるまつ毛。均一な2重幅と、柔らかそうに膨らんだ涙袋。1度目にあった時よりも細かいところにまで視線がいく。それは1度目よりも藍美さんを魅力的に感じていることの、何よりの証拠であるように思えた。だんだんと言い訳ができなくなっていく。否定のしようが無くなっていく。

 藍美さんは夫婦と思われる2人組と話していた。男性は白い髪をオールバックにまとめて、黒縁の眼鏡をしていた。チェック柄のロングコートを着て、両手を後ろに組みながら背筋を伸ばして立っている。女性のほうは若干ふくよかな体形で、黒色のベストとピンクの長めのスカーフが印象的な服装をしていた。両者ともに貫禄がある。話の内容から察しても、であることが伺えた。そんな2人に対しても藍美さんは臆することなく、笑顔で会話をしていた。邪魔はしたくないと思い、3人の会話が終わるまで展示室の外で待つことにした。

 10分程度待機した後に、展示室の中に入った。2メートルくらいの距離で目が合って、会釈をした。表情からして、私のことを覚えてくれていたようだ。まずはそのことに安心した。努めて自然な表情と声色で、2回目の会話を始めた。

「こんにちは、また来ちゃいました。」
「え~!そうなんですか。でもそうですよね、なかなか1日じゃ見きれないですよね。」

一度会話を始めてしまえば、鼓動も普通に戻ると思っていたけれど、そんなことはなかった。むしろますます大きくなっていく。

「そうなんですよ。予想してたより何倍も広くて、3日連続で来てるんです。」
「来すぎですよ、すごいですね!ありがとうございます。じゃあ、今日は最終日なので頑張らないとですね。どうですか?ちゃんと全部見れそうですか?」

当然、実はもう全部見終わっているんです、なんて言えるわけがない。そんなことを言ったら、なぜ3日連続で来ているのかを疑問に思われるのは自明だし、「あなたに会うためです」と言えるほど私は女性慣れしていない。

「多分ギリギリですけど、頑張ります。あの、前回話したあとに、少し考えたことがあって。どうしても、それを伝えたいと思って来たんですけど、いいですか。」
「はい、もちろん?」

文章自体は肯定形なはずなのに藍美さんの語尾のイントネーションが上がった。一体どんな話なのだろうという疑問が、そのまま言葉の音に出たのだろう。そのわかりやすい微笑ましさに思わず口角が上がりそうになる。鼓動の音が大きく、速くなっていく。

「あの。誰もいなくなった教室って、よくないですか。」
「い~や、すっごいわかります。」

藍美さんは1度目をぎゅっとつむって、大げさにタメをつくって、パッと目を開いて純粋に同意してくれた。表情がころころ変わって、低い身長と相まって少し子供みたいだ。また鼓動が変化する。

「俺、中高6年間バスケ部だったんですけど、このまえOB会があって久しぶりに高校に行ったんです。日曜だったからあんまり生徒がいなくて、隙間時間に1人で校舎探索してたんですけど、その時の誰もいない教室がすごいよく感じました。なんか、懐かしくて切ない感じがしますよね」

思えば藍美さんに自分の情報を開示するのは初めてだ。

「うん!あれですよね、スリッパの響く音がエモかったりしますよね。」
「ホントにそうです!なんか、こんなに共感してくれるとおもってなかったです。」
「共感しますよ!これでも美大の修士なんですからね!」
「うぇ」

意外な発言に間抜けな音が出た。修士ということは大学院生か。勝手に大学4年生だと思っていた。つまり、藍美さんが現役生ならば、3歳上の先輩ということか。少し迷ったが知っているていで会話を進めることにした。事前に調べればわかりそうな情報だったからだ。相手に最大限の興味を示すことがコミュニケーションの基本だ。私は落ち着きを取り戻しつつあった。

「そうですよね。嬉しかったのでつい。」
「もう、仕方ないですね。そういえば、私もこの前仕事で母校に行ったんですよ。」

大学院に通いながら仕事をしているのかと驚いた。母校に行ったのなら案件などではなさそうだ。他にどんな選択肢があるか想像したが、思いつかなかった。

「え、どんな仕事ですか。」
「講演しに行ったんです。なんか、この学校から次世代のアーティストが生まれたのです、みたいな感じで紹介されちゃって。大げさですよね。」
「いやいや、そんなことないですよ。なんなら、次世代の巨匠じゃないですか。」
「やめてくださいよ!」

果たして講演は仕事と言えるのだろうか、と揚げ足をとるようなどうでもいいことを頭の片隅で考えつつ、冗談を言った。すると藍美さんの視線が何かに気づいたように、動いた。その先には白髪の女性がいた。年は50程度だろうか。藍美さんはその女性に手を振った。どうやら仲がよさそうだ。その女性は藍美さんに近づくとビニール袋に入った何かを渡した。

「これ差し入れのイチゴ。」
「ええ!ありがとうございます。あとでいただきます。」

経度で話していることから察するに母親ではなさそうだ。藍美さんには何歳も年上の知り合いがいるらしい。どうやら会話の流れが切れてしまった。けれどタイミング的にも丁度よいかもしれない。ここら辺で切り上げるとしよう。

「色々話してくれてありがとうございました。他の作品も見たいのでそろそろ失礼します。」
「あ、はい!こちらこそありがとうございました。頑張ってください!」

 ものの数分間の会話で、過去の自分がいかに愚かで傲慢で、有頂天になっていたかがよくわかった。私と彼女は最初から対等ではなかった。こんなものは到底、恋などと言えるものではない。
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