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第57話 生活ごと、守ってやる
人波の向こうに、スーツケースを引きながら手を振る雫の姿が見えた。
髪を耳にかける仕草も、靴を履き直す癖も──全部、あの日のまま。
小走りで近づいてきた雫が、そのまま朔の胸に飛び込んでくる。
「……っ、ただいま、朔さん……!」
耳に届いた声は小さくても、確かに心を打った。
朔は何も言わず、強く背中を抱き寄せる。
「……よく、頑張ったな」
その一言に、雫の肩が震える。何度も小さく頷く彼女を、朔はただ黙って撫で続けた。
──人目なんてどうでもいい。
こうして腕の中に戻ってきたことが、何よりも嬉しかった。
やっと顔を上げた雫の目は赤く潤んでいて。
「……すみません、恥ずかしいとこ見せちゃって」
「別に。泣き顔も、もう見慣れた」
「うわ、失礼」
「事実だ」
軽くやり合いながら空港の出口へ歩き、朔は自然とスーツケースを引き取る。
そして、ふと口にした。
「……お前、俺いないと人間捨てるよな」
「ま、まあ、多少は……でもギリギリ生きてましたよ」
「生存レベルじゃなくて生活レベルの話」
「うっ」
雫が口ごもるのを見て、朔は一度だけ息をついてから、さらりと告げた。
「……これからは、俺が側で栄養管理してやる」
「え?」
首をかしげる雫に、朔は足を止めてまっすぐ向き合う。
「えっと……もうしてもらってますけど? ほら、冷蔵庫の中、いつも朔さんのお惣菜でいっぱいだし」
「違ぇよ」
朔が足を止め、横に並んだ雫を真っ直ぐに見つめた。
「冷蔵庫の話じゃなくて──生活全体の話」
「……?」
「つまり、俺と……一緒に暮らそうって言ってんの」
「………………」
雫の目が見開かれたまま、固まる。
「惣菜だけじゃ限界がある。お前の生活、定期的に管理しないと」
「……管理目的ですか?」
「違う」
照れ隠しに小さく咳払いをして、朔は目線を逸らす。
「毎日雫が隣にいたら、俺も飯がうまいし、安心する。だから、それでいいだろ」
数秒の沈黙のあと──
雫の頬がほんのり紅くなり、ゆるく綻ぶ。
「……なんか、すごい言い回しでしたけど、はい。喜んで」
「……わかればいい」
「その代わり、私の要望も聞いてくださいね? カップ麺禁止、焼き魚は週三、納豆は朝派」
「人の管理に乗じて自分の要望を通すな」
「ふふ、“生活全体”を管理するって、そういうことでしょ?」
肩を並べて歩き出すと、指先がそっと触れる。
朔はそのまま手を絡め取り、低く囁いた。
「……もう離すなよ。せっかく戻ってきたんだから」
雫は頷き、ぎゅっと握り返す。
その温もりが、何よりの答えだった。
小さく笑った雫が、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば……さっき“よく頑張ったな”って言ってくれましたけど」
「ん?」
「朔さんだって、よく頑張りましたよね。私がいない2ヶ月間」
いたずらっぽい視線を向ける。少し意地悪に問いかけると、朔はほんの一瞬だけ黙り込み──
「……寂しかったに決まってるだろ」
あまりにも素直な言葉に、雫の目がぱちりと瞬く。
「えっ……そ、そうなんですか……」
予想外の返事に、返す言葉を失って頬が熱くなる。
その反応を見た朔が、わずかに口元を緩めた。
「自分から聞いておいて、照れてどうする」
「……うぅ」
指先を絡めたまま、雫は小さくうつむく。
その頭を、朔が優しく撫でて囁いた。
「……隣にいてくれれば、それでいい」
その声に、雫はくすっと笑い、安心したように彼の肩に額を預けた。
*
「ほい、みんな揃ったな! ほら、雫ちゃん座れ座れ~!」
「どーんと構えててくださいよ、主役なんですから!」
「え、しゅ、主役って……」
戸惑う間に両肩を押され、気付けばカウンター席に座らされる。
笑い声と湯気が入り混じる店内は、まるで宴会のような雰囲気。
「にしてもよ~、雫ちゃんいない間、朔はそりゃあもう寂しそうでな」
「えっ、そうだったんですか?」
雫が驚いた顔をすると、朔が即座に反応する。
「……してねぇし」
「いやいや、“ブリ大根が味気ねぇ”とか“椀物の香りが足りねぇ”とか言ってただろ!」
「それは味の話だ」
「その“味”に雫ちゃんが絡んでる時点で完全に惚気だろ!」
「……うるせぇ。黙れ、田中」
笑いの渦の中、いつの間にか集まった常連たち。
大将まで「朔がこんなに人恋しくなるとはなぁ」と呟き、雫の胸の奥が温かくなる。
やがて差し出された一皿。
菜の花と筍が透き通る出汁に浮かび、春の香りがふわりと立ちのぼった。
「“春待ちの炊き合わせ”だ。……出張、お疲れさん」
「これ、私のために?」
「……まあ、お前がまたコンビニ飯で干からびたら困るからな」
「すごく、嬉しいです」
朔は少しだけ頬をかき、そっぽを向く。
*
夜も更け、常連たちが帰ったあとの「こだま」は、しんと静まり返っていた。
片づけを終えると、朔は「今夜はうちに来い」と雫を家へと誘った。
玄関を上がると、見慣れたはずの部屋が、どこか新しく映る。
シャワーを浴び終えた雫が、タオルで髪を押さえながらソファに腰を下ろすと、朔がキッチンからカップを差し出した。
「……あったかい。ありがとう、朔さん」
「風邪ひかれたら困るからな」
「それ、いつものセリフですよ」
雫が小さく笑うと、朔は何も言わず隣に座り、自然に指先を重ねてきた。
その温度だけで、胸が満たされていく。
「……もう会えない夜は、ないんですよね」
吐息まじりの声が頬をかすめる。
朔は目を細め、顎をそっと持ち上げた。
「──ああ」
短い返事とともに唇が重なる。
最初はそっと触れるだけ。
けれど雫の震える指先に引き寄せられ、次第に深くなっていく。
「……っ、朔さん……」
気づけば、雫の腕は彼の首に絡んでいた。
もっと欲しい、と無意識に求めるように。
「……あのな」
唇を離した朔が、低く笑う。
「そんなふうに縋られたら……俺、抑えきかなくなる」
「……ん……でも」
雫は少しだけ顔を離し、息を整えながら囁く。
「2ヶ月分、まだ……足りない」
赤く染まった頬のまま、彼に擦り寄る。
迷いのない口づけは、長く、深く。
互いの息を奪い合い、甘さに溺れていく。
名残惜しく唇を離した朔が、そっと彼女の唇をひと舐めした。
「……まだ欲しいか?」
耳元に落ちる声と同時に、力強く抱きしめられる。
胸に響く鼓動が、熱を連れて全身を包む。
雫は甘く息を漏らし、指を朔の背中に絡める。
「……ん……もう……離さないで……」
その小さな呟きに、朔は唇をそっと額に当て、低く囁いた。
「もう雫がいない生活には戻れねぇ」
「……うん……」
伏せた瞳に涙がにじみ、頬は熱く染まる。
「空港でも話したけど──俺もよく頑張っただろ」
「……え?」
「2ヶ月間、雫のいない夜を耐えたんだから」
ふっと笑い、もう一度唇を重ねる。
握った手をさらに強く絡めながら、低く囁いた。
「……だから、これからは甘やかさせろ。2ヶ月分じゃ足りねぇ。毎日、一生分だ」
「……っ」
胸が熱でいっぱいになり、雫はただその腕に身を預ける。
夜の静けさに、ふたりの吐息だけが甘く溶けていった。
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