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第58話 合鍵のある日常
金沢出張から戻って以来──
雫は、朔との距離が前よりずっと近くなったことを、日々実感していた。
離れていた2ヶ月。
彼の過剰な心配と、やたら頻繁な連絡。
あれがどれほど支えになっていたか、思い出すだけで胸が温かくなる。
とはいえ、現実は甘くない。
朔は「こだま」の厨房で相変わらずの激務。
雫も、出張明けの仕事に追われる日々だ。
そんなある夜。
朔がふと呟いた。
「新しく部屋を探すのは、ちょっと時間がかかりそうだな……」
「でも朔さん、私たち隣同士じゃないですか!」
雫が笑うと、朔はハッとした顔をして──すぐに、目元を緩めた。
「……そっか。そうだな」
その日のうちに、互いに合鍵を手渡し合う。
掌に落ちた小さな金属の重みと、触れた指先の熱。
沈黙を破ったのは、朔の低い笑い声だった。
「もう逃げられないな」
「……逃げませんよ」
雫は首を振り、照れ笑いを浮かべる。
「そうか。なら安心だ」
朔は雫の手を包み込み、目を細める。
「逃げても、どうせ捕まえるけどな」
「えっ、今の、笑顔で言うセリフじゃないです」
「俺のは脅しじゃなくて予告だ」
片方の口角を上げ、挑むような笑みを浮かべる。
「……予告?」
「そう。一回捕まえたら、一生放さない」
からかうようでいて、奥底に熱を秘めた声音。
視線を逸らしたくないのに、見つめ合うほど胸が苦しくなる。
「……そんなの、ずるいです」
「ずるい? いいだろ、俺の特権なんだから」
朔は強気に言い切ると、雫の指先をなぞった。
それだけで、逃げられないのは──自分の方だと気づかされる。
*
合鍵を交換してから、二人の生活は一変した。
朝は目覚ましより先に、出汁の香りで目が覚める。
布団を抜け出し、そっと覗けば──キッチンに立つ、広い背中。
「おはよう、雫」
振り返らず届いた声は、既に日常の一部みたいで。
「顔、洗ってこい。すぐできるから」
その声が妙に優しくて、足が動かない。
代わりに、背後から彼の腰へ腕を回した。
「……朝ごはん、ありがとう。出張中、コンビニのおにぎりばっかりで……朔さんのご飯が恋しかったんだ」
包丁の音が止まる。
次の瞬間、大きな手が雫の手を覆い、指を絡めてきた。
「恋しくなったら、いつでも来い」
耳の奥に落ちる低い声。
反射的に息を呑むと、ふっと笑う息遣いが聞こえる。
「……ん? 顔、赤いぞ」
「そ、そんなこと……」
「ほら、早く洗ってこい。味噌汁が冷める」
──そんな朝を重ねていくうちに。
休日には、雫が先に目を覚ますこともあった。
朔の布団に潜り込み、寝顔を覗き込む。
「ん……雫……?」
片目だけ開けた無防備な顔が愛しくて、つい頬をつつく。
「おはよ、朔さん」
そっと唇を重ねると、低い唸り声が返ってくる。
「……起こし方が反則だろ」
そのまま伸びてきた腕に抱き寄せられ、柔らかい温もりに埋もれる。
「もう少し、このまま寝てろ」
抗えない甘さに、胸がぎゅっとなる。
「……朔さんにそう言われると、一日中こうしていたくなります」
「してりゃいいだろ」
「えっ……本当に……?」
微笑みを浮かべながら、朔の指がそっと髪をなぞる。
甘く、優しく、でも少しいたずらっぽく。
「……でも、朝ごはんは……」
「朝は昼に回せばいいだろ。どうせ、俺が作るんだし」
少し得意げな声に、思わず雫はくすっと笑う。
「ほんと、無茶苦茶ですね」
雫を撫でる指先は甘やかすように優しくて、結局その日の朝食は昼へと繰り越された。
*
そして、互いの気配は少しずつ部屋に溶けていった。
朔の部屋の棚には雫のマグカップが、雫のキッチンには朔が置いていった包丁が並ぶようになった。
ある夜、朔の部屋で寝落ちした雫が目を覚ますと、台所からカチャカチャと音がする。
覗けば、フライパンを片手にした朔が眉をひそめていた。
「おい雫。これ、いつ洗った?」
「えっと……昨日、かな?」
「『かな』じゃねぇ」
黙々と洗い直す背中に、つい笑いが漏れる。
「朔さん、完全に私の管理人ですね」
「俺以外に任せられるか。……お前、俺がいなきゃ生き延びられないだろ」
「うっ……否定できない……」
振り返った瞳に、隠しきれない独占欲が光っていて。
雫の胸が、きゅんと鳴った。
片付けを終えると、二人はソファに身を投げる。
「……眠そうだな」
「うん……でも、まだ朔さんの声、聞いていたい」
小さな声が漏れると、朔の動きが一瞬止まる。
視線が絡み合い、距離がぐっと縮まった。
「……雫」
名前を呼ばれ、次の瞬間には唇が触れる。
ゆっくり、じっくり、溺れるように重なった。
そのままふんわりと抱き上げられ、二人はゆっくり移動する。
「……なんか、猫拾った人みたいですね」
「は?」
「だって、『もう離さねぇ』とか、『俺がいなきゃ生き延びられない』とか……完全に保護者の台詞です」
「保護者ねぇ……」
朔が低く笑って、耳元に唇を寄せる。
「じゃあ今夜からは、俺のこと“ご主人様”って呼ぶか?」
「や、やめて! なんか響きがいやらしい!」
「俺は別に構わねぇけど?」
頬を真っ赤にする雫を見て、朔は満足そうに目を細め、ベッドへ降ろす。
触れ合う肌のぬくもり、交わる唇の熱さが、何よりも「帰ってきた」実感を運んできた。
「どこにも逃がさねぇ」
「ふふ……こんな無茶苦茶な管理人から、逃げられると思ってません」
「わかってるならいい」
甘い囁きに包まれ、心地よい眠気が広がっていく。
どこにも行かせない。
どこにも行かない。
ただ同じ夢を見て、同じ朝を迎える。
それだけで、世界はふわりと甘く、優しく染まっていった。
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