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第59話 完璧じゃなくていい
雫が会社の食堂で昼食をとっていると、向かいに同期の笠原がトレーを置いて座った。
「お、天音も一人飯? ちょうどよかったわ」
箸をつける前に、大きくため息をつく笠原の姿に、
雫は眉をひそめる。
「……どうしたの? そんなに深いため息」
「いやさ、最近一緒に住み始めた彼女のことで」
笠原は、愚痴るように話し始めた。
「前から家事は得意じゃないのは知ってたけど……いや、それにしてもひどくてさ。料理はしないし、たまにやったかと思えば洗い物は山積み。掃除は雑、洗濯は色物と白物を一緒にして変色……」
「……」
「一応分担制なんだけど、結局俺が全部やり直してんの。仕事で疲れてんのに、帰っても疲れるってどういうことよって感じ。……正直、このまま一緒に住むのキツいかな~って」
……それ、全部わたしじゃん。
山積みの洗い物、適当な掃除、色移りしたシャツ――。
頭に浮かぶのは、黙って洗い物をしていた朔の背中。
(もしかして……朔さんも、こんなふうに思ってる?)
「……どした? 急に黙って」
「え、あ、いや……私も家事苦手だから、なんか……耳が痛くて」
雫は顔を引きつらせて、笑顔でごまかす。
笠原はため息をもうひとつ落として、箸を置く。
「苦手なのは仕方ないけどさ。せめて努力する姿勢とか、歩み寄りってあるじゃん」
その言葉が、ぐさりと胸に刺さる。
歩み寄り。
……わたし、してなかった。
彼の優しさに甘えて、都合よく見逃してもらっていただけ。
嫌われたくないくせに、何も努力してこなかった。
(今日から……絶対に頑張る!)
その日から、雫は変わった。
朔の部屋で食べた朝食の食器は、彼が手を出す前にサッと洗って水切りカゴへ。
洗濯は色物と白物をきっちり分け、乾いたら丁寧に畳んでタンスへ仕舞う。
自室でも掃除、水回り、埃取り――全部完璧。
朔は、その急激な変化に戸惑いながらも、とりあえず受け入れた。
(……急に家事能力が爆上がりしてる)
今までの雫を知っているだけに、明らかに“何か”が違う。
(……まあ悪いことじゃねぇけど。急にどうしたんだ?)
問い詰めるほどじゃない、と朔は黙って見守った。
けれど、その変化は少しずつ、二人の空気を変えていく。
ある夜の夕食後。
雫は真っ先にキッチンへ行き、洗い物を始めた。
「俺がやるよ」
「大丈夫、朔さんはゆっくりしてて」
使命感に満ちた背中に、朔は思わず一歩引いた。
以前なら、後ろから抱きついてきて「手伝おうか?」なんて言いながら、結局何もしないまま邪魔をしてくる――あの不器用な甘え方が日常だった。
それが、今は完璧な“同居人”みたいで。
(……なんか、違ぇんだよな)
疲れて帰ってきた夜も、雫は寄り添ってはくれる。
でも「お疲れ様」と言うだけで、前みたいに膝に頭を乗せてきたり、甘えるように抱きついてきたりはしない。
雫の「努力」は、朔にとっては「距離」に変わりつつあった。
*
ある晩、洗面所でスキンケアをしていると、雫の背後からそっと温もりが重なる。
「……雫」
不意に腰に回された腕。
耳元に落ちてくる低い声に、思わずビクッと肩が跳ねた。
「わ、びっくりした……どうしたの?」
「疲れた。……もっと、甘えろ」
耳たぶをかすめる吐息。
少し掠れた声には、素直な弱さが混じっていて、雫の胸がきゅっと締めつけられる。
「……私、甘えてなかった?」
「あぁ。最近、お前の“らしさ”が消えてる」
腕の力が少しだけ強くなる。
「頑張ってるのは分かる。でもな……なんか、ちょっと寂しい」
その言葉と同時に、頬へ添えられる大きな手。
視線を合わせれば、逃げ場をなくすようなまっすぐな眼差し。
「お前が、俺にだけ見せてくれる顔が好きなんだよ。無理して完璧にならなくていい。俺の前では、もっと力抜いてろ」
「……でも、家でも疲れさせちゃったら、朔さんに嫌われちゃうと思って……」
「は?」
わずかに眉をひそめて、ためらいなく返す。
「嫌うわけねえだろ。雫がそこにいる――それだけで、十分なんだよ」
胸の奥まで響く声に、目が熱くなる。
ぽろりと零れた涙が、彼の指先に触れた。
「朔さん……」
「バカ。努力してくれるのは嬉しい。けど、それでお前が無理してたら意味ないだろ」
視線を落とし、苦笑する彼。
そのまま強く抱き寄せられ、肩口に顔を埋められる。
「俺は、無理して頑張る雫よりも、甘えてくる雫のほうが……ずっと好きだ」
首筋にふっと熱い吐息。
次いで、かすかなキスがちゅっと触れて――息が止まりそうになる。
「……っ、朔さん……」
恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、無意識に胸へしがみつく。
背中を大きな手が優しく撫でるたび、安心感が体に染みこんでいく。
「俺の前では甘えてりゃいい。……それが、一番癒される」
泣き笑いになって、そっと彼の首に腕を回した。
「……朔さん、本当にありがとう」
「なんだよ、改まって」
「……大好きだよ」
小さな声で告げれば、髪にキスを落とす感触。
微笑む彼の表情は、どこまでも優しかった。
――だからこそ、ちょっと意地悪をしたくなる。
「ねぇ朔さん、さっき“甘えろ”って言ってたよね?」
「ああ。言った」
「じゃあ……今から甘えてもいい?」
雫は朔の首に、ぐっと腕を回す。
彼の胸元に頬を押し付け、わざと上目遣いで見上げた。
「今夜はずっとぎゅーってしててほしいな。寝るまでずっと」
「……お前な、それ甘えじゃなくて俺に試練与えてないか?」
「試練?……私に甘えられるの嬉しいって言ってたのに?」
「……あーもう、その顔やめろ」
苦笑しながらも、腕の力が強くなる。
「あとね……」
「まだあるのか」
「キスもたくさんしてほしいな。何回も。数えきれないくらい」
「……雫」
低く名前を呼ばれ、ぞくっと背筋が震える。
彼の瞳に熱が宿り、口元がわずかに歪んだ。
「甘えろって言ったのは俺だ。だから……全部、受け止めてやる」
その直後、額、頬、唇へと降り注ぐキス。
息をする間もなく、甘さに包まれて、思わず笑みがこぼれる。
「……嬉しい?」
「もう黙れ。黙らないと……朝まで離せなくなる」
耳元の低い囁きに、雫の胸には幸せが満ちていった。
*
翌朝――。
いつものように目を覚ました朔が横を見ると、雫は布団の中で小さく丸まっていた。
眉間にうっすら皺を寄せ、夢の中で何かを考えているような顔。
朔は、そっとその髪を撫でる。
昨夜、自分の胸で泣いた雫のぬくもりがまだ残っている。
(……ちゃんと、伝わったよな)
頬に指先をすべらせると、睫毛がぴくりと揺れ、ゆっくりと目を開ける。
「……おはよう、朔さん」
まだ寝ぼけた声。
でもその響きには、昨日までなかったやわらかさが戻ってきていた。
もぞもぞと朔にくっつき、胸元に頬を擦り寄せる。
「……あと五分だけ……こうしてていい……?」
甘えた声音に、朔の喉がふっと緩む。
「……何分でもいろ」
髪に口づけをして、腕を回す。
雫はふにゃっと目を細め、猫のように身を寄せた。
「んふ。やっぱり、こうしてるのがいちばん落ち着く」
「それは俺のセリフだっつの」
朔は笑いながら雫の腰を引き寄せる。
温度も匂いも息づかいも、全てが心地よく感じる。
朝食はトーストと目玉焼き。
朔がほとんど作り、雫は皿を出したりバターを塗ったりする程度。
「今日の目玉焼き、いい感じに焼けてる。朔さんって卵に愛されてるんだね」
「卵に?」
「うん。ほら、白身が全然暴れないっていうか。いつも綺麗にまとまってるもん」
「……それ、料理の腕の問題じゃねぇの?」
「違うよ、“この人なら”って卵が思ってるんだよ」
「卵界の信頼、得たか」
くすっと笑う朔を見て、雫は横にちょこんと座る。
「……あのね、朔さん」
「ん?」
「なんかね……今日、すごく心があったかい。目玉焼きのせいじゃなくて」
その言葉が真っ直ぐ胸に届く。
ふと袖を見ると、雫がそっと自分の服をつまんでいた。
「……甘えんの、再開した?」
「うん。だって、朔さんが“そうしてろ”って言ってくれたから」
頬を染める雫の頭を、くしゃりと撫でる。
「よし、合格」
朝食のあと、片付けの最中に朔が後ろから雫の腰に手を回す。
「……んわっ、びっくりした……!」
「くっついただけだろ」
「も、も~……びっくりするって……」
言いながらも、雫はされるがまま、背中をあずける。
「こうやってくっついてるの、好き?」
「当たり前だろ。雫が甘えてくるのも、俺から甘えるのも、どっちも好き」
そう言いながら首筋に唇を落とすと、雫の肩が小さく跳ねた。
「っ……もう、朝から……」
「朝だからだ」
低く囁くと、耳がきゅっと赤くなる。
「……そういうの、ずるい」
「ずるくていい。今、すっげぇ機嫌いいから」
「……ふふ、わたしも」
体温が混ざる、やさしい朝。
何気ないやりとりの中で、二人の関係は、さらに深く、甘く、日常に溶けていく。
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