恋するこだま食堂 〜一膳に詰めた想い〜

Sena

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第64話 甘くて不器用な、花嫁修行


あの朝、朔と交わした言葉は、雫の胸に温かく残り続けていた。

『焦らなくていい。答えが出なくても、これから一緒に考えていこう』

将来の形はまだぼんやりしている。
でも──焦らなくていい。そう言ってくれる人と過ごす時間は、何よりも幸せだった。



それからの日々、朔の部屋のキッチンはすっかり雫の“花嫁修行”の場になった。

「野菜はこう。刃元を使って、スライドさせる」

朔が隣で身を乗り出し、優しい声で教えてくれる。
近すぎる距離に、心臓が妙に忙しい。

「うん……」

真剣に包丁を当てる。──が、

「……あれ? 厚さがバラバラ……」

まな板の上には、不恰好な輪切りが並ぶ。
しょんぼりする雫の手に、朔の手がそっと重なる。

「ほら、焦らない。力抜いて……指先の動きに集中」

背中越しに感じる体温。
石鹸の匂い。思考は一瞬で真っ白になる。

「だ、大丈夫! 私、もう自分で……っ」

慌てる雫に、朔はくすっと笑って手を離した。

「じゃ、あと二切れ。今の感覚、忘れんなよ」

「……うん」

頬が熱くなるのを感じながら横目で見ると──朔がまだ、じっと見ている。

「……な、何?」

「顔、真っ赤。可愛すぎて……また後ろから抱きしめたくなった」

「っ……そ、そういうのやめてよ……!」

「言いたくなるくらい可愛いんだよ」

耳元に落ちる低い声に、心臓はまな板のキュウリよりも跳ねた。

「……朔さんのせいで、集中できないんですけど」

「悪い。でも、そういう時のお前がいちばん好きだから、許して」

「……もう……ほんとずるい」

俯きながらも、自然と口元に笑みが浮かぶ。

「……じゃあ、頑張ってあと二切れ切るね」

「おう。お前が真剣な顔してるとこ、ちゃんと見てるからな」

その一言に、雫の手元がわずかに震えた。

雫は包丁を持ち直し、慎重に刃を当てた。
しかし、思い出そうとすればするほど動きがぎこちなくなる。

「……あれ? さっきの感じ……もう一回って思ったのに……」

ぽつりと呟いて顔を上げると、朔は口元に笑みを浮かべたまま、静かに近づいてきた。

「ほらな。真剣な顔、ちゃんと見てるって言っただろ」

「……見られてると思うと余計にできなくなる……」

唇を尖らせる雫の手元に、朔の手が重なる。
背中にふわりと寄せられ、吐息が首筋をかすめた。

「そんなに力入れなくていい。……呼吸、俺と合わせてみ」

「は、はい……」

吸って、吐いて──すっと刃が通る感覚。

「……できた……!」

「うん。今の、よかった」

「でも……私ひとりじゃ、まだまだだね」

「別に、ひとりで完璧になる必要なんてないだろ」

「え……?」

「失敗しても、俺が隣にいる。何度でも教えるし、何度でも手、取ってやるから」

「……じゃあ、いっぱい失敗してもいい?」

「さすがに“いっぱい”は勘弁してほしいけどな」

「ひどっ……!」

「冗談。……何度でもフォローするって、約束する」

照れた笑みと共に、そっと頭を撫でられる。
その優しさが、胸の奥まで沁みていった。

やっと切り終えたキュウリは、小鉢の中で彩りよく並ぶ。

「……できたかな」

差し出すと、朔が一口つまみ──目を細めた。

「うん、旨い。酢はちょっと強いけど」

「えっ、本当に? やった……!」

雫は思わず笑顔になり、その場で嬉しそうにくるりと回ってしまう。

「おい、何踊ってんだ。味噌汁まだだぞ」

「えっ、あ、そうだった!」

慌てて鍋に向かおうとした瞬間、後ろからすっと腕が伸びてきて、腰を引き寄せられる。

「……ご褒美」

「わっ、朔さんっ……! 台所で抱きつくの禁止……!」

「じゃあ、居間まで運べたらな。今日のは合格だし」

二人並んで食卓につく時間も、すっかり日常になった。

「……このお味噌汁、昨日よりまろやか……な気がする!」

「そうだな。ちゃんと味見してたからな」

「そんな基本的なことを……」

「でも覚えた。偉い」

頭を撫でられるたび、嬉しさが込み上げる。

「……朔さんって、褒めるの上手だよね」

「お前がわかりやすいだけだろ」

「う……否定できない……」

「その調子で頼むよ、新米女将“候補”さん」

「え、候補!? 今“候補”って言った!?」

「まずは玉子焼き作れたら正式採用」

「そんな試験あるなんて聞いてません~!」

笑い合いながら囲む食卓は、温かくて賑やかだ。
そんな何気ない時間が、何よりも愛おしい。

片付けの途中、雫がふとつぶやく。

「こういう時間が……ずっと続いたらいいな」

朔は一瞬だけ動きを止め、そっと頬に口づけた。

「……俺もそう思ってる」

その声に、未来への不安が静かにほどけていった。

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