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第64話 甘くて不器用な、花嫁修行
あの朝、朔と交わした言葉は、雫の胸に温かく残り続けていた。
『焦らなくていい。答えが出なくても、これから一緒に考えていこう』
将来の形はまだぼんやりしている。
でも──焦らなくていい。そう言ってくれる人と過ごす時間は、何よりも幸せだった。
*
それからの日々、朔の部屋のキッチンはすっかり雫の“花嫁修行”の場になった。
「野菜はこう。刃元を使って、スライドさせる」
朔が隣で身を乗り出し、優しい声で教えてくれる。
近すぎる距離に、心臓が妙に忙しい。
「うん……」
真剣に包丁を当てる。──が、
「……あれ? 厚さがバラバラ……」
まな板の上には、不恰好な輪切りが並ぶ。
しょんぼりする雫の手に、朔の手がそっと重なる。
「ほら、焦らない。力抜いて……指先の動きに集中」
背中越しに感じる体温。
石鹸の匂い。思考は一瞬で真っ白になる。
「だ、大丈夫! 私、もう自分で……っ」
慌てる雫に、朔はくすっと笑って手を離した。
「じゃ、あと二切れ。今の感覚、忘れんなよ」
「……うん」
頬が熱くなるのを感じながら横目で見ると──朔がまだ、じっと見ている。
「……な、何?」
「顔、真っ赤。可愛すぎて……また後ろから抱きしめたくなった」
「っ……そ、そういうのやめてよ……!」
「言いたくなるくらい可愛いんだよ」
耳元に落ちる低い声に、心臓はまな板のキュウリよりも跳ねた。
「……朔さんのせいで、集中できないんですけど」
「悪い。でも、そういう時のお前がいちばん好きだから、許して」
「……もう……ほんとずるい」
俯きながらも、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「……じゃあ、頑張ってあと二切れ切るね」
「おう。お前が真剣な顔してるとこ、ちゃんと見てるからな」
その一言に、雫の手元がわずかに震えた。
雫は包丁を持ち直し、慎重に刃を当てた。
しかし、思い出そうとすればするほど動きがぎこちなくなる。
「……あれ? さっきの感じ……もう一回って思ったのに……」
ぽつりと呟いて顔を上げると、朔は口元に笑みを浮かべたまま、静かに近づいてきた。
「ほらな。真剣な顔、ちゃんと見てるって言っただろ」
「……見られてると思うと余計にできなくなる……」
唇を尖らせる雫の手元に、朔の手が重なる。
背中にふわりと寄せられ、吐息が首筋をかすめた。
「そんなに力入れなくていい。……呼吸、俺と合わせてみ」
「は、はい……」
吸って、吐いて──すっと刃が通る感覚。
「……できた……!」
「うん。今の、よかった」
「でも……私ひとりじゃ、まだまだだね」
「別に、ひとりで完璧になる必要なんてないだろ」
「え……?」
「失敗しても、俺が隣にいる。何度でも教えるし、何度でも手、取ってやるから」
「……じゃあ、いっぱい失敗してもいい?」
「さすがに“いっぱい”は勘弁してほしいけどな」
「ひどっ……!」
「冗談。……何度でもフォローするって、約束する」
照れた笑みと共に、そっと頭を撫でられる。
その優しさが、胸の奥まで沁みていった。
やっと切り終えたキュウリは、小鉢の中で彩りよく並ぶ。
「……できたかな」
差し出すと、朔が一口つまみ──目を細めた。
「うん、旨い。酢はちょっと強いけど」
「えっ、本当に? やった……!」
雫は思わず笑顔になり、その場で嬉しそうにくるりと回ってしまう。
「おい、何踊ってんだ。味噌汁まだだぞ」
「えっ、あ、そうだった!」
慌てて鍋に向かおうとした瞬間、後ろからすっと腕が伸びてきて、腰を引き寄せられる。
「……ご褒美」
「わっ、朔さんっ……! 台所で抱きつくの禁止……!」
「じゃあ、居間まで運べたらな。今日のは合格だし」
二人並んで食卓につく時間も、すっかり日常になった。
「……このお味噌汁、昨日よりまろやか……な気がする!」
「そうだな。ちゃんと味見してたからな」
「そんな基本的なことを……」
「でも覚えた。偉い」
頭を撫でられるたび、嬉しさが込み上げる。
「……朔さんって、褒めるの上手だよね」
「お前がわかりやすいだけだろ」
「う……否定できない……」
「その調子で頼むよ、新米女将“候補”さん」
「え、候補!? 今“候補”って言った!?」
「まずは玉子焼き作れたら正式採用」
「そんな試験あるなんて聞いてません~!」
笑い合いながら囲む食卓は、温かくて賑やかだ。
そんな何気ない時間が、何よりも愛おしい。
片付けの途中、雫がふとつぶやく。
「こういう時間が……ずっと続いたらいいな」
朔は一瞬だけ動きを止め、そっと頬に口づけた。
「……俺もそう思ってる」
その声に、未来への不安が静かにほどけていった。
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