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第7話

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 なんとか前向きになれたところで、呼び鈴が楽しそうに鳴った。玄関に着くまでにもう一度、さらに楽しそうに呼び鈴が鳴る。単なる呼び鈴をこんな風に操れる人は、僕の知り合いには一人しかいない。
「わざわざ来てくれてあり……」
 ドアを開けると同時、いやちょっとフライング気味に話し出したのに、あっさり圧倒されてしまった。
「ひろしさーん、おまたせー。では、さっそく東京に向かいましょう」
 塚谷君は疲れというものを知らないのか。
「ちょっとウチでお茶でも飲んでからにしない? 塚谷君のためにドーナツもあるんだから」
「ええー、本当ですか? でも、ひろしさんの家に上がってお茶まで頂いたら、そのまままったりして動くのが億劫になって泊まることになりますよ。ひろしさんが私と一緒に寝たいという気持ちは分かりますけど……しょうがないなあ、おじゃましまーす」
「よーし、さっそく出発しよう。ドーナツは車の中で食べようね」
 僕は速攻で着替えてドーナツを持って駐車場まで行き、塚谷君に車の鍵を渡し助手席に乗り込んだ。都内での移動の時には、塚谷君のというか事務所の車を塚谷君に運転してもらっているので、安心して僕の愛車を任せられる。僕が運転に厳しいからなのか、塚谷君はいつも安全運転かつ同乗者を不快な気持ちにさせることはまずない。僕の運転は塚谷君の運転を参考にするのもあるくらいだ。
「ひろしさんの車を運転するのは初めてだけど、なんて言うか、しっくりきますね。懐かしいような優しく包まれているような」
「それは良かった。じゃあ、いつも通りの安全運転でお願いね」
「はーい。発車しまーす。あっ、それと、信号待ちとかで止まったら、ドーナツを食べさしてくださいね」
「まかしといて。10個でも20個でも、塚谷君の口に放り込んであげるよ」
「ひろしさん、ひどい。まるで私の口がゴミ箱のような言い方をして」
「そんな、ゴミ箱だなんて思ってないよ。アシカショーとかで魚をポイポイと口に投げ入れるのをイメージしただけだから」
「まあ、私もアシカもかわいいという共通点があるので許してあげましょう」
 言葉のチョイスや言い回しは大事だ。だけど、自分で言っていながら、アシカの例えは本当に正解だったのだろうか。深掘りはしない方がいいだろう。
「話は変わりますけど、一応いつものよう伊達メガネで変装はしていたんですよね?」
「もちろんしてたけど、やっぱり顔見知りの人は気づくんだね。話しかけられた時に別人のフリをすれば良かったと今は思うけど、あの時はそんな余裕がないくらいに狼狽えていたみたいだね。ああいう肝心な時に芝居をできないなんて、僕もまだまだだと実感させられたよ」
「ひろしさんでもそうなるんですねっと、はい信号待ちでーす。ほら早くっ、ほーらっ。ひ、ひろしさんひどい。ドーナツを忘れてるじゃないですか。あーあ、もう青に変わりますー。食べられなかった……この恨みは忘れないですからね」
「ごめんごめん。次は必ず。じゃあ、せっかく出したから……僕が、食べるしかないかな。えへへ」
「どうぞどうぞ。私は全く気にしないので、食べられるものなら食べてください。そのチョコをまぶしてあるドーナツは私の大好物ですけど、遠慮なく食べてください。いやー、全然遠慮なんてしないでくださいね」
 塚谷君の声が1オクターブ下がってはいるのを気にせず、僕はチョコドーナツを口に入れた。疲れている時のドーナツは最高だ。このドーナツを食べるために働いていると言っても過言ではない。ドーナツを発明した人はもちろん、作っている人や携わっている人すべてに感謝だ。
 塚谷君に対して申し訳ない気持ちがないわけではなかったけど、欲望の赴くままにドーナツを食べていると、次の交差点の歩行者用の信号が点滅を始めるのが見えた。このままのスピードを維持していけば余裕で通過できるはずだ。なのに、僕たちの乗っている車が減速を始めたので、間に合わなくなり止まらざるを得なくなった。
「いやー、やっぱり安全運転は気持ちがいいですねー」
 塚谷君はドーナツを食べたいがために早めに減速をしたことは、僕でなくても分かるだろう。その証拠に塚谷君の目は、まるでドーナツのようになっていたのだから。
「はい、あーんしてますよー」
 車が止まるが早いか塚谷君はドーナツを催促してきたので、僕の食べかけのドーナツをあげると、一切躊躇せずに口にくわえた。そしてさっきの仕返しと思われるけど、僕の指まで一緒にかじられた。絶対にわざとだと断言できるが、先に仕掛けたのは僕の方だし喧嘩両成敗なのでグッと堪らえよう。
 大げさな話ではなくまるまる半分はあった僕の食べかけのドーナツを丸ごと口に入れ、塚谷君は上機嫌になったのは明らかだった。ドーナツがすごいのか塚谷君が単純なのかはどうでもいい。今、僕の車の中は世界一幸せな空間だ。しばらくもぐもぐしていると、信号が青になったので塚谷君はそっとアクセルを踏み込み、僕はと言えば懐に忍ばせておいた缶コーヒーの蓋を開けた。静かに開けたかったけど、それはなかなか難しかったようで、塚谷君のうらめしそうな視線を一瞬だけ感じたような気がする。いや、気のせいか? 油断からくる脇見運転は危険な行為なはずだ。
「ひふんはへふうい」
 口の中にドーナツがまだ残っている塚谷君が発した言葉は、文字に起こすと分からないが、僕にははっきりと理解できた。塚谷君が脇見運転をした可能性は高いのかもしれない。それとも音と香りで缶コーヒーの存在に気づいたのだろうか。どちらにしても、今は運転に集中してもらおう。
「ちゃんと塚谷君のためにミルクティーを用意してあるから、次に停車した時に飲ませてあげるよ」
「ひろしさん、絶対ですよ」
 塚谷君の口の中にあったドーナツは、すでに天寿を全うしていた。
「はいはい。だから運転に集中してね」
「分かりましたー。ミルクティー、ミルクティー……」
 運転に集中できているのだろうか? 変な詮索はしないほうが無難だろう。塚谷君なら……。
 信じていた通りに、塚谷君は次に停車するまで安全運転を続けてくれた。すかさず僕は温かい缶ミルクティーを開けてあげて手渡すと、それを2、3口飲んでドリンクホルダーに置いてすぐ出発した塚谷君は、さらに嬉しそうになっている。もう少しで高速道路に入るので、塚谷君をいい感じでリラックスさせた僕に、心の中で拍手をそしてスタンディングオベーションを送った。一番貢献したのはドーナツで二番目がミルクティーだというのは分かっている。
 ただ、今日だけは自分自身に花を持たせたい気分だった。今日は大変な一日だったのだから。
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