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第20話

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 いつものように完璧な仕事をしたメイクさんが車から出ていくと、終わるのを待っていたのかタイミングが良かったのか、小野さんのマネージャーさんなのか衣装担当の人かよく分からないが衣装を持ってきていた。もちろん、あくまでも紳士の僕は急いで車から出ようとする。しかし思いもよらない言葉が僕の耳に入ってきて、僕は彫像のように固まってしまった。
「ひろしさんも一緒に私の車の中で着替えてもいいんですよ」
 小悪魔が笑っていた。一瞬、自分の耳を疑ったけど、小野さんの表情から察するに冗談に決まっている。それでも一応、一応、何も期待はしていないけど、僕も冗談で返すことにした。それが礼儀というものだ。
「えっ! 本当に? じゃあ、そうしようかな」と嬉しそうに答えるか答えないかで、僕の耳をものすごい力で引っ張る者のせいで完全に車外に出されてしまった。
「冗談を真に受けてどうするんですか。まったくう、恥ずかしい事しないでください」
「あれー、美樹ちゃん。別に冗談ってわけじゃなかったんだけど。まあいいか。それじゃひろしさん、また後でよろしくお願いしますね」
「はーい、小野さん。よろしくねー。いたいいたい。こら、美樹放しなさい。耳が千切れるじゃないか」
「あらー、ごめんあそばせー。ひろしさんの衣装はあっちに用意してあるので、一人寂しくさっさと着替えてくださいね」
 メイクをして衣装に着替えた僕は、トラックを運転して撮影がスタートする場所まで行くことになっていた。他にできる人がいなにのだから仕方がないのだろう。監督や小野さんとは向こうで合流なので、なんだか寂しいと思っていると、トラックの助手席に当たり前のように塚谷君が乗ってきた。てっきりこの撮影拠点で待機しているものだと思っていた僕は少しだけ驚いたが、塚谷君の好きなようにさせてあげたいし邪魔でもないので咎めるような気にはならない。むしろ、この楽しそうな塚谷君を見ると落ち着けるので、結果として僕は喜んでいた。
「ひろしさん、緊張してます?」
 塚谷君は真面目に心配してくれているようだ。僕ならずとも、この映画に携わっているみんなが、このシーンの重要性を感じているのだから当然と言えば当然なのだけど。なのに塚谷君からは悲壮感なんて一切伝わって来ないから心強いのだ。
「うん。車を運転しながら芝居をするなんて初めてだし、それに一発勝負で失敗が許されないからね」
 素直に僕は今の気持ちを正直に話した。塚谷君が具体的に何かできるわけではないだろうけど、話すだけでも落ち着けるものだ。すると塚谷君が何かを閃いたのか、表情が激変した。
「このトラックの座席の後ろに人が入れるスペースがあるので、私がここに隠れていざとなったらフォローしてあげますね」
「本当? 助かるけど……」
 そういう手があったのか。それでいざ何ができるってわけではないだろうけど、こんな心強い援軍はどこを探しても見つからないだろう。僕の顔があまり嬉しそうにしていなかったようだ。
「だめですか?」
「いや、まさか。僕は美樹に頼ってばっかりだなと……」
「そんなことないですよ。それに、私もひろしさんによく頼っているのでお互い様ですよ。タレントとマネージャーは助け合って一つの仕事を成功に導くのが当たり前なんだから、私たちは理想のチームと言えますね。なんか今の私はめちゃくちゃかっこよくないですか? いいんですよ、たくさん褒めてくれても」
「ああー、そう言えば、美樹はドーナツを何個食べたの? 僕は3個しか食べなかったけど」
 素直に褒められないのは、僕が天邪鬼なのか塚谷君の照れ隠しに気づいているからなのか。
「今そんな事を思い出さなくてもいいじゃないですか。ちなみに覚えてません」
 覚えていないのは、きっと嘘だ。ただ、塚谷君がドーナツをたくさん食べた事や嘘をついた事なんて、これっぽっちも気にしない。こうやって取り留めのない話をして緊張を和らげるのはよくあるけれど、不思議と塚谷君と話すと他の誰とも比べものにならないくらいに落ち着ける。塚谷君はお互い様だと言ってくれているが、頼っているのは僕ばっかりのような気がする。万が一、塚谷君が僕の前から去ってしまったなら、僕はどうやって生きていくのだろう。
 あれ? この大事な芝居の前になんてネガティブな事を考えてしまったんだ。これではまともな芝居をできないかもしれないじゃないか。とりあえず、塚谷君に元気を分けてもらわないと。
 少なくとも今は、こんな近くに塚谷君がいてくれてるのだから。
「美樹、今日の芝居が最高に良かったら、晩ごはんを贅沢にしてもいいと思う?」
「うーん、どうでしょう?」
「ええー、だめなの?」
「まあ、私も一緒に食べられるならいいですよ。もちろん、支払いはひろしさんで」
「決まりだね。じゃあ、何を食べるかは美樹が考えてくれる?」
「やったー。ドーナツ5個しか食べてないから、夕食はいっぱい食べるぞー」
 自分が食べたドーナツの数をうっかり口を滑らせて白状したことなんて気にしない塚谷君の頭の中は、夕食の事だけなのかそれとも僕の芝居の事も片隅にあるのか計り知れない。一つだけ言えるのは、僕に元気をたくさん分けてくれた事だけでも、本日の仕事を十二分にしてくれたと保証できる。僕は、最高の芝居ができる確信しかなかった。
 これから始まる撮影がものすごく待ち遠しい気分になってきて、もう楽しみでしかないと思った時に撮影のスタート地点に到着した。そこにはもう僕とトラックと塚谷君を含めた必要な人や必要な物がすべて揃っていて、いつでも撮影ができる状態に見える。塚谷君はそのままシートの後ろに隠れて、僕はトラックから降りた。すると非常に険しい顔をした監督がわざわざいの一番に迎えてくれ、さらにそのすぐ後ろに小野さんがいる。もちろん最終打ち合わせをするためだ。
 まず、犯人役の僕がトラックを奪い、それを追うかのように妹役の小野さんがトラックの助手席に乗って二言三言会話のラリーをしてから出発する。出発したら荷台にカメラマンと監督を乗せた軽トラックが走る後ろを付いていきながら、その場その場に合ったセリフをアドリブで言うと。刑事役の健二さんを乗せたタクシーが途中までは付いてくるけど、僕がトラックを停めて降りる場所の少し手前でまかれてしまうことになっている。
 臨場感を出すためにトラックの中での会話はできるだけそのまま使うので、関係のない余計な事は話さないように言われて、せっかくトラックに無線があるのにそれを使って監督の指示なんかを伝達しない理由が分かった。ということは、シートの後ろに隠れている塚谷君にも事のあらましを伝えないといけない。なので、撮影がスタートするまでの短い時間に、最終確認をしたいと言ってトラックへと急いで戻った。
「美樹、監督から説明があったんだけど、トラックの中ではセリフ以外の余計な会話はしたらだめなんだって。だから、終わるまで一言も声を出さないでね」
「え、あ、はい。それなら、私がここにいる意味がないのでは?」
「そんなことないよ。美樹が近くにいてくれるだけで落ち着けるから」
「え? それって、もしかして私のこと……」
「うん、精神安定剤じゃなくて精神安定人間と言うのかな。まあ名前なんてどうでもいいけど、そういうわけだから」
「はいはい、分かりました。ここで死体のように横たわってます。なので、ひろしさんも私の邪魔しないでください。まったくもうー」
 小野さんと、僕と、そしてついでに美樹がそれぞれの持ち場について、すぐに撮影が始まった。
 
 
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