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第28話

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「小野リカです。ひろしさん、いますか?」
 え? リカさん? もしかしたら待たせ過ぎて、わざわざリカさんが呼びに? いやいや、そんなわけない。ということは、撮影はまだ始まってないのでは。それはそうだ。主演の話を聞いて、舞い上がって冷静ではなかったようだ。塚谷君共々。
「リカさん、とりあえず入って」と見ようによっては何か怪しい行動をとってしまったが、僕には後ろめたい事なんてあるわけがない。楽屋前で話すよりは中で話す方が落ち着いて話せるからだ。昨日の今日なので、まさか挨拶だけをしに来たわけではないだろう。
「あのー、ひろしさん、美樹ちゃんも知ってるんですよね? そのー、バスの事?」
「うん、もちろん知ってるよ。一昨日、リカさんにも話そうかと思ったんだけど、なかなか言えなくて。でも、あんな所で会うなら、思い切って話せば良かったよ」
「昨日は私も驚きましたけど、私以上にひろしさんを驚かせちゃいましたね。改めてですけど、誰にも言わないので安心してくださいね。私と美樹ちゃん以外にも知ってる人はいるんですか?」
「うん。ちょっと前に、偶然にも健二さんがバスに乗ってきて話しかけられたら、思わず返事しちゃって。全くの想定外だったから、知らない顔をする暇もなかったよ。だけど、健二さんも誰にも言わないでいてくれるから安心しているけどね」
「もしかしたら、あの3日前に私だけ食事に連れていってもらえなかった事と関係があるんですか?」
「ああ、あの時はごめんね。別にリカさんに教えたくなかったとかじゃなくて、他の誰にも知られたくなかったから、僕も美樹も頑なになっちゃった」
「いえいえ。事情を知って安心しました。私は嫌われているとかまではなくても、仲良くはなりたくないんだと思って泣きそうになりましたよ。でもお好み焼きに誘ってもらえて、今度は嬉しくて泣きそうになっちゃった。まだまだひろしさんと話したい事がいっぱいあるから、また一緒に食事に行ってくれませんか?」
 ここで塚谷君が入ってくる。本当に塚谷君は話に割って入るのが上手だなと思う。
「リカさん、何をかしこまっているんですか。私たちは仲良しなんだから、一緒に行くに決まってるのに。そんなのリカさんらしくないですよ」
「こらこら、美樹。失礼じゃないか」
「いいんですよ、ひろしさん。というわけで、お互いに時間が合えば、一緒に食事に行かないとだめですよ。もちろん支払いは……」
 リカさんは塚谷君がたまにするいやらしい笑顔をしながら去っていった。と同時に塚谷君も僕に対していやらしい笑顔を向けている。僕はとてもじゃないが、今の自分の顔を見る気にはなれなかった。
「出費がかさみそうですねー、ひろしさん。だけどドラマの主役に大抜擢されたので大丈夫そうですね。私への感謝はほどほどでいいですよ。そんなそんな、私なんてこの件に関してほんのすこーししか活躍してないですもんね。いやいや楽しみだなー、いろんな意味で」
 塚谷君が一人悦に入っていると、今度はスタッフの人が呼びにきてくれた。ひとまず塚谷君はそっとしておいて、僕は急いで準備をして撮影に臨む。言うまでもないだろうけど、息の合ったリカさんとのシーンは一発でOKが出てあっさりと終わった。すると監督が近づいてきたが、今日の演技を褒めにきたのではないくらいは分かる。
「ひろし君、後で楽屋に行くから、帰らないで待っててね。30分も待たせないから」
「あれ? これから打ち合わせですか?」
 リカさんが残念そうに聞いてくる。リカさんはこの後の予定がなくて一緒に食事に行くつもりだったのだろうか。そう思うと、僕も残念な気持ちになってきたが、今日だけは是が非でも仕事を優先しないといけなかった。
「うん。実はドラマの主演が決まりそうなんだ。僕にはちょっとしたハードルがあるけど、いろいろわがままを聞いてくれるみたいだから受けようと思うんだよね。やっぱり主演は憧れだし、こんな機会はもう二度と来ないかもしれないから」
「そうなんだ」とだけ言って、リカさんは何か思いついたかのような顔をして、すぐに去っていった。一緒に喜んでくれたりお祝いの言葉を言ってくれるもんだと思ったけど、やや拍子抜けだ。まだ本決まりではないし周りに人がいるから、リカさんなりに気を使ってくれたに違いない。僕なりに良いように考えてから、楽屋に戻り塚谷君と共に監督を待っていると、30分をいくらか過ぎた頃に監督はやって来た。塚谷君が一緒だったので全然長くは感じなかったが。
「ひろし君、ごめんね。もう少し早く来れるはずだったんだけど、リカさんと少し話してて遅くなっちゃった」
「リカさんと? 今回の映画の事ですか?」
「いやいや。どこで聞きつけてきたのか分からないけど、このひろし君主演のドラマに出たいって言うんだよね。どんな端役でもいいしギャラも安くてもいいからと懇願されちゃって。それで、本当はひろし君の助手役は女子高生のつもりだったけど、リカさんに合わせて女子大学生の設定に変えようと思うんだけど。リカさんがいくらかわいいと言っても、高校生役というのはちょっと無理があるもんね。まあそれも、ひろし君ときちんと相談してから決めようと思って、リカさんへの返事は保留してあるんだよ。だからさっそく打ち合わせに入ろうね」
「そうですね。まだ僕の役も含めて何も聞いてないのでお願いします」
「まずは、題名が『名バス運転士ホームズ』なんだ。内容としては、バスという密室の中で起こる事件を、バス運転士と偶然乗り合わせた乗客の女子高校生じゃなくて女子大学生が助手となって解決に導く推理ものなんだよね」
 バス運転士と聞いて、僕は顔色一つ変えるわけにはいかなかった。しかし、どんな表情をしたらいいのだろうか。
「そ、それはまた絞りましたね。そんな制約があったら脚本家の人も大変じゃないですか?」
「大変だけど、やりがいがあるって喜んでるよ。私もアイデアを出したりといろいろ手伝うのでなんとかなるよ。それに時代設定を一昔前にして、ドライブレコーダーなんかの最新設備がないようにすれば自由度も広がるし。以前から私がそういう話を撮りたいと言ってたのもあって、ある程度はできてるんだけどね。ただ、これに合う俳優がなかなか見つからなかったから、もしかしたら頓挫するかもって投げ出しそうになったこともあるみたいだけど。本当のところ運転しているシーンは代役を使うなり方法はいくらでもあったんだけど、どうしてもこのドラマだけはリアルにこだわりたかったんだよね。バスを動かすだけだったら、これだけの芸能人の中にできる人はいくらか見つかったけど、私の思い描いている人物と合致するかと言えば全く話にならなかったんだよ。それで妥協するか諦めるかの二択しかないのかと悩んでいる時に、ひろし君という希望の光が現れたんだ。この喜びといったら、この作品が私の遺作になってもいいと思ったくらいだからね。お世辞でもなんでもなく本心だから。で、一応確認だけど、ひろし君は出てくれるよね?」
「そこまで言われて断れるわけないじゃないですか。じゃなくて僕だって出たいに決まってますよ。是非よろしくお願いします。それで、撮影スケジュールとかは決まってるんですか?」
 今の僕にとっては、このスケジュールが最も大事で最も早く知りたい事だ。そうしないとバスの出番の日を決められなくなってしまう。逆に言うとバスの出番の日が決まると、もうその日にはどのような急な仕事も入れることはできない。
「本音を言えば、今すぐにでも撮りたいんだけどね。だけど、まだこの映画の撮影が少し残ってるから、早くても来月からかなあ。脚本は5話くらいまではできてるけど、手直しは必要だし誰を使うか決まっていない役だらけだから、もう少し時間が必要かもね。ああ、そうだ、仮の台本があるから事務所の方に送っておくよ。それでどんな話か参考までに目を通しておいて。それじゃ他に何か気になる事があったら、どんな小さい事でもいいから電話してきてね。マネージャーの方に私個人の電話番号を教えてあるから」と言うと、監督は急いで出て行った。
 忙しい中、わざわざ監督直々に来てくれた事が嬉しかった。ただ、今まで見たことのないような設定の話で、よりによってバス運転士を演じることに不安を感じたけれども。安易に引き受けたはいいけど、バス運転士を続けることに支障が出ないように努力はするが、正直手に負えないような部分もある。このドラマは僕の俳優人生を左右するものになるだろうけど、もしかしたらバス運転士としての僕を抹殺しかねないかもと思った。
 僕のこの複雑な感情を、塚谷君がいつものように理解してくれたようだ。
「なんとかなりますよ、ひろしさん」
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