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第1話

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「明智君、今日からいよいよ『怪盗』だよ」
「ワンッ!」
 ……。明智君は分かっているのだろうか。私が警官を辞めてきたことを。これからは安定した収入がないことを。最悪の場合は食べるのに苦労することを。『怪盗』とは何なのかを。
 30年もの間、全く出世できなかった交番勤務に嫌気が差したわけではない。怪盗になるのは子供の頃からの夢だったし、なによりも既定路線なのだ。
 怪盗になるのに30年もかかるなんて、怖気づいていたのかなんて誰も思っていないと信じている。だけど一応、言い訳をしておこう。
 なんかー、知らない間にー、月日が流れていたー。……。……。
 さあ、気を取り直して続けるか。
 私と明智君の二人だけでは心許ないので、新しく団員を加えた方がいいのだろうか。しかしツテも友人もいない私の唯一の知り合いは警察官しかいない。私はバカではないので、元同僚に相談なんてしないぞ。ぎりぎり踏みとどまったのは誰にも見られていないはずだ。
 なので、三日三晩考えた末にたどり着いた結論は、インターネットの就職情報サイトで募集だ。私って、本当に頭が良いな。明智君の尊敬の眼差しが眩しいぞ。

『株式会社ラッキー 明るく元気で企業秘密を守れる方を若干名急募』

 仕事内容も記載した方がいいのは重々承知だ。だけどまずはこの内容で募集させてくれ。もし万が一奇跡的に、私を唸らせる優秀な人材が集まらなかったら、またその時に考えればいいことだ。杞憂に終わるだろうがな。
 そして……なんと……驚くべきことに、1週間経っても全く応募がなかった。嘘だろ? 携帯電話やパソコンの調子が悪いのかと疑いつつも、叩いて直すような事は明智君の目があったのでできないし。
 なので立派な怪盗になるための特訓にだけ明智君と共に時間を費やしていた。私と明智君の息の合ったコンビなら、新団員を加えなくても十分にやっていけるような気がなくもない。決して強がりでもやせ我慢でも勘違いでもないからな。
 でもまあ、もう一人二人いた方が見栄えがいいのだろう。なので募集内容にほんの少しだけ手を加えるのも悪くない。私と明智君だけでは不安とかでは絶対にないので、勘違いだけはしないでほしい。間違っても新団員頼みではないからな。

『株式会社ラッキー 明るく元気で企業秘密を守れ運動神経が並外れている方を大大大募集 月給100万円も可能 社会保険完備でさらにあらゆる手当を用意しております 詳しくは面接で……豪華絢爛を地で行く社長と馬耳東風が得意技の秘書の明智君と一緒に夢のような世界で生きましょう』

 やや胡散臭いし気持ち嘘も含まれている内容かもしれない。これくらいしないと見向きもされないし背に腹は代えられない……じゃなくて、私はただ単に幸せを分け与えたいだけなんだよ。私は心が広すぎるのだろう。
 今度こそ応募が殺到すると楽観的に捉えていた私は、募集広告を載せてすぐに明智君と前祝いをしてから再び1週間が過ぎただろうか。血の滲むようなイメージトレーニングによって、世界を股にかける大怪盗になる下地がすっかりできていた。明智君が「ワンワン」と訴える。後はデビューするのみだと言ってるのだな。
 明智君の口車に乗りそうになった頃、待ちに待ったじゃなくて今さらどうでもいいのだけれど、応募があったので暇つぶしに即翌日に面接を設定してあげた。無下に断るのは、私の性分ではないからだ。いや、本当だぞ。
 翌日、緊張と喜びで眠れなかったのは明智君には気づかれず、一張羅を着てお茶とお茶菓子を用意して待っていた。明智君は普段と何の変わりもなくリラックスモードだ。ただ、お茶菓子に鋭い視線を送っている。お茶菓子を挟んで私と明智君が無言で不動の争いを繰り広げていると、本当に応募者がやってきた
 お茶菓子の存在を忘れ感動でいっぱいの自分を押し殺し、私はドアを開けた。後ろで明智君の嬉しそうな声が聞こえるが、応募者がやって来たからだろう。それはさておき、私は気さくに応募者を部屋の中に招き入れた。

「私が社長で、こちらが秘書の明智君だ」
「秘書? 犬しかいないですよ何かもぐもぐしてるし」
 何? お茶菓子をすっかり忘れていたぞ。バツとして明智君の晩ごはんを少し減らしてやるからな。いや、そんな事をしたら、私は……。忘れよう。今は何食わぬ顔をして面接を続けようじゃないか。
「ただの犬ではない。ゴールデンレトリバーなんだぞ。閉店セールをしていたペットショップで閉店当日まで売れ残ってタダ同然に安くなっていたところを、5年前に私がスカウトしてあげたのだ。残り物には福があるんだぞ」
「は、はあ」
 うん? なんか反応がいまいちだな。普通の人なら感動して大絶叫しているところだぞ。感情表現が苦手なのか?
「えっとー……そうだ、名前を聞くのを忘れてたね?」
「阿部です。『あべひまわり』です」
「それで、阿部君はゴールデンレトリバーを知らないのかい?」
「知ってますけど。犬にしては頭が良いんですよね? 犬にしては」
「皮肉っぽく聞こえたけど、気のせいだよね? なんと言っても明智君は秘書であり相棒でありチームの一員なんだから」
「でも、会話も読み書きも出来ないですよね?」
「ところで、阿部君は何歳なの?」
「あっ、ごまかした。22歳ですけど」
「そっか。まあ一応……じゃなくて、志望動機を教えてくれるかな?」
「たっくさんの企業の面接を受けたんですけど一つも内定をもらえなくて、気がついたら大学を卒業してたんですよ。無職っていうのは世間体がちょっと……ですよね? うちのパパとママなんて、あんなにかわいがっていた一人娘の私に対して何か汚いものでも見るように接するし。ごはんが喉を通らない感じを装うのが辛くなって。それでイチかバチかで、ネットの就職情報サイトを開いてから目をつぶってクリックしたら、この面接に至ったというところです」
「あ、阿部君は正直だね」
「はい、よく言われます。なのに内定が一つももらえないなんて、世の中どうかしてますよね? 愚痴をこぼしてる場合ではないので、仕事内容を聞いてもいいですか? 具体的に何も載せないで募集するなんてどうかとは思いますけど、律儀に面接に来る私がとやかく言えないですね」
「そ、そうだね。あえて載せなかったというか、載せられなかったと言うべきか。応募者が殺到している中、阿部君を採用するかどうかは何とも言えないけれど、今から話す事を口外しないと約束してもらわなければならない。できるかい?」
「ええー、それは、ちょっと……。もしかしたら映画とかドラマでよくあるスパイのような事をするんじゃないでしょうね? ああ、それでこんな常識外れの募集の方法をとっているんですか? いくらなんでも、こんなワンルームのアパートで、面接官がくたびれたおじさんととぼけた犬だなんて、ありえないですもんね。募集内容もバカ丸出しのブラック企業かって感じだったし。極寒の地で一日中穴掘りをさせるか、スパイのどちらなんですか?」
 これは正直に話すべきなのだろうか。スパイもなんとなく怪盗に近いような。大きく括れば同じカテゴリーだろう。ひとまずスパイだと言っておけば、阿部君は入ってくれそうな感じに見えなくもない。しかし怪盗だと言ったなら、辞退するだけじゃなくて正直者なので警察に通報しかねないぞ。
 正直者の阿部君を騙すだなんて後味が悪いし、活動しているうちにバレる可能性が少なく見積もっても99,9パーセントある。どうしたらいいのだろうか。相談のつもりで明智君に目線を送ると、「ワン」と言ってくれた。
 分からない。明智君は何が言いたいんだ?
「阿部君、申し訳ない。スパイではないんだ」
 阿部君がスパイに憧れていると決めつけて謝ったが、次の言葉が出てこなかった。
「ええー、残念です」
 おおー、久しぶりに私の勘が当たったぞ。どうだ、明智君。なぜ、こっちを見ない。もうお茶菓子はないんだぞ。いつの間にか。
 心の中で自画自賛して大喜びしていると、そのすぐ後に発した阿部君の言葉に耳を疑ってしまった。そして疑いながらも狂喜乱舞してしまったじゃないか。もちろん心の中でだ。
「私、スパイとか怪盗に憧れてたんです。でも、スパイ大学とか怪盗専門学校を探しても見つからなくて、なり方が分からなかったんです。あっ、誰にも言わないでくださいよ。もし話したら、10日連続で夜中にいたずら電話がかかってくるように、必死に神様にお願いしますからね」
「採用です」
「会話になってないじゃないですか」
「私と明智君と一緒に歴史上最高の怪盗になろう」
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