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第10話

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 我が家兼アジトのドアを開けての第一声は、何と言ってやろうか。明智君がいるのは確実だけど、阿部君は自宅に帰っただろう。最近の若者はドライだからしょうがない。阿部君が出勤してくるまで、この怒りの炎が消えないようにすればいいだけだ。むしろ消すのが大変なくらいだから、そんな心配は杞憂だろう。
 一応、奇跡的に私の帰還を待っているのも想定しておこう。まずは大声で「こらー!」だな。そして明智君しかいないのか阿部君もいるのかを確認してから、具体的に愚痴ってやろうじゃないか。
 白イノシシ会組長宅を出てからすぐにお面を外したかったが、万が一白イノシシ会の奴らが尾行しているのを恐れて、私はギリギリまでお面を外さなかった。家まで尾行されたら意味ないじゃないかと突っ込んだ奴はいないと思うが、もしいたなら今日のお前の安眠を邪魔してやるからな。途中、深夜というのもあって人通りは皆無に等しかったが、皆無ではなかったので、2、3人の酔っ払いを恐怖に落とし入れたようだ。幸い、警察を呼ばれることも動画も撮られることもなかった。それどころではなかったのだろう。分かるぞ。私がお前たちの立場だったなら、間違いなくちびったことだろう。お前たちの名誉のために確認はしないでおこう。お前たちに八つ当たりをしてしまうと、阿部君と明智君に対する怒りが冷めてしまうからな。しかし、いい歳して、漏らすなんて……。失礼。
 こんな事もありながら、白イノシシ会の奴にも警察にも見つからず無事に我が家の玄関の前に到着した。まずはふざけたお面を外す。そして深呼吸を3回。ドアノブを握る。
 私は、例え鍵を閉めていたとしても軽やかに開けられるくらいの力を込めて、風圧だけでふっ飛ばされるくらいの勢いでドアを開けてやった。ここまでは思い通りだ。しかしさらに「こらー」で畳み掛けようとした私の目に信じられない光景が飛び込んできた。絶句するしかなかった。
 阿部君がいたのは可能性が低いとはいえ想定していたので、そこまで驚かない。だけど、なんと、明智君が阿部君に説教されているのだ。それも、明智君は薄っぺらい絨毯の上で正座させられている。明智君の表情を見るに、これは真剣に違いないぞ。
 圧倒され「こらー」を浴びせかけることもできず黙って見ている私を、阿部君が顎で明智君の隣に座るように命令した。もちろん、速攻で従うのみだ。
「遅かったですねー、リーダー。ちょうど今、今日の反省会を明智君としてたところなんですよ。リーダーも一緒にしましょうね」
 話し方はいつもの阿部君だけど、声が1オクターブ低い。隣で脂汗をかいている明智君が冗談ではないと物語っている。私は恐怖のあまり心拍数が上がってきているのがはっきり分かった。それでも勇気を振り絞りアイコンタクトで何があったのかを明智君に聞くと、明智君の泳いでいる目が溺れかけながらも阿部君の前にあるワインのボトルにたどり着いた。
 原因は分かった。だけど、それがどうした。おそらく阿部君の酔いが覚めるまでは、この地獄が続くのだ。私はまだ人間だから、正座を耐えきれるだろう。しかし明智君は大丈夫なのか? そもそも犬がよく正座なんてできたものだ。明智君が特別なのか? 只者ではないと思っていたが正座までできるなんて、明智君すごいぞ。
 今日の裏切り行為は全部水に流してあげるからね。そして共にこの苦難を乗り越えよう。
「では、リーダーの反省からいきますね。組長宅の塀を乗り越えるのを随分ためらってましたね。あそこはさくさくとやってもらわないと。1分1秒のロスは、怪盗には命取りなんですからね」
「はい」反論なんてしてはいけない。
「次、明智君。私と明智君が組長宅の表側に回るとちょうど、お金を抱えた組長が出てきたと思ったら、いきなりフライングボディアタックをするなんて強盗だよ。私たちは怪盗なんだから、スマートに鮮やかにかっこよく盗らないと」
 なるほど。それで阿部君は驚いて「イエロー」じゃなく「あけちくーん!」と思わず叫んでしまったんだな。まあ確かに阿部君の言うことも一理あるな。虐げられている今の状況は別として、心に留めておこう。
「次、リーダー」え? まだあるのか?
「リーダーは組長宅の塀を乗り越えるのを随分ためらってましたね。あそこはさくさくとやってもらわないと。1分1秒のロスは怪盗には命取りなんですからね」
 こんなサイクルの速いデジャヴなんて初めてだぞ。デジャヴと言うのは間違っているかもしれないが、たまには難しい言葉を使って博識ぶりを見せたいのだから許しておくれ。
 それはさておき、驚いた私が明智君にアイコンタクトで相談した。すると明智君は目立たないように黙って右手の指を3本立ててそれからもう一度3本立てて、そして2本立てた。
 明智君は同じ説教を8回されているのか? と、驚いているそばから明智君への説教が始まっている。
 明智君は数を数えられるのだな。うん、さすが私の助手だ。私だって負けてられないぞ。それに数を数えることによって気を逸らせて苦痛を和らげるかもしれないな。
 阿部君の説教は滯りなく回を重ね、私に対しては93回を数えるまでになっていた。ということは、明智君への説教が大台の100回に乗るのだ。すると阿部君が急に押し黙ったので、記念説教が始まるのかとワクワクしてしまうおかしな感情が芽生えてしまった。思わず「おめでとう」と言おうと明智君に目を向けたほどの。しかし無の境地を実践している明智君が、私を正気に戻してくれた。だけど必ずしもそれが正解とは言えない。現実逃避だって立派な自己防衛になるものだ。
 私は不本意ながら我に返ってしまったので、黙って動かない阿部君がそのまま寝てくれるのを後押しするのみだ。なので私と明智君は沈黙を守るのはもちろん、気配を消すという怪盗の序の口の技も発動しつつさらに神頼みまでしたと。それなのに阿部君はすぐに思い出したかのように動き出し、冷蔵庫までの短い距離をスキップで移動して、私のお気に入りのワイン片手に会心の嫌らしい笑顔で指定席のソファーに落ち着いた。
 今さらだけど、阿部君と私に挟まれているローテーブルの上にグラスが2つある。このバカ犬も私がここぞで飲むと決めていた退職金をはたいて定価で買ったフランス産ワイン『アルセーヌ・ヌーボー」を飲んだのだな。阿部君、せめて私にも。
 しかしあろうことか、私の物欲しそうな目に気づいていながら、阿部君は一口もくれずにラッパで飲み始めた。ああ、無情。なら、せめてすぐに酔いつぶれてくれと切に願ったのに、私に試練を与えるために神様がよこした目の前の悪魔が私の希望を叶えるはずは、ないがな。
 阿部悪魔の説教第二幕は内容は同じだったが口調がきつくなっていた。明智君は『明智君』までが名前なのに明智呼ばわりで、私にいたっては『リーダー』でも『ブルー』でもなく『お前』なのだ。
「次、明智。私と明智が…………」「次、お前。…………」
 阿部君のエンドレス説教は何時間続いているのだろうか。何度もふらふらして睡魔に負けそうになっても、この場には全く必要がないのに阿部君は不屈の精神を発動して睡魔に打ち勝つ。その度に私と明智君は期待を裏切られ二人して励ますしかなかった。私と明智君がこんなにも一心同体になったのは初めてなので、絆が深まって結果良しと捉えておこう。
 私は人間ができているので、このように前向きだ。だけど人間ができていないじゃなくて犬ができていないと表現すべきかどうかはどうでもいいけど、そんな明智君はきっと阿部君に恐ろしい仕返しを企んでいることだろう。
 もちろん、私が明智君を止めるいわれはない。
 明智君の仕返しはどのような陰険なものなのかを想像していると、突然どこからかニワトリが夜明けを告げる声が聞こえてきた。ワインだけではなく自らの説教にも酔っていた阿部君は、ニワトリが邪魔をしたように感じたのだろう。矛先をニワトリに向けた阿部君は残っていた力をすべて使って罵声を浴びせた。ニワトリは聞こえたのかどうかは不明だ。だけど、ニワトリが静かになったのだ。まさか阿部君の声が聞こえ、さらに怖がったのか。いや、一鳴きしてすっきりしたというのが本当のところだろう。しかし阿部君は自分の迫力にニワトリがひれ伏したと思って満足している。と思いきや、そのまま気を失うかのようにソファーの上で眠ってしまった。明けない夜はないのだ。
 私と明智君はハイタッチをしたいのは山々だ。だけどまずは、感覚のない自分の足の心配をしてゆっくり足を崩し、しばし床の上で寝転び正座によるダメージの回復を待つのが最優先のようだった。人間の私がこれなのだから、正座なんて全く想定していない骨格でさらに私よりも長くしていた明智君は見るも無惨だ。説教から解放された喜びも束の間、寝そべっている私に気を失ったかのように覆いかぶさってきた。少しでも柔らかい所に倒れようとした自己防衛は、おそらく無意識に働いたと思われる。危機管理能力は怪盗にとって最も大事だと言っていいだろう。さすが、明智君。
 私は久しぶりに明智君の重みを感じると、明智君もいつの間にか大きくなったなーと感傷に浸ってしまった。明智君が我が家に来た時から3,4日前までの記憶が蘇り楽しくなったのも一瞬で、自分の痺れる足と明智君の声にならない泣き声が、3,4日前の阿部ひまわり悪魔との出会いを後悔させている。どこでどう間違ったのだろうか。
 明智君の城であるソファーの上で一人気持ちよさそうに寝息を立てている悪魔が3,4日前に現れた時は、こんな状況を想像すらしなかった。人を見る目には自信があったのに、見抜けなかったのは……誰のせいでもない。そんなの見抜けるはずがないだろ。お前なら見抜けたのか? どうなんだ? へへっ、架空の人間に八つ当たりしてやった。
 本来ならアルコールに負けた阿部君をどやしつけるところだけど、気持ちよさそうに寝ている人を起こすなんてかわいそうだ。起こすと説教の続きが始まるかもしれないなんて心配したわけではないぞ。
 話を戻すと、私は怪盗仲間が出来たというよりは、行き場のない若者に一筋の光を与えられたと喜んでいた。ということに、しておいておくれ。そんな私以上に、明智君にしたら辛い数時間だっただろう。まるで生まれた時から仲良しだったかのように接していた阿部君がアルコールくらいであんなに変わるなんて、明智君は立ち直れないかもしれないな。
 いつまでも冷たく薄っぺらい絨毯の上でボロ雑巾のようになっていられない。私は決死で意を決すると、背中に乗っている明智君への衝撃を全く与えないようにゆっくり横にずれて、生まれたばかりの子鹿のごとく震えながら立ち上がった。そして軽く柔軟体操をして体をほぐす。そんな簡単には、ほぐれるわけがないが。なので、明智君の汗と涙でびしょ濡れの『ブルー』の衣装からパジャマに着替えるのも、相当な時間を要するだろう。一応補足しておくと、明智君と阿部君は、私が帰って来る前にすっかり普段着となっていた。言うまでもなく、明智君の普段着は自前の毛皮だ。
 たっぷりの時間を使って着替えても、私の体はまだまだほぐれていなかった。歳のせいではないからな。誰もそんなことは思っていないだろうけど、なぜかついこの前から被害妄想が酷いのだ。なぜだ?
 考えても分からないし緊張から解放されて急に眠気が出てきたので、私はベッドに急ぐことにした。首を長くして待ってろよ、私の布団。牛歩にしては上位に入るスピードでベッドに急いでいると、茶色っぽい毛皮視界の彼方に入ってきた。なんと、明智君はまだ床の上でピクピクしていたのだ。明智君自らの力で動けるようになるまでは、何時間もかかりそうだぞ。
 明智君の寝床は阿部君に占領されているし、私のベッドに明智君を運んで間借りさせてあげるのは、紳士の私としては当然の行いだな。それが私には想像以上の負担……いや、不幸になるとは、例え未来の私がタイムマシーンで来てどうなるかを懇切丁寧に説明してくれても、信じなかっただろう。
 私は身も心も満身創痍だったし眠気も私史上4位くらいだったので、すぐに眠れると高をくくっていた。しかし、そうはならなかったのだ。どうしてかって? 教えてやる。聞いてくれるよな。
 ベッドの上が気持ち良かったのかいよいよ限界になって気を失ったのか、明智君が先に眠ってしまった。これは答えではないぞ。あくまでも導入だ。私は、いや、怪盗はエンターテイナーだから起承転結に重きを置くのだ。私が先に眠ろうが明智君が先に眠ろうが、そこまで気にするような事ではないというか、明智君が先に眠ったなんて気づいていなかった。明智君をベッドまで運んだ時点で、ふらふらの私は明智君が眼中になかったのだから。ここからが原因だぞ。明智君は阿部君の説教がよほど堪えたのか、すぐにうなされ始め、時には謝るかのように「ワンワーン」と泣き叫び、必死な顔で寝返りをうちながらじわじわと移動してきてとうとう私の耳元まで近づいてきたのだ。こんな状態ではいくら眠気が限界を通り越しているといっても、繊細な私が眠れるわけがないのだ。
 これが私がすぐに眠れなかった原因だと思った人もいるかもしれないが、近からず遠からず……いやまだまだ遠いだろう。まだ序の口だ。だって枕とともに上下を逆にして明智君の顔から離れ、明智君の声があまり聞こえないようにすればいいのだから。明智君をベッドから蹴落とすのも考えたけど、それは私の好感度が下がってしまうのだ。
 そんな好感度を優先した……じゃなくて、私の優しさが裏目に出てしまうなんて。今度は静かに眠っていたはずのソファーの上の阿部君が何やらぶつぶつ唱え始めた。明智君の寝言に反応して阿部君が起きてしまったと思った私は、ほんの1時間前まで続いていた地獄絵図が再開されるのかと自暴自棄になったが、どうやら阿部君も寝言を言っているようだ。
 安心したのも束の間、うるさい。うるさすぎるぞ。
 最初は小声の念仏のようだったのに、すぐにエスカレートして奇声をあげて喜んだり、内緒話口調で私の悪口を言っている。それに呼応するかのように明智君は、時には嬉しそうに、時にはさらに嬉しそうになっている。そして突如、阿部君が鬼教官のような説教モードになると、明智君は一瞬押し黙りすぐに謝っていた。そんな事ができるはずがないのに、明智君と阿部君はまるで会話するように寝言を言うようになると、間にいる私は二人が静かになるまで目をつぶってじっとしている以外に、なす術がなかったのだ。
 明智君と阿部君の顔にバケツで水を掛けようとも思ったが、残念ながら私の家にはバケツがなかった。報復が恐い言い訳ではないからな。もとより、お釈迦様のような心のきれいな私がそんな酷い事をするわけがないじゃないか。それにそんな何時間も寝言が続かないだろうし、横になって目をつぶりじっとしているだけでも案外疲れは取れるものだ。頑張れ、私。
 これで、私が眠いのにもかかわらずなかなか眠れなかった理由は分かってもらえただろう。だけど、先ほど私が言った『不幸』は眠れなかった事ではないのだ。長くなるが聞いてくれるかい? 聞きたくないなら、耳を塞いでおけばいい。私は言いたくてしょうがないのだから。じゃあ、話を進めるぞ。
 そしてとうとう外からたくさんの一般市民の方たちが明らかに生命活動を再開したなと感じてから、何時間経っただろうか。ようやく私のアジトが静寂に包まれると、私はものすごい早さで眠りに落ちた……と思う。
 そのへんの記憶が曖昧なので、もしかしたら犬の形をした悪魔(ヒントはゴールデンレトリバー)のアリキックで気絶した可能性を否定はできない。
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