ブランクフォビアの男

草葉ミノタケ

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ブランクフォビアの男

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 モスカラーは、イスラエルのロイ・インダストリ社が開発した特殊インキで、三十歳以下の若者にだけ見ることができる特別な色を持つ顔料が含まれているものだ。原理は視界の一部が見えなくなる「盲点」のようなもので、視神経を構成する物質のうち、メロイイス色素次第でこの特色の色覚が有無が決まる。人種を問わず人類のほぼ一〇〇パーセントが三十歳過ぎでこの色覚色素(受容体)を失い、知覚できなくなる。個人差はあるが、三十三歳でもまだ知覚できている例は報告されていない。ロイ・インダストリのシュムエル・シュメル主任研究員の論文によると、モサドによる百万人規模の試験でもそれは証明されており、信頼性は非常に高いものとされていた。
 最初にもモスカラーを実用領域で使用したのは、論文の発表から八年後に米国で開催されたフロリダオリンピックであり、素行の悪い若者向けの注意書き(ファックなチェリーボーイズは静かにしろ、だの、バッドなキッズはお家に帰ってママンのおっぱいでもしゃぶってな、などといった罵詈雑言の類)にモスカラーの塗料を使用することで、上品な年配者には見えないようにし、街の景観とヤングとアダルトのゾーニングを両立させるものだった。これは各界の識者には概ね良好で、大いに受け入れられた。公園にモスキート音を流して、若者の深夜徘徊を抑制するという社会運動と似ているという指摘は、フランスの社会学者モンテールがその著書『ああ、深夜の街よ、いまは静かに』で示されていた。五年後には世界の至るところに若者の行動を制限する但し書きがあふれ、それが見えなくなると、「ああ自分はようやく大人になったのだ」と誰もが社会の正式な一員であると自覚したものだ。
 モスカラーのインキは非常に高価で、のべつまくなしに使用されるわけではなかったのだが、ロイ・インダストリ社が超国際企業のカオジャン集団公司に買収されてから風向きが変わった。同じくカオジャン・グループのデンマーク企業、ボルドス社のボルドマーカーにモスカラーを使用した商品が発売されたのだ。一般色のマーカーに比べて一〇倍の価格だったが、若者にだけ苦言を書き記すことができるということで大いに売れ、一気に広まった。しかし、普及が進むにつれ、書いても読めない使いにくいマーカーを使う中高年は減り、モスマーカーは若者が大人に知られたくない秘密のコメントを書き込むことに使われるようになっていったのだった。

     ◇

 モスカラーが発明されてから二十五年が経った。三重内トオルは中途採用で入社した会社の早期退職キャンペーンに応募してそこそこの退職金とともに円満退社をするその日を迎えていた。老後のことを考えるともう少し勤め上げてからの方がよかったのだが、今はとにかく現金が欲しかった。先週末退職金の半分が口座に振り込まれるやいなや貯金とともにすぐに下ろし、バハラタウンの古いロシアビルに向かった。目的のものは、ネットで拾った裏情報通りに入手できた。所持金ギリギリではあったが、遂に入手できたのだ。バッグから取り出したクラフト紙の包みを見つめながら、この惨めな四半世紀を振り返っていた。
 何が書かれているのか。見ることができない。街の至るところにある白紙の看板、ポスター。ポストに入ってくる白紙のチラシ。何も見ることができない。そしていつの間にか増えている白い付箋。デスクのあちこちにこっそり貼られている。配られた資料の裏にも貼られている。白紙。白紙。読むことができない。つまりこれは、自分には読まれたくないことが書かれていることの証左であり、裏を返せば自分に読ませたくないことを書いている人間がいるということだった。読まれたくない、とはつまり、自分を傷つける言葉であり、それがどんな内容であれ、良いことなはずがない。当然気にはなるが、それを読む術はなく、ただひたすら気づかないふりをし続けるしかなかった。この十五年で中高年男性の自殺率は三倍に伸びていた。多くのおじさんたちが、白紙を気に病んで、気に病むあまりノイローゼとなり、命を断っているのだ。しかも近年は中高年男性の自殺率について言及する者もほとんどいなくなっていた。おじさんは死んでも話題にならないのだ。三重内トオルは、それが嫌だった。
「お疲れさまです」
 急に背後から声をかけられて、慌てて包みを袖机に隠した。
「三重内さん、驚きすぎですよ」
「ああ、ごめんごめん。何かな」
 経理の社員がやってきた。退職に伴う手続きのことだろう。同じ課の人間は営業で出払っていて誰もいない。部長は先月の自殺未遂で入院中だ。一命は取り留めたが意識が戻らないという。そろそろ役職を解かれて病気療養の形に落ち着くだろう。課長も昨夜から連絡が取れないが、それを知っているのは補佐の三重内だけだった。
「これが退職後に必要になる書類です。一週間ぐらいで手続きを済ませてくださいね。ただ、」
「ただ?」
「一ヶ月ぐらい伸ばしてもあんまり問題ないみたいです」
 経理さんは小悪魔のように笑うと、こっそりとライフハックを教えてくれた。やれやれ、こんな子にかかったらおじさんはイチコロではないか。一度ぐらい食事でも、とは思うがそれがよくない。そういうのは向こうは求めていないし、その時間を割くのが大きな負担であるし、下手に誘って断る手続きをさせることも相手にとってはストレスになるではないか。そしてこのように考えること自体が罪である。このような思考をしていることが少しでも顔に出たら、それは気持ち悪ことだろう。三重内トオルにできるのは、できるだけ目を合わせないように、かといってそらしているわけではないように、そして胸元は見ないように、細心の注意を払ってなんとなく経理さんのあたりを焦点を合わせないように視界に入れて、気持ち悪くない程度の笑顔を保ちながら曖昧な態度を取ることなのだ。部長の自殺未遂は自分が女子社員の間でエロネクタイと呼ばれていたことに気づいてしまったからだし、課長が昨夜から行方不明なのは、おそらく昨日女子トイレで発見された微細なWebカメラと関係があるのだろう。三重内は同期の警備部の小松原たか子主任からこっそり相談を受けて、どうしたらいいかと聞かれたので、気づかないふりをして社内のおじさん社員の悪口大会でも開いたら、犯人が炙り出せるんじゃないかと冗談交じりに言ったのだが、どうやらそれは実施されたようだ。三重内のことについても言及されたのだろうが、Webカメラの所有者でない彼にはなんの痛手もなかった。他に今日休んでいるものがいるのかどうかまではわからないが、このフロアのおじさん連中では課長だけが所在不明になっていることを考えると、この予測に間違いはないと思えた。三重内トオルは自分の退職日に上司に不在にされたことは少し腹立たしかったが、もとより腹に据えかねる案件も多かったから、最期に顔を合わせずに済むことは決して悪いことではなかった。経理さんは軽やかに立ち去り、爽やかな香水の香りを残した。思い切り吸い込みたかったが、そのように考えることは彼女に対する冒涜であり、内包的なセクシャルハラスメントであり、これは事件の温床である。三重内はできるだけ息をしないようにしばらく小刻みに呼吸をして、芳香が拡散するのを待った。

 誰もないオフィスでただポツンと終業時間を待つのは、正直寂しいものだったが、そのあとのエキサイティングな時間帯を思えば、これはその大いなる助走だと考えられた。袖机から包みを取り出して、デスクに置く。ゴトリ、ガチャリと音がする。時計は十六時半。そろそろ若手が戻ってくる頃だ。支度を始めよう。
 トカレフTT-33。シングルアクションの自動拳銃だ。ロシア製で設計は古いが、信頼性は抜群である。そして安い。その分弾丸を十分に買うことができた。この課のやつらに三発ずつ撃ち込んでもお釣りが来るぐらいにはある。昨夜三発試し撃ちをしたが、至近距離なら外すことはない。古い映画だがジョン・ウィックを何度も見て、近距離格闘射撃の勉強はしてきた。油断している相手になら遅れを取ることはないだろう。三重内は背中側のベルトにトカレフを押し込んだ。
 そしてもう一つ。高かったのはこちらだ。これもロシア製だが、一時的にモスカラーを見ることができるようになるというドラッグ〈スパシーヴァ〉。静脈に注射すると、視界に入るモスカラー色素を知覚できるようになるという特殊な薬剤だ。たった一回分で、貯金と退職金の前金のほとんどが飛んでしまった。試しに使ってみることもできなかったが、今ここで使うことが三重内トオルの悲願であり、最期にやりたいことだった。自分に向けられた悪口雑言の付箋や白紙の内容を暴いて、帰ってきた社員どもにトカレフによる熱い制裁を食らわせることが彼の本懐だったのである。売人には〈スパシーヴァ〉は使ったら最後、高い確率で失明し、運が悪ければ死に至ると聞かされていた。一瞬のためらいのあと、三重内トオルは自分の左腕にテルモシリンジの針を突き刺して、薬剤を注入した。
 急に三重内トオルの周囲が色彩に満ちた。それまで白紙にしか見えなかったものの多くに、たくさんの書き込みがあることがわかったのだ。印象的な色味のそのペンの文字は、所狭しと書き込まれ、いたるところに溢れていた。そしてそのすべてに「ありがとう」の言葉が綴られていた。三重内トオルの目からは大量の体液が漏れ出し、ワイシャツを濡らしていた。それは涙でもあり、眼球内の房水であり、流出とともに視力は失われた。そして髄液も流れはじめた。彼は最期に見たいものを見、満足して死に至ったのである。〈スパシーヴァ〉が単なる向精神薬の一種で、すべての文字列が感謝の言葉に見える幻覚をもたらす薬物であることが公になるのは、彼の死後七年後のことである。どっとはらい。
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花雨
2021.08.09 花雨

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