天雫

あおいまとか

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天雫

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『天雫』
 そのパッケージがパッと目に入ったのは、偶然だった。
 スーパーのバレンタイン催事場。
 残業帰りに、割引になった惣菜目当てに寄っただけ。
 遅い時間なので、スーパーの客はまばらだ。主婦より、ブラブラと一人分の食材を買っている層が多い。
 適当にビールと、揚げ物をカゴに入れ、レジに向かう途中。レジの横のスペースに、大量のチョコレートが並んでいた。
 カラフルな箱を、若い女性が選んでいる。会社帰りだろうか?薄い茶色のコートの下はスーツ。長い髪をバレッタでとめた彼女は、熱心に箱を手に取り、悩んでいる。彼女のカゴには、すでに数個、きれいな包装の箱が入っている。
(羨ましい)
 透は、目を伏せた。堂々と、チョコレートを買い、男性に渡せる名も知らない彼女が羨ましい。
 透はゲイだ。周りにカミングアウトはしていない。もちろん会社でも透の性指向を誰も知らない。
 バレンタイン当日は、ニコニコ笑いながら、同部署の女性職員が送ってくれる義理チョコをもらうだろう。
 透がひそかに好意を抱いているあいつも、同じようにチョコを受け取るに違いない。もしかすると本命チョコも、そこに紛れているかもしれない。

 (渡せないけど、おれが送るなら、あのチョコにする)
 天雫。真っ黒のパッケージに銀色の文字だけが書いてある。
 色とりどりの箱が並ぶ中、黒一色のパッケージはかえって目立った。そのチョコレートはシンプルに天雫の文字だけが、強調されていた。
 チョコレート売り場に並んでなかったら、なんの商品かわからなかったぐらいだ。
 
 最初に目にパッと入ったのは、あいつが好きだと言っていた日本酒の名前だったからだ。
 長嶺晃成。会社の同じ部署の同僚。しかしあちらは仕事ができて、皆に頼りにされている。
 逆に透は、やり直しばっかりだ。
 今日ももう少し顧客の購買意欲を高めるプレゼンにしろと、パワーポイントはリテイクとなった。いろいろ手を加えたが、結局課長が求めるゴールがわからなくなり、今夜は放り出して帰ってきた。
 
 晃成とは残業が重なった時など、独り身同士たまに一緒に飲みに行くことがある。ビールではなく、日本酒が好きだと知ったのはその時だ。居酒屋で酔うと日本酒のうんちくを語り始めて、天雫という銘柄が好きだと、焼き鳥を食べながら、呑んでいた。
 透は晃成のうんちくを語るのを聞くのが好きだ。普段は周囲を気づかう晃成が自分の世界に入っているのがいい。
 彼のプライベートに触れている感覚が好きなのだ。
 (チョコレートに天雫が入ってるのか。最近は日本酒もチョコに入れるんだな。知らなかった。絶対好きだろうな)
 バレンタインに晃成に自分がチョコレートを渡すことはない。
 そうわかっていながら、結構な値段がついているそのチョコレートを透はカゴに入れた。


 ***

 結局、バレンタイン同日に、晃成に渡すか渡さないか。悩むことはなかった。
 単純に晃成が会社にいなかったからだ。
 今日は急遽出張らしい。
 彼の机にはいくつかのバレンタインチョコが送り主の付箋をつけられて置いてある。
 あんなに雑な扱いをされているのだ。義理チョコだろう。そう思いたい。
 自分は晃成にチョコを送る勇気もないくせに、机の上のチョコにさえ苦々しい気持ちを抱く。
 透は今日も今日とて残業だ。
 すでにこの部屋に残っているのは、透1人。
 やはりパワーポイントでやり直しとなったのだ。
「わかりやすくまとまってるけどインパクトがないってなんだよ。わかんないよ……天雫も渡せないし」
 渡せないと思いながら、こっそりと通勤バッグに入れたチョコレート。あれもこれも悩んでばっかりだ。
「……自分で食べるか」
 何かにこじつけて渡せないかと、悩むのはうんざりだ。後日渡すチャンスがあるかも?などと考えていたくはない。透はいさぎよく悩みを一つ無くすことにした。
 ブラックの缶コーヒーを買い込んで、チョコレートのパッケージを開ける。
 かすかにアルコール臭がする生チョコを、付属していたピックで刺し食べる。
「結構うまいな」
 チョコレートの味のあとに、天雫の香りがする。ホワンとした風味に少しなぐさめられた気がした。
 
 チョコレートにこっそり秘めた想いを乗せたいと思った自分を嘲笑する。
 
(ばかばかしいな) 
 
  告白する勇気もないくせに。性的指向がマイノリティだと、自分の評価を落とす勇気はない。
 そのくせ思いをこっそり届けた気になりたいなどと、虫がよすぎる。
 晃成とはこのままの関係を、可能な限り続けたい。

 だからこのまま、このチョコレートは自分で食べてしまって、もう一つの悩みのパワーポイントに取りかかる。
「インパクトねぇ。商品名を大きくしてエフェクトつければいいのか?」
 たぶん違う。わかっている。
 あなたの悩みを解決する商品です!と、誇張してババンと出せということだろう。
 でも嘘はつけない。透はつい商品のマイナス面の説明にすぐに入ってしまう。そこがダメなのだろう。
 せめて、商品の写真を大きくし、スライドに赤いエフェクトをつけている時だった。
「うまそうだな、一つくれ」
 集中していて、気づかなかった。
 そばに晃成が立っていた。
 そして天雫を一つ食べていた。
 晃成が。
「なんで……直帰じゃ?出張は?」
「明日1番で詳細なデータが欲しいって言われて、戻ってきたよ。今夜出しとかないと間に合わない」
「そ、うか」
「透も残ってるなら、帰りはなんか食ってかね?」
「腹減ってるなら、食べかけだけど、これやるから」
 バレンタインに俺がもらったチョコレートだと思ったのだろう。晃の顔がくもる。
「俺が自分で買ったやつだから」
 乱暴に破った包装も、天雫の文字がわかるようにつける。
「え?天雫入ってるの?」
 途端に晃成の顔がほころんだ。
「俺にはちょっとアルコールがきつかったから、やる」
「もらうよ。ありがとう」
 バレンタインにチョコレートを渡せた。それだけで嬉しい。

 
「で、終わったらメシいく?」
晃成が自分のパソコンを立ち上げながらきいた。
「行く」
すぐに答える。
「早く終わらせようぜ」
「ああ」

 ハッピーバレンタイン。
 一緒に食べにいくことになったし、いい夜だ。仕事もがぜんやる気が出てくる。今なら、なんでも大きくカラフルに主張できそうだ。
 
 透は早く終わらせるために、残りの仕事に取りかかった。
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