すごろく

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 ある日、家の壁に穴が開いているのを発見した。
 腕がすっぽり収まりそうなくらいの大きな穴である。それが居間と台所の間の壁に開いていた。
 何かぶつけたっけと疑問に思いながらその穴を観察すると、どうにもそれが不自然なことに気づく。穴の輪郭が、まるで機械で計算して切り取ったが如く綺麗な真円なのである。自然にこんな完璧な穴が開くものか? かといって、人工的に壁に穴を開けた覚えなんてないし、開けられた覚えもない。誰かがこっそり開けたことも考えたが、生憎俺は自分以外を誰もこの家に上げたことはない。というか家に誰か上げていて、そいつがこの穴を開けたにしても、俺の目を盗んでこんな真円を開けるのは、何かしらの機械と相当な技術がなければ不可能としか思えない。というかたぶん俺の目を盗んでいなくても難しい。それなら最終的には不法侵入者を想像してしまうわけだが、俺の住んでいる家は死んだ両親から引き継いだぼろ屋で、俺自身も毎日かつかつの生活をしている身分なので、特に家の中に目ぼしいものはない。不法に侵入しても無駄の極みだ。いや、特に目ぼしいものがなかったから、それの腹いせにこんな穴を開けたのか? そんな馬鹿なのか賢いのかわからないこと誰がするのだ。心の中で自分にツッコミを入れながら、俺はその穴を念入りに眺めた。
 しかしそれは、やはり真円であること以外はただの穴のように見えた。
 覗き込んでみる。真っ暗だ。普通はコンクリートとかが見えるものだと思うけれど。
 おそるおそる手を突っ込んでみる。何も触れない。もっと深く腕を入れてみる。何も触れない。とうとう腕の付け根まで入れてみる。何も触れない。ぶんぶんと穴の中で腕を振り回してみた。何も触れない。そこで怖くなって俺は手を引っ込めた。
 穴をまた覗き込んでみる。さっきまではただ真っ暗だなんて思っていたけれど、今は深淵がどこまでも続いているように見える。なんだかとんでもないものが部屋の壁に開いてしまったようだと、俺はその場に座り込んで考えた。
 この穴を開けたのは誰かというのは置いておいて、この穴の目的は何だろうか? 何か異界のものがこちらにやってくる気配はない。いや、目には見えないだけで何かしらの存在がすでにこちらに来ているのだろうか? そしてこの穴はどこへ続いているのだ?
 俺は試しにティッシュを丸めて放り込んでみる。ティッシュは穴の中に落ち、そのまま音も立てずに消えてしまった。ふと星新一の『おーい、でてこーい』という有名なショートショート小説を思い出す。あんな風に未来の世界と繋がっていて、さっき放り込んだ丸めたティッシュも未来のどこかに降ってきたりしているのだろうか? しかし、それを確かめる手段はない。俄然、穴の向こうにあるものが気になってくる。
 そしてまた脳裏を過ったのは、かの有名な『不思議の国のアリス』だ。穴に落ちたアリスは不思議の国へと行く。この穴の向こうにも、不思議の国のような別世界が存在しているという可能性もあるのではないか?
 俺は再び腕を穴の中に入れてみる。相変わらず何も触れない。このまま穴がぎゅんと広がって、俺をその先に誘ってくれないかと思ったが、穴は何も変わらず、腕の付け根までしか俺を受け入れてくれなかった。
 その後も延々と穴の前で頭を捻ったが、答えなんて出るはずがなく、とりあえず張り紙を貼って穴を塞ぎ、普段の生活へと移行した。しかし、どうにもあの穴のことが頭を離れない。
 仕事中、上司に怒鳴られているとき、客からクレームを入れられているとき――ぎゅうぎゅう詰めの満員バスに揺られているとき、ポイ捨てされた煙草を見かけたとき――俺は強くあの穴を意識してしまう。あの穴に憧れてしまう。あの穴の向こうへ行きたいと思う。
 その日、俺はへべれけに酔っていた。その日はかなりまずいミスを連発してしまい、色んな人に怒鳴られまくられ、ずいぶんと自棄になっていた。家に帰ってきた俺は、朦朧とした意識とぼやけた視界の中で、張り紙を剥がしてあの穴を見た。言葉では説明しにくい猛烈な衝動に駆られて、俺は穴に手を突っ込んだ。案の定腕の付け根までしか入らなかった。
 俺はなぜか泣いていた。泣いて喚いていた。
「嫌だ! もうこんなところ嫌だ! もうそっちに行かせてくれ!」
 穴は何も答えない。
「入れてくれよ! 頼むよ! 俺を受け入れてくれよ!」
 穴はびくともしなかった。
 俺はその後も何やら喚き続けていたけれど、何を言っていたのかは憶えていない。そんな駄々っ子のような行動をしているうちに、いつの間にか電源が切れたように眠っていて、翌朝は自分の寝ゲロの匂いに誘われて目覚めた。
 ふと顔を上げてみれば、穴から除く深淵が俺を見下ろしていた。

 今でもあの穴は開いている。
 だが、俺はもうあの穴を覗くこともしていない。
 でもたまに、あの穴の向こうへ、やはり無性に行きたくなるのである。
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