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第1部
12.
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トレシュは戸を開けるなり、窓辺にいる私に目を丸くした。
トン、トン、と床を鳴らす杖の音が、いつもより速い間隔で近付いてきた。
「今度は窓から出るつもり?」
ハの字の眉尻をさらに下げたトレシュに、首を横に振る。
「鳥が鳴いてたんです。」
トレシュは訝しげな顔をして、外に首を伸ばす。
鳥の声はセスだったので、もちろん今は聞こえない。
「もう飛んでいってしまいました。」
そうか、とトレシュはまだ外を眺めている。
「鳥は君に、何を伝えたかったんだろう?」
鳥が?トレシュは変なことを考える。私は頭を捻った。
「ただ歌いたかっただけですよ、たぶん。」
そうか、とトレシュは再び言った。
「ブランドン!」
戸の外に待機していたのだろう。トレシュの呼びかけに、すぐに部屋に入ってきた。
「シノアをベッドに運んでくれ。」
ぎょっとした。
「承知いたしました。」
承知するな。
「ご主人様、自分で歩けます。」
「そんなに歩きたいのなら、早く回復するようにマッサージもさせようか?」
ブランドンに?絶対嫌だ。
勢いよく首を横に振った。
「よろしい。」
にこりと笑うトレシュを恨めしく思いながら、おとなしくブランドンに抱えられ、ベッドに連行された。
トレシュはベッドの横に置かれた椅子に腰を掛け、ブランドンに部屋から出るように指示を出す。
「鳥とお喋りするくらいの体力が戻ったようだから、そろそろ私と話をしようか。」
鳥と喋っていたわけではないのだが。
ただ、トレシュとまともに話をしていなかったのも事実だ。
毎日体調は見に来るが、忙しそうにしてすぐに出ていってしまっていたから。
何が起こり、どんな経緯で私がこの瀟洒な部屋にいるのか、私はふんわりとしか分かっていない。
まずは助けに来てくれた礼を言うべきか。そう思ったが、トレシュが先に頭を下げた。
「まず、危険な目に合わせてしまって、すまなかった。私の配慮が足りなかったんだ。申し訳ない。」
なぜそんな事を言うのだろう。見捨てることもできたところでそうはせず、助けてくれたというのに。
「私の方こそご迷惑を…。助けに来て頂き、ありがとうございました。」
トレシュはグリーンアッシュの瞳で、じっと私を見つめた。
私が首を傾げると、ごつごつとした手が伸びてきて、頭を優しく2度ほど撫で、元の位置へと帰っていった。
トレシュの手が嫌いではなかった。むしろ、その手が私に伸びてくるごとに、陽を浴びた新芽にでもなったような気分だった。
「あの、ミリーナはどうなりましたか?」
「あの場にいた、君を拐った一団は皆死んだよ。」
ミリーナは私を拐った後、私のベッドにネックレスを残したようだ。私がトレシュから貰い、そしてミリーナにあげたあのネックレスだ。
逆に私がしまっていた物は全部無くなっていたけれど。
とにかく、それが発見された後、あの滝の上を指定され、私は対岸に繋がれた小舟に乗せられていたらしい。
私を救出したいのなら1人で出てこい、さもなくば小舟を繋いだロープを切る、という条件だった。
トレシュは傭兵たちを雇い、指定された場に向かう班と、密かに回り道をして対岸にいる連中を挟み撃ちにする班を作り、実行した。
しかし、トレシュが帝都から連れてきていた私兵団の中に、密偵がいたというのだ。
そういうことで対岸への奇襲は失敗し、小舟を繋いでいたロープは切られ、私は滝壺へ、トレシュたちは正面衝突、ということだった。
トレシュが金をばら撒いて傭兵たちを雇ったおかげで、多勢に無勢、その場は難なく制圧したらしいが、私が滝に落ちたことでトレシュは肝を冷やしたと頭を抱えた。
ひと通り経緯を話し終えると、トレシュは「ところで。」と前置きをし、じっと見つめてきた。
「あの時のことは覚えているかい?」
あの時というのは、助けてもらった時のことだろうか。
宙に浮いた朧気な記憶をぼんやりと眺めた。
「夢のような感覚ですが、なんとなくは。」
夢のよう、とトレシュは繰り返した。
「そうか。それならそれで良かったかもしれないね。」
「どういうことですか?」
「いや、覚えていないならいいんだ。」
腑に落ちず、頭を捻ってあの日のことを絞り出した。
水の中からセスが引き上げてくれた。
セスがいなくなり、周囲の音に耳を傾けていると、ミリーナらしき死体を見た。
そして、トレシュが駆けつけてくれた。私を支えてくれて、それで…。
はっとした。
私はトレシュを斬ろうとしていた私兵を、恐らく私兵団に潜り込んでいた密偵の男の胸を、貫いたのだ。
ドクドクと鼓動が速まり、額に汗が滲んだ。
それについて追求してこないということは、このまま流してしまった方が良いのだろうか。
しかしトレシュの言う、あの時のこと、というのがそれだったらどうしよう。言い訳しようとすればするほど、ドツボにはまってしまう気がする。
冷たい指の背で額を冷やし、平静を装いながら話題を変えた。
「そういえば、私はいつ自室に戻れるのでしょうか?」
トレシュの隣室など落ち着かない。
「ここにいていいよ。」
「いえ、少しずつ回復もしていますので、そろそろ自室に戻りたいのですが。」
「だから、ここが君の部屋なんだ。」
首を傾げた。トレシュは何を言っているのか。私の部屋はもっと狭く、ミリーナとの相部屋だったあの部屋だ。
ここはトレシュの隣室で、もし奥方がいればその方が使う部屋だろう。
「ええと?」
トレシュは、ふふ、と声を出して笑った。
「配慮が足りなかったと言ったろう?君をもっとしっかり恋人として扱おうと思ってね。既に使用人も補充したから、君は私と一緒にいてくれるだけで良い。」
なぜそうなる。
そんなことになっては、後々逃げにくくなってしまう。そう思う反面、なぜだか頬がじんわりと熱くなった。
「いえ、あの、身に余ります。」
「こうすれば君に護衛を付けても不自然ではないし、私ももっと君に目を掛けてあげられる。」
護衛なんてとんでもない。そんなものが付いたら自由に動けないではないか。
「申し訳ないね。私が狙われるというのは初めてじゃなくてね、改革にはどうしても政敵が付き物なんだよ。たぶん、今回の件も…。」
「政敵…。」
「だからね、悪いけど断らないでくれ。今回の件は私が迂闊だった。私を狙っている者からすれば、君は恰好の餌になる。そんな事にも気がつかなかった。君に一方的に“私の大切な人”という負荷を背負わせてしまったんだよ。」
それは負荷になるのだろうか。敵が増えるのはその通りかもしれないが、同じくらい羨む者もいるはずだ。
「君を守る為には、もう離すことも不用心でいることもできないんだ。分かってくれるね?」
こんなことになっておきながら護衛は必要ないと言うのは変な話だし、自分の身は自分で守れるなんて言ってしまえばもっとおかしな事になる。
反論する余地がなく、もじもじと絡む自分の指を見つめた。
まだ少し動きがぎこちない。
「はい。」
そう答えるしかなかった。
良かったと返事を聞くなり、自然とため息が溢れた。
任は解かれたし、セスもしばらく来ないだろうから、静かに過ごせば大丈夫だろうか。
「あの、ご主人様、私はまだ部屋から出てはいけませんか?」
「トレシュ。」
「はい?」
「これからは名前で呼んで。君はもう使用人ではないから。」
名前で。
期待の目で見つめられると、変に気恥ずかしくなる。
「ト…。」
1音目を口に出し、ちらりと確認すると、「トレシュ。」と彼は再び言った。
じわりと頬が熱くなる。
繰り返さなくても名前は分かっている。
私は視線を外しながら再度尋ねた。
「ト…レシュ…様…、部屋から出ては、いけませんか?」
最後の方は、ごにょごにょと声が小さくなった。
「明日、医師に聞いて、ある程度毒が抜けたようだと診断されたら、私と一緒にいることを条件に、許可しよう。」
「一緒に?ずっとですか?」
「嫌?」
「い、や、じゃないです。」
「ふふ、よろしい。」
トレシュはいつも通り眉尻を下げ、穏やかに微笑んでいるのに、圧を感じるのはなぜだろう。
「しばらくは不自由に感じるかもしれないけれど、君の体調を考えてのことだよ、シノア。辛抱してくれ。」
まただ。はい、としか言えなくなるセリフ。
きゅっと唇を結ぶと、頭にトレシュの手の重さを感じた。かと思えばすぐに軽くなり、トレシュが椅子から立ち上がる。
「じゃあ、今日は十分に休むようにね。」
今日どころか10日間、ずっと休んでいる。
けれど、やはり「はい。」と返し、トレシュの後ろ姿を見送った。
トン、トン、と床を鳴らす杖の音が、いつもより速い間隔で近付いてきた。
「今度は窓から出るつもり?」
ハの字の眉尻をさらに下げたトレシュに、首を横に振る。
「鳥が鳴いてたんです。」
トレシュは訝しげな顔をして、外に首を伸ばす。
鳥の声はセスだったので、もちろん今は聞こえない。
「もう飛んでいってしまいました。」
そうか、とトレシュはまだ外を眺めている。
「鳥は君に、何を伝えたかったんだろう?」
鳥が?トレシュは変なことを考える。私は頭を捻った。
「ただ歌いたかっただけですよ、たぶん。」
そうか、とトレシュは再び言った。
「ブランドン!」
戸の外に待機していたのだろう。トレシュの呼びかけに、すぐに部屋に入ってきた。
「シノアをベッドに運んでくれ。」
ぎょっとした。
「承知いたしました。」
承知するな。
「ご主人様、自分で歩けます。」
「そんなに歩きたいのなら、早く回復するようにマッサージもさせようか?」
ブランドンに?絶対嫌だ。
勢いよく首を横に振った。
「よろしい。」
にこりと笑うトレシュを恨めしく思いながら、おとなしくブランドンに抱えられ、ベッドに連行された。
トレシュはベッドの横に置かれた椅子に腰を掛け、ブランドンに部屋から出るように指示を出す。
「鳥とお喋りするくらいの体力が戻ったようだから、そろそろ私と話をしようか。」
鳥と喋っていたわけではないのだが。
ただ、トレシュとまともに話をしていなかったのも事実だ。
毎日体調は見に来るが、忙しそうにしてすぐに出ていってしまっていたから。
何が起こり、どんな経緯で私がこの瀟洒な部屋にいるのか、私はふんわりとしか分かっていない。
まずは助けに来てくれた礼を言うべきか。そう思ったが、トレシュが先に頭を下げた。
「まず、危険な目に合わせてしまって、すまなかった。私の配慮が足りなかったんだ。申し訳ない。」
なぜそんな事を言うのだろう。見捨てることもできたところでそうはせず、助けてくれたというのに。
「私の方こそご迷惑を…。助けに来て頂き、ありがとうございました。」
トレシュはグリーンアッシュの瞳で、じっと私を見つめた。
私が首を傾げると、ごつごつとした手が伸びてきて、頭を優しく2度ほど撫で、元の位置へと帰っていった。
トレシュの手が嫌いではなかった。むしろ、その手が私に伸びてくるごとに、陽を浴びた新芽にでもなったような気分だった。
「あの、ミリーナはどうなりましたか?」
「あの場にいた、君を拐った一団は皆死んだよ。」
ミリーナは私を拐った後、私のベッドにネックレスを残したようだ。私がトレシュから貰い、そしてミリーナにあげたあのネックレスだ。
逆に私がしまっていた物は全部無くなっていたけれど。
とにかく、それが発見された後、あの滝の上を指定され、私は対岸に繋がれた小舟に乗せられていたらしい。
私を救出したいのなら1人で出てこい、さもなくば小舟を繋いだロープを切る、という条件だった。
トレシュは傭兵たちを雇い、指定された場に向かう班と、密かに回り道をして対岸にいる連中を挟み撃ちにする班を作り、実行した。
しかし、トレシュが帝都から連れてきていた私兵団の中に、密偵がいたというのだ。
そういうことで対岸への奇襲は失敗し、小舟を繋いでいたロープは切られ、私は滝壺へ、トレシュたちは正面衝突、ということだった。
トレシュが金をばら撒いて傭兵たちを雇ったおかげで、多勢に無勢、その場は難なく制圧したらしいが、私が滝に落ちたことでトレシュは肝を冷やしたと頭を抱えた。
ひと通り経緯を話し終えると、トレシュは「ところで。」と前置きをし、じっと見つめてきた。
「あの時のことは覚えているかい?」
あの時というのは、助けてもらった時のことだろうか。
宙に浮いた朧気な記憶をぼんやりと眺めた。
「夢のような感覚ですが、なんとなくは。」
夢のよう、とトレシュは繰り返した。
「そうか。それならそれで良かったかもしれないね。」
「どういうことですか?」
「いや、覚えていないならいいんだ。」
腑に落ちず、頭を捻ってあの日のことを絞り出した。
水の中からセスが引き上げてくれた。
セスがいなくなり、周囲の音に耳を傾けていると、ミリーナらしき死体を見た。
そして、トレシュが駆けつけてくれた。私を支えてくれて、それで…。
はっとした。
私はトレシュを斬ろうとしていた私兵を、恐らく私兵団に潜り込んでいた密偵の男の胸を、貫いたのだ。
ドクドクと鼓動が速まり、額に汗が滲んだ。
それについて追求してこないということは、このまま流してしまった方が良いのだろうか。
しかしトレシュの言う、あの時のこと、というのがそれだったらどうしよう。言い訳しようとすればするほど、ドツボにはまってしまう気がする。
冷たい指の背で額を冷やし、平静を装いながら話題を変えた。
「そういえば、私はいつ自室に戻れるのでしょうか?」
トレシュの隣室など落ち着かない。
「ここにいていいよ。」
「いえ、少しずつ回復もしていますので、そろそろ自室に戻りたいのですが。」
「だから、ここが君の部屋なんだ。」
首を傾げた。トレシュは何を言っているのか。私の部屋はもっと狭く、ミリーナとの相部屋だったあの部屋だ。
ここはトレシュの隣室で、もし奥方がいればその方が使う部屋だろう。
「ええと?」
トレシュは、ふふ、と声を出して笑った。
「配慮が足りなかったと言ったろう?君をもっとしっかり恋人として扱おうと思ってね。既に使用人も補充したから、君は私と一緒にいてくれるだけで良い。」
なぜそうなる。
そんなことになっては、後々逃げにくくなってしまう。そう思う反面、なぜだか頬がじんわりと熱くなった。
「いえ、あの、身に余ります。」
「こうすれば君に護衛を付けても不自然ではないし、私ももっと君に目を掛けてあげられる。」
護衛なんてとんでもない。そんなものが付いたら自由に動けないではないか。
「申し訳ないね。私が狙われるというのは初めてじゃなくてね、改革にはどうしても政敵が付き物なんだよ。たぶん、今回の件も…。」
「政敵…。」
「だからね、悪いけど断らないでくれ。今回の件は私が迂闊だった。私を狙っている者からすれば、君は恰好の餌になる。そんな事にも気がつかなかった。君に一方的に“私の大切な人”という負荷を背負わせてしまったんだよ。」
それは負荷になるのだろうか。敵が増えるのはその通りかもしれないが、同じくらい羨む者もいるはずだ。
「君を守る為には、もう離すことも不用心でいることもできないんだ。分かってくれるね?」
こんなことになっておきながら護衛は必要ないと言うのは変な話だし、自分の身は自分で守れるなんて言ってしまえばもっとおかしな事になる。
反論する余地がなく、もじもじと絡む自分の指を見つめた。
まだ少し動きがぎこちない。
「はい。」
そう答えるしかなかった。
良かったと返事を聞くなり、自然とため息が溢れた。
任は解かれたし、セスもしばらく来ないだろうから、静かに過ごせば大丈夫だろうか。
「あの、ご主人様、私はまだ部屋から出てはいけませんか?」
「トレシュ。」
「はい?」
「これからは名前で呼んで。君はもう使用人ではないから。」
名前で。
期待の目で見つめられると、変に気恥ずかしくなる。
「ト…。」
1音目を口に出し、ちらりと確認すると、「トレシュ。」と彼は再び言った。
じわりと頬が熱くなる。
繰り返さなくても名前は分かっている。
私は視線を外しながら再度尋ねた。
「ト…レシュ…様…、部屋から出ては、いけませんか?」
最後の方は、ごにょごにょと声が小さくなった。
「明日、医師に聞いて、ある程度毒が抜けたようだと診断されたら、私と一緒にいることを条件に、許可しよう。」
「一緒に?ずっとですか?」
「嫌?」
「い、や、じゃないです。」
「ふふ、よろしい。」
トレシュはいつも通り眉尻を下げ、穏やかに微笑んでいるのに、圧を感じるのはなぜだろう。
「しばらくは不自由に感じるかもしれないけれど、君の体調を考えてのことだよ、シノア。辛抱してくれ。」
まただ。はい、としか言えなくなるセリフ。
きゅっと唇を結ぶと、頭にトレシュの手の重さを感じた。かと思えばすぐに軽くなり、トレシュが椅子から立ち上がる。
「じゃあ、今日は十分に休むようにね。」
今日どころか10日間、ずっと休んでいる。
けれど、やはり「はい。」と返し、トレシュの後ろ姿を見送った。
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