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第2話  階下のドイリー  【挿絵あり】

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 帰国後、こっそり涙を流したことなど忘れるほど、慌ただしい毎日が僕らを待っていた。

 強行なスケジュールのもと、父さんの社長就任が行われ、母さんは父さんのサポートや、僕たちの通う学校のことで奔走した。

「あなたは地元の小学校でいいわね。公立だけど名門よ。たくさんの子が遠くから越境入学してくる学校なの」

 僕は地元の公立小学校に通うことになった。
 きゃべつは祖母の口利きで、電車で三つほど乗った所にある私立小学校に通うことになった。ここは付属の大学院まである。
 母さんの出身校でもあるんだ。

「あの子はまだ小さいから……帰国したばかりで、言葉で不自由するといけないから、面倒見のいい私立にしたの。あなたのお祖母さまの目も届くし……」

 母さんは言った。

 僕はほっとした。
 幼いきゃべつには苦労をさせたくない。

 いろいろな用事が一つ一つ片付いていったころ、近くの奥さんたちが僕の家に集まるようになった。

「レース編みを教えてくれないかしら?」

 奥さんたちはそう言った。

 きゃべつの通う小学校で行われたバザーで、母さんの出品したドイリーが評判で、

「教えてほしい」

 と言う人たちが集まってきて、居間が教室のようになった。

 レースを編みに集まる女性たち。
 それは、パリで母さんの通っていたレース編み集会を思い出させた。
 編み物の間のおしゃべり、小さな笑い声、声を潜めて交わされる内緒話。
 
 きゃべつもレース編みに興味を持ち始め、母さんから習い始めた。

 でも……

 きゃべつは器用じゃないみたいだ。

「あら……はじめはこんなものよ」

 母さんが言った。

 だけど……。

 なんだか違うような気がする。

 僕は一人で覚えたんだ。

 きゃべつは母さんに丁寧に教えてもらっているのに……。

「あなたが特別なのよ」

 母さんが笑う。

 でも……。

 きゃべつはなかなか上達しない。
 糸がもつれたり、編み上りが歪んでいたり……。
 それに編み図の記号がなかなか読み取れないみたいだ。

 うまくなって欲しい。
 きゃべつ。
 うまくならなきゃいけない。

 だって。

 だって。

 母さんの娘で僕の妹なのだから……。

 それでも、きゃべつは編み続けた。
 来る日も。
 来る日も。

 僕はその姿を見るのが辛かった。
 
 そのころから僕は、きゃべつが自分の出自を知ることを恐れるようになった。
 きゃべつが傷つくのを見たくない。
 そんな風に考えた。

 どんな事情があるのか知らないけれど、子どもを手放すってことは大変なことなんだ。
 幸いパリで生まれているから、近所の人たちはきゃべつが養子であることは知らない。
 僕が恐れたのは、親戚の集まりで誰かがそれを口にすることだった。

 父さんの社長就任一周年の記念パーティーが、家からそれほど遠くないレストランを借り切って行われた。
 集まるのは身内だけ。
 僕は、誰かがきゃべつに余計なことを言わないように、きゃべつから離れずじっと構えていた。

 親戚たちが父さんと母さん所に来て、お祝いや、激励の言葉を告げていく。

 彼らは僕ときゃべつの所にも来て、

「日本はどう? 学校には慣れた?」

 そんなことを聞いてきて、そのたびに、

「はい。おかげさまで」
 
 と答える。
 そんなことを何度も繰り返していた。

 その中には、亡くなった伯父さんの奥さんもいた。

 そして、僕の顔を見ると、

 少しの沈黙の後、

「……はじめまして……」

 顔をこわばらせて言った。
 
 伯父さんはお祖父さんの会社を受け継いだ。お祖父さんが亡くなったとき、会社は危機的状況だったと聞く。後を継いだ伯父さんが会社を救い、大きくした。
 親族の誰もが伯父さんに感謝し、その死を悼んだ。伯父さんは会社になくてはならない人だったんだ。

 僕の父さんが会社を継いだことで、伯母さんは父さんや僕を警戒しているのだろうか? 伯父さんが生きていれば、なんの問題もなく従弟が会社を継ぐはずだったんだ。心穏やかではいられないのかもしれない。

 僕は、彼女がきゃべつに良くないことを言うことを恐れた。
 
 ……でも……。
 
 伯母さんはきゃべつを見ると、
 
「まぁ! はじめまして!」

 嬉しそうに言った。
 
 僕に対する警戒心を解く気はなさそうだけど……。

 伯母さんだけではない。この場にいる人の誰もが僕を腫物のように扱う。
 伯母さんを気遣ってか、単に僕を認めていないのか。そのどちらかはわからない。
 僕に対する親密さは表面的で、心の底に何かを抱えて接してくるんだ。
 僕の帰国は歓迎されていない。
 それをこのパーティーで思い知らされた。
 
 僕は、もう一つのことを知る。

 ―― みんな知っている。きゃべつの本当の親のことを。

 そして……それを口にする気はないんだってことも。

 会う人会う人が、懐かしむような、何かを確認するような表情できゃべつを見ては、納得して離れていった。

 僕は、きゃべつに母さんの面影が微かにあることに気づく。

 それが誰かはわからない。でも、きゃべつは母さんの縁者なのだろう。
 僕は密かに確信した。
 
 僕の心に苦く重いものを残し、一族の集まりは和やかに終わった。


 僕は毎朝、きゃべつと一緒に家を出る。
 学校は別だけど、駅まで一緒に行くんだ。
 毎朝、僕はきゃべつを駅に送り届けた後、自分の学校へ行く。

 きゃべつの制服は紺のセーラー服だ。
 ぶかぶかで寸胴な上着にスカート。大きすぎる紺の帽子。
 赤いスカーフ。
 きゃべつの体に合わないせいで、こんな不格好なわけではない。
 これがこの学校の推奨のラインなんだ。

 この姿は『ポスト』なんて揶揄されているらしい。
 確かに言い得て妙だ。

 不格好だけど、ちょうどいい気もする。
 ここのところおかしな奴が多いっていうからね。
 このくらい方が、そいつらを刺激しなくていいのかもしれない。
 逆にほっとするよ。

 毎朝。
 毎朝。
 僕はきゃべつの手を引いて駅への道を歩き続けた。




 時間ができると、きゃべつはドイリーを編んだ。
 糸がよじれ、編み上りの歪んだドイリー。
 白い糸はいつの間にか汚れてくすんだ色に変色している。

 それでも、きゃべつは編み続ける。

 何枚も。

 何枚も……。


 そうやって時は過ぎていった。
 
 

 帰国してから数年が経った。

「いよいよ入学式ね。帰国したときは、まだ小学生だったのに……」

 母さんがしみじみと言う。
 今日から僕は高校生だ。

 鏡の中の自分を見る。
 平均より少し高い身長。やせ型。短く刈られた髪。特に目立った特徴のない容貌。それほど悪いわけではなく、むしろいい方かもしれない。

 だけどなぁ。
 なんとなく、ぱっとしないんだ。地味というか……。
 実際、覇気が感じられないと言われたことさえある。
 まったく! 失礼だよね? 覇気ってなんだよ。そんなもん漂わせて歩いてる十五歳が今時いるのかな?

 制服は紺のブレザーに、ストライプのネクタイにグレーのチェックのズボン。ネクタイと上着は夏には免除されるらしい。

「中学時代は詰襟だったから、なんだか別の人みたい」

 母さんがしみじみと言うと、

「そんなこと言って……それにしても、詰襟から解放されたと思ったら、今度はネクタイだよ……」

 僕が笑う。


 ―― ふと――


 目に入った。

 白いもの。

 ―― ドイリー!

 ドイリーはサイドテーブルの上にあった。

 シンプルだけど優しい花形のフォルム。整った編み目。ほっするような鎖編みが作る空間……。
 クロッシェ編み独特のぽってりとした親しみやすさ。
 白い編み目が眩しい。
 
 心に何かが込み上げてくる。
 懐かしいような温かい気持ち。
 なんだろう?

 誰が編んだ?
 母さん?
 
 ……いや。
 母さんならもっと……凝ったデザインで作るはずだ。

「あ……あれ……」

 僕はドイリーを指さす。

「なに? どうしたの? 何をそんなに驚いているの?」

 母さんが僕の顔を見て可笑しそうに笑う。

 ―― とんとんとん……。

 階段を下りる足音がする。
 きゃべつだ。

「ほら! 降りてくるわよ。途中まで一緒に行くんでしょ?」

 とんとん……。

 軽やかな足音。

 きゃべつが階段を下りてくる。

「おにいちゃん」

 いつものきゃべつの声だ。

「えっ?」

 僕は目を見張る。

 そこにはきゃべつが……きゃべつが……


 ベージュのブレザーの制服に、赤いリボンタイ。ベージュと青のチェックのプリーツスカート。
 ふわりとしたウェーブを描く栗色がかったかショートボブ。
 桜色の唇。柔らかそうな頬。
 緩やかな弧を描く眉に、くるりとした瞳。

「えっ?」

 もう一度僕は目を見張る。

「まぁ! 日菜ちゃん! 見違えたわ!」

 母さんが嬉しそうな声をあげる。

「似合わない?」

 呆然と立ちすくむ僕を、くるりとした目が不安そうにのぞき込んだ。

「ううん。すごくかわいいわ! あそこ、中等部から制服が変わるのよね。よかったわぁ」

 母さんがほれぼれときゃべつを見ている。

 僕も見とれた。

 僕の妹。

 ―― 坂下日菜さかしたひなに。



 階段を降りる日菜。
 御幸さんのイラストです。(#^.^#)



 


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