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第一話 魔王様、癒しを求める
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「また敗北か」
冷たい石造りの建造物を、さらに凍らせるような声が広間に反響した。
黒い御影石が不気味な造形美を作り、奥の王座へと続いている。等間隔で灯された松明と天井から吊るされたシャンデリアが、ゆらゆらとある人物を浮かび上がらせていた。
窓の外では曇った空が、ゴロゴロと唸り声を上げている。
「一体、何度目であろうな」
低音を響かせている雷の隙間を縫うように、静かながら不思議と行きわたる声だった。
光を吸い込んでしまったような漆黒の髪と瞳。真っ白い肌。側頭部に沿って曲線を描いた二本の角が生えている。
この城の主。魔王サナト・クマーラの呟きである。
魔王である彼は何度も何度も人間を滅ぼし、世界を手に入れようとしてきた。だがその度に勇者が現れ、倒されては復活する日々をかれこれ数百年と繰り返している。
今回は復活してからまだ数日。
また人間界に侵攻しては、世界を掌握しかけたところで勇者に倒されるのかと思うと、憂鬱だった。
サナトは窓の外へ目を向けた。
重く垂れこめる雲。黒々とした木々に覆われた樹海。魔界の昼は薄暗く、夜は闇に沈む。何百年以上も見慣れた光景は心を落ち着けるが、魔界の景色はどうにも陰鬱だと感じる。
対照的に人間界は光と色にあふれている。そんな人間界に焦がれ、自分のものにしようと攻め込んでは勇者に打倒される。
もちろん、サナトが勇者を倒したことはある。しかし勇者というものは何度倒してもまた新しい勇者が現れて、魔王たる自分を倒すのだ。
まったく。やつらは調理場によく発生するジーという名の黒い虫か。
ジーという甲虫は人間界でも魔界でも確認されていて、どんなに駆除の対策を立てようと根絶できない、非常に生命力の強い虫である。
あのてらてらと悪趣味に黒光りする羽、カサコソと俊敏な動きから何かと嫌われる虫であり、何を隠そうサナトもあれは苦手だった。
勇者を形容するにはお似合いの虫だ。
魔王であるサナトも倒される度にインターバルを置き、復活するのだからお互い様ではあったが。
……もう嫌だ。もううんざりである。
ほとほと疲れ果てた。サナトに必要なのは、そう、癒し。癒しなのだ。
窓の外から視線を剥がし、己の手元へと移す。
そこにはサナトの白く長い指に握られる、小さな鉢があった。
サナトの胸が高鳴る。いつも青ざめたような色合いの白い頬へ、ほんのりと朱色が上っていった。
小さな素焼きの鉢には土が入れられていて、中央に小さな芽がぴょこりと生えている。
三日前に植えたダイコがついに芽を出したのだ。
彼の後ろには、椅子がある。骨が組み合わさったようなデザインで、ところどころに角や翼が椅子を豪奢に飾っている。尻と背中が当たる部分のクッションはふかふかで、肘の当たる部分はつるんとしているので、見た目に反して座り心地がいい。
その椅子には本来の主であるサナトの代わりに、一冊の本が置いてあった。
表紙には『初めてさんでも大丈夫! 美味しい野菜の育て方』とある。魔王城の書庫にある、『魔王必読、破壊魔法のいろは』や『お手軽簡単なケルベロスの手懐け方』などよりもよほどためになる本であり、広く読まれるべき良本だと思う。
人間界で手に入れたこの本の通り。土を作り、乾かないように水をやり、今か今かと待ち望んだところに、この可愛らしい双葉。
サナトは大事に大事に鉢を抱え、感動のあまり体を震わせた。
ああ。これぞ癒しだろう。癒しでなくてなんとする。
カッ……ドゴッ、ピシャアアァン。
青白い光が広間を照らし、遅れて稲妻の音が空気を揺るがす。
魔界の風物詩、雷だ。人間界ではめったに落ちないそうだが、魔界では逆に落ちない日があれば大騒ぎである。
とにもかくにも魔界名物の雷が放った、一瞬の眩しい閃光が収まった後、小さな鉢の中央に出ていた芽が、くにゃりと力を失っていた。
「……は?」
サナトは一度天井を睨み、また下へ戻した。少し前に顔を出したばかりの、あのみずみずしい緑いろはカサカサの茶色になり、ぴんと張っていた双葉と茎はクシャクシャと縮れている。
枯れている。どうにもこうにも枯れている。
片手で鉢を持ったまま、もう片方の手で目を擦った。もう一度見る。変わらない。
両手で鉢を持ち、高い鼻に土がつくほど近づけてみた。同じだ。
……。
数秒とも、数分とも、数時間ともいえる放心の後、サナトはゆっくりと崩れ落ちた。
勢いよくいかなかったのは、鉢を落とさないために働いた、なけなしの理性が成せる技である。
まだ一縷の望みはあるかもしれない。確かに枯れているように見えるが、もしかしたら復活するかもしれないではないか。
そうだ。水。水をやってみよう。
椅子の横に置かれた、ドクロの意匠が彫り込まれているサイドテーブルの上。ちょこんと置いてある小さなブリキのジョウロを手に取った。今朝汲んで余っていた水を注いでみる。
サイドテーブルの上にジョウロと鉢を並べて置き、サナトは椅子に座らずにじっと二つを凝視した。
数時間後。枯れた芽に変化はなく、鉢の下に敷いた受け皿に水がたまっただけだった。恐る恐る茶色い芽の根元の土を掘り起こす。
か細くて生白い根があるはずの土の中には、掘っても掘っても何も出てこなかった。どうやら腐って土と同化してしまったらしい。
今度こそ勢いよく床に手をつき、サナトは心の中で叫んだ。
か、枯れたぁぁぁあ。
何故だ? 何故なんだぁぁぁあぁ。
番人に人払いを命じ、どんな変化も見逃すまいと微動だにせず貼りついていたが徒労に終わった。もう認めざるを得ない。癒しの芽は枯れてしまったのだ。
それでも未練がましく鉢を抱えたサナトは、よろよろと魔王の間をあとにした。
どうして枯れてしまったのだろうか。理由を考えてみてもさっぱり思いつかなかった。
まばたきを忘れるほど、ずっと鉢を見ていたために乾いてしまった目が痛む。なぜ枯れたのか思案しているため、眉間に深いしわが寄っていた。
魔王城を警護する番人たちが、サナトを見てヒッと息を飲む。こやつらに聞いてみようかと目を向ければ、もの凄い勢いで逸らされた。
そもそも、腕っぷし以外に取り柄のない連中だ。聞いても分からないに違いない。
かくなる上はと、腹心のスケルトンに相談してみることにした。
「魔王様、それは魔界の瘴気のせいかと思われます」
執務室で書類整理していた手をとめ、腹心がいつも通りの沈着冷静さで枯れた理由を述べた。
この腹心の名はオセ。古くからサナトに仕えている、スケルトンという骨だけの魔物だ。
真っ白な人間型の骸骨で、折り目正しく執事服を着込んでいる。
この誰よりも古株で優秀なスケルトンに、サナトは全幅の信頼を寄せている。あっさりと何故枯れてしまったのかの答えをくれたことで、オセへの信頼はまた一段とゆるぎないものになった。
「そうか。なるほど。瘴気のせいか。して、どうすればうまく育てられる?」
博識なオセならば知っているに違いない。鉢を抱えたまま、解決策を尋ねる。
こうして鉢を持っていても芽は復活しないのだが、我が子同然の可愛いダイコの芽の亡骸だ。どうして捨てられようか。
もっとも、サナトは子供など持ったことがないのだが。そこはそれ、である。
「魔界では育ちませんでしょう。人間界で育てるしかないかと」
オセが、うやうやしくサナトの手から鉢を受け取ると、丁寧に執務机の上に置いた。それからサナトの鼻先と手にこびりついた土をさっと拭い、目薬を差しだしてきた。
受け取り、充血していた目に薬を点眼する。
魔界はどこもかしこも瘴気で満ちている。瘴気のせいで枯れてしまうなら、オセの言う通り魔界で育てるのは無理だろう。
しかし人間界でしか育たないとは。困った。
「ぬううぅぅ、かくなる上は」
「かくなる上は?」
「野菜を育てるため、是が非でも人間界の領土を手に入れてやろうぞ」
サナトは長い指を握り込んで作った拳を力強く掲げた。
いざ、初めての畑生活のため、人間界に進出だ。
冷たい石造りの建造物を、さらに凍らせるような声が広間に反響した。
黒い御影石が不気味な造形美を作り、奥の王座へと続いている。等間隔で灯された松明と天井から吊るされたシャンデリアが、ゆらゆらとある人物を浮かび上がらせていた。
窓の外では曇った空が、ゴロゴロと唸り声を上げている。
「一体、何度目であろうな」
低音を響かせている雷の隙間を縫うように、静かながら不思議と行きわたる声だった。
光を吸い込んでしまったような漆黒の髪と瞳。真っ白い肌。側頭部に沿って曲線を描いた二本の角が生えている。
この城の主。魔王サナト・クマーラの呟きである。
魔王である彼は何度も何度も人間を滅ぼし、世界を手に入れようとしてきた。だがその度に勇者が現れ、倒されては復活する日々をかれこれ数百年と繰り返している。
今回は復活してからまだ数日。
また人間界に侵攻しては、世界を掌握しかけたところで勇者に倒されるのかと思うと、憂鬱だった。
サナトは窓の外へ目を向けた。
重く垂れこめる雲。黒々とした木々に覆われた樹海。魔界の昼は薄暗く、夜は闇に沈む。何百年以上も見慣れた光景は心を落ち着けるが、魔界の景色はどうにも陰鬱だと感じる。
対照的に人間界は光と色にあふれている。そんな人間界に焦がれ、自分のものにしようと攻め込んでは勇者に打倒される。
もちろん、サナトが勇者を倒したことはある。しかし勇者というものは何度倒してもまた新しい勇者が現れて、魔王たる自分を倒すのだ。
まったく。やつらは調理場によく発生するジーという名の黒い虫か。
ジーという甲虫は人間界でも魔界でも確認されていて、どんなに駆除の対策を立てようと根絶できない、非常に生命力の強い虫である。
あのてらてらと悪趣味に黒光りする羽、カサコソと俊敏な動きから何かと嫌われる虫であり、何を隠そうサナトもあれは苦手だった。
勇者を形容するにはお似合いの虫だ。
魔王であるサナトも倒される度にインターバルを置き、復活するのだからお互い様ではあったが。
……もう嫌だ。もううんざりである。
ほとほと疲れ果てた。サナトに必要なのは、そう、癒し。癒しなのだ。
窓の外から視線を剥がし、己の手元へと移す。
そこにはサナトの白く長い指に握られる、小さな鉢があった。
サナトの胸が高鳴る。いつも青ざめたような色合いの白い頬へ、ほんのりと朱色が上っていった。
小さな素焼きの鉢には土が入れられていて、中央に小さな芽がぴょこりと生えている。
三日前に植えたダイコがついに芽を出したのだ。
彼の後ろには、椅子がある。骨が組み合わさったようなデザインで、ところどころに角や翼が椅子を豪奢に飾っている。尻と背中が当たる部分のクッションはふかふかで、肘の当たる部分はつるんとしているので、見た目に反して座り心地がいい。
その椅子には本来の主であるサナトの代わりに、一冊の本が置いてあった。
表紙には『初めてさんでも大丈夫! 美味しい野菜の育て方』とある。魔王城の書庫にある、『魔王必読、破壊魔法のいろは』や『お手軽簡単なケルベロスの手懐け方』などよりもよほどためになる本であり、広く読まれるべき良本だと思う。
人間界で手に入れたこの本の通り。土を作り、乾かないように水をやり、今か今かと待ち望んだところに、この可愛らしい双葉。
サナトは大事に大事に鉢を抱え、感動のあまり体を震わせた。
ああ。これぞ癒しだろう。癒しでなくてなんとする。
カッ……ドゴッ、ピシャアアァン。
青白い光が広間を照らし、遅れて稲妻の音が空気を揺るがす。
魔界の風物詩、雷だ。人間界ではめったに落ちないそうだが、魔界では逆に落ちない日があれば大騒ぎである。
とにもかくにも魔界名物の雷が放った、一瞬の眩しい閃光が収まった後、小さな鉢の中央に出ていた芽が、くにゃりと力を失っていた。
「……は?」
サナトは一度天井を睨み、また下へ戻した。少し前に顔を出したばかりの、あのみずみずしい緑いろはカサカサの茶色になり、ぴんと張っていた双葉と茎はクシャクシャと縮れている。
枯れている。どうにもこうにも枯れている。
片手で鉢を持ったまま、もう片方の手で目を擦った。もう一度見る。変わらない。
両手で鉢を持ち、高い鼻に土がつくほど近づけてみた。同じだ。
……。
数秒とも、数分とも、数時間ともいえる放心の後、サナトはゆっくりと崩れ落ちた。
勢いよくいかなかったのは、鉢を落とさないために働いた、なけなしの理性が成せる技である。
まだ一縷の望みはあるかもしれない。確かに枯れているように見えるが、もしかしたら復活するかもしれないではないか。
そうだ。水。水をやってみよう。
椅子の横に置かれた、ドクロの意匠が彫り込まれているサイドテーブルの上。ちょこんと置いてある小さなブリキのジョウロを手に取った。今朝汲んで余っていた水を注いでみる。
サイドテーブルの上にジョウロと鉢を並べて置き、サナトは椅子に座らずにじっと二つを凝視した。
数時間後。枯れた芽に変化はなく、鉢の下に敷いた受け皿に水がたまっただけだった。恐る恐る茶色い芽の根元の土を掘り起こす。
か細くて生白い根があるはずの土の中には、掘っても掘っても何も出てこなかった。どうやら腐って土と同化してしまったらしい。
今度こそ勢いよく床に手をつき、サナトは心の中で叫んだ。
か、枯れたぁぁぁあ。
何故だ? 何故なんだぁぁぁあぁ。
番人に人払いを命じ、どんな変化も見逃すまいと微動だにせず貼りついていたが徒労に終わった。もう認めざるを得ない。癒しの芽は枯れてしまったのだ。
それでも未練がましく鉢を抱えたサナトは、よろよろと魔王の間をあとにした。
どうして枯れてしまったのだろうか。理由を考えてみてもさっぱり思いつかなかった。
まばたきを忘れるほど、ずっと鉢を見ていたために乾いてしまった目が痛む。なぜ枯れたのか思案しているため、眉間に深いしわが寄っていた。
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「そうか。なるほど。瘴気のせいか。して、どうすればうまく育てられる?」
博識なオセならば知っているに違いない。鉢を抱えたまま、解決策を尋ねる。
こうして鉢を持っていても芽は復活しないのだが、我が子同然の可愛いダイコの芽の亡骸だ。どうして捨てられようか。
もっとも、サナトは子供など持ったことがないのだが。そこはそれ、である。
「魔界では育ちませんでしょう。人間界で育てるしかないかと」
オセが、うやうやしくサナトの手から鉢を受け取ると、丁寧に執務机の上に置いた。それからサナトの鼻先と手にこびりついた土をさっと拭い、目薬を差しだしてきた。
受け取り、充血していた目に薬を点眼する。
魔界はどこもかしこも瘴気で満ちている。瘴気のせいで枯れてしまうなら、オセの言う通り魔界で育てるのは無理だろう。
しかし人間界でしか育たないとは。困った。
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