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第十話 魔王様、魔界の日常に疲れる
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マーヤーが誇らしげに豊かな胸を反らした。長い爪を持つ左手を唇の前にやって高笑いを上げる。
右手はサナトの首を掴んでいて、首のない体は倒れることもなく棒立ちだった。
「魔王とは魔族最強の存在であるべし。魔王を殺したものが次の魔王よ! そうでしょう? オセ」
薄紅色の瞳を喜悦に潤ませ、マーヤーが己の長い爪を舌でぺろりと舐めた。
「左様でございます。現魔王を倒したものが勇者でない場合、そのものが次代の魔王。しかしがならマーヤー様」
魔王の間の隅に控えたオセが答える。しわ一つない執事服に包んだ背骨をぴしりと伸ばし、窪んだ眼窩の奥に広がる虚ろな闇をサナトに向けていた。
「魔王様はまだ倒されておりませんが」
「なんですって?」
オセの言葉に、マーヤーがサナトの首と体を見た。途端にくっきりとした美麗な眉をしかめる。
サナトの完全に体と離れた首の切り口からも、破片に貫かれている体からも、血が一滴も流れていない。
「……全く。これで終わりか?」
胴体と離れた首をマーヤーに掴まれたまま、サナトは息を吐いた。首のない体の胸が、首の動作に合わせて上下する。
生命力の高い魔族や魔王といえど、首を切られれば死ぬものだ。体には無数の破片が刺さっていて、心臓などの急所も貫いているのだから、普通ならこれだけでもとっくに死んでいる。しかしサナトは問題なく生きているし、こうして喋ることも容易かった。
本当は致命傷など受けていないからだ。
サナトは首のない体を動かし、自分の首を掴むマーヤーのみぞおちに拳を叩きこんだ。
マーヤーがまた粉々に砕け、破片になって飛び散る。飛び散った破片は重力を無視して、サナトの周りの空間に浮いた。
浮遊した破片が、サナトを中心に回り始めた。サナトを切り裂こうと、視界を多い尽くすほどぐるぐると渦巻く。
そんなサナトの真上に、マーヤーが現れる。もし横から見ていたとしても、何もない空間から忽然と現れたようにしか思えない現れ方だった。
サナトはそれを冷めた目で見つめた。
一度やられてから破片になって攻撃しつつ、それを目隠しにして本体が攻撃してくる。これでは先ほどと同じだ。
「今度こそ死ね!」
マーヤーが長く鋭い爪をサナト目掛けて突き出してくる。
「ふん」
じろりとマーヤーと破片を一瞥し、サナトは鼻を鳴らした。平然とマーヤーの爪を受ける。剣ではなく、額で。
視界を彼女の手と爪が埋め、爪が額に突き刺さった。
マーヤーの攻撃は避ける必要がない。これは幻影だ。
マーヤーは魔界随一の幻影使いなのだ。
サナトの首は繋がっていて、体にも破片など刺さっていない。目の前に広がるマーヤーの手も、額に刺さった爪もまた、幻だ。今サナトの額に爪など刺さっていない。
しかし幻影だと侮れない。精神と肉体は繋がっているのだ。
薬でも何でもないものを、薬だと思い込んで飲めば効果が上がる。火傷をしていると思い込ませれば、水ぶくれが出来る。
マーヤーの幻影はそれどころではない。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。五感全てを支配し、幻影を本物と錯覚させる。
幻の爪で貫かれれば、本物の爪で串刺しになっているのと同じ痛みを覚え、死に至るのだ。
現に今のサナトも灼熱の痛みを経験している。
目に見える突き刺さった爪、刺された痛みに少しでも意識を向けてはならない。気を抜けば持っていかれ、幻影が与えているダメージを本当に受ける。
対処方法は完全なる無視。幻影に惑わされず、真の光景と感覚を見失わなければいい。
まあ、それが難しいのだが。
おかげでマーヤーの幻影を破れるのはサナトくらいなものだ。それがマーヤーの相手をサナトがしなければならない理由の一つ。
「マーヤー様!」
マーヤーに側近の男から警告の声が飛んだ。
だが遅い。
腰の魔剣を抜く。抜きざまに黒い刃を一閃。視認できないほどの速さで放った刃は衝撃波を生み、周囲の空間ごとマーヤーを裂いた。
「きゃああああっ」
魔王の間に悲鳴が響き渡った。破片がかき消えてよろめくマーヤーが現れる。
サナトの頭上でも、目の前にでもなく、魔王の間の扉。そのすぐ前からだった。
サナトに蹴りを食らわせたのも、首を裂いたのも、額を爪で串刺しにしたのも全て幻影。
本物のマーヤーは、扉をくぐったところから一歩も動いていなかったのだ。
サナトは畳みかけようと足を踏み出す。数歩で本物のマーヤーに迫る。肉薄し、下段の剣を振り上げた。
「ぬう」
剣はマーヤーに届かず、失速する。周りの空気がサナトの動きを妨げたのだ。空気そのものが硬くなり、剣を振り下ろそうとするサナトに反発した。
空気という空気の抵抗を受けながら、サナトは強引に剣を振り下ろした。しかし本来のスピードを保てず、剣が届く前に横合いから男がマーヤーをかっさらった。
「危ない、危ない~」
マーヤーを横抱きにして、軽そうな笑みを浮かべる優男。マーヤーの側近である。
「ちっ」
マーヤーの相手が面倒なもう一つの理由は、この側近にある。
マーヤーの幻影だけでも厄介だというのに、いつも途中からこの男が共闘してくるのだ。そうなるとオセだけでは捌ききれなくなり、仕方がなくマーヤーの相手をサナトがすることになる。
「余計なことを」
側近の腕の中でマーヤーが舌打ちする。男の顔に手のひらを当てて腕を突っ張った。しかし側近の男は慣れたもので、「助けたのに~」と笑うだけでマーヤーを離さなかった。
また扉の外が騒がしくなった。どどどどっという地響きがする。
「魔王様~っ、ご無事ですかぁっ」
「加勢しますよっ」
「今度こそ足蹴に!」
慌ただしく扉が開き、そこから魔族たちがなだれ込んできた。
「……貴様ら……」
オセの目にあたる空洞がぼうっと紫色に光った。
オセの口蓋がカパァっと開く。
「おお? やんのか」
「俺、オセの相手より魔王様とやりてぇんだけど」
「俺ぁ、戦れるなら誰でもいいぜ」
「あっさりやられるとは何事かぁッ。そのたるんだ根性叩き直してやルゥァッ!」
もしも骨だけでなければ唾でも飛んだことだろう勢いで、オセが怒鳴った。
「上等だぁっ、ジジイ!」
「今日こそ負けねぇ!」
「俺はマーヤー様にぶたれたい」
魔族たちが牙や爪、剣や魔法などそれぞれの武器を構える。
「あらら~、魔王どころじゃなくなっちゃいましたよ。どうします~、マーヤー様」
「ふん。今日のところはこれくらいにしておいてやるわ、サナト。首洗って待っていらっしゃい」
捨て台詞と共に側近に抱えられたままマーヤーが退場した。どうせ数日たてばまた来るのだろう。
サナトは大きく息を吐いた。
そのサナトの目の前では、オセが身長の倍以上の狼男を担ぎ、ぶん投げているところだった。
「ぐおおぉぉぉおっ」
「ぎゃあっ」
「きゅうっ」
投げられた狼男がぶつかって、数名がなぎ倒される。
「隙ありぃっ」
「甘いわあああぁァッ」
投げた後のオセに飛び掛かった別のスケルトンが、後ろ蹴りを食らって倒れた。
喧騒の中、サナトはどっと疲れを感じた。
まったくこやつらは。『初心者でも作れるやさしい野菜の作り方』を読んでから、明日に備えて休もうと思っていたというのに。
うるさいし、落ち着かない。
ああ、はやく畑に行って癒されたい。
サナトは静かに魔剣を一度鞘に戻した。柄に手をかけ、足を開いて腰を落とす。そのサナトの周りに物凄い量の瘴気と魔力が集まっていった。
「あ、やべ」
異変に気付いたオセと魔族たちが動きを止めた。
「先手必勝っ、っておわぁっ?」
「近づけねぇ」
「魔王様、タンマ!」
何人かがサナトに向かってきたが、濃い瘴気と魔力がバリアの役目を果たす。
あまりの濃さに普通は視認できないはずの瘴気と魔力が、どす黒い炎となってサナトを包み込んだ。
「どいつもこいつも」
黒い炎が魔方陣を描く。ランダムの転移魔法陣である。攻撃魔法でまとめて吹っ飛ばしてもいいが、怪我人や死体を量産するのはよろしくない。片付けが面倒だ。
「まとめて吹き飛ぶがよいわ!」
抜刀と同時に魔法を放った。剣が作り出す衝撃波に魔法を乗せて、サナトを中心に四散させる。
「「ギャアアアァァッ」」
ちゃっかり衝撃波と魔法を避けたオセ以外が、悲鳴と共に姿を消した。
これでしばらくは静かになるだろう。
今日も今日とて、騒がしい魔界の日常であった。
右手はサナトの首を掴んでいて、首のない体は倒れることもなく棒立ちだった。
「魔王とは魔族最強の存在であるべし。魔王を殺したものが次の魔王よ! そうでしょう? オセ」
薄紅色の瞳を喜悦に潤ませ、マーヤーが己の長い爪を舌でぺろりと舐めた。
「左様でございます。現魔王を倒したものが勇者でない場合、そのものが次代の魔王。しかしがならマーヤー様」
魔王の間の隅に控えたオセが答える。しわ一つない執事服に包んだ背骨をぴしりと伸ばし、窪んだ眼窩の奥に広がる虚ろな闇をサナトに向けていた。
「魔王様はまだ倒されておりませんが」
「なんですって?」
オセの言葉に、マーヤーがサナトの首と体を見た。途端にくっきりとした美麗な眉をしかめる。
サナトの完全に体と離れた首の切り口からも、破片に貫かれている体からも、血が一滴も流れていない。
「……全く。これで終わりか?」
胴体と離れた首をマーヤーに掴まれたまま、サナトは息を吐いた。首のない体の胸が、首の動作に合わせて上下する。
生命力の高い魔族や魔王といえど、首を切られれば死ぬものだ。体には無数の破片が刺さっていて、心臓などの急所も貫いているのだから、普通ならこれだけでもとっくに死んでいる。しかしサナトは問題なく生きているし、こうして喋ることも容易かった。
本当は致命傷など受けていないからだ。
サナトは首のない体を動かし、自分の首を掴むマーヤーのみぞおちに拳を叩きこんだ。
マーヤーがまた粉々に砕け、破片になって飛び散る。飛び散った破片は重力を無視して、サナトの周りの空間に浮いた。
浮遊した破片が、サナトを中心に回り始めた。サナトを切り裂こうと、視界を多い尽くすほどぐるぐると渦巻く。
そんなサナトの真上に、マーヤーが現れる。もし横から見ていたとしても、何もない空間から忽然と現れたようにしか思えない現れ方だった。
サナトはそれを冷めた目で見つめた。
一度やられてから破片になって攻撃しつつ、それを目隠しにして本体が攻撃してくる。これでは先ほどと同じだ。
「今度こそ死ね!」
マーヤーが長く鋭い爪をサナト目掛けて突き出してくる。
「ふん」
じろりとマーヤーと破片を一瞥し、サナトは鼻を鳴らした。平然とマーヤーの爪を受ける。剣ではなく、額で。
視界を彼女の手と爪が埋め、爪が額に突き刺さった。
マーヤーの攻撃は避ける必要がない。これは幻影だ。
マーヤーは魔界随一の幻影使いなのだ。
サナトの首は繋がっていて、体にも破片など刺さっていない。目の前に広がるマーヤーの手も、額に刺さった爪もまた、幻だ。今サナトの額に爪など刺さっていない。
しかし幻影だと侮れない。精神と肉体は繋がっているのだ。
薬でも何でもないものを、薬だと思い込んで飲めば効果が上がる。火傷をしていると思い込ませれば、水ぶくれが出来る。
マーヤーの幻影はそれどころではない。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。五感全てを支配し、幻影を本物と錯覚させる。
幻の爪で貫かれれば、本物の爪で串刺しになっているのと同じ痛みを覚え、死に至るのだ。
現に今のサナトも灼熱の痛みを経験している。
目に見える突き刺さった爪、刺された痛みに少しでも意識を向けてはならない。気を抜けば持っていかれ、幻影が与えているダメージを本当に受ける。
対処方法は完全なる無視。幻影に惑わされず、真の光景と感覚を見失わなければいい。
まあ、それが難しいのだが。
おかげでマーヤーの幻影を破れるのはサナトくらいなものだ。それがマーヤーの相手をサナトがしなければならない理由の一つ。
「マーヤー様!」
マーヤーに側近の男から警告の声が飛んだ。
だが遅い。
腰の魔剣を抜く。抜きざまに黒い刃を一閃。視認できないほどの速さで放った刃は衝撃波を生み、周囲の空間ごとマーヤーを裂いた。
「きゃああああっ」
魔王の間に悲鳴が響き渡った。破片がかき消えてよろめくマーヤーが現れる。
サナトの頭上でも、目の前にでもなく、魔王の間の扉。そのすぐ前からだった。
サナトに蹴りを食らわせたのも、首を裂いたのも、額を爪で串刺しにしたのも全て幻影。
本物のマーヤーは、扉をくぐったところから一歩も動いていなかったのだ。
サナトは畳みかけようと足を踏み出す。数歩で本物のマーヤーに迫る。肉薄し、下段の剣を振り上げた。
「ぬう」
剣はマーヤーに届かず、失速する。周りの空気がサナトの動きを妨げたのだ。空気そのものが硬くなり、剣を振り下ろそうとするサナトに反発した。
空気という空気の抵抗を受けながら、サナトは強引に剣を振り下ろした。しかし本来のスピードを保てず、剣が届く前に横合いから男がマーヤーをかっさらった。
「危ない、危ない~」
マーヤーを横抱きにして、軽そうな笑みを浮かべる優男。マーヤーの側近である。
「ちっ」
マーヤーの相手が面倒なもう一つの理由は、この側近にある。
マーヤーの幻影だけでも厄介だというのに、いつも途中からこの男が共闘してくるのだ。そうなるとオセだけでは捌ききれなくなり、仕方がなくマーヤーの相手をサナトがすることになる。
「余計なことを」
側近の腕の中でマーヤーが舌打ちする。男の顔に手のひらを当てて腕を突っ張った。しかし側近の男は慣れたもので、「助けたのに~」と笑うだけでマーヤーを離さなかった。
また扉の外が騒がしくなった。どどどどっという地響きがする。
「魔王様~っ、ご無事ですかぁっ」
「加勢しますよっ」
「今度こそ足蹴に!」
慌ただしく扉が開き、そこから魔族たちがなだれ込んできた。
「……貴様ら……」
オセの目にあたる空洞がぼうっと紫色に光った。
オセの口蓋がカパァっと開く。
「おお? やんのか」
「俺、オセの相手より魔王様とやりてぇんだけど」
「俺ぁ、戦れるなら誰でもいいぜ」
「あっさりやられるとは何事かぁッ。そのたるんだ根性叩き直してやルゥァッ!」
もしも骨だけでなければ唾でも飛んだことだろう勢いで、オセが怒鳴った。
「上等だぁっ、ジジイ!」
「今日こそ負けねぇ!」
「俺はマーヤー様にぶたれたい」
魔族たちが牙や爪、剣や魔法などそれぞれの武器を構える。
「あらら~、魔王どころじゃなくなっちゃいましたよ。どうします~、マーヤー様」
「ふん。今日のところはこれくらいにしておいてやるわ、サナト。首洗って待っていらっしゃい」
捨て台詞と共に側近に抱えられたままマーヤーが退場した。どうせ数日たてばまた来るのだろう。
サナトは大きく息を吐いた。
そのサナトの目の前では、オセが身長の倍以上の狼男を担ぎ、ぶん投げているところだった。
「ぐおおぉぉぉおっ」
「ぎゃあっ」
「きゅうっ」
投げられた狼男がぶつかって、数名がなぎ倒される。
「隙ありぃっ」
「甘いわあああぁァッ」
投げた後のオセに飛び掛かった別のスケルトンが、後ろ蹴りを食らって倒れた。
喧騒の中、サナトはどっと疲れを感じた。
まったくこやつらは。『初心者でも作れるやさしい野菜の作り方』を読んでから、明日に備えて休もうと思っていたというのに。
うるさいし、落ち着かない。
ああ、はやく畑に行って癒されたい。
サナトは静かに魔剣を一度鞘に戻した。柄に手をかけ、足を開いて腰を落とす。そのサナトの周りに物凄い量の瘴気と魔力が集まっていった。
「あ、やべ」
異変に気付いたオセと魔族たちが動きを止めた。
「先手必勝っ、っておわぁっ?」
「近づけねぇ」
「魔王様、タンマ!」
何人かがサナトに向かってきたが、濃い瘴気と魔力がバリアの役目を果たす。
あまりの濃さに普通は視認できないはずの瘴気と魔力が、どす黒い炎となってサナトを包み込んだ。
「どいつもこいつも」
黒い炎が魔方陣を描く。ランダムの転移魔法陣である。攻撃魔法でまとめて吹っ飛ばしてもいいが、怪我人や死体を量産するのはよろしくない。片付けが面倒だ。
「まとめて吹き飛ぶがよいわ!」
抜刀と同時に魔法を放った。剣が作り出す衝撃波に魔法を乗せて、サナトを中心に四散させる。
「「ギャアアアァァッ」」
ちゃっかり衝撃波と魔法を避けたオセ以外が、悲鳴と共に姿を消した。
これでしばらくは静かになるだろう。
今日も今日とて、騒がしい魔界の日常であった。
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