STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

文字の大きさ
4 / 39
序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

04 中国にて

しおりを挟む
 はっくしょん。
 派手なくしゃみの音が響いた。
 その音の主は、羽柴藤吉郎秀吉、その人である。

「……誰ぞ、しとるか」

 秀吉は、備中高松城を望む、自陣から出て、その城を囲む水の溜まりへと向かった。
 そう、備中高松城は今、秀吉による水攻めにより、陥落寸前であった。



 天正四年、秀吉は主・織田信長より、中国攻めを命じられた。
 以来、足かけ四年、途中で摂津の荒木村重の叛乱などに遭いながらも、着実に西へ西へと兵を進め、ついにこの備中高松までやって来た。
 中国攻めの主たる、そして最終的な敵手である、毛利家。
 備中高松は、毛利家の側についた名将、清水宗治のこもる城である。
 城は難攻不落ではあったが、秀吉が、城の周りに川から水を引き込み、その水で囲むという驚天動地の手段に出たため、宗治は進退窮まった。
 単に籠城するならともかく、こうして物理的に周りが水という状況では、援兵だの糧秣りょうまつだのは期待できない。
 ただいたずらに、消耗するのみ。
 一方の秀吉は、中国攻略の新たな拠点、姫路城より兵糧を続々と運ばせて、城の攻囲に万全のかまえを見せた。
 こうして備中高松城は、落城寸前となった。

「となれば、仕上げは、この秀吉ではなく、信長さまか……」

 秀吉は周到であった。
 このまま、水攻めという、な攻城をおこなって、人々の耳目を集めて、そのまま勝ってしまうのは、うまくない。
 古来、功臣というものに、主、あるいは王たる者は厳しい。
 ましてや、相手は織田信長。
 ここは、締めをお願いして、花を持たせ、なおかつ、「ここまでやったんだ」と主張しておきたい。
 さらには、毛利家の当主・毛利輝元が、「毛利の両川」の吉川元春と小早川隆景、つまり、故・毛利元就の次男と三男とくつわを揃えて攻めかかって来たことも大きい。
 その数、号して五万。

「こりゃ、ますます仕上げをお願いするしか、なかろうかい」

 この時、秀吉の軍は三万だったが、秀吉に負けるつもりはなかった。
 何しろ、肝心の備中高松城は水攻めにより、かなりの消耗を強いられ、落城も間近だ。
 そのあたりを交渉材料にすれば、いかに五万の大軍とはいえ、身動きは取れまい。

「しかし毛利家あちらは当主・輝元を出してきた。こりゃあ、織田も、相応のお方を出さねば、のう……」

 秀吉は信長に使いを出した。
 毛利家当主との戦い、あるいは交渉となると、織田家もそれに比肩する人物の出馬が望ましい。
 それに、毛利家の最大兵力とおぼしき、五万の大軍。
 これを、さらなる兵力で撃破すれば、毛利家は死命を制せられる。
 ぜひ、ご出馬を……と。

「秀吉の言や良し」

 信長は、こういう、己の器量を試すような真似が、嫌いではない。
 そして、秀吉の「裏の意図」も読みつつ、その言葉を首肯した。

「あいもかわらず面白い奴……が、さて、この援兵、いかなるで催したものか」

 信長は少し考え、それから帰蝶と話し合った。
 帰蝶もそれでいいでしょうと同意を示したため、信長はまず、明智光秀に中国行きを命じることにした。
 ついで、織田信忠を京に呼び寄せ、信長が中国に出馬する旨、説明し……。
 そして……。



「……ま、惟任これとうが来るなら来るで良いわさ」

 秀吉は、何と、備中高松城を囲む水堀に、立ち小便しながら、そううそぶいた。
 かたわらにひかえる黒田官兵衛くろだかんべえは、おごそかに沈黙を保っていた。保っていたため、かえって、尿ゆばりの飛び、落下する音が響いた。
 だが、秀吉も官兵衛もどこ吹く風である。
 やがて満足した表情の秀吉が衣服を直すと、そこで官兵衛は初めて口を開いた。

「明智。ではなく、惟任、ですか」

「そうよ」

 は察しがいいのう、と秀吉は相好を崩した。
 明智光秀は惟任という姓を朝廷より賜り、かつ、日向守ひゅうがのかみの官位を賜っている。この時、織田家の他の重臣である、丹羽長秀も惟住これずみの姓を賜っている。
 惟任と惟住も、九州の名族の姓である。
 光秀の官位もまた、日向守であり、九州の土地を冠している。

「かくいう秀吉も筑前守ちくぜんのかみよ。筑前も鎮西ちんぜい(九州のこと)。それはつまり……信長さまの目ぇは、すでに鎮西に向いておられる。凄いお方だ」

 秀吉は歎息した。
 すでに戦端を開いた戦いの、さらなる「次」の戦いを見据えている。
 その信長の「目」が凄いと。

「では、信長さまは、毛利については、滅ぼすか、降伏か、どちらか……と」

 この、片足を引きずってついてくる軍師官兵衛の「目」も鋭い。
 九州を視野に入れている、つまり、このまま中国攻めの勢いに乗って、九州に攻め込む可能性がある以上、中国の毛利家は邪魔以外の何者でもない。
 ゆえに、排除して滅ぼすか、降伏させて従え、来たるべき九州攻めの尖兵とすべきか。
 そう信長は考えていると言いたいのだ。

「先走るな、官兵衛くわんぴょうえ

 秀吉は笑った。
 謀臣である竹中半兵衛をうしなって久しい。
 その代わりに、この油断ならぬ官兵衛が頭をもたげた。
 半兵衛は半兵衛で秋霜烈日たる男だったが、官兵衛は官兵衛で、真夏のぎらつく太陽のような男だった。
 このような悍馬かんばを、いかに乗りこなせるか。
 難しいところであるが、それはそれで面白いと思う秀吉であった。

「……ま、そうなることも踏まえて、兵糧なり、軍馬なり、整えておけい」

「承知」

「あ、そうそう。そうすると、人や牛馬の尿やら糞便やら、たいへんなことになるぞ。その辺も、小一郎(羽柴秀長。秀吉の弟)と、よう話して、の」

「安んじてお任せあれ」

 官兵衛がちょうど通りかかった秀長に、さきほどの秀吉の言葉を伝えると、秀長は黙ってうなずいて、走って行った。
 秀吉の部下である官兵衛よりも、秀長の方が上の立場なのに、秀長は頓着なく官兵衛の言葉に従い、走って行く。

「美点ではあるが、空恐ろしくもあるな」

 そんな官兵衛のひとりごとを、知ってか知らずか、秀吉はひょいひょいと先へ進んで行く。
 実は、羽柴の陣のにぎやかさに誘われて、遊女やら何やら来ているので、秀吉は彼女らを陣屋に招いていた。
 そこに飛び込んでいくつもりなのだ。

「……ねねどのの肌が恋しい、と抜かしていたが、これだ」

 官兵衛はあきれ顔だが、一方で、そういうこそが、秀吉の長所だと思う。
 しようもないからこそ、さきほどの発言のような、尿や糞便やらの心配ができる。生半可な将帥であれば、そのような心配はすまい。
 でも、秀吉は、そういうところに気が回る。回るからこそ、大軍を編成し、統率し、運用することができる。

 ……官兵衛がそんなことを考えていると、早速に秀吉が陣屋から飛び出してきた。
 何事か、と官兵衛が杖を捨てて走り寄ると、秀吉はこう洩らした。

「ねねが」

「奥方が、どうされたか」

「今日の便たよりを、送ってきていない」

 何だ、そんなことか。
 官兵衛はそう言わなかった。
 秀吉の正室・ねねは、ただの正室ではない。ただの留守居役ではない。
 いわば近江長浜、否、京畿における秀吉の代理人だ。
 この備中高松における秀吉の副将は、先ほどの弟・秀長だが、京畿における副将といえるのが、ねねだった。
 そしてねねは、定期的に、それこそ毎日といっていい頻度で、秀吉にふみを送っていた。

「それが」

「今日は、無かったのでござるか」

 秀吉は、馬鹿になったかのように、かくかくとうなずいた。

「どうしよう、

「落ち着かれませ」

 その発言は、半ば官兵衛自身に向けられていた。
 いつもの便りが無い。
 便りの無いのは良い便りというが、この場合は、逆だ。
 何か、あったのだ。
 それが、悪い便り。

「たしか……」

 官兵衛は昨日のねねの便りの内容を思い出す。
 信長の正室・帰蝶に招かれて、前田利家の正室・まつと共に京へ、と記されていた。

「京で、何かあったのか」

 官兵衛はうろたえる秀吉の肩をつかんで、立ち上がらせた。

「落ち着かれませ。では、京に何があったのか、探らせましょう」

「……頼む。それと、長谷川の宗仁そうにんどのに連絡つなぎを取ってくれ」

 助平親爺すけべおやじのような表情を変えずに、目だけ鋭くする秀吉に、官兵衛は恐怖を感じた。
 長谷川宗仁。
 信長の側近であり、茶人である。
 秀吉はこれに近づき、信長の情報をたびたび入手していた。
 その伝手を使ってまで、今のねねの便りが無い理由を探れ、と。
 秀吉の鋭い目は、それを語っているのだ。

「……これは、由々しきことやもしれんな」

 すでに遊女たちの中へ向かっていた秀吉の背を眺めつつ、官兵衛は十字を切った。
 何となく、そうした方が良い気がしたからである。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

処理中です...