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破の章 覇者の胸中を知る者は誰(た)ぞ ──中国大返し──
25 秀吉の手番
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「――以上が、おふくろさま、ねねさまの話になります」
播州姫路城。
城主の間。
石田三成がそう言って話し終えると、場にいる一同、言葉も無かった。
ただひとり羽柴秀吉だけが、弟の羽柴秀長が持って来た大蒜をがりがりと齧る音だけが、響いた。
「ン? 大蒜は滋養強壮にいいんじゃ」
誰に問われるでもなく、秀吉はそう言った。
そして大蒜を齧り終えると、立ち上がった。
「よっし。休んだ。聞いた。なら、あとは、行動あるのみ」
「えっ」
秀長は兄が動くということが理解できなかった。
姫路まで撤退するのはいい。
なぜなら、本能寺で織田信長が討たれた以上、敵地・備中にいつまでも留まっているわけにはいかないからだ。
しかし秀長は知らなかった。知らされなかった。
兄・秀吉が、この機にねらっているものを。
「上様」
官兵衛はつい最近から、秀吉をそのような言い方で呼ぶ。
これではまるで、秀吉が、あの織田信長のようではないか。
信長の……。
「あっ」
「小一郎、内密にの。知らせなんだは、悪かった。何しろお前は正直者だで、顔に出る」
「ですがそろそろ、秀長さまにおかれましては、上様の企図を知らしむる時ではないでしょうか」
いっそ大仰に言う官兵衛に、うんうんと秀吉はうなずく。
「小一郎」
「兄者」
「われは、天下を盗るぞ」
「て、てんが」
「応。光秀は、信長さまを斃して、割拠を狙うておるようじゃが、わしはちがう。この機を捉えて、天下を目指す」
「そ、そのような」
これには三成もうめいた。
単なるかたき討ちかと思っていたが、どうやら、様相がちがっている。
だがよく考えてみたら、ねねもそれを想定したような口ぶりだった。
「ふむ。では官兵衛」
「なんでござる」
官兵衛はいざり寄る。
「今の三成の話、どう思うぞ」
「されば」
官兵衛は語る。
それは、ねねが長谷川宗仁の隠れ家で語った内容と、ほぼ同じであった。
織田信忠へ将軍位を、光秀は高齢ゆえの隠居を、そして彼の兵権を取り上げようとの目論見と失敗。
光秀視点で語れば、まず信忠を討って織田の核を砕き、明智の自立を目指すものの、それには後ろ盾が必要で。
「すりゃ、阿波の平島公方じゃろう」
秀吉は、信長の上洛戦に従事している。
当然ながら、信長の擁した足利義昭から逃げた、平島公方のことは知っている。
「そも、平島公方は、光秀が連れて来た足利義昭に追われたんじゃ。それを今、御輿として必要だから出て来いだの、平島公方もいい面の皮だの」
秀吉は笑ったが、官兵衛も秀長も三成も笑わない。
あの光秀が将軍を立ててその管領にでもなったとしたら、それは脅威ではないか。
「ないない。大体、信長さまが足利義昭を追放して、それで政が回らなかったきゃあ? むしろ、足利家のいた時の方が、やれ東軍西軍だの、争いの方が多くて、皆、ほとほとあきれていたのではにゃあか?」
つまり、秀吉に、光秀より先に平島公方を押さえようという意志は無い。
というか、そうする余裕がない。
「じゃが、光秀が西に向かおうとしているんは、平島公方を捉まえるだけでなく、丹後の細川や大和の筒井を押さえるためじゃ。これは、使える」
この時、丹後の細川藤孝は、信長の喪に服すという意味で出家して幽斎を名乗り、城から出ることは無かった。息子・忠興の嫁、玉子(のちの細川ガラシャ)を土牢に閉じ込めて、明智には与しないという意志を示していた。
大和の筒井順慶は日和見しており、明智についたりつかなかったり、態度の鮮明にしていなかった。光秀はこの筒井を牽制するため、洞ヶ峠に布陣することになる(筒井順慶が洞ヶ峠に布陣して、明智と羽柴どちらにつくか日和見していたという伝承があるが、実際は光秀が洞ヶ峠に布陣していた)。
「光秀に守りに入られるとまずい。変に近江とか丹波に籠もられても、困る」
これには官兵衛が異を唱えた。
たしかに光秀は名将だが、そうまで防御が堅いか、と。
「おい、くわんぴょうえよ」
「はい」
「おりゃ、ひとりで光秀を討ちたいんじゃ。横取りされてなるものか」
官兵衛はうめいた。
そうだった。
秀吉は天下を狙っているではないか。
他でもない、軍師の自分が真っ先にそれを叱咤したではないか。
同時に三成もうめいた。
この人は、もう勝つ気でいる。
それを、柴田勝家だの丹羽長秀だのに、邪魔されたくないのだ。
織田信長のかたきを討った手柄をひとり占めして、天下を盗りたいのだ。
横取りまではいかなくても、下手に「援軍」を出されて、でかい面をされたくないのだ。
「ほンで佐吉よゥ」
「はい」
「ねねは京に向かったんじゃな?」
「そのように、おっしゃっておりました」
「……そうかア」
その時の秀吉は、遠くを見るような目つきだった。
どこか、遠くを。
あとで思えば、それは遠く京にいるねねへの思慕のあらわれだったのかもしれない、と三成は後日、述懐した。
「……ンなら、やるしかねぇべ」
秀吉はひとつ伸びをして、立ち上がった。
「小一郎」
「あんちゃ……兄者」
「落ち着けい。やるぞ、小一郎」
腰を浮かしかけた秀長の肩を、両手でぽんぽんと叩く秀吉。
いかにも温和な態度だが、秀長には、底冷えする澄み切った目が見えていた。
「まずは平島。先ほどはああいったが、へたにわが軍のうしろに来られても、鬱陶しいでな、牽制はしておこう。何、阿波まで攻め入るのでは無い、淡路を取っておく」
もし平島公方が長宗我部の援軍を得て進軍するとしたら、淡路がその通過点になる可能性が高い。
そうでなくとも、淡路を押さえておけば、充分な牽制になるし、何より、もしかしたら毛利水軍が支援をしてきても、断つことができる。
「言っておくが、淡路を取るだけじゃ。牽制だけじゃ。阿波に攻め入れと言っているわけじゃ無いぞ? あと、念のため言っておくが、もし平島公方が出て来たとしても、殺すな。生かしておけば、その分、光秀の気が逸れる」
下手に殺して、光秀が何もかもかなぐり捨てて、近江に籠もられても困る。
生かしておいて、光秀が「手に入れたい」という気がかりをさせ、合戦に集中できなくする。
それが、最善。
「ほいで、じゃ」
秀吉は三成の方を向いた。
三成は緊張に体を堅くする。
「そないにかまえるな、佐吉。お前に頼みたいは、姫路城の財貨、兵糧の数えよ」
「……財貨、兵糧の数え、とは」
「そのままよ。この城にあるありったけ、いや、やっぱり大体でええか。時間がかかるなら、大雑把でええ。財貨と兵糧を数えよ」
「は、はい」
三成に否やは無い。
秀吉からの命令に背くなど、彼の人生においては、ありえないことだった。
だが、一体何のためにそれをするのかが、見えてこない。
一方の秀吉は、次いで秀長に声をかけている。
「小一郎ゥ」
「兄者」
「今、わしらについてきている兵は、どれくらいかのう? ……ああいや、今すぐ答えろと言っているワケではない。さっきの佐吉への命とおんなじじゃ。ちこっと数えて来い。大体でええ」
「は、はあ……」
三成と秀長は首をかしげながら出て行った。
残った官兵衛は、ひとりほくそ笑んだ。
「……全部、あげるおつもりか」
「そうよ」
秀吉はどかっと座り込んで、ふたつめの大蒜に手を出した。
「失礼」と言って、官兵衛も手を伸ばす。
ふたり、大蒜を齧りながら、今後について話した。
「すべて、すべての財貨と兵糧を将兵に分け与える。この城には戻らん。明智を倒す、それまでは」
「それで良うございます」
あたりに大蒜の香りが満ちる。
秀吉はその香りすらも栄養にするつもりか、大きく息を吸った。
「……ぷはあ。それを終えるのに、一日はかかろう。休ませるのは、そこまでじゃ」
「御意。たった一日ですが、金子と米麦が、その心と体を満たして、値千金の一日と化しましょう」
一日だけ休ませてどうするか。
それは言うまでもない。
「……返すぞ、摂津まで」
「……御意」
備中高松から播州姫路まで。
およそ二日で駆け抜けてきたが、これではまだ半分。
そう、光秀のいる京まで、約半分だ。
今、将兵も、おそらく光秀の間者も。
姫路城までだろう、と思っている。
だがそこを押し切る。駆ける。
光秀はまだ、地固めを終えていない。
戴く御輿、平島公方にも会えていない。
丹後に細川や、大和の筒井らを味方にし切っていない。
今なら。
今なら、まだ浮足立っている。
そこを、衝くのだ。
「……結局のところ、ねねが言いたかったのは、それよ」
柴田勝家も丹羽長秀も徳川家康も、まだ動けていない。
特に丹羽長秀は摂津大坂にいる信長の三男・神戸信孝の四国征伐軍の副将的立ち位置であるが、その信孝の暴走(自軍の津田信澄を、光秀の娘婿であるという理由で討つ)を押さえられず、軍の兵数を大いに減らし、立ち往生していると聞く。
「これは、好機じゃ」
急いで摂津に至り、四国征伐軍を食い、神戸信孝という御輿を得る好機である。
秀吉は、そう言いたいのだ。
「名目上は信孝さまが上でええ。ただ、実は貰う」
秀吉の構想は、織田政権の継続を訴え、信長の遺児を担ぐ。そして柴田勝家ら織田の諸将と一線を画す。
他にも信長の遺児はいるだろう。
秀吉の養子の秀勝もいる。
「信孝さまの方は、減らしたとはいえ、兵がある。これをいただくには、戴くしか、なかろうて」
秀吉のへたなしゃれに、失笑したふりをする官兵衛。
秀吉の策の凄まじさに息を呑みそうだったからだ。
のちに中国大返しと称せられるこの強行軍、では秀吉の兵がそのまま戦えるかというと、そうではない。
強行軍により疲弊した兵は、「見せかけ」としては使えるが、戦えはしないだろう。
そこで秀吉は、京畿の「現地」で兵を調達し、それで戦うことを目論んでいた。
その手始めが、四国征伐軍であり、ついでに、というか同時に戴く信長の遺児も手に入れようという、秀吉の策である。
官兵衛が驚歎する間にも、秀吉は呟く。
「丹後の細川忠興、大和の筒井順慶、摂津の中川清秀、高山右近……」
秀吉がこめかみをとんとんとして、思い出すふりをする。
本当は、そんな真似しなくても、とっくのとうに思い出している。
そういう男だ。
だが、だからこそ、「早い」と思われないために、こうして小芝居をしているのである。
それがたとえ、相手が腹心の黒田官兵衛であっても。
そしてその分だけ空いた間で考え、官兵衛は答える。
「みな、調略いたしましょう。わが方に兵を得られなくとも、わが方にも明智にも動かないとしてくれれば、御の字」
「そうじゃの」
……中国大返しの「中休み」にあたる、この姫路城での滞留の一日。
その一日で秀吉はねねから情報を得て、おのが行動を定め、矢継ぎ早に手を打った。
そして何より最大の手は。
*
「羽柴秀吉めが、姫路に戻ったア? 早すぎやないけ?」
明智光秀はその時、安土城から京に帰還していた。
さすがに驚いたが、次の瞬間には元通りの表情に戻っていた。
「……ま、居城に逃げ帰るンは、早いやろ。金ケ崎の退き陣の時も、奴は早かったさかい」
金ケ崎の退き陣とは、信長が朝倉義景を攻めている時に、浅井長政の裏切りに会い、挟み撃ちの危地に陥ったところを、逃げに逃げた戦いである。
この時の最後衛、つまり殿を果たしたのが、羽柴秀吉、明智光秀たちである。
「で、今頃はへばっておる頃やろ。早いンは、ここまでや。あとは、姫路で自立やろ」
その後、秀吉が姫路城で休息しているとの次報が入り、「それ見い」と光秀は得意がり、それからの秀吉の動きについて、姫路で割拠すると決めつけた。
……決めつけてしまった。
播州姫路城。
城主の間。
石田三成がそう言って話し終えると、場にいる一同、言葉も無かった。
ただひとり羽柴秀吉だけが、弟の羽柴秀長が持って来た大蒜をがりがりと齧る音だけが、響いた。
「ン? 大蒜は滋養強壮にいいんじゃ」
誰に問われるでもなく、秀吉はそう言った。
そして大蒜を齧り終えると、立ち上がった。
「よっし。休んだ。聞いた。なら、あとは、行動あるのみ」
「えっ」
秀長は兄が動くということが理解できなかった。
姫路まで撤退するのはいい。
なぜなら、本能寺で織田信長が討たれた以上、敵地・備中にいつまでも留まっているわけにはいかないからだ。
しかし秀長は知らなかった。知らされなかった。
兄・秀吉が、この機にねらっているものを。
「上様」
官兵衛はつい最近から、秀吉をそのような言い方で呼ぶ。
これではまるで、秀吉が、あの織田信長のようではないか。
信長の……。
「あっ」
「小一郎、内密にの。知らせなんだは、悪かった。何しろお前は正直者だで、顔に出る」
「ですがそろそろ、秀長さまにおかれましては、上様の企図を知らしむる時ではないでしょうか」
いっそ大仰に言う官兵衛に、うんうんと秀吉はうなずく。
「小一郎」
「兄者」
「われは、天下を盗るぞ」
「て、てんが」
「応。光秀は、信長さまを斃して、割拠を狙うておるようじゃが、わしはちがう。この機を捉えて、天下を目指す」
「そ、そのような」
これには三成もうめいた。
単なるかたき討ちかと思っていたが、どうやら、様相がちがっている。
だがよく考えてみたら、ねねもそれを想定したような口ぶりだった。
「ふむ。では官兵衛」
「なんでござる」
官兵衛はいざり寄る。
「今の三成の話、どう思うぞ」
「されば」
官兵衛は語る。
それは、ねねが長谷川宗仁の隠れ家で語った内容と、ほぼ同じであった。
織田信忠へ将軍位を、光秀は高齢ゆえの隠居を、そして彼の兵権を取り上げようとの目論見と失敗。
光秀視点で語れば、まず信忠を討って織田の核を砕き、明智の自立を目指すものの、それには後ろ盾が必要で。
「すりゃ、阿波の平島公方じゃろう」
秀吉は、信長の上洛戦に従事している。
当然ながら、信長の擁した足利義昭から逃げた、平島公方のことは知っている。
「そも、平島公方は、光秀が連れて来た足利義昭に追われたんじゃ。それを今、御輿として必要だから出て来いだの、平島公方もいい面の皮だの」
秀吉は笑ったが、官兵衛も秀長も三成も笑わない。
あの光秀が将軍を立ててその管領にでもなったとしたら、それは脅威ではないか。
「ないない。大体、信長さまが足利義昭を追放して、それで政が回らなかったきゃあ? むしろ、足利家のいた時の方が、やれ東軍西軍だの、争いの方が多くて、皆、ほとほとあきれていたのではにゃあか?」
つまり、秀吉に、光秀より先に平島公方を押さえようという意志は無い。
というか、そうする余裕がない。
「じゃが、光秀が西に向かおうとしているんは、平島公方を捉まえるだけでなく、丹後の細川や大和の筒井を押さえるためじゃ。これは、使える」
この時、丹後の細川藤孝は、信長の喪に服すという意味で出家して幽斎を名乗り、城から出ることは無かった。息子・忠興の嫁、玉子(のちの細川ガラシャ)を土牢に閉じ込めて、明智には与しないという意志を示していた。
大和の筒井順慶は日和見しており、明智についたりつかなかったり、態度の鮮明にしていなかった。光秀はこの筒井を牽制するため、洞ヶ峠に布陣することになる(筒井順慶が洞ヶ峠に布陣して、明智と羽柴どちらにつくか日和見していたという伝承があるが、実際は光秀が洞ヶ峠に布陣していた)。
「光秀に守りに入られるとまずい。変に近江とか丹波に籠もられても、困る」
これには官兵衛が異を唱えた。
たしかに光秀は名将だが、そうまで防御が堅いか、と。
「おい、くわんぴょうえよ」
「はい」
「おりゃ、ひとりで光秀を討ちたいんじゃ。横取りされてなるものか」
官兵衛はうめいた。
そうだった。
秀吉は天下を狙っているではないか。
他でもない、軍師の自分が真っ先にそれを叱咤したではないか。
同時に三成もうめいた。
この人は、もう勝つ気でいる。
それを、柴田勝家だの丹羽長秀だのに、邪魔されたくないのだ。
織田信長のかたきを討った手柄をひとり占めして、天下を盗りたいのだ。
横取りまではいかなくても、下手に「援軍」を出されて、でかい面をされたくないのだ。
「ほンで佐吉よゥ」
「はい」
「ねねは京に向かったんじゃな?」
「そのように、おっしゃっておりました」
「……そうかア」
その時の秀吉は、遠くを見るような目つきだった。
どこか、遠くを。
あとで思えば、それは遠く京にいるねねへの思慕のあらわれだったのかもしれない、と三成は後日、述懐した。
「……ンなら、やるしかねぇべ」
秀吉はひとつ伸びをして、立ち上がった。
「小一郎」
「あんちゃ……兄者」
「落ち着けい。やるぞ、小一郎」
腰を浮かしかけた秀長の肩を、両手でぽんぽんと叩く秀吉。
いかにも温和な態度だが、秀長には、底冷えする澄み切った目が見えていた。
「まずは平島。先ほどはああいったが、へたにわが軍のうしろに来られても、鬱陶しいでな、牽制はしておこう。何、阿波まで攻め入るのでは無い、淡路を取っておく」
もし平島公方が長宗我部の援軍を得て進軍するとしたら、淡路がその通過点になる可能性が高い。
そうでなくとも、淡路を押さえておけば、充分な牽制になるし、何より、もしかしたら毛利水軍が支援をしてきても、断つことができる。
「言っておくが、淡路を取るだけじゃ。牽制だけじゃ。阿波に攻め入れと言っているわけじゃ無いぞ? あと、念のため言っておくが、もし平島公方が出て来たとしても、殺すな。生かしておけば、その分、光秀の気が逸れる」
下手に殺して、光秀が何もかもかなぐり捨てて、近江に籠もられても困る。
生かしておいて、光秀が「手に入れたい」という気がかりをさせ、合戦に集中できなくする。
それが、最善。
「ほいで、じゃ」
秀吉は三成の方を向いた。
三成は緊張に体を堅くする。
「そないにかまえるな、佐吉。お前に頼みたいは、姫路城の財貨、兵糧の数えよ」
「……財貨、兵糧の数え、とは」
「そのままよ。この城にあるありったけ、いや、やっぱり大体でええか。時間がかかるなら、大雑把でええ。財貨と兵糧を数えよ」
「は、はい」
三成に否やは無い。
秀吉からの命令に背くなど、彼の人生においては、ありえないことだった。
だが、一体何のためにそれをするのかが、見えてこない。
一方の秀吉は、次いで秀長に声をかけている。
「小一郎ゥ」
「兄者」
「今、わしらについてきている兵は、どれくらいかのう? ……ああいや、今すぐ答えろと言っているワケではない。さっきの佐吉への命とおんなじじゃ。ちこっと数えて来い。大体でええ」
「は、はあ……」
三成と秀長は首をかしげながら出て行った。
残った官兵衛は、ひとりほくそ笑んだ。
「……全部、あげるおつもりか」
「そうよ」
秀吉はどかっと座り込んで、ふたつめの大蒜に手を出した。
「失礼」と言って、官兵衛も手を伸ばす。
ふたり、大蒜を齧りながら、今後について話した。
「すべて、すべての財貨と兵糧を将兵に分け与える。この城には戻らん。明智を倒す、それまでは」
「それで良うございます」
あたりに大蒜の香りが満ちる。
秀吉はその香りすらも栄養にするつもりか、大きく息を吸った。
「……ぷはあ。それを終えるのに、一日はかかろう。休ませるのは、そこまでじゃ」
「御意。たった一日ですが、金子と米麦が、その心と体を満たして、値千金の一日と化しましょう」
一日だけ休ませてどうするか。
それは言うまでもない。
「……返すぞ、摂津まで」
「……御意」
備中高松から播州姫路まで。
およそ二日で駆け抜けてきたが、これではまだ半分。
そう、光秀のいる京まで、約半分だ。
今、将兵も、おそらく光秀の間者も。
姫路城までだろう、と思っている。
だがそこを押し切る。駆ける。
光秀はまだ、地固めを終えていない。
戴く御輿、平島公方にも会えていない。
丹後に細川や、大和の筒井らを味方にし切っていない。
今なら。
今なら、まだ浮足立っている。
そこを、衝くのだ。
「……結局のところ、ねねが言いたかったのは、それよ」
柴田勝家も丹羽長秀も徳川家康も、まだ動けていない。
特に丹羽長秀は摂津大坂にいる信長の三男・神戸信孝の四国征伐軍の副将的立ち位置であるが、その信孝の暴走(自軍の津田信澄を、光秀の娘婿であるという理由で討つ)を押さえられず、軍の兵数を大いに減らし、立ち往生していると聞く。
「これは、好機じゃ」
急いで摂津に至り、四国征伐軍を食い、神戸信孝という御輿を得る好機である。
秀吉は、そう言いたいのだ。
「名目上は信孝さまが上でええ。ただ、実は貰う」
秀吉の構想は、織田政権の継続を訴え、信長の遺児を担ぐ。そして柴田勝家ら織田の諸将と一線を画す。
他にも信長の遺児はいるだろう。
秀吉の養子の秀勝もいる。
「信孝さまの方は、減らしたとはいえ、兵がある。これをいただくには、戴くしか、なかろうて」
秀吉のへたなしゃれに、失笑したふりをする官兵衛。
秀吉の策の凄まじさに息を呑みそうだったからだ。
のちに中国大返しと称せられるこの強行軍、では秀吉の兵がそのまま戦えるかというと、そうではない。
強行軍により疲弊した兵は、「見せかけ」としては使えるが、戦えはしないだろう。
そこで秀吉は、京畿の「現地」で兵を調達し、それで戦うことを目論んでいた。
その手始めが、四国征伐軍であり、ついでに、というか同時に戴く信長の遺児も手に入れようという、秀吉の策である。
官兵衛が驚歎する間にも、秀吉は呟く。
「丹後の細川忠興、大和の筒井順慶、摂津の中川清秀、高山右近……」
秀吉がこめかみをとんとんとして、思い出すふりをする。
本当は、そんな真似しなくても、とっくのとうに思い出している。
そういう男だ。
だが、だからこそ、「早い」と思われないために、こうして小芝居をしているのである。
それがたとえ、相手が腹心の黒田官兵衛であっても。
そしてその分だけ空いた間で考え、官兵衛は答える。
「みな、調略いたしましょう。わが方に兵を得られなくとも、わが方にも明智にも動かないとしてくれれば、御の字」
「そうじゃの」
……中国大返しの「中休み」にあたる、この姫路城での滞留の一日。
その一日で秀吉はねねから情報を得て、おのが行動を定め、矢継ぎ早に手を打った。
そして何より最大の手は。
*
「羽柴秀吉めが、姫路に戻ったア? 早すぎやないけ?」
明智光秀はその時、安土城から京に帰還していた。
さすがに驚いたが、次の瞬間には元通りの表情に戻っていた。
「……ま、居城に逃げ帰るンは、早いやろ。金ケ崎の退き陣の時も、奴は早かったさかい」
金ケ崎の退き陣とは、信長が朝倉義景を攻めている時に、浅井長政の裏切りに会い、挟み撃ちの危地に陥ったところを、逃げに逃げた戦いである。
この時の最後衛、つまり殿を果たしたのが、羽柴秀吉、明智光秀たちである。
「で、今頃はへばっておる頃やろ。早いンは、ここまでや。あとは、姫路で自立やろ」
その後、秀吉が姫路城で休息しているとの次報が入り、「それ見い」と光秀は得意がり、それからの秀吉の動きについて、姫路で割拠すると決めつけた。
……決めつけてしまった。
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MisakiNonagase
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