STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

文字の大きさ
34 / 39
急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

34 決戦

しおりを挟む
「かかれえ!」

 ねねと福島正則、そして藤堂高虎が先陣を切り、池田恒興の隊は今、円明寺川を渡河し、対岸の明智軍・津田信春の陣へと突撃する。
 一方の津田信春は、明智光秀から「中央へ行け。攻めよ」との命を受けて動き出した直後である。

「なっ、なんだと!」

 津田信春は案の定、動揺した。
 しかも麾下の将兵は中央へ向かって動き出そうとしており、つまり硬直している状態である。
 そんな機に。

「渡河するだと! 攻めるだと! こっ、こんな!」

 あえなく津田信春とその将兵は総崩れとなり、それが明智軍全軍へと波及していくのに、そう時間はかからなかった。

 円明寺川渡河による特攻。
 それこそが、ねねによる策である。
 ねね自身が事前に明智軍に潜入し、脱出を期して、藤堂高虎と福島正則に円明寺川の渡河可能地点を調べさせておいたことを奇貨とした、奇襲作戦であった。



 羽柴軍本陣。
 羽柴秀吉は、近侍の石田三成から「池田隊、突進」の報を聞いた。

「でかした!」

 その秀吉の言葉は、ねねに向けてか、池田恒興に対するものか、あるいは三成に与えたものなのかは判じかねた。
 もしかしたら、それらすべてを包含ほうがんしたひとことだったのかもしれない。

「出るぞ」

 秀吉はすでに馬上の人となっていた。
 三成はあわてて千成瓢箪せんなりびょうたんの馬印をささげ持ち、「出る! 御大将おんたいしょう、出る!」と声をらして叫んだ。
 この声に織田信孝、丹羽長秀らも反応し、今や、羽柴軍はまるでひとつの生き物のように、前へ、前へといずり出ていった。



 池田恒興の奇襲、ならびに羽柴秀吉の軍全体の前進により、息を吹き返したのは、まず最前線の中川清秀と高山右近、そして堀秀政である。

「今ぞ!」

 ただひと声。
 中川清秀のただひと声であるが、そのひと声こそが、羽柴軍前線で戦う者たちの心境を象徴していた。

デウスよ!」

 高山右近はおのれの信仰こそがこの逆転を招いたと言いたげに槍を振るう。
 それを見た堀秀政は苦笑しながらも、麾下の将兵に「前へ」と命じた。
 名人久太郎と称される秀政は、今や復讐的に狂奔する中川、高山両隊を巧みに援護し、そのおかげもあってか、斎藤利三と伊勢貞興の隊は、次第に次第に押し返されていく。

機也きなり

 天王山上、それを見ていた羽柴秀長は、全軍に突撃を命じる。
 この突撃に、秀長と交戦中だった明智軍・松田政近は討ち死に、並河易家は死を免れたものの、総崩れとなっていった。

「このまま突っ込め!」

 これは黒田官兵衛の言葉である。その言葉に秀長はうなずく。そして叫んだ。

ぞ!」

 秀長は自ら先頭に立って、天王山を駆け下る。
 そうすることにより、秀長・官兵衛の軍は、戦場中央を左から急襲するかたちとなる。
 つまり、明智軍中央の斎藤利三と伊勢貞興を、羽柴軍中央の中川清秀・高山右近・堀秀政と、羽柴軍のの羽柴秀長と黒田官兵衛がで攻撃するかたちとなった。

「かかれ!」

 斎藤利三と伊勢貞興からすると、自分たちがやるはずであったを、逆にしかけられてしまい、それが痛撃となった。

「くっ」

「おのれ!」

 前と右からの同時攻撃を食らい、みるみるうちに将兵が討ち取られていく。
 これは負ける。
 利三も貞興も歴戦の勇将である。
 その感覚は、誰よりも研ぎ澄まされていた。
 逆に言うと、そういう感覚を持っているからこそ、これまで生き延びることができた。
 だが。

「もはや……これまでか」

 貞興はいつの間にか背中合わせになっていた利三につぶやく。
 利三は無念そうに首を振った。

「だから、京のではなく、の近江にと……いや、今は詮無せんなきこと」

 貞興は同僚をいたわるように微笑むと、「逃げよ」と言った。

「逃げよ、と?」

「そうだ。おれはここで死ぬ。貴君は逃げよ」

「そんな」

 勝手を言うな。
 そう言おうとした利三の乗る馬を、貞興は蹴った。
 利三の馬がいななき、後方へ下がる。

「悪いがこの死に場所は貰った。貴君は他へ行け」

 それだけ言って、貞興は前へ向かって行った。
 それが、斎藤利三の見た、伊勢貞興の最後の姿だった。
 伊勢貞興。
 幕府名門・伊勢家に生まれ、長じて足利義昭に仕えたが、義昭の追放により、明智光秀に仕えることになった。幕府の文官としての才能と、知勇兼備の将器をそなえ、何より、謀臣としての能力を買われ、光秀に大いに気に入られたという。
 その光秀の知遇にこたえ、ここまで光秀の「決起」につき合い、支え、そして散った。
 享年、二十歳。
 まだ過去よりも未来に多くを持つ年齢であった。



 伊勢貞興が討ち死にし、斎藤利三が撤退を余儀なくされたこと。
 それが、明智軍に敗北を決定づけた。
 明智光秀は自軍の誇る双璧が散ったことを知り、特に悔しがるでもなく、「さよか」と小さくつぶやいた。

「わがこと、終わんぬ」

 これまで、必死に戦ってきた。
 誇るべきではないことに手を染めたこともある。
 あるいは、本能寺の変という主殺しゅうごろしこそ、その最たるものかもしれないが。

「わいは懸命に駆けた、懸命に」

 心残りはないと言えば嘘になるが、それでも、全力で戦って、そして敗れたのだという、奇妙な満足感があった。

「ほンなら、逃げや」

 こうなると大将の役割というのは、味方の将兵を逃がすことにある。
 光秀は勝竜寺城に撤退するように命を下し、自身は殿しんがりを務めた。
 ところが御牧兼顕という光秀の直属の部隊の長が「代わりましょうぞ」と言って、光秀が止める間もなく、迫り来る羽柴軍に突進していった。

めが」

 光秀は泣いた。
 身も世もなく泣いた。
 歳を取ると、どうも涙もろくなって困ると言いながら。
 それでも敗兵を取りまとめ、どうにか、勝竜寺城へと撤退していった。
 この時、明智軍の死者は万を数え、さらに、逃亡する者が相次ぎ、ついには七百しか残らなかったという。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

処理中です...