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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──
37 敗者と勝者と
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「……てなわけで、逃げることした。皆の衆も、逃げやあ」
勝竜寺城内。
明智光秀は北門の方からひょこひょことやって来て、斎藤利三ら、麾下の将兵七百にそう告げた。
当然ながら利三は反対する。
一戦すべし。
まだ戦える。
負けるにしても……。
「負けるにしても……何や?」
その一言に、場は水を打ったように静かになる。
それだけの迫力をたたえた一言だった。
「利三」
「はい」
「負けたら七百の将兵はどうなる?」
「……死にますな」
「せやろ」
光秀はいつもの軽口を聞くような、そんな言葉である。
だが、利三は理解した。
光秀は、七百の将兵を逃がし、死ぬよりもまだ生きる可能性のある道を示したのだ。
選んだのだ。
「しかし殿」
「何や」
「逃げるにしても、生き延びられるとは限りませんぞ」
利三は本当に良臣だな、と光秀は感心した。
利三は、生きる可能性はあくまでも可能性であり、死なないという保証はない、と七百の将兵に告げているのだ。
その上で、逃げる奴は逃げろ、と暗に言っているのだ。
「……ほんなら、わい、いの一番に逃げるわ」
光秀はそそくさと城を出るようなしぐさをする。
それを見た将兵はどっと笑った。
この十日間、狂熱に浮かされたような明智軍だったが、ここに来て初めて、「まともな明智軍」に戻ったような気がした。
*
羽柴秀吉とねねは逃げることを提案というか、そそのかしてきたが、野伏せりやその辺が逃がしてくれるとは限らない。
そこまでの保証はしない。
それでも、逃げられる限りは、逃げるとしよう。
そうやって、懸命に。
逃げて逃げて逃げまくることにより……。
「この城の七百の将兵だけでなく、御曹司の光慶さまにも示すためですな」
「……利三」
「逃げる、否、生きる姿勢を」
「お前はホンマに良臣や」
光秀は利三の肩をぽんぽんとたたいた。
そして利三は最後まで城に残るらしい。
「殿、ご苦労やで」
「痛み入ります」
光秀はそれ以上言わない。
利三もそれ以上言わない。
長年の主従ならではの、無言のやり取りがあった。
胸に迫る、積年の戦友同士の、想いがあった。
光秀はもう一度、利三の肩をたたき、そして、行った。
……それから先の、光秀の行方は杳として知れない。
小栗栖という地の藪の中で、野伏せりに討たれたとも、あるいは生き延びて南光坊天海になったとも伝えられるが、定かではない。
一方の斎藤利三は、山崎から落ち延びることには成功するが、近江堅田にて潜伏中に見つかり、捕らえられ、処刑された。しかし利三の最後まで生きようとする姿勢はその娘である福に伝わって――春日局としてのその後の彼女の人生に、大きく影響を与えたが、それはまた別の話である。
*
翌日。
空っぽとなった勝竜寺城に羽柴秀吉は入城した。
正室であるねねを伴って。
「お前のおかげじゃ、ねね」
「たまたまうまくいった。それだけ」
謙遜ではなく、ねねはそう評価していた。
たまたま、本能寺の変の渦中にたたき込まれ。
たまたま、難を逃れての逃避行のうちに、算段をつけて。
それがたまたま、うまくいっただけだ。
特に最後の光秀へのお返しなど、光秀自身が拒否すれば、どうなっていたか。
「……それでもじゃ。それでも、ねね、お前がいたから、勝てた。勝ったわしが言うから、間違い無い!」
この人たらしめが。
そう思うが、ねねは悪い気はしない。
うしろでは、福島正則がくすくすと笑っている。
さらにそのうしろでは、羽柴秀長が藤堂高虎と、やはり笑い合っている。
「……ですがまだこれから。信長さまと帰蝶さま、そして信忠さまの仕返しはしました。光秀はすべてを失った。逃げた。けど……」
「そっから先は、わしに任せい、ねね」
秀吉は傍らにひかえた黒田官兵衛に目配せする。
官兵衛は得たりかしこしとうなずく。
「お方さまのおかげをもちまして、われら、ここまでやって来られた。そして、ここまでやって来た以上、狙うべし」
何を狙うか、についてはまだ明言しない官兵衛である。
それでも、わかる人にはわかるその物言いに、たとえば石田三成などは気を引き締めていた。
「光秀どのは言ってましたよ」
──これからずっと、ずうっと天下に睨みぃ利かせるんやったら、相応の覚悟が要るでぇ。それに、寄る年波やと、体に堪える。
思えば、織田信長もまた、その「覚悟」や「寄る年並」を鑑み、次期当主・織田信忠にすべてを任せようとしていた。
そして明智光秀もまた、嫡子・明智光慶にすべてを渡そうと考えていたゆえに、本能寺の変は起こった。
「……そうじゃのう。わしはどこまでやれるかわからん。間違えるかもしれん。だから、ねね」
お前が正してくれや、と言いかけて秀吉は飲み込んだ。
ねねが、凄い目で睨んでいたからである。
「そういうの、自分でまず間違えないようにすべき」
「い、いや、そうかもしれんが」
「でも」
ねねは宙空を見つめた。
そこにまるで、誰かがいるような、そんな目をしていた。
「信長さまと……帰蝶さまに免じて、最後の最後は、その間違いがあったら、何とかしてもいい」
「…………」
こういうこと、言いたくなかった。
こういうことを言ったら、必ず、夫は図に乗る。調子に乗る。
ほら。
案の定。
「ねね。お前は、天下一の女房じゃあ!」
ねねはみんなが見ている中にもかかわらず、秀吉に抱きかかえられた。
……だが、悪い気はしなかった。
勝竜寺城内。
明智光秀は北門の方からひょこひょことやって来て、斎藤利三ら、麾下の将兵七百にそう告げた。
当然ながら利三は反対する。
一戦すべし。
まだ戦える。
負けるにしても……。
「負けるにしても……何や?」
その一言に、場は水を打ったように静かになる。
それだけの迫力をたたえた一言だった。
「利三」
「はい」
「負けたら七百の将兵はどうなる?」
「……死にますな」
「せやろ」
光秀はいつもの軽口を聞くような、そんな言葉である。
だが、利三は理解した。
光秀は、七百の将兵を逃がし、死ぬよりもまだ生きる可能性のある道を示したのだ。
選んだのだ。
「しかし殿」
「何や」
「逃げるにしても、生き延びられるとは限りませんぞ」
利三は本当に良臣だな、と光秀は感心した。
利三は、生きる可能性はあくまでも可能性であり、死なないという保証はない、と七百の将兵に告げているのだ。
その上で、逃げる奴は逃げろ、と暗に言っているのだ。
「……ほんなら、わい、いの一番に逃げるわ」
光秀はそそくさと城を出るようなしぐさをする。
それを見た将兵はどっと笑った。
この十日間、狂熱に浮かされたような明智軍だったが、ここに来て初めて、「まともな明智軍」に戻ったような気がした。
*
羽柴秀吉とねねは逃げることを提案というか、そそのかしてきたが、野伏せりやその辺が逃がしてくれるとは限らない。
そこまでの保証はしない。
それでも、逃げられる限りは、逃げるとしよう。
そうやって、懸命に。
逃げて逃げて逃げまくることにより……。
「この城の七百の将兵だけでなく、御曹司の光慶さまにも示すためですな」
「……利三」
「逃げる、否、生きる姿勢を」
「お前はホンマに良臣や」
光秀は利三の肩をぽんぽんとたたいた。
そして利三は最後まで城に残るらしい。
「殿、ご苦労やで」
「痛み入ります」
光秀はそれ以上言わない。
利三もそれ以上言わない。
長年の主従ならではの、無言のやり取りがあった。
胸に迫る、積年の戦友同士の、想いがあった。
光秀はもう一度、利三の肩をたたき、そして、行った。
……それから先の、光秀の行方は杳として知れない。
小栗栖という地の藪の中で、野伏せりに討たれたとも、あるいは生き延びて南光坊天海になったとも伝えられるが、定かではない。
一方の斎藤利三は、山崎から落ち延びることには成功するが、近江堅田にて潜伏中に見つかり、捕らえられ、処刑された。しかし利三の最後まで生きようとする姿勢はその娘である福に伝わって――春日局としてのその後の彼女の人生に、大きく影響を与えたが、それはまた別の話である。
*
翌日。
空っぽとなった勝竜寺城に羽柴秀吉は入城した。
正室であるねねを伴って。
「お前のおかげじゃ、ねね」
「たまたまうまくいった。それだけ」
謙遜ではなく、ねねはそう評価していた。
たまたま、本能寺の変の渦中にたたき込まれ。
たまたま、難を逃れての逃避行のうちに、算段をつけて。
それがたまたま、うまくいっただけだ。
特に最後の光秀へのお返しなど、光秀自身が拒否すれば、どうなっていたか。
「……それでもじゃ。それでも、ねね、お前がいたから、勝てた。勝ったわしが言うから、間違い無い!」
この人たらしめが。
そう思うが、ねねは悪い気はしない。
うしろでは、福島正則がくすくすと笑っている。
さらにそのうしろでは、羽柴秀長が藤堂高虎と、やはり笑い合っている。
「……ですがまだこれから。信長さまと帰蝶さま、そして信忠さまの仕返しはしました。光秀はすべてを失った。逃げた。けど……」
「そっから先は、わしに任せい、ねね」
秀吉は傍らにひかえた黒田官兵衛に目配せする。
官兵衛は得たりかしこしとうなずく。
「お方さまのおかげをもちまして、われら、ここまでやって来られた。そして、ここまでやって来た以上、狙うべし」
何を狙うか、についてはまだ明言しない官兵衛である。
それでも、わかる人にはわかるその物言いに、たとえば石田三成などは気を引き締めていた。
「光秀どのは言ってましたよ」
──これからずっと、ずうっと天下に睨みぃ利かせるんやったら、相応の覚悟が要るでぇ。それに、寄る年波やと、体に堪える。
思えば、織田信長もまた、その「覚悟」や「寄る年並」を鑑み、次期当主・織田信忠にすべてを任せようとしていた。
そして明智光秀もまた、嫡子・明智光慶にすべてを渡そうと考えていたゆえに、本能寺の変は起こった。
「……そうじゃのう。わしはどこまでやれるかわからん。間違えるかもしれん。だから、ねね」
お前が正してくれや、と言いかけて秀吉は飲み込んだ。
ねねが、凄い目で睨んでいたからである。
「そういうの、自分でまず間違えないようにすべき」
「い、いや、そうかもしれんが」
「でも」
ねねは宙空を見つめた。
そこにまるで、誰かがいるような、そんな目をしていた。
「信長さまと……帰蝶さまに免じて、最後の最後は、その間違いがあったら、何とかしてもいい」
「…………」
こういうこと、言いたくなかった。
こういうことを言ったら、必ず、夫は図に乗る。調子に乗る。
ほら。
案の定。
「ねね。お前は、天下一の女房じゃあ!」
ねねはみんなが見ている中にもかかわらず、秀吉に抱きかかえられた。
……だが、悪い気はしなかった。
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