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第一部 河東一乱
07 初雁のなく頃に
しおりを挟む秋風に 初雁が音ぞ 聞こゆなる 誰がたまづさを かけて来つらむ
紀友則
……気がつくと、空に初雁が啼いていた。
河越城は、城内の三芳野神社の杉に初雁が飛来することから、築城した太田道灌が「初雁城」と名付けた城である。
ああ、今年ももう秋がやって来た。
緊張により静止する時間、北条孫九郎綱成は訳もなくそのような想いにとらわれた。
だが次の瞬間には、敵陣である山内上杉勢の中への突入、そしてその随一の武者・本庄藤三郎との激闘、そして原美濃守虎胤の闖入を一気に思い出し、全神経を集中し、虎胤を見据えた。
「美濃守どの、こはいかなることぞ? 武田の者が何故、このような場所に?」
「それはなア」
虎胤は懐中から書状を取り出す。今川義元から、太原雪斎へ向けての文である。
「これをそこな坊主に届けるよう、言いつけられてきたのよ」
だがそれももう終いだ、と言って、虎胤は書状を雪斎へ向けて投じる。
雪斎は、さすがにあわてて書状を受け取ろうと右往左往する。虎胤はそれを冷やかに見守っていた。
「雪斎禅師! たしかに届けたぞ」
「こっ、このような届け方があるか! もっと丁寧にやらんかい!」
結局、地に落ちた書状を拾って、雪斎は食い入るように読み始める。
「……さて、だ」
虎胤は首をぐるりと回して、骨を鳴らしながら、綱成と、そして対手であった、山内上杉勢の本庄藤三郎を見た。
「……何だ、このじじいは? 邪魔するんじゃねえや!」
藤三郎もまた自失から己を取り戻し、虎胤に対して、悪態をついた。
「面白い小僧だ。だがまだ青い」
虎胤が槍を軽く振ると、藤三郎の頬が切れる。
「……何ッ」
「お前の言うじじいはな、命の恩人だぞ。言うことを聞け」
「どういう意味だ」
虎胤は綱成に目を向ける。藤三郎も綱成を見た。彼の頬は切れていなかった。
「見切りだ。お前にはまだできまい? そういうことだ」
言葉を失う藤三郎を後目に、虎胤は下馬して、綱成に相対する。
「いろいろと言いたいことはあるだろう、お互い」
「…………」
綱成の胸中は穏やかではない。しかし、この場は黄備えの長として、いつまでも敵陣にとどまっているわけにもいかず、撤退の機をうかがっていた。
なぜなら、『もう目的は達成していたから』。
「だが、さきほどのことばどおりだ。この勝負、わしが預かる。今は……退くがいい」
「美濃どのがよくても、山内上杉としては、納得がいかないのでは?」
敢えて挑発的に綱成は冷笑して山内上杉憲政に視線を向けた。憲政は怖気を震わせ、視線を逸らす。
「人の悪いことをするな、小僧……山内上杉は、武田家名代である、わしが留め置く」
「もう、小僧ではない……と言いたいところでござるが」
綱成は巧みに馬を操り、馬首を河越城へ向ける。周囲の黄備えもまた、無言でそれにならう。
「こうして助けられた以上、それは甘受すべきかな……貴殿には、助けられてばかりだ」
自嘲の響きはあったが、父の仇と恨んでいる気色はない。そんな声音に、虎胤はひとつうなずき「では、行け」とつづけた。
「こんなことを言うのも何だが、息災で……美濃どの」
「ああ、まあな」
虎胤は鷹揚に手を振った。綱成は「退くぞ」と鋭く声を発し、それを聞いた黄備えも共に駆け出す。
山内上杉の陣の者どもは、その整然とした退却ぶりに、声も出なかった。
ただひとりをのぞいては。
「おい! 待て!」
本庄藤三郎が大声を上げる。
綱成は待たなかったが、馬上、振り向く。
「地黄八幡、北条綱成! 次また戦る時まで、お前の首、預けたからな!」
綱成は目を見張り、そして笑った。
「たしかに預かろう。この首、お前以外には取られないようにしておこう」
そこで手綱を振るうと、黄備えは一丸となって、河越城へ駆け去って行った。
初雁のなく頃に
「……へっ、一度言ってみたかったんだ」
藤三郎は鼻をこすりながら、笑った。綱成の返事が嬉しかったらしい。
その頭を叩くものがいた。
「痛っ、何するんだ禅師」
「馬鹿者。今の台詞、地黄八幡でなかったら、そなたの首が無いぞ」
太原雪斎が威儀を正し、青竹で藤三郎の頭をさらに叩く。
「この不肖の弟子が……あれほど、命を大切にせいと教えておろうが」
「弟子になった覚えはないぞ、禅師! おれはあんたの護衛だ! 弟子じゃない!」
「じゃから弟子なんじゃろうが! 拙僧は命を守ってくれる代わりに、拙僧の一番をくれてやっとるんじゃ!」
綱成という、ある意味凄絶な男により刻まれた厳しい雰囲気が、雪斎と藤三郎のやり取りでなごんでいく。
虎胤は、よく言う、と雪斎を横目で睨んだが、何も言わなかった。また、戦場において、こういう雰囲気が大事ということを知っていたので、それに口出しをする無粋をしたくなかった。
そして初雁の舞う城――河越城へ目を向ける。
幸綱はうまくやっただろうか。
子どもの頃、草の者たちと共に野山を駆け回っていたというが、それが活きると良いが。
*
綱成が河越城まで退却すると、驚いたことにもう山中主膳が城に戻っていた。
「主膳どの、どうなされた? 扇谷上杉はやはり堅かったのでござるか?」
「いや……退却という声が聞こえて、何とか善銀どのを振り切って参った次第で……孫九郎どのの伝令で?」
「その伝令……拙者からではござらん。大道寺どのか……?」
主膳は嘘をついたり、勝手に退却するような男ではない。しかし退くべきではないと判断したときは、退かないこともできる武将であるが、この時は、退くことに理があると判断し、撤退してきた。
不得要領の綱成は、それでも全軍が城内に入ったことは重畳であると判断し、城門を固く閉ざした。
城主の間まで、主膳を伴っていくと、城将の大道寺盛昌が待ち構えており、二人を慰労した。
「おつかれでござった……それにお二方とも、見事な退きぶりであった。あの機を逃さば、敵を城内に入れずとも……相応の犠牲を払ったに相違ない」
「……大道寺どののご命令ではないので?」
「え? いや……わしは、扇谷上杉の馬廻りの、曽我神四郎を追い払うのに夢中……いや必死で、それどころでは……」
「なんと……」
三将そろって疑念を感じたが、今は先ほどの緒戦の成果と今後の方針の確認が大事と、軍議に入った。
まず口を開いたのは綱成である。
「お二方とも、ご苦労でござった。おかげで、わが方からの使者は無事、河越を脱した模様」
おお、と盛昌と主膳から感歎の声がもれた。
実は綱成は、北条家の一門であり重鎮であるため、独自の判断で外交をすることを認められている。そのため、古河公方へ向けての使者を発した。綱成自身、氏康の妹を娶っているので、古河公方・足利晴氏とは義兄弟の関係にあるため、私信を交えて、関東管領の同盟軍への調停を頼むことにしたのだ。
ただ、同盟軍が使者をやすやすと通してくれる訳はないので、綱成と主膳で、戦に打って出ることにしたのだ。もし、太原雪斎なり、扇谷上杉朝定なりを討てれば、それは『もうけもの』という観点で。
「古河公方がお出ましになれば、さしもの関東管領や扇谷上杉も、攻め手を控えよう」
主膳は胸をなでおろした。
しかし、綱成の不安は消えない。
「いや、古河公方へは新九郎もとっくに書状を出しているはず。それでも動きが無い。何かが引っかかる……やはり、戦の前に話したとおり、それだけでは駄目でござる。二の矢、三の矢を射るのは……やはり、やるべきかと」
「左様でござるな」
盛昌は、近侍に筆と硯を持ってくるよう命じた。
二の矢、三の矢……それは『参陣していない』関東諸侯への働きかけである。
関東諸侯は全員が心の底から関東管領に従っているわけではない。義理なり、しがらみなりがあり、そして多少なりとも利があると考えたから、河越に参陣しているのだ。
「出陣している関東諸侯、これは本当にすべての関東諸侯がそろっているのか?」
綱成はその疑問を抱いた。であれば、その来ていない大名に揺さぶりをかける。たとえば、主のいない隣国に攻め入れとけしかける。
……そのため、さきほどの戦の最中に、自身も含め、黄備えや主膳、城兵たちにある仕事を依頼していた。
関東管領の同盟軍に参陣している諸侯とは、具体的に誰なのか、その旗印をたしかめよ、と。
「常陸の小田、忍の成田、羽生の広田……」
盛昌は生真面目に、丁寧に、綱成や主膳の告げる大名家を筆で書いていく。
「……これで終わりですかな」
紙いっぱいの大名小名の名前と家紋。それを眺めて、まず盛昌が云った。
「……安房の里見が見当たらんな」
「まず、味方にはつくまい。あの里見家だからのう」
主膳はため息をついた。
綱成はさらに悲観的だった。
「いや、さらに言うと、遠方であること、かつ……独自に攻めるつもりではないか」
「ということなら、大永鎌倉合戦の雪辱、ということでござろうな」
安房を中心として房総に勢力を誇る里見家。北条家とは、積年の宿敵といえる間柄である。そして、里見家は、かつて大永六年(一五二六年)、水路、安房から相模へ押し寄せ、無防備であった鎌倉を攻撃したことがあり、これが大永鎌倉合戦と言われる。この合戦は、別名、鶴岡八幡宮の戦いと呼ばれ、里見軍が侵略する混乱の中、鶴岡八幡宮を炎上させてしまっている。武家の守り神、鶴岡八幡宮を燃やしてしまうという失態を犯した里見軍は、その後、当時の玉縄城主・北条氏時(伊勢宗瑞の次子。氏綱の弟)により、さんざんに撃退されてしまう。
「小田原の氏尭どのや、江戸の遠山どのが対処を……」
盛昌は正論を出したが、綱成は首を振った。
「お二方とも、おのれの拠る城を守るのが精一杯でござろう。河東にも兵を出していることを、お忘れめさるな」
「そうであったな、わが方に兵の余裕なし、か……」
盛昌は天を仰いだ。
綱成は、太原雪斎の描く、広大な北条包囲網に舌を巻いた。雪斎の河越、義元の河東だけではない、こうして、北条を取り巻く勢力が次々と敵対していく。これこそが、雪斎と義元の常山の蛇の策の肝なのだろう。
城主の間は、沈鬱な雰囲気につつまれた。
しかし、綱成にはまだ検討の余地があると思った。参陣していない諸侯はまだいる。そこにこそ、光明を見出す余地がある。逆に、北条に味方する家があれば、そこからこの包囲網を突き崩せるのではないか。そしてそれは、里見への牽制となる位置の……。
そこまで考えて、綱成は、ある家が参陣していないことに気がついた。
そのとき、野放図に明るい声が響いた。
「……ほう、お気づきめされたようでござるな。さすがは地黄八幡」
「……誰じゃおぬしは」
これは主膳の声である。彼は振り向くと同時に抜刀し、闖入者を睨めつけた。
主膳の剣の先、城主の間の片隅に、ひとりの男が鎮座していた。
「これはご無礼を」
男は腰間の刀を外し、自分の前に置いた。戦う意思のない表示である。
主膳は男の声に聞き覚えがあることを思い出した。思い出しつつも、この場をどうしたものかと悩んでいると、綱成が口を開いた。
「主膳どの、刀をお納めくだされ」
「は、いや、しかし……」
「そちらの方に害意があれば、われらとっくに斬りつけられていた……で、あろう?」
綱成の鋭い視線が、それならば当然斬り返してやる、という意思がこもっていた。
男は頭を掻く。
「それは買いかぶりでござる。拙者、ここに入るだけで、とてもとても……」
綱成をはじめ、盛昌や主膳にそのような隙が無かったと言い、男は平伏した。
その態度に、綱成は思わず微笑した。彼は、この男や本庄藤三郎にように客気のある男が嫌いでない。
「まあ、面を上げられよ。それがしは北条孫九郎綱成と申す。貴殿の名は?」
男はここで敢えて面を上げなかった。作法ではない、綱成が敢えて自らの名を名乗り、その上で名を問うてきたからだ。
「これはご丁寧に……拙者、真田幸綱と申す」
そこで男、幸綱は顔を上げた。
笑顔であり、つい、引き込まれそうになる。
「真田どの、か……よろしゅう」
綱成と幸綱、名将同士の邂逅が、彼らの出会いが、北条の苦境に、ひとつの光明を与える。
初雁のなく頃に 了
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