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第一部 河東一乱

13 田子の浦 上

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  田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

  山部赤人





 駿河。
 田子の浦。
 白砂青松の砂浜を、その若者は感歎しながら歩いていた。
「歌や物語では知っていたが、こうしてじっくりと眺めると、やはりちがう……美しいな」
 砂を踏むときの音。
 潮風のにおい。
 遠く、大海から打ち寄せる、波のしぶき。
 よく見ると、小舟が一艘、浮かんでいた。
 おそらく、漁師が釣りをしているのだろう。
 どれもが若者にとっては新鮮だった。
 若者は空を見上げる。
 鷹が一羽、弧を描くように飛んでいる。
「いい鷹だ」
 良い鷹匠の鷹なのだろう。
 若者は、自身も鷹を飼っているので、よく分かった。
「潮風に乗って飛ぶ、か。実に羨ましい」

 若者――武田晴信は、海を初めて見たわけではない。これまでも、行軍の途中で眺めたことはある。しかし、こうしてゆっくりと見つめることは無かった。そのため、望外の絶景に、ひとり感動を覚えるのであった。
「……しかし、誰も刻限に来ぬとは」
 晴信は周囲を見回す。
 空の鷹と、海上の小舟はそのままだ。
 砂浜には、自分しかいない。
 そう思っていたところ、背後から、りん、という音が響いてきた。
 波音に負けず、涼やかな音色。
 誰ぞ、と振り向くと、そこには、編み笠に墨染の衣を着た、托鉢僧がたたずんでいた。
「…………」
 晴信は、はて何か銭でもなかったかと袂を探ったが、特に用意をしておらず、紙と筆くらいしかなかった。
 晴信は托鉢僧を前に、彼らしくもなく困窮した表情をした。
 りん、と托鉢僧はまた鈴を鳴らす。
「御坊。すまぬが持ち合わせが無い……そうさな、長久保の武田の陣に来ていただければ、馳走を……」
「ほう。それは河東を馳走していただけるのかのう」
 托鉢僧は、意外と野太い声を出した。
 晴信は無言で刀に手をかける。

「待て待て、怒るな晴信どの。拙僧が悪かった」
 托鉢僧は編み笠を取り、にやりと笑った。
 笑った口から、黒い歯がのぞいた。
「義元どの。たわむれが過ぎますぞ」
「ふっ……今の拙僧は栴岳承芳せんがくしょうほう。義元は世俗のときの、名でおざる」
「ふん」
 今川義元は、今川家の四男として生まれ、幼少の頃、寺に入れられていた。長じて、仏門の中で頭角を現し、栴岳承芳という法名を名乗るに至った。その後、長兄と次兄が亡くなるという奇禍に遭い、それに乗じて三兄・今川良真を打倒し、今川義元という俗名を得て、今川家当主となったのである。

「……まさかそんな格好で来るとはな」
「拙僧なりの、気づかいよ。これなら、胸襟きょうきんを開いて話し易いじゃろう」
 法衣を広げて披露する義元を、晴信は冷めた目で見ていた。
「歯が黒いのをのぞけば、たしかにそうだな」
「ふん。京ではこの方が『やりやすい』のじゃ、甲斐の『山猿』は知らんだろうがの」
「山猿?」
 晴信が一番気にしていることを、義元は平然と言ってのけた。
「ふん。歯のことを言うた、仕返しじゃ」
「こいつ……」
「おっと、話し合うのではないのかな。なんじゃ、この手は」
 晴信は、周囲に誰にもいないことを確認し、いい機会だから、このあたりで義元に拳で訴えてみるか、と考えた。
 対する義元も、手に持った錫杖を握り締め、寺で修業した杖術を使う時が来たか、と身構えた。

「おい」
 二人の対決は、第三者の発言で、実現しなかった。
 いつの間にか海上の小舟が浜まで来ていて、ちょうど陸に上がったところだった。
 そして小舟に乗っていたのは、北条新九郎氏康、その人である。





 田子の浦





「何をやってるんだ、二人とも」
 この時、義元は二十六歳、晴信は二十五歳で、氏康は三十一歳である。
 いちおう、年長者ということで、氏康は義元と晴信を離し、その間に入った。
「……そもそも、これは北条と今川の喧嘩じゃなかったのか? 晴信どのはその仲裁だろう?」
「…………」
「…………」
 二人とも、黙って口を聞かない。
 氏康は義元の僧形そうぎょうを見て、何となく察しがついたので、それ以上は言わず、自らも黙って、小舟から魚を三尾を取り出した。
「腹が減っているんだろう、食うか」
「……何だ、それは」
 海のものに関心の高い晴信が言った。
いわし
 氏康は、浜に落ちている小枝を見つけると、器用に鰯に刺して、そしてそれをそのまま砂に刺した。
「枯れ枝を拾ってくれんか」
 言うが早いが、氏康は自身で枯れ枝を拾いに行く。晴信と義元は、しばし、その様子を見ていたが、やがて隣り合って立っているのも馬鹿馬鹿しいと思い、氏康の手伝いに向かった。



 ぱちぱちと火がぜ、鰯の皮が焼け落ち、その下から、焼けた白い身がぷっくりとのぞく。
「……そろそろ、いいか」
「そうじゃの」
 氏康は良く焼けた鰯を抜き、義元に渡す。義元は横からじっと見つめる晴信に気付き、鰯を晴信に渡して寄越よこした。
「そう、もの欲しそうに見るな。落ち着いて食えぬわ」
「すまぬ」
 焼き魚のいいにおいを前に、晴信は素直に義元に謝った。
 義元は、拍子抜けした顔をしたが、氏康が別の鰯を取って寄越したため、特に何も言わなかった。
「熱ッ」
 晴信は早速かぶりついたが、鰯の熱さに、口を放す。それでも、口の中から身を出さずに、こらえながら咀嚼して、飲み込んだ。
「……旨い」
「獲れたてだからな」
「寺で小僧をしていた時を思い出すわ」
 義元はなんと、鰯を頭からばりばりとかじりながら食べ始めた。
 晴信は、そういう食べ方もあるのかと見つめていたが、氏康は素直に、のどは大丈夫か、という表情をした。
「……なんじゃ、鰯は頭から食うのが良い、と教わらなかったか? 骨ごと食える。だから鰯はいいんだ、と」
「ほう」
のどに骨が刺さっても知らんぞ、晴信どの」
 早速、丸ごと食べようとしている晴信に、氏康は釘を刺した。

「……ささを持ってくるべきだったのう」
 義元は鰯の刺さっていた枝を、ぽいと後方へ投げ、口の寂しさを訴えた。
 晴信は小舟の方を見た。
「……持っとらんぞ。釣り具しか置いてない」
 氏康は焚き火に砂をかけて消しながら言った。
「大体、酒というのは朝呑むべきだな。昼や夜呑むと、明くる日に差し支える」
 焚き火の跡地を踏みしめ、火を完全に消したことを確認して、ようやく氏康は顔を上げた。
「……さて、腹が『くちく』なったところで、鼎談するか」
「鼎談と言うてものう……河東は今川に寄越すんじゃろう?」
「晴信どの、どうだ?」

 おれに聞くな、と晴信はしかめ面をしたが、「預かった」と明言した以上、自分が答えるしかないか、と諦めて答えた。
「武田は預かった河東を今川に渡す。ただし、預かった以上、今川がきちんと和睦をして、それを守ることを見張らせてもらう」
「ふむ……かまわぬ、が……」
 義元は晴信を上目遣いで睨む。
「……武田も撤兵するんじゃろうな。そうでないと、今川も兵を引けぬぞ」
 いつ寝首をかれるか怖うてたまらぬ、と義元は、わざとらしく震える真似をする。
「退こう。もう駿河ここにいても、今度こそ何も得るものが無いからな」
「失わなくて済んだものはあるのにのう」
 例えば甲斐とか、と義元は嫌味を言った。

 それに晴信が反応する前に、即座に氏康が返した。
「今川は晴信どのとお父上・信虎どのをこれまでどおり、『丁重に』扱うよう、依頼する。でなければ河東に兵を出す。河東は返してもらう。これは北条から武田への返礼である」
「返礼、のう……ていのいい交換条件だろうが。武田と、北条の」
 義元は歯に挟まった身を引き抜き、捨てる。
「今川とて、悪い話ではあるまい」
 晴信は鰯の刺さっていた小枝をくるくるともてあそびながら話す。
「北条が河東に居座るのなら、これまでどおり、武田と攻める。武田が撤兵しなければ、北条と共に武田を攻める。父上の参戦のおまけつきで」
「ふむ」
 懐中から手巾を取り出し、口の周りを拭いていた義元は、目だけで氏康の方を見た。
「三すくみ、というやつかのう」
「そうだな……唐土もろこしの天下三分の計、のようなやつだな」
「そのとおりだ」

 晴信のねらいはここにある。二国間同盟なら、行き違いがあったら、それがそのまま決裂に至るおそれが大きい。しかし、三国の同盟なら、一国が何か企もうとも、残りの二国が連合してしまえば、二対一の不利をこうむる。
「この際だから、誓紙でも取り交わし、正式に同盟しないか」
 そうすれば、武田は北――信濃へ、今川は西――三河へ、北条は東――武蔵へと進出できる。
「いや」
 氏康は、魅力的な提案だな、と付け加えてから、断わりを入れる。
「そのためには、まず河越八万の軍を撤兵してもらおうか。あれは義元どのの差し金だろう。やめさせてくれないか」
 氏康と、そして晴信も義元をじっと見つめた。
 義元は目をつぶって、口を拭いていた手巾を懐中にしまい、こたえた。
「やめさせる、というふみを書いても良い」
「なんだ、その奥歯に物が挟まった言い方は、まだ鰯の身が挟まっているのか?」
「余計なお世話だ、晴信どの。これは予と師の間柄が、どういうものか理解していないと無理な話だ」

 このたびの、常山の蛇、つまり河東と河越の地を同時に攻める作戦は、今川義元が立案し、その難しい河越の方を、太原雪斎は自ら名乗り出て、赴くことになった。
「まあ、予がひんがしに行く、というのも無理があるしの。河東にて、駿河の兵を率いた方が自然だ」
 そして、太原雪斎は河越につにあたって、義元に条件を付けた。
 雪斎の自身の裁量による、自由行動を認めること。これは連絡が取れない場合を予期してのこともあるので、義元は了承した。
 また、雪斎は義元の命令を聞かないという場合もあること。これは、前記の連絡不達により、命令が届かない場合を考慮してのこともある。
 しかし、雪斎ははっきりと「命令が届いていたとしても、聞かないこともある」と言った。現場での判断で、そういうこともあろうと、義元はそれも了承した。
 そして、最初のうちは、連絡が取れていたが、雪斎が河越にいることが露見してから、北条家が陸路と海路を警戒する態勢に入ったため、連絡が途絶えていた。もうひとつ、雪斎には連絡手段を残してあるが、これは最後の手段であって、よほどのことがない限り、使わないこととしていた。

「とにかく、古河公方はやめろ、とふみを書いたらどうなんだ」
 晴信は、今こそその「最後の手段」を使うべきだろうと訴える。
 義元は、彼らしくもなく残念そうな顔をしてこたえた。
「『それ』は、今、師のところに居る。予の方には居ない」
「書状をしたためてくれ、義元どの。陸海の封鎖は解くし、その書状は風魔に届けさせる」
 氏康がひとつ指を鳴らすと、近くの松の上に人影が現れた。
「風魔小太郎よ、太原雪斎とは面識があるはずだな」
「御意。風魔とは名乗っていませんが、顔は知られております」
 松の上から、ふわり、と風魔小太郎は片膝をついた姿勢のまま落下し、そのままこうべを垂れた。
「ううむ」
「おい、紙と筆なら、おれが持っている。早くしろ」
 晴信が袂から紙筆を取り出す。
 義元は観念したように晴信の手にある紙を取り、そして筆に手を伸ばそうとしたそのとき。

 天空を舞い飛ぶ鷹が、ひと鳴きしたかと思うと、一目散に義元の腕目がけて、飛びかかってきた。
 風魔小太郎が手裏剣を投げようとするが、それは義元自身に止められた。
「あいや、これは……サブロウじゃ。予の鷹じゃ……じゃが、それが予の元に戻ってきたということは」
 義元はサブロウの足に結びつけられた紙をほどく。
 丁寧に折りたたまれたそれは、たった四文字しか記されていなかった。
「氏康どの……遅かったわ」

 古河づ。

 太原雪斎の妙なる筆で書かれたそれは、河越城の戦いが、最終局面に入ったことを意味していた。





(つづく)
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