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第三部 河越夜戦
35 地黄八幡
しおりを挟む春高楼の花の宴
巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし
昔の光今いづこ
土井晩翠「荒城月」
天文十五年四月二十日。
深夜、子の刻。
河越城。
北条孫九郎綱成は日課である笛を吹き終え、城主の間へ戻った。
場には城将・大道寺盛昌、寄騎・山中主膳ら、主だった将兵が勢ぞろいしていた。
「孫九郎どの、出陣の支度、整いましてござる」
主膳が一同を代表して言った。
「大儀」
公の場であるので、綱成は敢えて目上として振る舞う。そうでない時は謙譲する男なので、主膳も気にせず、「ありがたき幸せ」とこたえる。
「……皆の衆、いよいよ四月二十日の子の刻となった。盛昌どの、櫓から見える、城外の様子はどうか」
「物見に参って候」
城将・大道寺盛昌は、敢えて兵に命令せず、自ら櫓を登り、北の方、東明寺の扇谷上杉本陣の方を見た。
風に乗って、低くではあるが、喧騒の音が聞こえた。今宵は敵陣に乱痴気騒ぎがなく、それは盛昌の耳によく届いた。
月明りの下、目を凝らすと、灯火が揺れ、倒れる様子も見えた。
「氏康さま、討ち入り! 氏康さま、討ち入っておる模様!」
おお、と河越の将兵と、小さく感歎の声を漏らした。
ついに、時が来た。
半年の長きにわたる籠城。
初代・伊勢宗瑞からの、世代を越えて、受け継がれた夢。
それらが報われる時が、今、来たのだ。
「……皆の衆」
綱成がいつもの調子で、低く言う。だが、聞く者には、いつもより重々しく聞こえた。
「いざ……いざ、出陣!」
地黄八幡
この時、河越の城兵は、黄備え及び、元々の城兵をあわせて、約三千。
綱成は、そのほぼ全軍を率いて出陣することになった。
綱成自身は固辞したが、城将である盛昌が「非常の時である、非常の策を用うべし」と主張して譲らなかったので、そうなった。
「開門」
綱成の命令一下、黄備えの中から二人走り出で、城門へと向かう。
ぎぎ、と軋みながら河越の城門が開いていく。
この城門を開くのは、いつ以来だろうか。万感の思いを込めて、綱成は城門の開くさまを見つめ、そして、わずかの兵と共に城に残る盛昌の方を振り返った。
「……ご武運を」
「そちらも」
城門が開く。
綱成は、自身がまず城外へ出た。周囲を確認する。扇谷上杉の陣は、もはやはっきりと分かるほどの騒ぎにつつまれている。
関東諸侯の陣は、気づかぬかのように、あるいは息をひそめるかのように、じっと動かず、だんまりを決め込んでいる。おそらくは、千葉利胤の裏工作が回って、戦わないようにしているのだろう。
ならば、今征くべきは。
新九郎は扇谷上杉を倒しに行った。この動きに反応しているが、様子をうかがっている敵陣がある。
山内上杉だ。
山内上杉が、扇谷上杉の陣を攻撃している北条本隊を襲撃すれば。
あるいは、北条本隊が扇谷上杉を下したところを襲えば――。
……ここは、自分が、もうひとつの杉――山内上杉を倒そう。
綱成が目配せをすると、黄備え及び河越城兵がうなずく。
……自然と、心からこみ上げる言葉があった。
「……勝った! 勝った!」
沈着冷静な綱成らしからぬ、熱い叫び。
黄備えと城兵も思わず、唱和し、叫ぶのであった。
*
「……おい、藤三郎、起きてるか」
「……起きてるよ、実忠の親爺。戦のにおいがするからな」
本庄藤三郎は、一族の長である本庄実忠が声をかける前にとっくに目を覚まし、得物の槍をつかんで素振りをしていた。
「なら、分かっているな、藤三郎、扇谷上杉の陣に夜襲じゃ」
「助けに行くのか?」
その藤三郎の問いに、実忠は頭を振った。
「いや、長野業正どのは、事態を静観すると言うて、動かぬ。ただ、支度をせい、と」
「は?」
いくら反目している扇谷上杉家だからといって、友軍相手にそこまでやるのか、と藤三郎は呆れた。だが、それよりも、この機会にやっておきたいことがあった。
「禅師、起きてるか」
「起きとるぞ」
藤三郎が守るかたちで、その隣に太原雪斎の寝所があった。
雪斎はすでに墨染めの衣に袈裟を着て、青竹を持って、控えていた。
「聞いたとおりだ、禅師」
「うむ。さすがは相模の獅子、やりおるわ」
「感心している場合ではございません、禅師」
これは実忠の発言である。彼としては、雪斎に采配を執ってもらい、消極的な業正には下がってもらいたかった。
「……いや、親爺、おれはこの機に雪斎禅師に落ち延びてもらうつもりだ」
「何だと」
藤三郎は説明した。雪斎に、今川義元から召還命令が出ていること。もはや、今川と北条は和睦しており、ここで雪斎が軍の指揮を執ると、その和睦に影響すること。
「……だから、おれはさっさと駿河に行けと言ったんだ。今や、この軍は業正のじじいに牛耳られている。禅師にできることはない。さ、今なら、夜襲の混乱のうちに消えられる。行け、禅師」
「藤三郎……」
実忠としても、業正のやり様には腹に据えかねるものがあった。八万の軍で包囲し、古河公方まで出馬させ、勝ちが確定した……そう思われた時機になって、上野からやって来て、場を仕切る。雪斎がやる気を失ったのをいいことに、最初から自分が包囲作戦を実施しているかのように振る舞う。
「分かった、藤三郎。禅師、私も藤三郎と同じ気持ちです。お逃げなされ」
「…………」
雪斎は目を閉じて、藤三郎と実忠の言葉を聞いていた。
たしかに、駿河に帰るのなら、今はまたとない機会。
仮に山内上杉家や扇谷上杉家が勝利するとして、そのころには、遠くに至り、追われても逃げ切ることが出来よう。
しかし……。
「……拙僧はここに残る」
「おい禅師」
「聞け藤三郎、そして実忠どの……拙僧は、この戦の原因じゃ。だからこそ、今この場で逃げることはできぬ。それに……」
雪斎は藤三郎のことを、わが子を見守る父親のような目で見た。
「藤三郎、お前、戦いたいのじゃろう、地黄八幡と」
「い、いや、そりゃそうだが」
「なら、拙僧がここにおれば、奴は必ずここに来る」
「はっ!?」
「拙僧はな……地黄八幡の北条、いやさ『福島』綱成の、一族の仇なんじゃ」
今川家の有力家臣、福島家。その中で随一の武将として知られた、福島正成。
その正成を、武田家への戦へと駆り立て、甲斐に攻め寄せさせた。彼は、その甲斐にて、勇将・原虎胤と戦い、そして敗れたのである。この敗戦の責を逃がれるため、福島一族の長である福島越前守は、正成を「負け犬」として扱い、その一家を追い討ちしたのである……。
「まあ、結局、その越前守も、拙僧と承芳、ではない義元公により討ち果たされたがの。それにしても、正成の遺児たちを、よりによって伊豆へ逃がしてしまったのは失策じゃったな。福島綱成に弁千代……今川に欲しかったわい」
おかげで、北条は大いに力を得たがのう……と、雪斎はひとりごちた。
「埒もないことを言うた……要はの、拙僧と共にいれば、地黄八幡は必ず来る。藤三郎、拙僧が餌となるで、手柄とせい」
「……禅師」
「そんな顔するな、藤三郎。拙僧は死ぬつもりはないぞ。手柄とせい、と言うたではないか。おぬしの技倆を信じてなければ、言えぬよ」
「お、おう、そうだな……」
雪斎の決意は固く、翻意できそうにないものと、藤三郎は悟った。
実忠も同様だった。そこで実忠は、雪斎に山内上杉憲政のそば近くに移るよう頼んだ。憲政の近くならば、主君を守る兵が控えている。雪斎が脱出を拒むのなら、せめて生きる確率を上げてあげたい、という実忠の真情であった。
*
「孫九郎どのの『読み』どおり、城から山内上杉の陣まで、『道』ができておりまする!」
山中主膳は果敢にも物見に向かい、河越城外の湿地帯において、城の南方、砂久保にある山内上杉の陣へ、馬蹄で踏み固められた「道」ができていることを確認し、戻ってきた。
北条孫九郎綱成は、河越城の櫓から、毎日外の様子をうかがっていた。そして、小競り合いの際、敵がいつも「同じ道筋」をたどっていることを。
綱成が弁千代の襲撃を知ることができたのも、この観察のおかげであり、そしてその救助に向かい、戻る時に、綱成はこの「道」の存在を確認していた。
「雪斎禅師の策であろうが、この道、逆に使わせてもらう……よし」
綱成は全軍にその「道」を使って突進し、そのまま突撃するよう命じた。
「扇谷上杉への夜襲、すでに察せられているであろう。戦支度をしている最中か、あるいは終えつつあるのか……いずれにしろ、時を置かずに突撃あるのみ。つづけ!」
黄備えは無言でうなずき、河越城兵もまたそれにならい、猛進して山内上杉の陣営に突っ込んだ。
驚いたのは山内上杉憲政であり、その家宰である長野業正である。
「馬鹿な、敵襲だと?」
「業正、こはなにごとぞ」
「くっ……まさか、まさか河越城内も呼応するだと……そうか、先の太田全鑑の陣の騒ぎ……あれか!」
「いかがする、業正……」
苦み走った顔で、業正は場に控える宿将に声をかけた。
「……本間近江守!」
「はっ」
「迎え撃て! 赤堀上野介も連れて、とにかく防げ!」
「かしこまって候」
さすがに宿将らしく、本間近江守はあわてる上野介を落ち着かせながら、迎撃に向かった。
一方、その主君たる憲政は、本拠である平井へ逃げるかどうかと、口に出してまで悩んでいた。
「…………」
うろたえる主君をよそに、業正は歯噛みして悔しがった。
あと一日、あと一晩、早ければ。
あの城を総攻めにして、今と立場は逆転していたものを。
おのれ。
おのれ。
「かくなる上は……」
さすがに上州の黄斑と称せられるだけあって、業正は逆にこの機会を捉えて、綱成を討ち取るという方針に転換した。
「倉賀野三河守やある!」
「は、ここに」
馬廻り・倉賀野三河守は麾下の倉賀野十六騎を従え、即座に憲政の御前に、つまり業正の前へと参じた。
「汝に命ず。今この隙に、汝らは手勢を率いて河越城へ征け。おそらく今は空城と見た。陥《お》としてしまえば、奴らは浮足立つ」
「承知つかまつった」
倉賀野三河守は、倉賀野十六騎および手勢を率い、夜陰に乗じ、北条綱成の黄備えや河越城兵らを大きく迂回して、河越城へとひた走って行く。
「よし、これで目にもの見せてくれる」
「……父上よぉ」
業正がふと振り向くと、嫡男の吉業が、鎧兜を身につけ、なんと太刀を抜いたままで歩いてきていた。
主君である憲政を前に、無礼な振る舞いであったが、業正は意に介さなかった。
うろたえる主君より、まだ殺意というか戦意に満ちた嫡男がましであるし、なにより可愛い。
案の定、憲政は上の空で、吉業が来たことに気づいていない。
「父上ぇ、早う、あの地黄八幡を殺りたいんだがよぉ……行っていいか?」
「あわてるな。今、本間江州と赤堀上野介を向かわせた。奴らはやるだろうが、地黄八幡にはかなうまい……で、『手負い』となった地黄八幡を狩るのは、そのときよ」
「あぁ、そうかぁ……」
「そうよ、おぬしの初陣、あの地黄八幡は格好の獲物よ」
「くくっ、楽しみだなぁ」
ほくそ笑む業正と吉業に、ちょうどその場に来た本庄実忠は不審に思ったが、気にせず憲政に話しかけ、雪斎と藤三郎をこの場に連れてくる許可を得たのであった。
*
北条孫九郎綱成の率いる黄備えと河越城兵は、山内上杉の陣営を襲撃当初は、奇襲とあって、かなりの戦果を挙げた。
が、宿将である本間近江守が赤堀上野介を引き連れて防戦にあたると、手ごたえが硬いものに変わった。
寄騎の山中主膳は、綱成に話しかける。
「孫九郎どの、これは」
「山内上杉、さすがに一筋縄ではいかぬか」
「いかがする?」
「突破あるのみ。この先には、山内上杉憲政、太原雪斎が居る。彼奴《きゃつ》らを取れば……」
言うや否や、綱成はたった一人で駆けだす。目指すは、守りの要、本間近江守である。
「本間江州、覚悟!」
綱成の槍が、江州こと近江守の頭蓋を狙う。
「地黄八幡、相手にとって不足なし!」
近江守は槍を振りかぶって、綱成の槍撃を防ぐ。
赤堀上野介は、近江守の助けに入ったものかと戸惑う。
「上野介、うろたえるな! そなたは兵の指揮に徹せよ! この戦、守っていれば、勝てる! 業正どのの率いる手勢が来れば終わりよ!」
「わ、分かった、頼む、江州!」
だがその長野業正から、実は捨て石にされているとは、近江守も上野介も知る由もなかった。
一方の山中主膳は、近江守と槍の応酬をはじめた綱成の背中に声をかけた。
「孫九郎どの! 返事ができないようじゃから、返事はいらぬ! わしと河越城兵が道を開く! 孫九郎どのと黄備えは、進まれい!」
「主膳どの! 待たれ……」
綱成は振り向かずに主膳に命令して、主膳を止めようとした。
だが、一瞬早く、主膳は河越城兵に突撃を命じた。
「かかれ! 黄備えに道を開くのじゃ! 河越衆の意地を見せるのは、今ぞ!」
この籠城中、主膳に対して畏敬の念を抱くようになっていた河越城兵は、息を合わせて、赤堀上野介に向かって突進する。
「馬鹿な、何でこんな勢いが……」
赤堀上野介がうろたえる。彼は、河越の兵は飢え、かつ弱り切っていると判断して、守りに徹していた。だが、その予想を上回る突撃を食らい、上野介は落馬してしまう。
「上野介!」
近江守が思わず声を出す。
その隙を、綱成は逃がさなかった。
「……隙あり」
「……ぐっ」
綱成は、両手持ちから片手持ちに槍を持ちかえ、もう一方の片手で、抜刀と同時に近江守の首筋を斬った。
「か……は……」
頸動脈から激しく流血し、近江守は倒れる。
「お……のれ……」
「こたびの戦において、主、新九郎氏康の定めた軍法により、首は取らぬ……御免!」
綱成は一瞬だけ瞑目し、そして黄備えに号令し、山内上杉本陣へと向かう。
その後ろ姿を見つつ、本間近江守は、長野業正率いる軍勢が加勢に来るのを待ちつづけた。
……しかし、業正は近江守と上野介を捨て石と考えており、当然来るはずもなく、やがて、近江守は息絶え、上野介も激戦の末、主膳に討ち取られてしまうのであった。
地黄八幡 了
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