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第三部 傅役(もりやく)の死
13 罠
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織田信長と帰蝶が、木綿藤吉や前田犬千代を供にして正徳寺へ向かうのを見送った平手政秀は、半刻ほど外交文書を作成したり、細々とした内政の判断を下したりと、仕事に精を出した。
やがて門番から客が来たという報告を受けると、人払いをして、その客と二人きりで面会した。
「……さて」
政秀は客の名を確認するように口にした。
「大給松平家・松平親乗さまでござったか」
「さようにござる」
松平親乗は慇懃にお辞儀する。
……この親乗との出会いが、政秀を窮地に追い込むことになるが、今の政秀には、それを知る由もない。
「知多の水野どのの紹介ということだが」
平手政秀は、那古野城内の一室にて、二人きりで話す相手である松平親乗に迫る。
「織田家……当家にいかなるご用件で?」
「さればでござる」
親乗もまた身を乗り出した。
彼は説明する。
元々、三河という土地は、松平家が勢力を張っていた。
そこを、駿河・遠江の今川家が手を伸ばしてきて、支配し、今に至っている。
その象徴が松平家本家の竹千代であり、竹千代は今、他ならぬ今川義元の小姓としてそばに留め置かれている。
「それを何とかしてほしいのでござる」
「……何とかと言われてものう」
「かつて織田家は、竹千代さまを預かっていたではござらぬか」
耳に痛いことを言うな、と政秀は思った。
親乗の言うとおりである。かつて、松平広忠が嫡男の竹千代を今川家に差し出した時、三河田原城主・戸田康光がその竹千代を強奪したことがある。織田家は、竹千代を強奪した戸田康光に銭百貫文を支払い、竹千代を買った。
「……しかし戸田康光はもう今川に滅ぼされたではないか」
そこまで言って、政秀は気づいた。
「もしや」
「さよう」
親乗は声を潜めた。
「不肖、この松平親乗、竹千代さまをお救いするつもりでござる」
*
松平親乗の計画は単純明快だった。
今、竹千代は松平本家の居城、岡崎城にいる。
今川義元の小姓として。
その義元が竹千代から離れる時が狙い目。
では、いつなら義元は竹千代から離れるか。
「織田の方から攻めて下され」
そうすれば。
「義元のこと、兵を出す。岡崎を離れる。そこをこの親乗が」
竹千代を強奪する。
「さすれば……三河は松平家の下に。松平は織田どのに感謝し、同盟を結びましょう」
織田にとって有利な同盟を。
……それはいかにも垂涎ものの提案であった。
何より、政秀にとって、「竹千代を奪う」という点が魅力的だった。
それは、政秀がかつて今川に――太原雪斎に苦杯を飲まされた安城合戦の仇を討つということを意味したからである。
*
安城合戦。
それは、生前の織田信秀が三河征服を目指し、松平、今川両家を相手に十年近くもの期間を戦った合戦である。
その結末において、安城城を守っていた織田信広(織田信秀の長男。信長の兄。ただし側室の子のため、嫡男ではない)は、今川家の智将・太原雪斎率いる今川・松平連合軍に攻められ、落城の危機に追い込まれていた。
これを救うために、信秀は腹心であり盟友である平手政秀に一軍を与えて急派した。
政秀は雪斎相手に善戦したが、最後には火縄銃を使ってきた雪斎の攻撃に足止めを余儀なくされ、安城城はついに落城した。
「ま、政秀! 政秀! 助けてくれ! 助けてくれー!」
「信広さま! 信広さま!」
政秀の眼前で信広は捕らえられ、今川家に連れ去られていった。
これを知った信秀は、手元に置いていた松平竹千代と信広の人質交換を今川義元に提案した。
それは、信広の身柄を取り戻すというよりも、意気消沈する政秀のためにおこなったという話である。
だがいずれにせよ――織田家は安城城という拠点を失い、竹千代という人質も返還させられ、三河征服から一歩も二歩も遠のき、その覇道は大きく後退してしまった。
そしてそれは平手政秀の「後悔」として、いつまでも、今でも彼の心に深く影を落とした。
*
「……平手どの、平手どの!」
松平親乗の呼びかけに、平手政秀は夢から覚めたようにハッとして目を開いた。
……いや、実際に夢を見ていた。
悲しい夢を。
「……失敬した、親乗どの」
だが政秀は冷静さを失わず、親乗の唱える竹千代奪還作戦に反対の意を示した。
「お説もっとも。しかし、それはあまりに分の悪い賭けでござる」
「しかし」
言いつのる親乗に、政秀は「本気」を見た。
騙しに来ているのではない。
親乗は「本気」で竹千代奪還による三河独立を夢見ているのだ。
あまりの熱情にほだされて、つい同意したくなる政秀であったが、それでもこらえた。
しかし、音を上げた親乗の、次の一言に、降参してしまった。
「ようござる、ようござる。それならば……信広どのにこの話を持ちかけるまで」
織田信広。
竹千代と交換で帰って来た彼は、安城城で最後まで戦ったことを評価され、信長から留守居役を任されることが多かった。
今も、何かことがあれば、駆けつけられるよう、那古野の城の近くに居を構えている。
親乗は、その信広のところへ行って、おそらく、こう持ちかけるのだ。
「あの時――あの安城合戦の雪辱を果たすのは、今」
――と。
政秀はある決心を固め、親乗を止めた。
「おやめくだされ」
「何故でござる? まさか信広どのに会うのを妨害されるおつもりか」
「いやいやさにあらず、さにあらず……」
親乗はおそらく、今川義元か誰かに「本気で」竹千代強奪を企むように誘導されたのだ。
これが、親乗が「嘘で」、政秀を騙しに来ているのだったら、話は早い。追い出せばいいだけのこと。
でも、親乗は「本気」なのだ。
うまいこと言って追い返したとしても、自力で信広の元へたどり着くだろう。
そうしたら、信広は囚われの身となったあの時の屈辱を晴らす――雪辱を果たすため、一も二もなく賛同するだろう。
そうしたら、織田家はまだ支度の整わないうちに今川家との戦いに身を投じる羽目になる。
「それこそ、安城合戦の繰り返しではないか……」
「何か言われたか、政秀どの?」
「ああいや、こちらの話。さて」
政秀は、威儀を正しながら、親乗に相対した。
「この平手政秀、親乗どのの話に乗らせていただく」
やがて門番から客が来たという報告を受けると、人払いをして、その客と二人きりで面会した。
「……さて」
政秀は客の名を確認するように口にした。
「大給松平家・松平親乗さまでござったか」
「さようにござる」
松平親乗は慇懃にお辞儀する。
……この親乗との出会いが、政秀を窮地に追い込むことになるが、今の政秀には、それを知る由もない。
「知多の水野どのの紹介ということだが」
平手政秀は、那古野城内の一室にて、二人きりで話す相手である松平親乗に迫る。
「織田家……当家にいかなるご用件で?」
「さればでござる」
親乗もまた身を乗り出した。
彼は説明する。
元々、三河という土地は、松平家が勢力を張っていた。
そこを、駿河・遠江の今川家が手を伸ばしてきて、支配し、今に至っている。
その象徴が松平家本家の竹千代であり、竹千代は今、他ならぬ今川義元の小姓としてそばに留め置かれている。
「それを何とかしてほしいのでござる」
「……何とかと言われてものう」
「かつて織田家は、竹千代さまを預かっていたではござらぬか」
耳に痛いことを言うな、と政秀は思った。
親乗の言うとおりである。かつて、松平広忠が嫡男の竹千代を今川家に差し出した時、三河田原城主・戸田康光がその竹千代を強奪したことがある。織田家は、竹千代を強奪した戸田康光に銭百貫文を支払い、竹千代を買った。
「……しかし戸田康光はもう今川に滅ぼされたではないか」
そこまで言って、政秀は気づいた。
「もしや」
「さよう」
親乗は声を潜めた。
「不肖、この松平親乗、竹千代さまをお救いするつもりでござる」
*
松平親乗の計画は単純明快だった。
今、竹千代は松平本家の居城、岡崎城にいる。
今川義元の小姓として。
その義元が竹千代から離れる時が狙い目。
では、いつなら義元は竹千代から離れるか。
「織田の方から攻めて下され」
そうすれば。
「義元のこと、兵を出す。岡崎を離れる。そこをこの親乗が」
竹千代を強奪する。
「さすれば……三河は松平家の下に。松平は織田どのに感謝し、同盟を結びましょう」
織田にとって有利な同盟を。
……それはいかにも垂涎ものの提案であった。
何より、政秀にとって、「竹千代を奪う」という点が魅力的だった。
それは、政秀がかつて今川に――太原雪斎に苦杯を飲まされた安城合戦の仇を討つということを意味したからである。
*
安城合戦。
それは、生前の織田信秀が三河征服を目指し、松平、今川両家を相手に十年近くもの期間を戦った合戦である。
その結末において、安城城を守っていた織田信広(織田信秀の長男。信長の兄。ただし側室の子のため、嫡男ではない)は、今川家の智将・太原雪斎率いる今川・松平連合軍に攻められ、落城の危機に追い込まれていた。
これを救うために、信秀は腹心であり盟友である平手政秀に一軍を与えて急派した。
政秀は雪斎相手に善戦したが、最後には火縄銃を使ってきた雪斎の攻撃に足止めを余儀なくされ、安城城はついに落城した。
「ま、政秀! 政秀! 助けてくれ! 助けてくれー!」
「信広さま! 信広さま!」
政秀の眼前で信広は捕らえられ、今川家に連れ去られていった。
これを知った信秀は、手元に置いていた松平竹千代と信広の人質交換を今川義元に提案した。
それは、信広の身柄を取り戻すというよりも、意気消沈する政秀のためにおこなったという話である。
だがいずれにせよ――織田家は安城城という拠点を失い、竹千代という人質も返還させられ、三河征服から一歩も二歩も遠のき、その覇道は大きく後退してしまった。
そしてそれは平手政秀の「後悔」として、いつまでも、今でも彼の心に深く影を落とした。
*
「……平手どの、平手どの!」
松平親乗の呼びかけに、平手政秀は夢から覚めたようにハッとして目を開いた。
……いや、実際に夢を見ていた。
悲しい夢を。
「……失敬した、親乗どの」
だが政秀は冷静さを失わず、親乗の唱える竹千代奪還作戦に反対の意を示した。
「お説もっとも。しかし、それはあまりに分の悪い賭けでござる」
「しかし」
言いつのる親乗に、政秀は「本気」を見た。
騙しに来ているのではない。
親乗は「本気」で竹千代奪還による三河独立を夢見ているのだ。
あまりの熱情にほだされて、つい同意したくなる政秀であったが、それでもこらえた。
しかし、音を上げた親乗の、次の一言に、降参してしまった。
「ようござる、ようござる。それならば……信広どのにこの話を持ちかけるまで」
織田信広。
竹千代と交換で帰って来た彼は、安城城で最後まで戦ったことを評価され、信長から留守居役を任されることが多かった。
今も、何かことがあれば、駆けつけられるよう、那古野の城の近くに居を構えている。
親乗は、その信広のところへ行って、おそらく、こう持ちかけるのだ。
「あの時――あの安城合戦の雪辱を果たすのは、今」
――と。
政秀はある決心を固め、親乗を止めた。
「おやめくだされ」
「何故でござる? まさか信広どのに会うのを妨害されるおつもりか」
「いやいやさにあらず、さにあらず……」
親乗はおそらく、今川義元か誰かに「本気で」竹千代強奪を企むように誘導されたのだ。
これが、親乗が「嘘で」、政秀を騙しに来ているのだったら、話は早い。追い出せばいいだけのこと。
でも、親乗は「本気」なのだ。
うまいこと言って追い返したとしても、自力で信広の元へたどり着くだろう。
そうしたら、信広は囚われの身となったあの時の屈辱を晴らす――雪辱を果たすため、一も二もなく賛同するだろう。
そうしたら、織田家はまだ支度の整わないうちに今川家との戦いに身を投じる羽目になる。
「それこそ、安城合戦の繰り返しではないか……」
「何か言われたか、政秀どの?」
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