あの恋は上書き保存します。

名木雪乃

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不倫の恋の結末

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 この道は、会社の方へ戻る道だ。
 逢坂おうさか主任は私を引っ張ってどこへ行くつもりだろう。
 もう、どこでも良かった。

 逢坂主任は、林田はやしださんとは対極にあるような人。
 普通に喋っていても声はいつも自信がありそうに大きくて張りがあって、身長も体格も林田さんよりひと回りくらい大きい。
 目つきは鋭くて、怒られると怖いと評判の上司。
 これでよく営業をやっていると周囲に言われているが、お客様からの評判は良いらしい。
 曲がったことが大嫌いで、筋が通っているので、怖がられていても営業一課のメンバーはみんな逢坂主任に信頼を寄せている。

 逢坂主任についていけば安心だった。

「安心しろ。おまえたちのことは誰にも言ったりはしない。だから、もう林田と個人的にふたりだけで絶対に会うな」
「はい」

 もう会わない。

 好きな気持ちは本当だったけど、心のどこかでほっとしている自分に気が付いた。
 私の心の中は林田さんひとりだけが、好きという気持ちを独占しているけど、林田さんの心の中は私だけじゃない。
 私なんてむしろほんの一部。
 大部分は奥様とお子さんで埋まっている。

 それでも一緒にいるのは楽しくて幸せだった。
 ずっとわかっていた。悲しくても辛くてもどこかで終わりが来ることを知っていた。

 手を引いてくれている逢坂主任の姿が滲む。
 これからは林田さんと手を繋ぐことはない。

 ついさっきのことなのに、もう遠い過去みたい。

「……津嶋つしま、林田が好きか?」
「はい……」
「そうか。だけどな、これ以上はもっと苦しくなるだけだ。後で後悔する。誰も幸せになんてならない。わかるな。既婚者は絶対ダメだ。諦めろ。今どんなに泣いてもいいから忘れろ」

 大股でどんどん私の手を引っ張って歩いていく逢坂主任に、涙を流しながら小走りでついていく私。

 泣いてもいいって、すでに涙ボロボロで鼻もぐずぐずですよ。
 片手はあなたに掴まれてるし、もう片方の手はバッグを持っているし、涙が拭けなくて、私の顔はもう酷いことになってるんですけど。

 感傷に浸る余裕も無くなって、なんだか自分が滑稽こっけいで笑い出したくなった。

「あ……」
 
 逢坂主任の歩くスピードについていけなくなった私は、とうとうよろけた。
 それに気が付いた逢坂主任がようやく振り向いた。私の悲惨な状況を見て、瞠目どうもくすると止まってくれた。

「悪い、悪かった、津嶋。ハンカチ……」
 
 逢坂主任は、スーツのポケットから自分のハンカチを取り出したが、くしゃくしゃのそれを見て息を飲んでいる。

「じ、自分のがありますから」

 悪いけど、そのハンカチはちょっと……でも。

「そうか」

 私から視線を逸らして、ほっとしたような表情で何度も頷く逢坂主任の仕草が似合わない感じがして可笑しかった。

「やっぱり貸してください。ハンカチ」
「これでもいいのかよっ!?」

 逢坂主任の素の言葉づかい?
 なんだかまた妙に可笑しくて、笑いたいのを堪えていたら、止まっていた涙がまた溢れてくる。
 
 可笑しいのと悲しいのとで、よくわからなくなって泣いている私。

「わかった、わかった。これで良ければ使っていいぞ」

 泣いている理由を勘違いしている逢坂主任は、躊躇ためらいながらもすごく優しい口調でハンカチを差し出してくれた。

 ここで気が付いたように手が離された。
 ハンカチをありがたく受け取ると、涙と頬を拭かせてもらった。
 何故か、上からじっと見られていて、恥ずかしかった。

 見すぎです、主任。

「ハンカチは洗ってお返ししますね」
「いや、気にするな。どうせ洗うのはうちの洗濯機だ」
「だめです! ファンデーションが付いてしまったので、手洗いしますから」

 私がきっぱりと言うと、

「あ、ああ。悪いな。で、ファンデーションていうのは化粧品の名前なのか?」

 と、折れてくれたが、その質問にまた笑いたくなってしまって困った。

 逢坂主任て、体育会系の素朴な男子みたいな人?


「じゃあ、行くぞ」

 逢坂主任は、自然にまた私の手を取った。

「え……」

 まだ私がきっと心配なんだ。

 今度は歩く速度は私に合わせてくれているらしく、かなりゆっくりになった。

 少し落ち着いた私は、疑問に思ったことを逢坂主任にたずねてみた。

「どうして私たちがあそこにいるってわかったんですか?」
「昼休みに、林田が今日は外回りに行く予定がなくて、仕事帰りに広川公園の夜桜を見に行くって二課のやつと話しているのを偶然聞いた」

 逢坂主任は、先の方を見ながら教えてくれた。 

「前にもな、林田は女子社員と噂になったことがある。俺は真相は知らないが、その子は会社を辞めた。だから、心配だったんだよ。おまえ、林田に最近よく送ってもらって帰ってたんじゃないのか?」

 こちらに厳しい目が向いたのがわかった。

「はい……」

 私は、逢坂主任の顔をまともに見られず俯いた。

「急におまえが帰ったって聞いたから、その……なんでか焦った。林田が夜桜を見に行く相手がおまえのような気がした。広川公園からホテル街は近いし。まあ、今更とも思ったが、気が付いたら追いかけてた。まだぎりぎり20代なのに、息切れが酷くて参ったよ」

 逢坂主任の顔は、確かに疲れが見えていた。

「大丈夫ですか」

 思わずそう言ったら、少し睨まれた。
 
 でも、逢坂主任て、こんな優しい人だったんだ。
 人の道に外れた恋をしている部下を心配して捜しに来てくれるような。

「見つかって、良かったよ」
 
 逢坂主任は私の手をまだ離さない。
 何か言いたげな目で強く見つめられて困る。

「くそ真面目。なのに流されやすい。ほっとけないやつだ。おまえは」
「すみません」
 
 流されやすいのは当たっている。
 きちんと自分を持っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

「教えろ」
「はい?」
「おまえの家だよ」
「え?」
「送るから」
「主任が?」
「他に誰がいるんだよ」

 だから会社の方へ向かってるの?

「言っておくが、俺は独身だからな」

 はい、それは知っています。

「安心しろ。俺は社員に手は出さない」
「はい……」

 逢坂主任は絶対そういう人だと思う。

「遊びでは」
「はい!?」

 さりげなく遊びでは、と言い足しました?

 逢坂主任は、自分の車が停めてある会社の地下の駐車場に着くまで、結局私の手を離さなかった。



 宣言通り、逢坂主任は私をアパートまで車で送ってくれた。

「林田には俺が話をつけるから、明日からの心配はしなくていい。津嶋は自分自身の気持ちだけをなんとか整理しろ。おまえなら乗り越えられる。おやすみ。ゆっくり休め」
「色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした。送って下さって、ありがとうございました」

 車を見送ると、アパートの階段を重い足取りで上がり、部屋へ入った。
 暗い部屋、静かなひとりだけの部屋。
 誰の温もりも感じない、寂しい部屋。

 心の中は、空っぽだった。

『奈由ちゃん!』
 
 最後に私の名前を呼んだ林田さんの声が耳に残っている。
 また涙が出そうになるのを必死で我慢した。
 これ以上泣いたら目が腫れて明日会社に行けなくなる。

 コートのポケットからハンカチを取り出した。
 私はコートを脱ぐと、そのまま洗面所へ向かった。
 洗面所の鏡にうつる私の顔は、涙のせいで化粧も落ちて、予想以上に酷かった。
 こんな凄まじい顔をずっと逢坂主任に見せながら帰ってきたんだ。

『おまえなら乗り越えられる』

 本当に?
 
 目を冷やして寝なくちゃ。
 
 私はハンカチを洗い始めた。



♢♢♢♢♢♢

 
 翌朝、なんとか出勤した。
 すでに逢坂主任は出勤していて、デスクにいた。

「おはようございます、逢坂主任。昨日は色々すみませんでした」
「おはよう、よく来たな。偉いぞ津嶋。だがな、会社では暗い顔するなよ。今日の仕事の予定は?」

 私が今日の予定を話すと、「あとでメールする」と言われた。


 朝から林田さんとすれ違ったときは心臓が痛かった。
 林田さんからは、何事もなかったかのように、ただおはようとだけ挨拶された。
 私は下を向いていたので、林田さんの表情は見えなかった。
 一言も何も話かけて来なかった。私は無言で会釈しただけ。

 逢坂主任は林田さんに話をつけると言っていた。
 だとしたら、どんな話をしたんだろう。




 林田さんからは、その後も個人的な連絡や接触は一切なかった。
 私は林田さんの姿を見かけるたび胸が苦しかったが、私からも連絡はしなかった。
 それでも好きという思いはなかなか消えてくれない。

 そんな私に、逢坂主任はしつこいほど張り付いて、過保護ぶりを発揮していた。
 退社の時間をなるべく合わせて、車でアパートまで送ってくれた。
 どうしても無理な場合は、遅くなっても必ずあとで電話をくれた。

「無事か」
 
 いつもその一言から始まった。
 逢坂主任がこれほど心配性でマメな人だったなんて、意外だった。



 そんな中、突然、林田さんが他県の支店に転勤すると聞いた。


「突然転勤って、もしかして私とのことが原因じゃないんですか? 私のせいじゃ……」

 送ってもらう車の中で、逢坂主任にたずねていた。

「違う。奥さんの親御さんが身体を悪くしていて、林田は元々奥さんの実家がある札幌支店へ転勤を希望していたんだ」

 え? 札幌……。ここからかなり遠い場所。

 ショックだった。何も林田さんからは聞かされていなかった。
 あのまま関係が続いていたとしても、結局はこんな別れになったんだ。
 私とのことは、そんなものだったんだ。

「だから、心配するな」
「はい……」

 私はもやもやした苦いものを飲み込んだ。



 それから数日経って、林田さんがこの職場を去る前日。

 私は給湯室で、お客様に出し終わったコーヒーカップを洗っていた。

「奈由ちゃん」

 背後から聞こえたその声に驚いて、カップを落としそうになった。

 林田さん!!

「振り向かないでそのまま聞いて。僕に散々付き合わせてしまって、きみには悪かったと思ってる。でも、きみと一緒にいる時は、とても楽しかった。嫌なことを忘れられた。今までありがとう。きみの幸せを祈ってる」
「!!」

 本当に、最後の、あっけない別れの言葉だった。
 私は何も告げる言葉が見つからなかった。


 
 林田さんが出勤最後の日に、朝礼で淡々と挨拶する姿がとても遠くに感じた。
 私の背後に逢坂主任がいたからか、林田さんは挨拶の最中に一度もこちらを見なかった。


 林田さんが転勤して、社内でも見かける機会が無くなると、すごく好きという気持ちも自然と薄れてきた。
 距離を置くというのは、本当に気持ちも冷めるのだと知った。
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