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月とスッポン~番外編④~

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 いよいよ明日は営業の代表会議だ。

 遼平さんから車で送るから一緒に帰ろうとメールが来ていたので、私は時間差で会社を出て、途中近所のコンビニで遼平さんに拾ってもらった。


「奈由、林田だから個人的にメールや電話は来てないだろうな」
「はい。何も来てません」

 運転中の遼平さんが、気ぜわしく私の方をチラチラ見てくる。

『おまえのことは誰にも渡さない。だから安心しろよ』

 その言葉が心にある。
 もう本当に大丈夫だと思えた。
 林田主任に実際会っても、何を言われても、もう心を揺らすことはない。

 明日、私は会議室のセッティングや後片付けも手伝うことになっていた。
 有馬部長からの指名だったから断れなかったと、苦々しい表情の遼平さんからそう告げられた。
 遼平さんは、とにかく私を極力、林田主任に近づけたくないみたいだ。

 大丈夫、ご心配には及びませんから。



 私のアパートの前で車を停めると、遼平さんは私の方に真剣な目を向けてきた。

「林田が寄ってきたら、すぐ逃げろよ」

 遼平さん、大袈裟です。

「林田主任が鬼みたいな言い方しなくても。人間なんですから」
「だからだよ! あいつの色素の薄いけしからん容姿に騙されるだろう。見た目が鬼ならこれほど心配しない」
「は? 確かに、林田主任て髪の色が少し茶がかってましたね。気にしたことありませんでした」

 地毛なのかな。けしからん容姿って、イケメンってこと?

「とにかく、奈由はあいつを見るなよ」
「もう、心配しすぎですって」
「奈由、明日は具合悪くなって、会社休め!」
「は?」

 とうとう、らしからぬお言葉出た!

「俺が具合悪くしてやろうか」
「!?」

 急にあやふやな表情になった遼平さんの手が、フラフラと私のブラウスの胸のボタンに伸びて来る。
 ボタンがひとつ外された所で、その意図することに気が付いて、心臓の振り子が限界まで跳ね上がる。

「や……」

 落ち着け、私!!

 私はその憑かれたように動く手を両手で力を込めて掴むと、遼平さんの濁った目を強く見つめた。

「やめてください、怒りますよ! 遼平さんらしくないです! この前は、林田主任の声を聞いて確かに動揺しました。でも、あなたから大切な言葉をもらいましたから、本当に大丈夫です」

 その掴んだ手に、頬をよせた。
 すると遼平さんの手がピクッとして、その目にいつもの誠実そうな光が戻った。

「悪かった。何おかしなことやってんだ、俺。これじゃ俺の方が鬼畜だな。ごめん、本当に」
「私が好きなのは、遼平さんだけですから」

 遼平さんが私の言葉に反応して、柔らかい顔つきになってくれた。

「お、おう、明日は忙しいから今夜はゆっくり休めよ」
「はい、遼平さんもですよ。遼平さんの方が大変なんですから。司会もあるし」
「そうだった。じゃあな、おやすみ」

 遼平さんの手が、私の頬を少し撫でてからゆっくり離れていった。


 それだけで寂しい気持ちになるなんて、私も相当……。
 この人に、囚われている。



♢♢♢♢♢♢


 翌日、会議は滞りなく進められ、無事に終了した。


 野上さんと相原くんと私の3人で、会議室の後片付けを行っていた。
 私は、長机の上をふきんで拭いていた。冷えたペットボトルのお茶の水滴がどの机にも残っている。
 野上さんと相原くんは、椅子や机を整頓しながら忘れ物やゴミなどが無いか確認していた。

「あれ、誰よ~!? あたしたちが心血を注いで作った資料を机に忘れて行った愚か者は!」

 野上さんが机に残っていた資料を見て、不満そうな声をあげた。

「なんだ、笠井主任か~。相変わらず忘れ物する人ね」

 名前が書かれていたらしい。

 笠井主任て、確か第二にいた人で昨年どこかに転勤したような。

「じゃあ、オレがすぐ届けますよ。まだその辺にいると思うんで。ここはもう大丈夫ですよね」
「頼むわ、相原くん!」
「はい。では、失礼します」

 相原くんは、書類を掴んで小走りで会議室から出て行った。

「あとは回収したペットボトルを捨てて、プロジェクターを片付けるだけね」
「そうですね」
「あたしはプロジェクターを片付けるから、なっちゃんはゴミとふきんをお願い」
「はい」
「じゃあ、行きましょうか」

 野上さんがプロジェクターの載っているキャスター付きのワゴンをガラガラと動かし、私はゴミ袋とふきんを持った。
 会議室のドアまで来て、ふたりで確認のため振り返った。

「あ~、プロジェクターのスクリーン、上げるの忘れてた!」

 見ると、前方のスクリーンが下がったままだった。

「私がしておきますから、野上さんはどうぞお先に」
「操作わかる?」
「はい、司会者台に置いてあるリモコンですよね」
「そうそう」
「スクリーンを収納して、空調と照明を消してから戻りますね」
「じゃ、頼もうかな。悪いわね」
「いいえ」


 2人が会議室を後にしたので、私は静かな空間にひとりになった。
 ほうっとため息が出た。

『会議が終わったら、速攻で……』

 急に遼平さんの明け透けなセリフが頭に浮かんできて、慌てて追い出す。

 私ってば、何を考えてるんだろう。
 あ、今、ダメな一週間だった。
 ごめんなさい、遼平さん。

 そういえば、林田主任を遠くにチラッとだけ見掛けたけど、これといった特別な感情は起こらなかったな。
 良かった。

 指輪に触れてみる。

 遼平さん、今度は平気みたいです。

 私は司会者台に行って、プロジェクタースクリーンのリモコンを手に取った。

 そうだ、今日は遼平さんはここで司会をしたんだった。
 どんな感じだったのかなあ。
 うまくいったのかな。

 スクリーンに向けてボタンを押す。

 あれ? どうしたんだろ? うんともすんともいわない。

 なぜかスクリーンは無反応だった。

 ブー、ブーっとスカートのポケットの携帯電話が音をたてた。
 会社ではマナーモードにしてある。
 リモコンを台に置くと、携帯電話を取り出した。

――<奈由、どこにいる?>

 見ると、遼平さんからメールだった。

 会議が終わったと知らされて、私たちが片付けに向かった時に、有馬部長と第一の坂口課長、遼平さんが3人で連れ立って会議室を出ていく姿を見掛けてはいた。

 お話終わったのかな。

 私が<会議室で……>と途中まで入力したところで、ガチャッとドアの開く音がした。

 遼平さん?

 私が顔をあげると、そこにはスラリとした懐かしい佇たたずまいの人がいた。

 林田主任!?

「やっと会えた」

 私に見せてくれる穏やかな微笑みは変わらなかった。

『林田が寄ってきたら、すぐ逃げろよ』

 遼平さんの警告がよみがえる。

 どうしよう? すぐここから出て行くべき?

 でも、林田主任の方が出口に近い。

「……何か、お忘れ物ですか?」
「そんな困った顔しないで。少し、話がしたいだけだから」
「はい……」

 私のその場しのぎの問いかけは、宙に浮いた。

 私は途中まで打ったメールの送信ボタンを素早く押してから、携帯電話をポケットに戻した。

 林田主任は私にゆっくり近づいて来た。
 ふたりの距離がだんだん狭まると、私の身体は自然と後退していた。

 それに気が付いた林田主任は、その位置で止まってくれた。

 私は胸元に移動させた右手に、左手を無意識に重ねていた。

「お久しぶり、奈……、いや、津嶋さん」

 林田主任、少し痩せた感じがしないでもないけど、気に掛けるのは私の役目ではない。

「お久しぶりです。林田主任。……札幌の住み心地はいかがですか?」
「今は気候が爽やかで良いよ。でも冬の寒さを知らないから、冬が心配かな」

 林田主任は薄く笑ってから、硬い表情をした。

「あまり時間が無いと思うから、伝えたかったことだけ話すね。今更だけど、ごめんね。ずっときみに謝りたかった。僕はずるい男だった。きみの優しさに甘えて……」

「……」

 謝りたかった、なんて……。そんな。

「逢坂に、きみとこの先も付き合って行くなら正式に離婚して、慰謝料や子どもの親権、養育費の問題などをすべて解決してからにしろと叱責された。その覚悟がないなら、おまえの方から手を引けと、無責任なことをするなって。そうでなければ、みんな傷つくだけで、誰も幸せになれないと言われた。正論だった。その通りだったから、返す言葉も無かった」

 遼平さんと林田主任は、そんなやり取りをしていたんだ。

「あの時は、きみみたいな可愛い女の子が心を寄せてくれて、応えたい支えたいと安易に思ってしまったんだ。僕は、自分の置かれている現実から一瞬だけでも逃げたくて都合よくきみを利用したも同然だった。でも、きみは優しくて僕には癒しだった。一緒にいて心が安らいだし、楽しかった」

「私も、楽しかったです」

 あなたのことが、あの時は好きでした。
 あなたに恋をしている事が、楽しかった。

 でも、罪悪感があって、気持ちを貫くことは……あなたと同じで、できなかった。

「妻に親が病気になったから実家の札幌で同居したいって、何度も言われてうんざりしていた。僕はあの時担当していた仕事が終わるまでは、転勤したくなかった。単身赴任ではどうかと相談したら、子どもが小さいんだから父親の役目を果たすべきだと言われた。仕方がなく転勤願を出したら出したで、今度はまだかまだかって、早々荷造りもはじめる始末で。……今は、もう、気持ち的にもだいぶ落ち着いたよ。」

「………」

 何と言っていいか分からない。

「転勤前は逢坂がきみを僕から守ろうと目を光らせていたし、僕もきみと冷静に話せそうになくて、きみを傷つけたままさっさといなくなるような形になってしまって、すまなかったと思ってる」
「私になんて謝らないでください」

 遼平さん、こちらに向かって来てくれてますよね。

「ずっと指輪に触れていたね。その指輪は僕よけ? それとも本物のきみを縛る指輪? 逢坂から?」 
「これは、本物の心のこもった指輪です!」

 遼平さんの心がこもった本物です。

「そう。きみはもう逢坂のものか。あいつの押しにまけた? あいつが首をつっこんできた段階で、こうなる未来は見えていたよ。あいつはしぶといからな。狙った獲物きみは逃さないと思ったよ。知ってるだろうけど、営業スタイルも食いついたら離れないスッポンみたいだしね。しかもへこたれない、図太ずぶとい、本当に羨ましい奴だよ」

 スッポン!? 確かに、遼平さんは吸血鬼というよりは、スッポンかも。

「奈由ちゃん、顔がにやけてるよ。きみは今、幸せなんだね」
「はい、幸せです」

 それは自信を持って言える。



 突然、会議室のドアが乱暴に開かれた。

「奈由!!」
「主任!」

 遼平さんは額に筋を立てて一目散に私の方へ来ると、林田主任との間に立ちふさがった。

「林田! てめェ……」

 遼平さんの抑えた声が怖い。

「待ってください、主任! 林田主任に聞いていたんです!」

 私は咄嗟にスクリーンのリモコンを掴んで、遼平さんに突進するとボタンを押してみせた。
 遼平さんは、勢い余った私の身体を受け止めてくれた。
 両肩に手を添えてくれて、私を見下ろす遼平さんの表情に、少し柔らかさが戻った。

「ボタンを何度押してもプロジェクターのスクリーンが上がらないんですよ! だから、通りかかった林田主任に聞いていたんです!」

 あ~、説明がとても苦しい。
 茶番劇だよね。

「たぶん電池切れだ。さっき、上がらなかったから、電池を取ってきた」
「……さすが主任、ありがとうございます。なんだ、やっぱりそうだったんですね。林田主任もそう言って下さって、私、ストックルームに電池を取りに行こうと思っていたところです」

 私たち3人の間に、沈黙が流れた。


 口火を切ったのは、林田主任だった。

「逢坂、あんまり津嶋さんを束縛するなよ。前の彼女は束縛しすぎてフラれたんだろう?」
「何年も前の事を言うな。同じてつを踏むつもりはない。おまえもだからな。自覚しろ。既婚者は重い責任がある。投げ出したら駄目な責任だ。それを覚悟して結婚したんだろ?」
「既婚者の責任か……。おまえもいずれ知るだろうが、僕にとっては思っていたよりずっと重いものだったよ。でも、確かに幸せなこともあるのにな。年月が経つとそれが当たり前になって気付かなくなるんだ」

 林田主任が、私に視線を移した。

「津嶋さん、逢坂は強くて良い奴だ。お幸せに」
「はい。林田主任も」

 林田主任は眉を下げ苦笑すると、会議室から出て行った。

 林田主任に背を向けられても、もう何も感じない。


 彼を見送る間もなく、身体が反転した。

 え、うわっ!?

 同時にワイシャツの熱い胸と腕にぎゅっと拘束された。

 苦しい……。言ってるそばから、もう、遼平さんたら。

 少し拘束が緩んだと思ったら、右手を持ち上げられて薬指の指輪にキスされた。

 ひっ! 普段こんなことしない人ですよね。

「今日、おまえの所に泊まって良いか?」
「……」

 来たあ~、どうしよう。女の子の日だからって断ったらしょげちゃうかな?



 コホン!!

 突然、第三者のわざとらしい咳払いがひとつ聞こえた。

 え!?

「部長!!?」

 会議室のドアの所に、営業のお手本のようなニコニコ顔の有馬部長が立っていた。

 もしかして、林田主任と入れ違いに?
 どうしよう。いろいろ見られて、聞かれちゃった。

「奈由、心配すんな」

 オタオタする私をしり目に、そっと耳打ちする遼平さんは全然動じていない。


「きみたちは、えーっと、そういう関係なんだな」
「はい、部長。私は津嶋と結婚を視野に入れて真面目に付き合っています」

 !?……ですよね。

「ほう、津嶋さん、きみはこのスッポンで良いのかい?」

 スッポンって、さっき林田主任もそんなことを。

 甘美な月に引き寄せられた私。
 そんな私に食らいついて引き離してくれたスッポン。
 そして、そのまま良いように食いつかれてるけど。
 でも、幸せな気持ちです。
 私もあなたが幸せな気持ちでいられるように努力します。
 あなたの傍にずっといられたら。

 ここはちゃんとお答えしないと。

「はい! 月よりスッポンが良いです!」

 遼平さんが目を丸くして微かに顔を染めている。
 有馬部長はプッと噴き出した。

 あれ? なにかおかしかったですか?

「そうか、スッポンは滋養があるし、味も良い。見た目や性質はちょっとアレだがな。あははは……。ふたりともお熱いねえ。だが、社内ではマズイよ」

 にこやかだった有馬部長の目の瞬きが途中で止まった。

「すみません」「申し訳ありません!」

 私たちは、同時に頭を下げた。


「津嶋さん、近々きみに異動の辞令が出る予定だ」

 異動!?

 その言葉は、頭をなぐられたような衝撃だった。

 わ、私の方がどこかに行かされる?
 遼平さんと離されちゃうの!!?

 思わず遼平さんを見上げると、目じりを少し下げた、やるせないような顔を返された。

 私の異動のことを知っている?

「総務の方で、松本君が退職することになってね。きみは気が利くし、社員の評判も良い。総務から来てもらえないかと打診されていたんだ。頼めるかな?」

 総務課。つまり、階が違うだけですよね。

 ホッとして、胸をなでおろした。

「はい、わかりました」

 総務課に異動かあ。

 部長の前なのに、遼平さんは私の肩をしっかり抱いたままでいた。
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