忘れ物を届けにきました

市尾彩佳

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SCENC 1(明視点)・2(優子視点・回想あり)

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 プレゼンが終わると、広い会議室の中には張り詰めた空気が流れた。
 上座に座る壮年の男が、手元の資料をぱらぱら開きながら、重々しく言った。
「まずはモニタリングだな。フェアを開催しよう。一週間だ。準備・宣伝その他、すべて君に任せる」
「ありがとうございます!」
 仁瓶明は喜びいっぱいに礼を言う。だが、傍系からのし上がってきて今の年になってようやく主だった重役に顔を連ねることができた男は、一言忘れることはなかった。

「仁瓶の直系として、恥ずかしくない業績を刻んでくれ」

 妬みと軽視。今まではひねくれて投げ出してしまっていたが、もうそんなことはしない。
 明は姿勢を正して、嫌味を跳ね返した。
「 “仁瓶明個人”として精一杯務めさせていただきます。フェアに先駆け、スタッフの演習をかねてプレ招待を行おうと思っています。取締役の皆様をご家族とともにご招待しますので、是非お越しくださってご意見ください」
「身内だけの招待か?」
「いえ、常連のお客様方にもDMで告知し応募者の中から抽選でご招待したいと思っています。──それで、個人的に一人招待することをお許しください」
「……成功すれば、創業家のお歴々も文句はないだろう。誰だね? 君に招待したいと言わせたラッキーな人物は」

「氷室優子さん──僕の恩人とも言うべき人です」


 ***


「彼女、よく会社に来れるよね」
 嘲笑のこもった声に、身体が芯から冷えていく。九月も半ばを過ぎてそろそろみんな忘れてくれていればと思っていたけれど、そう都合よくはいかないらしい。

 今年の夏休み、氷室優子は付き合っていた人に酷い振られ方をした。
 彼と付き合い始めたのは四月、優子がいる部署に彼が異動してきたのがきっかけだった。歓迎会から数日後、彼から付き合わないかと誘われた。
 生まれて初めて告白されて、男性と付き合ったので、浮かれていたのだと思う。
 日々忙しいこともあって、メールのやりとりをする以外、デートなど恋人らしいことをしたことがなかったのも気にならなかった。
 夏休みをどうするかという話から始まった、泊まりがけの旅行。ある有名な花火大会を見てみたいという彼のリクエストに応えるべく、ねばり強くキャンセル待ちをして、やっと二人部屋の予約を取った。
 急に用事が入ったという彼の言葉を信じて、優子は先に行って一人で観光を楽しんだ。そして日暮れ前、約束の時間になってもホテルに現れない彼を心配して電話をしたら、彼以外の人が電話に出たのだ。
『氷室さん、ホントに○○県にいるの? ウソでしょ!?』
 電話の向こうから爆笑が聞こえた。
 笑いながら、同僚たちが代わる代わる電話に出た。
 優子が誘われなかった彼の歓迎会の二次会で、賭が行われた。それはお堅い優子を、彼が落とせるかどうかという賭。
 大方の予想に反して、優子はあっさりと交際を承諾した。
 そこで困ったのは彼だ。付き合いたいわけじゃなかったのに交際を申し込んでOKされてしまった。別れたいけれど、傷つけるのも悪いと思って自然消滅することを期待した。ところが優子は、彼がそれとなく避けていることにも気付かない。
 夏休みの計画が出た時、無理難題をふっかけて優子が彼に愛想尽かすようし向けた。なのに優子はホテルの予約を取ってしまい、急用が入ったから先に行ってと言った彼の言葉を鵜呑みにして、遠く○○県まで一人で来てしまったのだ。
『フツー、そこまでされたらなんかおかしいって思わないか? 勘違い女って怖えーな!』
 もちろん少しは思った。けれど疑う気持ちはすぐに打ち消した。彼はいい人だから。きっと事情があるんだと言い聞かせて。
 反論も言い訳もできなかった。ショックだったのは、騙されていたことよりそのことを同僚たちに広めて笑い物にしたことだった。

 休み明け、職場で彼と会ったけれど、一度も話していないし目も合わせなかった。
 優子が振られた話は部署全体に広まり、他部署の人からも指さされ嘲笑混じりに囁かれる。
 針のむしろのようだった。会社を辞めたいとまで思ったけれど、辞めたら生活の当てがなくなるし、転職できる自信がない。

「この書類なんだけどー」
「はいっ」
 反射的に返事をしたけれど、彼と親しい人だと気付いて対応に行くのを躊躇する。
 夏季休暇が終わって出社してすぐのこと。真っ先に対応に出たのに、優子を無視して後から対応に来た女の子に仕事を頼んだ。
 そんなことが何度も続くうちに居たたまれなくなって、相手を確認してから返事をしようと思うのに、時折そのことを忘れてしまう。
 腰を浮かせかけたけれど、座り直して手元の仕事に戻った。それから少しして、別の女の子が席を立って対応に出た。
 用事が済んでその男性が出ていくと、優子の側を通りかかった女の子が辛辣に言う。
「人が来るたびにはいはい声張り上げちゃって、目立ちたがりもほどほどにしたほうがいいんじゃない?」
「私、そんなつもりじゃ──」
 反論しかけると、隣の席の女の子が言った。
「人が来るとまっさきに対応に出る人が、目立ちたがりじゃなかったらなんていうの? 出しゃばり?」
 優子は悔しさに唇を引き結ぶ。
 まっさきに対応するようになったのは、他の女の子たちがすぐに対応しないからだ。
 総務部は、他部署の人たちが業務を円滑に行えるようにサポートするのが仕事のはずだ。なのに他の人たちは自分の仕事にきりがつくまで相手を待たせて、平気な顔をしている。それはおかしいと思って、優子は自分が正しいと思うことをしているのに、彼女たちの気に障るらしい。
 彼にこっぴどく振られてからというもの、優子に対する悪感情を隠すことなく、文句や嫌みを言ってくる。会議などで課長や係長がいない、今みたいな時を狙って。
「それにしても、ホントよく会社に来れるよね、氷室さんって。あなたが勘違いしたあげくこっぴどく振られた話を皆知ってるのに、恥ずかしくないの?」
「私だったらすぐ会社を辞めるわよ」
「それがフツーよね」
「氷室さんは自分が避けられてるのに気付けないくらい、フツーのひとじゃないから」
 彼女たちの悪意ある言葉に耐えながら、優子は自分の仕事を黙々と続ける。
 そこに、開け放たれた扉をノックする音がした。
「ちょっとお邪魔していいかな?」
 優子はいつも通り、誰よりも早く入口を見た。
 その瞬間、目を大きく見開く。
 声は出なかった。あまりに驚きすぎて。
 その反応をいぶかしんだ同僚の女の子たちも、続いて入口に目を向けた。
「誰!?」
「イケメンじゃんっ」
 小声でささやき合う。
 席を立っていた女の子が、意気込んで対応に出た。
「い、いらっしゃいませ! ご用は何でしょう?」 
 ずるいという小さな声が聞こえる。
 色めき立つ女の子たちに気付いているのかいないのか。来客の男性は、細面の整った顔に愛想の笑顔を浮かべてばっさり切り捨てた。
「用があるのは、君じゃなくて氷室さんなんだ」
「え? 氷室さん?」
 女の子たちに一斉に睨みつけられて、いたたまれない。
 それなのに彼──仁瓶明は爆弾発言をした。
「優子。君、俺の部屋に忘れ物したでしょ?」
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