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少年と鬼

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 ――東京。
 極東アジア最大の都市にして
 香港と並び称される金融センターを擁するメガシティ。

 私はその東京シティの玄関口
 成田国際空港に降り立っていた。

 ターミナルを出て、空を見上げる。
 外は雨だった。
 東京は恐ろしく蒸し暑く、
 蒸気を含んだ不快な熱気が肌にまとわりついてきた。

 空港からエクスプレスに乗り
 ダウンタウンに向かう。

 乗換のために降り立ったダウンタウンのターミナル駅はグランドセントラルステーションが田舎のバスストップに思えるほどの
人で埋め尽くされていた。

 そこから目的地近くの駅まで行く地下鉄に乗り込んだ。
 車内はアンデッドのように文字通り死んだ眼をした
 日本のビジネスマンで埋め尽くされており、雨季の湿った蒸し暑い空気と乗客の汗が充満していた。

 私はさながらアウシュビッツ収容所に送られる輸送車のようなその車内で若干の後悔を抱えながらこう思った。

「次こそはタクシーを使おう」と。

 15分後、私はトーキョー都心のゴミゴミとしたオフィス街のど真ん中にいた。

 目的地の高層マンションはここから歩いて数分のはずだ。
 その前に空腹を満たそう――
 そう考え私は下品な色合いをしたオレンジの看板が目立つビーフボウルのチェーン店に入った。

 ランチタイムにはまだ早かったはずだが、店内は混み合っていた。
 ホールにはあらゆる種類の中年の男が集まっていた。

 禿げあがった男、小太りの男、やせぎすでメガネをかけた神経質そうな男。
 
 見た目にはあまり共通点が見られなかったが
 不思議と目が淀んでいる点は共通していた。

 この国のオフィスワーカーは皆同じような目つきになるらしい。

 店員は私が外国人だからか注文を頼むと、ひどく慌てた様子だった。

 私がこの国の最も理解できないところは、国民が英語に対して恐怖心に似た感情を持っているというところだった。
 英語圏の国にいけば5歳児もボケたジイさんも、夢の国のネズミのマスコットでさえ英語を話しているというのに。

 何とか身振り手振りで意思を伝えると、甘辛く煮つけられたビーフとびしょびしょに煮崩れたオニオンのソースがかかった
ライスを人の汗の臭いがする黄土色のスープで流し込んで空腹を満たした。

 気分は限りなくブルーだった。
 ここに来なければならなくなったのは元を正せば自分の軽率さが原因とはいえ、この仕打ちはない……。

 ミケルセンとの戦いで生身の左手に永遠の別れを告げた私には義手が必要だった。

 毒の回った左手を整形外科でくっつけてもらうわけにもいかない。

 腕の欠損は高度な心霊医術でも補うことは出来ない。

 心霊医術に用いられる治癒魔術は、体内を巡るエーテルを負傷箇所に効率良く循環させることで、自然治癒能力を高めるものだ。
 擦過傷や裂傷、あるいは弾丸による貫通痕程度であれば、腕の良い心霊術師の施術で治るが、身体の部分的欠損というと事は簡単ではない。
  
 だが、何事にも例外は存在する。
 それが私の目的の人物だ。

 彼女の名は日御碕御影。

 ソサエティが研究成果を欲してやまなかった、最高位の心霊術師。

 そして私は控えめに言って彼女のことが苦手だった。

 ヒノサキに初めて会ったのはもう何年前になるか。

 当時、オールド・カレッジに短期間ながら在籍していた頃に、ヒノサキと私は会い見えた。

 カレッジでのヒノサキは有名人だった。

 新興の家系の出でありながら、学内きっての天才であり、
 日本という極東の地から来た彼女は嫌というほど注目を集めた。

 専門が違ったため、共通基礎科目以外では顔を合わせることはなかったが、私もオールド・カレッジの中では名門フィッツジェラルド家の血をひくものとして
それなりに有名であったために、お互いの顔は知っており、何度か廊下ですれ違ったことがある。

 "Hi"とか"Hello"とかそのぐらいの言葉は交わしたような気がするが、当時のお互いに対する印象は「無関心」だった。

 私は彼女の研究に興味が無い。
 彼女は私の家業に興味が無い。
 実にシンプルで気持ちのいい関係だった。
 今にして思えば、だが。

 その後の彼女の動向は、噂話と推測を交えた程度のことしか知らない。
 オールド・カレッジ在学中に、まず彼女は、欠損した体の一部を魔力を使って生成した義手、義足で補う施術に成功した。

 魔力は流体だ。
 それゆえ、炎や水、氷など形の移ろいやすいものを作り出すのは容易だ。
 人体は新陳代謝を繰り返し、少しずつ形を変える。よって人体も流体とは言える。

 故に、エーテルから人体を生成することは極めて優秀な術者ならば可能だ
 だが、ヒノサキほどの若さで到達したものはいない。
 
 彼女の名は高まった。

 その後、オールド・カレッジを去った彼女は独自に研究をつづけ、
 ネクロマンシーと心霊医術の組み合わせにより、
 理論上、霊体さえ無事であれば蘇りが可能であるとの自らの研究成果を発表した。

 魔術の研究には気の遠くなるような長い年月が必要だ。
 そして「永遠の命」は生き汚いオールド・カレッジの教授や、ソサエティの理事にとっては
喉から手が出るほど欲しい成果だった。

 その理論を発表して間もなく、研究のために外法な人体実験を大々的に行った廉で、ヒノサキはソサエティから追われる身となった。

 だが、それが事実ではないことは魔術の関係者なら9割がたの人間が知っていたことだ。
 
 魔術犯罪の認定を行うのはソサエティの理事。
 捕えられたお尋ね者の研究成果は接収される。
 そして、ソサエティは彼女の研究成果に執心していた。
 要約すると彼女は填められたわけだ。

 私は彼女の研究にさしたる興味はないが、彼女の到達した高みがどれほどのもので、
魔術師連中にとってどれほどの価値がある技術であるかは嫌というほどよくわかる。

 ソサエティが彼女にかけた懸賞金の額からも、どれほどその技術に彼らが執心しているか良く分かっていた。

 彼女と知己とは言える程度の関係になったのは、私が彼女を捕えに行ったのがきっかけだった。
 パトリックが人材交流で知り合ったという日本の刑事からの情報をもとに私はヒノサキが東京にいるらしいとの情報をつかんだ。

 彼女を狙った理由は純粋に良いビジネスだったからだ。
 青臭い正義感が抜けきらない私は、義侠心から下衆な魔術師を狩ることも時にあるが、
 ヒノサキのことは好きではないにせよ、嫌悪するほどの悪感情は持っていなかった。

 私は父と共に日本に赴き東京を探した結果、思いのほか簡単に彼女は見つかった。

 ヒノサキ自身の戦闘能力は高くないがその時点ですでに数人のハンターを葬っていた。

 彼女は高度な結界技術を有する。
 そして、人体を治す術を知っていると同時に壊す術も知っている。

 探知結界による待ち伏せにあったハンターたちは例外なく、シュワルマのような粉々の肉片にされていた。

 戦いの前に我々親子は入念に突入プランを練った。

 当時、彼女は都内のホテルを転々としており、彼女が根城を移動する瞬間を狙った。

 移動した瞬間ならば結界に穴が出来ると踏んだからだ。

 戦いの決着はあっけなくついた。
 父が魔術的な加工で貫通力を強化したスラッグ弾を放ち、ヒノサキが潜伏していた薄汚いビジネスホテルの壁をブチ抜くと、
遭遇するやいなや私はギリギリまで身体能力を強化し、短距離のオリンピック選手も青ざめるほどの速度で間合いに踏み込んだ。

 ヒノサキとの距離はわずか4インチ。
 これならどんなに短い手足でも当たる。

 ヒノサキは事態の1パーセントも理解できないまま、私の全力のストマックブロー喰らってマットに沈んだ。
 10カウントを数える必要もないほどの完璧なカウンターだった。

 待ち伏せを許さず速攻でカタをつける。
 散々シュミレートしてきたシンプルな作戦は0コンマ1パーセントの狂いもなく完璧に決まった。

 死なない程度に手加減はしたが、ヒノサキが喰らった一撃は体の自由を奪う程度には致命的だった。
 仰向けに寝転がる彼女を見下ろして私は言った。

「これからあんたをソサエティに引き渡す訳だけど…
最後に何か望みは?」

 ヒノサキは最後に一服したいと言った。
 私は彼女の胸ポケットから煙草を取り出し咥えさせると魔術でおこした炎で火を着けてやった。
 彼女はうまそうに紫煙をくゆらせた。

 ふとパッケージを見るとそこにはかつて見慣れた
 ゴテゴテした装飾の漢字2文字がプリントされていた。

「その銘柄、私にとって思い出深い人が愛飲してたけど、
吸っている人間が他に存在するとは知らなかったよ」

 ヒノサキは言った。

「良ければ1本どうぞ。どうせもう吸う機会も無くなるからね」

 私は安っぽい紙パックから1本煙草を取り出すと、こんどは自前のオイルライターで火を着けた。

「…不味い」

 ひどい味に思わず苦笑いを浮かべて私は言った。

「あんた、よくこんな不味い物吸えるね?尊敬するよ」

 結果的に私は彼女を見逃すことにした。
 なぜだかあんな不味い煙草を吸える人間を捕える気になれなかったからだ。

 自らに治癒魔術を施し、立ち上がった彼女は言った。

「さて、ありがとう。
えっと……アンナとマシューだっけ?」

「ああ、そうだ。……ありがとう?何に対して?」

「強烈な嘔吐感、吹きだす汗。
胃に打撃を受けたらそうなることは知識としては知ってたけど、
体験したことがあるわけじゃない。
ちょっと気持ち悪かったけど、いい経験になったよ。ありがとう」

 そう言って彼女はにっこりほほ笑んだ。

 父は唖然としていた。
 私も唖然としていた。

 私たちの反応をみた彼女は実に不思議そうに言った。

「あれ?どうしたの?
あなたたちアメリカ人は貴重な経験をさせてもらった時に『ありがとう』とは言わないの?
……文化の壁かな?」
「文化の壁じゃない。常人とヘンタイの壁だ」

 私と彼女の関係はそのあと劇的な変化を迎えた。
 今のヒノサキとの関係を一言でいうなら、それは「敵以上友人未満」というところだろう。

 逃がされたことに恩義を感じたのかどうか――
それは私にもわからないがソサエティから身を隠し
母国で事情があって病院にいけない患者を相手取った闇医者とオカルト専門の万屋のような物を始めた
 
 彼女からはしばしば仕事の依頼をされるようになった。

 ハンターは基本的にソサエティからの依頼を受けて動くが、名前の知れたハンターの所には個人から直接依頼が来ることも少なくない。
 私のように捜査機関に協力しているハンターもいる。
 そして、ソサエティからの依頼よりも個人の依頼の方が実入りの良い場合が多い。
 ヒノサキの回してくる依頼も大抵実入りはかなり良かった。
 ――どれもこれも実に面倒な依頼ではあったが

 だが、今回はこちらが頼みごとをする立場だ。
 代価に何を要求されるかわかったものじゃない。

「まさか、霊体をよこせなんて言ってこないだろうね…」

 私はそう一人ごち歩みを進めた。

××××××××××

 高層ビルが立ち並ぶ湾岸エリアに目的の建物はあった。

 その中でもひときわ高いタワーマンション最上階のワンフロア。
 それが彼女の根城兼仕事場だ。

 普段、人除けの結界によって最上階のフロアには人の注意が向かないようになっているが
不思議と私が行くときはいつも結界が解かれていた。

 どうやって私が間近にいることを知るのか。
 どうして半世紀前にこの小さな島国が合衆国に戦争を仕掛けたのかと同じぐらい不可解なミステリーだ。

 ありとあらゆる種類の人体模型で埋め尽くされたフロアに紫煙が漂っていた。
 憶えのある紫煙の匂い。こんな不味そうな匂いのするタバコを吸う人間を私は2人しか知らない。
 2人の内の1人、私の母モリー・フィッツジェラルドはもうこの世に存在しない。
 

 おかげで2人の内のもう1人―ヒノサキミカゲは在宅中だということがわかった。
 彼女はこちらに白衣を着た背中をむけ、所狭しと並べられた人体模型を見つめていた。
 心温まる光景だ。

 彼女は私の気配に気付いたらしく、振り返らずに英国訛りのある英語で答えた。

「耳の後ろにあぶみ骨っていう小さな骨があるんだけど……」

 ヒノサキはそう言うと立ち上がって、こちらを振り返った。
 満面の笑み――私が男だったら心を奪われていたかもしれないような可愛らしい――を浮かべていた。

 ヒノサキと私は同年なので、今27歳のはずだが、私の眼にはティーンエイジャーにしか見えない。
 
 黒い瞳はつぶらで大きく、背中まで伸びた黒髪は艶やかだ。
 彼女の性格を知らなければ、その可愛らしいルックスと表情に騙されていただろう。

 彼女はこちらに近づきながら、まるで5歳児に『はらぺこあおむし』を読み聞かせるような口調で続けた。

「すごく小さな骨なんだけど、これが無いと耳が聞こえなくなるんだ。
ねえ、人体ってすごいと思わない?
小さな骨が1つ無いだけで、五感の一つが失われるんだよ?」

 彼女はさらに近づいてくる。

「試してみたいけど、自分に試すのは嫌だな……」
「ストップ。それ以上近づくな。
ヘンタイが感染る」
「ケチだな。アンナは」

 ヒノサキは心底残念そうに言った。

「『ちょっとあなたの耳の後ろにある大事な骨を砕かせてはいただけませんか?』
と言われて聞くヤツが居ると思うのか?あんたは」

 そう私がいうと、彼女は微笑み言った。

「ところで今日は何の用?何かを依頼した覚えはないけど?」
「いや。今日は頼みがあって来た」

 彼女は私の発言がよほど意外だったらしく
 驚きの表情を浮かべた。
 そういえば彼女の驚いた表情を初めて見た。

 彼女は満面の笑みを浮かべているときでも、眼がまったく笑っていない。

 だが、今さっき浮かべた驚きの表情は実に自然な反応に見えた。

 彼女が「驚く」などという人間らしい感情を持ち合わせているという事実に少なからず私も驚いた。

 私は気を取り直し先を続ける。
 そして自分の左手があった場所を指さしてこう言った。
「義手を作ってもらいたい。」

 彼女は快く引き受けてくれた。
 そして当然のごとく代価を要求した。

 それも金ではなく文字通り体での支払いだ。

 本人曰く「お友達価格でやってあげる」とのことだが、どうやら私と彼女の間で「お友達」の定義はかなり異なるらしい。
 友達なら危険な仕事を対価として要求したりはしないだろう。

「なあ、金ならそれなりに持ってる。金銭で支払ってわけにはいかないのかい?」
「それは駄目」
「理由を聞いてもいいかい?」
「それじゃ私がつまらないじゃない?」

 ヒノサキは例の最悪の味の煙草を吸いながら言った。
 性悪め。

「いいタイミングで来たね。1件面白い案件が来てるんだ。あなた向けのね」

 経験上、彼女の「面白い」が文字通り愉快な物であったことは1度としてなかった。

「私向き?嫌な予感しかしないね。悪魔憑きか?呪いの解呪か?」

 彼女はチェシャ猫のような笑みを浮かべて言った。

「霊体食い」

「霊体食い?」

××××××××××

 私はヒノサキの運転する悪趣味なカラーリングの、燃費が最悪な車の助手席に身を沈めていた。
 白衣を脱いだヒノサキは膝丈のスカートにサマーセーターという彼女の内面からは考えられないごく普通の格好をしていた。

「アンナ、ところでマシューはどうしたの?仲良し親子が一緒じゃないなんて、ちょっと意外だね」
「親父なら今頃、セルビアで人外の何かを狩ってるよ。長引きそうだって昨日電話で話したけど、それ以上のことは分からないな」
「そう」

 彼女との数少ない共通の話題はこれでお終いだった。
 あとの話は必要な情報のやりとりだけだ。
 ヒノサキは肝心な情報を簡潔にまとめてくれていた。
 
 事件の概要はこうだ。

 ここ最近――3カ月ほどの間だが――次々と子供が昏睡する事件が起きていた。
 最初の犠牲者は7歳の少年で3カ月たった今も目覚めていないそうだ。
 それから3カ月の間同じような症例の「犠牲者」は18人にのぼる。

 全員に共通していることは、年端のいかない子供であること、保護者が目を離したほんの短い間にいなくなったこと
すぐに見つかるがその時には文字通り抜け殻の状態になっていること、の3つだった。

 これから会いに行くのは18人目の犠牲者の母にして、幸か不幸かヒノサキに解決を依頼した今回のクライアントだ。

 私はどんよりとした厚い雲に覆われ、細い雨がシトシトと降り注ぐトーキョーの景色を何とはなしに眺めた。

 車窓から流れる景色はドブネズミ色をしたビル群から徐々にウサギ小屋みたいに狭い無個性な家の密集する
景色へと変わっていった。

 雨粒がフロントグラスを濡らしている。
 私は小さくため息をついた。
 目的地は近い。 
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