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《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第二十九話

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高桑たかくわ先生が遼子りょうこ先生に事務所に戻ってほしい理由は御自分のためです』
 遼子が退所したあと彼女が受け持っていたクライアントは間宮まみやが担当していたようだ。が、事務所の代表である富沢とみざわから経験不足を理由に高桑に任せるよう命じられたという。しかしその後すぐに続々と契約を打ち切られてしまい、困り果てた富沢は高桑に遼子を連れ戻すよう言ったということだった。
『それができなければシニアパートーナーから降格させる。そう匂わせたようです。だから必死になっているのでしょう』
 遼子が事務所に復帰すれば顧問契約を解除した企業が戻ってくると富沢は踏んでいるらしい。それで高桑に遼子を連れ戻すよう命じたようだ。だが……。
『遼子先生が富沢事務所に戻られただけではダメなんです。高桑先生が関わっている限りクライアントは戻りません』
 間宮は真面目な顔で言い切った。その理由を思い返しているとジャケットの内ポケットに忍ばせていたスマートフォンがブルブル震えだした。すぐさま取り出し、表示画面を見てみると高崎たかさきからだった。
「もしもし、別所べっしょです」
 移動中の車内で挨拶すると、
「高崎です。昨日はありがとうございました」
 スピーカーの向こうから朗らかな声がした。
「一つご報告があって電話しました。お時間大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
 報告と聞かされてもなんのことかわからない。耳を澄まし高崎が話し出すのを待っていたら、思いがけない言葉が飛び出した。
「富沢さんに手を引いてもらいました」
「え?」
麻生あそう先生を呼び戻すっていうやつですよ。穏便に解決しました」
 穏便に解決した。高崎がその言葉をあえて出したということは、提案を受けざるを得ない状況まで相手を追いつめたということだ。付き合いが長いからよくわかっている。
「どのような提案をされたんです?」
 間宮から一連の話を聞いたあと、高崎はひどく憤っていた。どんな職業であっても仕事の取りあいは珍しいことではないが、妻の悪評を広めてまでしていいわけではない。夫として弁護士として一線を越えてしまった高桑や、そうさせた富沢に対しての怒りを、高崎は隠そうとしなかった。別れ際まで顔をこわばらせていた高崎の姿を思い出しながら尋ねたところ、
「うちで働く弁護士の未来を守るために頑張りましたとしか言いません」
 だってと高崎は続けた。
「教えたら別所さんも共犯になりますからね」
 ということは正攻法ではないのだろう。
「ということで、高桑氏は麻生先生を困らせることはしないと思います。報告は以上です。ではまた」
 高崎は一気に話し終えたあと電話を切った。
 電話の向こうにいる高崎が富沢にどのような話をしたのか気にならないわけではない。だが、遼子の心をかき乱した相手は彼女の前に二度と現れることはない。そう思ったら遼子を守ることができた達成感に似たものが心に広がった。
 息を吐きながらシートにもたれかかると隣の席に座っていた岡田おかだが、いきなり深いため息を漏らした。目をやると、なにがあったのか暗い顔をしている。
「岡田、どうしたんだ?」
 気になって問いかけたら、思い詰めたようなまなざしを向けられた。
「社長にお尋ねしたいことがあるのですがいいですか?」
「うん?」
 返事をしたら、目線の先で岡田がごくりとつばを飲み込んだ。
「男としての先輩である社長に伺います。「守る」ってなんなんでしょう」
「え?」
 突拍子もない質問だった。面食らった別所は、必死な様子で自分を見つめる岡田を前に絶句する。が、かつて自分も離婚した妻に求婚する際「守る」という言葉を用いたことを思い出した。
『あなたを一生掛けて守ります』
 今思うと、自分は何から愛する女性を守ろうとしたのだろう。ざっと振り返ってみたものの思い出すことができなかった。
「実は……、吉永よしながにプロポーズしたんです」
 思案していたら岡田の沈んだ声が聞こえてきた。
「お前を一生掛けて守るって言ったんですが、何から守ろうとしているのか聞かれまして……。俺、何も答えられなかったんです……」
 岡田はすっかり肩を落としている。ずっと見守っていた二人の関係が喜ばしいほうに進展したのは嬉しいことだが、そのかわり深雪みゆきが岡田に質問したものは彼の男としての自負をおおいに揺るがしたようだ。そうなる気持ちもわからなくはないが、なんと答えていいものかわからないから別所は困り果ててしまった。
「僕も……、わかりません」
「守る」は、所詮一方的な気持ちでしかない。相手を守るという役割を勝手に作っているだけだ。そう思ったら、ついさっきまで胸に広がっていた達成感のような感情が急速にしおれていったのだった。
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