君に心を

河嶋 亜津希

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「き、聞いたよっお父さんがSOUWAの社長さんで凪都は無理矢理ここに入れられたって…」

声が震える。凪都のいない場所でデリケートなことを話すのが罪悪感でしかなかった。稲瀬はしばらく考え込んでゆっくり息を飲んだ。

「そうか…いや、僕の口から聞くことになって悪い。でも河嶋には知ってもらいたい。…凪都は男しか好きになれないんだよ。それが親父さんにばれたから家を追い出されたんだ、それでここに。」

志津希はうまく息ができなかった。あまりにも淡々と話す稲瀬が少し怖かった。凪都のことをなにも知らないで志津希は凪都を傷つけてしまったかもしれない。目を伏せたままの稲瀬はふうと息を吐いた。

「動揺するのはわかる。でも凪都を軽蔑しないでやってくれないかな。凪都なりに頑張って理解して受け入れたんだ。」 

稲瀬は全てを知っていて凪都を理解しているらしい。親友なのかはたまたその域を超えているのか志津希にはわからなかった。自分の知らない情報がどんどん頭に入ってくる。少しだけ目眩のような感覚を覚える。凪都がいわゆる同性愛者なのはこの学園で承知の事実なんだろうか。いろんなことが志津希の頭を駆け巡る。

「…河嶋。」

「ごめ、ちょっと…ひとり、で考えたい」

志津希は声をかけた稲瀬を振り切ってふらふらと化学室を出た。おぼつかない足取りで誰もいない廊下を行くあてもなく歩く。しばらくすると後ろから寂しげな音楽が鳴り響いた。凪都のことはなにも知らない。もちろん稲瀬のことも。でも知らないのはこの学園で志津希だけなんだろうか。確かに志津希は他人に興味がない。知りたいとも思わないし知って面倒になるのはごめんだ。実際今まで幾度となく人に裏切られてきた。傷ついた。志津希は凪都が男しか好きになれないことに軽蔑も理解できないこともなかった。だからこそ凪都との距離も凪都から向けられているであろう好意も志津希は拒めていない。志津希は凪都を知ることが怖いのだ。深く関わって離れるときに自分が辛くなるのが嫌だった。日の光が差し込む廊下が妙に孤独を感じさせる。自分はどうするべきなのか志津希は思い悩んでいる。

「…凪都……」

ぽつんと小さく呟いた声はすぐに消えてしまった。なぜ出会って二日も経たない人間のことを考えているんだろう。馴れ馴れしく呼び捨てにしているんだろう。ただのルームメイトだ。それ以上でも以下でもないのに。凪都の巻き起こす波に飲まれているような気分だった。志津希は溺れてしまいそうだ。ぎゅっと痛む胸を掴むと携帯の呼び鈴が鳴った。志津希は働かない頭でポケットに手を突っ込む。葉津希だろうと思った予想は大きく外れていた。

〝志津、新学期大丈夫そうか?なにかあったら相談してこいよ。いきなりなんだけど奈津からなにか聞いてるか?〟

短い文章。だけどそこには志津希への家族としての感情以外は一切ないことがわかる。いつもいつもこの人は兄だけだ。志津希はため息を吐き出しながら携帯を閉じた。自分で離れると決めた。春への淡い想いを自覚して四年、やっとあのふたりから目を背けられると思っていたのに実際はどうだろう。同じ顔、同じ体の兄に嫉妬している。春にこっちを見てと叫んでいる。志津希はいつだってどこでだってくすぶってばかりだ。凪都に怒鳴った自分が情けない。志津希は凪都に怒れるほど綺麗ではなかった。
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