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ワ゛グヌ゛
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玄関を開け、雨の降りしきる外を眺める。叔父が車を玄関前に付けるのを待って、傘を持つ。振り返ると祖母が小さく手を振った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それは、いつもの光景だった。
玄関先の車の中、運転席から叔父が拓海を見ている。
三和土から一歩、外へ出た。
ずぷり、と泥濘に靴が沈んだ。
バランスを崩し、足元を見た拓海の目に、カエルが映る。
カエルが、数匹のカエルが、拓海の右足首迄を覆っていた。
カエルの間から、小さな肌色がのぞく。小さなソレが拓海の足首に触れた。子供の手だ、と理解した瞬間、拓海は無茶苦茶に叫んでいた。
一瞬だった。
いつものように甥を学校へ送るべく、愛車を玄関前へ回す。愛車の運転席の中から、玄関で準備をし、何気無い様子で玄関から一歩踏み出した甥が、バランスを崩した。瞬間、恐ろしいモノでも見たかのように叫んだ。母が甥を抱き締めて家の中へと引っ張り込むのと、父が猟銃を手に飛び出して来たのが同時だった。銃弾を撃ち込まれ四散したカエルが、泥となり、地面に落ちる。
慌てて運転席から飛び出した健治の見たのは、地面へ向け、立て続けに数発銃弾を撃ち込む父と、泥へと戻っていくカエルだった。その中に、小さな肌色の指を、見た、気がした。
健治は、甥に起きているアレコレを、本人の心の問題だと思っていた。幼くして目の前で従姉妹が溺死したのは、それ程のトラウマであろうし、ソレに拍車をかけたカラスやカエルの大量発生は偶発的なモノだろうと思っていた。そう、その筈だった。
長雨のせいで多少ぬかるんでいたとしても、先程、健治自身が歩いた時はしっかりと固く踏み締められた土だった玄関前が、突然底無し沼のようになる筈も無く、そこにカエルが湧いて出る筈も無く、人の指がそこに見える筈も無かった。
だから甥の症状は、呪いだと思っていた。甥自身が、自分で自分を呪い、幻聴や幻視に苦しんでいるのだと。
で は 、 今 の は 何 だ ?
四散したカエルだった泥は、強い雨に叩き付けられ、地面と同化している。既に玄関前は固い地面へと戻っている。
父が甥を抱き上げ、車の後部座席へと押し込むと助手席へと乗り込んだ。母が甥を抱き締めるように後部座席へ乗り込む。
「お寺さんへ行くぞ!」
父の声に弾かれるように、健治は運転席へと戻った。
【喃堊寺】の本堂前へと車を付け、石畳へと足を下ろす。
車内で祖父から電話を受けていた副住職が引戸を開けて敷山一家を招き入れた。香を焚き染め正装をした住職が御本尊の前で正座して待ち受けて居る。
「ガマギョウを行います」
促され、住職の前へ並んで正座した拓海達に、住職は頭を下げ、御本尊へ向き直る。副住職と僧侶が住職を挟むように横に並び、朗々と声を上げ、経を読み始めた。住職と副住職、僧侶のそれは本堂内に反響し、四方八方から聞こえてくる。それは、三人分の声が、九人分、八十人分……と何十、何百もの人数で行っているかのような錯覚を覚えさせた。
長雨の続いていたその日、奏翔が朝食を食べ終え腰を浮かせた所で、寺の電話が鳴った。奏翔は父と祖父と伯父と共に寺の方で朝勤と朝食までを済ませる。電話に祖母が出、入れ替わりに双子の雛子が居間に顔を覗かせた。
「なぁに、まだ食べてたの?」
「もう食べ終えたとこ。ヒナこそ今日は早いじゃん」
「んー。なんか落ち着かなくて……」
奏翔と違い、雛子は五感が鋭い。雛子が「落ち着かない」「嫌な感じがする」と言った時は地震や土砂崩れ、事故等が起こり、要注意だと言うのは、子供の頃からの経験で十二分に理解していた。
「少し学校行く時間ずらすか」
雨が酷い時は車で送って貰うのが常になっているし、時間を守ろうと事故を起こすよりも安全が第一だ。
「わかりました。気を付けて来て」
母に内線を掛けようと奏翔が廊下へと出ると、祖母の低い声が聞こえた。
「あなた! 敷山さんが今から来るって……」
電話を切ると、祖母が祖父へと声を掛ける。
敷山? 拓海ん家?
首を傾げる奏翔を見留め、祖母が「あんた達、今日は学校休みなさい」と言って奥の祖父の方へと慌ただしく駆けて行った。
父に言いつけられて香を焚き、本堂の準備をする。着替えた祖父、そして伯父と父の法衣は正装であり、普段の勤行では身に付けない条の多い袈裟を身に付けていた。
ややあって、『敷山さん』と奥さん、息子さん、それに敷山の孫であり奏翔の同級生の拓海が本堂へと入って来た。
拓海へ声を掛けようとして、祖母に止められ、本堂から追いやられる。
「降魔行を行います」
本堂から祖父のひりついた声が聞こえ、副住職である伯父の朗々とした経が聞こえ始めた。父の声が重なり、祖父の声がそれに重なる。三人の声は本堂に反響し、やがて宇宙を作り上げる。奏翔は、経を読んでいると、スゥッと身体の背後に精神が立っているような、本堂に居る自分を見下ろすような感覚が訪れる。そして、精神はそのまま寺を、日本を、地球を、宇宙を見下ろし、眺め、その広大さに呆然とさせられるのだ。
【喃堊寺】は、旅の僧がこの地を訪れたのが始まりだと言われている。
飛鳥時代、まだ聖徳太子が生きていた頃、旅の僧がこの地を訪れた。
水の豊富な小さな集落に掘っ立て小屋を建て、朝昼晩と経を読み、僅かながら住み着いていた住民達に教えを説いた。
さて、水の豊富なこの地には、人よりもワ゛グヌ゛の方が数が多く住んでいた。ワ゛グヌ゛達は朝昼晩と経を聞き、説教を聞いた。やがて、ワ゛グヌ゛の中でも一際長生きで大きなワ゛グヌ゛が水の中から顔を出し、口を開いた。
「ワシらでも、仏は救って下さるんじゃろうか?」
旅の僧は大層驚き、「大陸では人ならざるモノとて、仏の道を歩んだと聞く」と応えた。
ワ゛グヌ゛は他のワ゛グヌ゛と何やら話した後、水の中へと戻って行った。
翌朝、旅の僧が朝の経を読もうとすると、小屋の戸が叩かれた。朝早くから集落の誰ぞが来たかなと戸を開ければ、様子のおかしな者が三人、立っていた。旅の僧を真似た服は草木で作られ、頭に被っている草を編んだ傘からは異様に大きな口と目が覗く。
「ははあ、これはこの土地の妖怪が儂を喰いに来たな」と旅の僧は思った。
だが、様子のおかしな者の内、一番身体の大きな者が口を開いた。
「約束通り、仏の道を学びに来たぞ」
果たして、その三人の様子のおかしな者は昨日のワ゛グヌ゛達だった。
「一番長生きのモノ、一番知恵のあるモノ、一番知識のあるモノを連れて来た。我々で学び、学んだ事を他のワ゛グヌ゛に伝え広めよう」
そうして、朝昼晩と経を読むワ゛グヌ゛の声から【ノウア寺】と呼ばれ、小屋は立派な寺へと建て直され、旅の僧が死んだ後、ワ゛グヌ゛達三匹は即身仏となり、今も岩屋に居わすと伝えられている。そのワ゛グヌ゛を称え、お釈迦様とカエルの説話に基づき時の仏師が彫ったのが、現在の蛙本尊である。
現在の住職一族は、妖怪の子孫かと問われれば、勿論違う。ただの人間である。ただ、時折、頭の上半分が欠けた子が産まれた。そういった子は長生きが出来ず、産まれて数刻も経たず生き絶えるのが常でもあった。祟りかと噂された事もあったが、死産が珍しくもない時代だった事もあり、それらは手厚く墓へと葬られ、経を捧げられた。医療が発展したここ百年程はそういった子供は産まれていない。
降魔行が始まってから既に五時間、昼を回り、雛子は顔を上げた。
本堂から出るなと言われたので、スマホを弄ったり祖母の部屋でアプリで映画を見たりしていたが、そろそろ限界だった。
奏翔は本堂の端で祖父と父と伯父の祈祷に参加しているつもりなのか、正座して黙し、動かない。
トイレに行くついでに覗いて見たが、敷山さんも拓海も未だそこに居たし、祖母に至ってはのほほんとお茶を飲んでいる。
なぜ自分まで学校を休まなければならないのか全く理解できないが、この状況を無視して学校へ送ってくれと母に言える程鈍感でも無い。
トイレへと続く廊下を歩き、何枚にも渡って中庭に面した掃き出し窓からは池が見える。去年、カエルがボコボコ湧いて出ていたあの池だ。今年は通年程度のカエルしか見てないが、去年はこの廊下を通るのも嫌だったなとぼんやりと思う。小用を済ませ、廊下を元来た方へと戻ると、ふと、池が泡立った気がした。振り返るが、強い雨に叩かれ続ける水面は確かに暴れてはいる。それがたまたま目に入っただけだろう。雛子は、居間へと歩を進め、そして、再び振り返った。
猛烈に嫌な気がした。
池から、白い、何か、細いものが出ていた。
じわり、と雛子の脳が理解していく。
白と言うよりも肌色の、それは、幼い子供の手、だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それは、いつもの光景だった。
玄関先の車の中、運転席から叔父が拓海を見ている。
三和土から一歩、外へ出た。
ずぷり、と泥濘に靴が沈んだ。
バランスを崩し、足元を見た拓海の目に、カエルが映る。
カエルが、数匹のカエルが、拓海の右足首迄を覆っていた。
カエルの間から、小さな肌色がのぞく。小さなソレが拓海の足首に触れた。子供の手だ、と理解した瞬間、拓海は無茶苦茶に叫んでいた。
一瞬だった。
いつものように甥を学校へ送るべく、愛車を玄関前へ回す。愛車の運転席の中から、玄関で準備をし、何気無い様子で玄関から一歩踏み出した甥が、バランスを崩した。瞬間、恐ろしいモノでも見たかのように叫んだ。母が甥を抱き締めて家の中へと引っ張り込むのと、父が猟銃を手に飛び出して来たのが同時だった。銃弾を撃ち込まれ四散したカエルが、泥となり、地面に落ちる。
慌てて運転席から飛び出した健治の見たのは、地面へ向け、立て続けに数発銃弾を撃ち込む父と、泥へと戻っていくカエルだった。その中に、小さな肌色の指を、見た、気がした。
健治は、甥に起きているアレコレを、本人の心の問題だと思っていた。幼くして目の前で従姉妹が溺死したのは、それ程のトラウマであろうし、ソレに拍車をかけたカラスやカエルの大量発生は偶発的なモノだろうと思っていた。そう、その筈だった。
長雨のせいで多少ぬかるんでいたとしても、先程、健治自身が歩いた時はしっかりと固く踏み締められた土だった玄関前が、突然底無し沼のようになる筈も無く、そこにカエルが湧いて出る筈も無く、人の指がそこに見える筈も無かった。
だから甥の症状は、呪いだと思っていた。甥自身が、自分で自分を呪い、幻聴や幻視に苦しんでいるのだと。
で は 、 今 の は 何 だ ?
四散したカエルだった泥は、強い雨に叩き付けられ、地面と同化している。既に玄関前は固い地面へと戻っている。
父が甥を抱き上げ、車の後部座席へと押し込むと助手席へと乗り込んだ。母が甥を抱き締めるように後部座席へ乗り込む。
「お寺さんへ行くぞ!」
父の声に弾かれるように、健治は運転席へと戻った。
【喃堊寺】の本堂前へと車を付け、石畳へと足を下ろす。
車内で祖父から電話を受けていた副住職が引戸を開けて敷山一家を招き入れた。香を焚き染め正装をした住職が御本尊の前で正座して待ち受けて居る。
「ガマギョウを行います」
促され、住職の前へ並んで正座した拓海達に、住職は頭を下げ、御本尊へ向き直る。副住職と僧侶が住職を挟むように横に並び、朗々と声を上げ、経を読み始めた。住職と副住職、僧侶のそれは本堂内に反響し、四方八方から聞こえてくる。それは、三人分の声が、九人分、八十人分……と何十、何百もの人数で行っているかのような錯覚を覚えさせた。
長雨の続いていたその日、奏翔が朝食を食べ終え腰を浮かせた所で、寺の電話が鳴った。奏翔は父と祖父と伯父と共に寺の方で朝勤と朝食までを済ませる。電話に祖母が出、入れ替わりに双子の雛子が居間に顔を覗かせた。
「なぁに、まだ食べてたの?」
「もう食べ終えたとこ。ヒナこそ今日は早いじゃん」
「んー。なんか落ち着かなくて……」
奏翔と違い、雛子は五感が鋭い。雛子が「落ち着かない」「嫌な感じがする」と言った時は地震や土砂崩れ、事故等が起こり、要注意だと言うのは、子供の頃からの経験で十二分に理解していた。
「少し学校行く時間ずらすか」
雨が酷い時は車で送って貰うのが常になっているし、時間を守ろうと事故を起こすよりも安全が第一だ。
「わかりました。気を付けて来て」
母に内線を掛けようと奏翔が廊下へと出ると、祖母の低い声が聞こえた。
「あなた! 敷山さんが今から来るって……」
電話を切ると、祖母が祖父へと声を掛ける。
敷山? 拓海ん家?
首を傾げる奏翔を見留め、祖母が「あんた達、今日は学校休みなさい」と言って奥の祖父の方へと慌ただしく駆けて行った。
父に言いつけられて香を焚き、本堂の準備をする。着替えた祖父、そして伯父と父の法衣は正装であり、普段の勤行では身に付けない条の多い袈裟を身に付けていた。
ややあって、『敷山さん』と奥さん、息子さん、それに敷山の孫であり奏翔の同級生の拓海が本堂へと入って来た。
拓海へ声を掛けようとして、祖母に止められ、本堂から追いやられる。
「降魔行を行います」
本堂から祖父のひりついた声が聞こえ、副住職である伯父の朗々とした経が聞こえ始めた。父の声が重なり、祖父の声がそれに重なる。三人の声は本堂に反響し、やがて宇宙を作り上げる。奏翔は、経を読んでいると、スゥッと身体の背後に精神が立っているような、本堂に居る自分を見下ろすような感覚が訪れる。そして、精神はそのまま寺を、日本を、地球を、宇宙を見下ろし、眺め、その広大さに呆然とさせられるのだ。
【喃堊寺】は、旅の僧がこの地を訪れたのが始まりだと言われている。
飛鳥時代、まだ聖徳太子が生きていた頃、旅の僧がこの地を訪れた。
水の豊富な小さな集落に掘っ立て小屋を建て、朝昼晩と経を読み、僅かながら住み着いていた住民達に教えを説いた。
さて、水の豊富なこの地には、人よりもワ゛グヌ゛の方が数が多く住んでいた。ワ゛グヌ゛達は朝昼晩と経を聞き、説教を聞いた。やがて、ワ゛グヌ゛の中でも一際長生きで大きなワ゛グヌ゛が水の中から顔を出し、口を開いた。
「ワシらでも、仏は救って下さるんじゃろうか?」
旅の僧は大層驚き、「大陸では人ならざるモノとて、仏の道を歩んだと聞く」と応えた。
ワ゛グヌ゛は他のワ゛グヌ゛と何やら話した後、水の中へと戻って行った。
翌朝、旅の僧が朝の経を読もうとすると、小屋の戸が叩かれた。朝早くから集落の誰ぞが来たかなと戸を開ければ、様子のおかしな者が三人、立っていた。旅の僧を真似た服は草木で作られ、頭に被っている草を編んだ傘からは異様に大きな口と目が覗く。
「ははあ、これはこの土地の妖怪が儂を喰いに来たな」と旅の僧は思った。
だが、様子のおかしな者の内、一番身体の大きな者が口を開いた。
「約束通り、仏の道を学びに来たぞ」
果たして、その三人の様子のおかしな者は昨日のワ゛グヌ゛達だった。
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現在の住職一族は、妖怪の子孫かと問われれば、勿論違う。ただの人間である。ただ、時折、頭の上半分が欠けた子が産まれた。そういった子は長生きが出来ず、産まれて数刻も経たず生き絶えるのが常でもあった。祟りかと噂された事もあったが、死産が珍しくもない時代だった事もあり、それらは手厚く墓へと葬られ、経を捧げられた。医療が発展したここ百年程はそういった子供は産まれていない。
降魔行が始まってから既に五時間、昼を回り、雛子は顔を上げた。
本堂から出るなと言われたので、スマホを弄ったり祖母の部屋でアプリで映画を見たりしていたが、そろそろ限界だった。
奏翔は本堂の端で祖父と父と伯父の祈祷に参加しているつもりなのか、正座して黙し、動かない。
トイレに行くついでに覗いて見たが、敷山さんも拓海も未だそこに居たし、祖母に至ってはのほほんとお茶を飲んでいる。
なぜ自分まで学校を休まなければならないのか全く理解できないが、この状況を無視して学校へ送ってくれと母に言える程鈍感でも無い。
トイレへと続く廊下を歩き、何枚にも渡って中庭に面した掃き出し窓からは池が見える。去年、カエルがボコボコ湧いて出ていたあの池だ。今年は通年程度のカエルしか見てないが、去年はこの廊下を通るのも嫌だったなとぼんやりと思う。小用を済ませ、廊下を元来た方へと戻ると、ふと、池が泡立った気がした。振り返るが、強い雨に叩かれ続ける水面は確かに暴れてはいる。それがたまたま目に入っただけだろう。雛子は、居間へと歩を進め、そして、再び振り返った。
猛烈に嫌な気がした。
池から、白い、何か、細いものが出ていた。
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