エンコ

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エンコ

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「河童伝説だよ! 日本中に散らばる河童伝説! それを自らその土地へ言って収集するんだよ! できれば本物の河童も捕まえてこよう! 胡瓜も持って行かないとね!」
 船酔いに苦しみながらトイレにこもる僕を気にもせず、教授と助教授は話を弾ませている。
 船から降りても、まだぐらぐらと揺れてる気がする。
 フィールドワークのチームは、教授、助教授、僕、の三人だ。申し込み時にはもう少し居た筈なのだが、身内の不幸や急用等が重なり、結局はこの三人しか残らなかった。
「うう゛ぉぇ……っ」
 もう吐く物など何も無いと言うのに、苦い胃液が喉を焼く。
「大丈夫ですか?」
 助教授から小瓶を受けとると、《酔い止め》と赤い文字で書かれたラベルが目に入る。小瓶を開けて一気に飲み干す。
「教授は駅弁を買うと言って売店に行きましたよ。薬が効くまでゆっくりしましょう」
 助教授は僕をベンチに座らせると、レンタカーの手続きへと向かった。
「いやぁ、君がこんなに乗り物に弱いとはねぇ」
 何が嬉しいのか、大きなレジ袋三つ分も弁当を買ってきた教授が笑ってその内の一つを差し出す。
「いや、まだ食べれないでしょう。本当にデリカシーが皆無ですね」
 レンタカーの運転席から助教授の冷たい声が飛ぶ。僕は助手席へ、教授は後ろの真ん中辺りに陣取っている。予約時の人数で車を選んだので、10人乗りのマイクロバスだ。
「この車なら、河童の五人や六人は連れて帰れそうだねぇ!」
 はしゃぐ教授の声に、助教授がひっそりとため息を吐く。
「河童にとっては迷惑でしょうね」
 二つ目の弁当を平らげた教授をバックミラーで眺め、僕の腹がぐうと自己主張を始めた。
「食べれるようなら、少し車を止めてお弁当にしましょうか」
 少し開けた場所へ車を止めると、空席の目立つ後部座席へと移動した。
 教授は弁当を十ニ個も購入していた。ややあって落ち着くと、急激な眠気が襲ってきた。うつらうつらしている僕に、助教授が毛布を掛ける。教授は既に高いびきだった。
「良いですよ、寝ていて。着いたら起こしますからね」
 シートベルトのカチャリと言う音をかろうじて確認すると、僕は柔らかな闇に落ちていた。

  不意に、エンジン音が止まるのを感じ、目が覚めた。
「おや、起きましたか。教授を起こして貰って良いですか?」
 助教授の言葉に、辺りを見回す。斜め後ろで寝ている教授の肩を軽く揺すった。
「がっ……。ああ、夕飯かね?」
 教授が寝ぼけ眼で涎を手の甲で拭い、タオルでその手を拭く。
「今日の宿へ着きましたよ」
 それは大きな御殿だった。巨大な門は何十人がかりで開けるのかと思う程に大きく、その奥に鎮座する本館は視界の端から端まで埋めつくし、屋根の上には金色の鯱がわんさとこちらを見下ろしていた。
「宿……ですか……?」
 思わず僕の声が上ずった。
 頭を下げた従業員達がずらりと並んでいるのが視界に飛び込む。
「お待ちしておりました」
 お着物の品の良さそうな女性が挨拶をした。
「女将で御座います」
 助教授が宿泊手続きにと誘導されるのと、ニコニコと男性スタッフが僕達の荷物に手を掛けるのが同時だった。
「先にお部屋にご案内しましょう」
「河童のお話を聞きたいとか」
「ここら辺にも有名な河童が居りましてね」
 口々に話し掛けてくるスタッフの話を教授が鼻息荒く頷きながらメモを取っている。
 エレベーターで五階まで行くと僕達の宿泊部屋である。
「ご飲酒されてのご入浴はご遠慮頂いておりますもので、宜しければ先に温泉へ行かれてからのお食事では如何でしょうか」
「ああ、頼むよ。あと、河童の話を出来る人を寄越してくれないかい?」
 教授がそう言うと、楽しそうに男性スタッフが頷く。
 更にエレベーターで上へと上がった最上階に大浴場はあった。
 温泉を満喫し部屋へと戻ると、卓上には所狭しと御馳走が並んでいた。
 御馳走を食べ始めると、入れ替わり立ち替わりスタッフが現れては河童の話をしていった。助教授が用意していたマイクとノートパソコンで録音していく。教授は酒瓶の中の胡瓜をどうやって入れたのかが気になっている様子で、聞いているのかいないのか。僕もご相伴に預かり、胡瓜酒を口に運ぶ。
 と、一人のスタッフの話に、僕は顔を上げた。
 子供の頃に河童に会ったというものだった。それは、とても美しい女の子だった。年の頃は十六、七。髪は黒く長く腰まであり、肌は白く透き通るようで、唇は薄く青白く、目は黒目がちで睫が長い。それは、僕の従姉を彷彿とさせた。
 そのスタッフはうっすらと笑顔を浮かべている。

 それまで、夏休みには毎年、田舎の祖母の家へ行っていた。
 ボクは、その時だけ会えるイトコや地元の子と遊ぶのも楽しみだった。虫取りや魚釣りをやれるのは、一年間でこの時だけだった。
 お盆に会わせて行くので、お坊さんが居る間は正座していなければいけないけれど、それ以外は何もかも最高だったと思う。
 小六の夏休み。
 いつものように祖母の家へ行くと、祖母宅に住んでいる筈の大好きな従姉の姿が見えなかった。
 いつもより何故か空気の沈んだ祖母の家に居たたまれなさを感じ、ボクは祖母の家を抜け出した。
 庭の家庭菜園の向こうに生け垣があり、生け垣の向こうに小さいけれど綺麗な川が流れている。川を遡るように辿ると、川は山へと続いていた。
 と、川上の方に従姉がいた。暑いからだろうか、セーラー服のまま水につかり、ボクに気付くと手を振った。おいで、おいで、と手招きをする。
 招かれるまま、ボクは川上へと駆けた。駆けても駆けても、従姉とボクの距離は縮まない。いつのまにか、日が傾き、従姉の姿は薄暗闇の影のように揺らいだ。それでもまだ、従姉は手招きする。おいで、おいで、と。ボクは、今追い付かなければもう一生会えない気がして、必死に走っていた。息が上がり足がふらつき、一瞬、意識が飛んだ瞬間、土手を転がり落ちていた。川へ音を立てて落ちる。口や鼻に水が押し寄せ、上下もわからずに踠く。踠いた手を、ひんやりとした誰かの手が優しく掴んだ。真っ暗な水の中、白く浮かび上がる従姉の優しい笑顔が、そこにはあった。
 日が落ちて姿の見えないボクを探していた両親と親戚が気付いた時、祖母宅の裏で綺麗な男の人が、意識を失ったボクを抱えて立っていた。従姉は河童になったのだ、とその男の人は言った。だから、呼ばれても行ってはいけないし、探してもいけない。男の人は、髪は黒く長く腰まであり、肌は白く透き通るようで、唇は薄く青白く、目は黒目がちで睫が長い。とても美しい人だったと、祖母が語った。そして、礼を言う間もなく掻き消えるように居なくなってしまったと。

「きっと、その男の人も河童だったんだと思います」
 僕の耳に届く声が、僕の口からつるりと出た事に驚く。気付けば、僕はマイクの前に座っていた。
「で、その祖母の家とやらはこの辺なのかね?」
 教授が身を乗り出して僕に聞いた。
 わからない。
 中学に上がった頃から祖母の家に行かなくなった。僕が行きたくないと言ったのか、両親が行かない事にしたのか、どうだったのか覚えていない。従姉が川で溺れた年のお盆に、僕が川で溺れたので、僕があちら側に呼ばれるのを祖母が懸念したのかも知れない。兎に角、十年も前の話だ。
「生者を連れて逝ってしまっては、魂が淀んでしまいますからね」
 助教授が優しく微笑む。 髪は黒く長く腰まであり、肌は白く透き通るようで、唇は薄く青白く、眼鏡の奥の目は黒目がちで睫が長い助教授が。
 口にした酒の胡瓜の香りが毛穴と言う毛穴全てから立ち上ぼり、僕を包む。
 酔っているのだろう。
 どこからが夢でどこまでが現実なのかわからない。

 翌朝、目を覚ますと、高い天井。僕を見下ろす黒縁の写真は、祖父や曾祖父、曾祖母、それにご先祖様達。線香の匂いと仏壇。広い畳敷きの和室。そこは、祖母の家の仏間だった。
「あら、おはよう」
 台所に立つ叔母が振り返り、笑顔を浮かべる。
「そろそろ起こそうと思ってた所よ。今日はお坊さんが来るから仏間を片付けておいで」
 言われるがまま、布団を押し入れにしまい、自分のキャリーケースを端に寄せた。
 出しっぱなしのノートパソコンとマイクをその上に乗せると、首を傾げる。
「おばちゃん、僕、いつ婆ちゃん家に来たっけ?」
「やだ、寝ぼけてるの? 昨夜遅くでしょう」
 窓から見える庭には、レンタカー屋のマイクロバスが停まっている。僕には運転が出来ない大きさの。
 ふと、目の端を紺色の何かが通り、追うように視界を巡らせる。セーラー服を纏った色白の長い黒髪の少女の黒目がちの瞳が僕を捕えた。
「おはよう。今日も暑いわよ」
 従姉が僕に微笑みかけた。
 小学生のボクが、従兄弟や友達と遊ぶのだと、外に駆けて行く。それを、大学生の僕が追う。
 従兄弟や近所の子に混じり、緑色のつるりとした緑のソレは、小さな手をパタバタとさせてから、空を仰いだ。
 目が合ってドキリとしたが、直ぐに気のせいだと思った。
 彼からは見えてないだろう。
「思い出しましたか?」
 随分と年上だと思っていた助教授が、眼鏡を外して人懐っこい笑顔を浮かべた。
 もう、祖母の家は無い。祖母と叔母が病気で他界し、住む人も居なくなった祖母の家は取り壊した筈だ。
「忘れないで貰えれば、私達は存在を許されます。忘れられてしまうと、消えてしまうんですよ」
 穏やかにそう話す助教授が、人なのか、そうでないのか、わからない。

  不意に、エンジン音が止まるのを感じ、目が覚めた。
「おや、起きましたか。教授を起こして貰って良いですか?」
 助教授の言葉に、辺りを見回し、斜め後ろで寝ている教授の肩を軽く揺する。
 車は大学の駐車場で停車したところだった。
 ぼんやりと霞がかった頭を一つ振る。長い、懐かしい夢を見ていた気がする。
 助教授が優しく微笑む。 髪は黒く長く腰まであり、肌は白く透き通るようで、唇は薄く青白く、眼鏡の奥の目は黒目がちで睫が長い助教授が。
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