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旅の男
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「ちょっと来てくれ!」
郷長が慌てて寺へと駆け込んで来た。
辺鄙な片田舎のオンボロ寺には住職が一人で住んでいた。
「なんだね、そんなに慌てて……」
その年、その地には珍しい大雪が降った。
人々は雪をかき、布団を被り、蓄えで細々と食いつなぎ、七日目。やっと雪がやんだのを喜んでいた。手を着けなかった場所では屋根よりも高くそびえ立った雪の壁が人の侵入を阻んでいた。
郷長の家の裏、蔵の辺りも手を付けられていなかった。
数日し、雪が大方溶けて来た頃、件の蔵の辺りから男の遺体が表れた。
「これは……」
足元の悪い中、急かされて山を下りれば、見知らぬ男の遺体とご対面である。
だが、雪で冷やされて腐る事もなく臭いもせず、綺麗な遺体だった。
確かにこれは住職の仕事だ。
男は、大雪の数日前に郷長の家を訪ね、何か一言だけ告げて去った旅の者だと言う話だった。
何を言われたのかは覚えていないと、郷長は語った。
この郷には誰一人として知り合いは居らず、そもそも何の為に訪れたのか、どこの誰なのかもわからなかった。
遺体は山の寺で無縁仏とされた。
その頃から少しずつ何かが狂った。
その夏は土が痩せ不作に見舞われた。
家畜が病で次々と死んだ。
神隠しで幼い子供が何人も消えた。
食物があり得ない速度で腐った。
黴が蔓延し、流行病で何人もの人が倒れた。
異常だった。
「本当に行くのかい?」
父母を病で喪った郷長は、二人を墓に納めて言う。
「神隠しに合った一番下の子が出てきたら、お願いします」
恐らくは生きてはいないだろうがと言外に告げる。
「このまま残れば、郷のみんなの不安は増すばかりでしょう」
誰かが郷長は呪われていると言い出し、郷長と家族は郷を追われた。
だが災いは続いた。
食べ物に困り、郷の者全員が痩せ細った。
他所の郷へ食べ物を貰いに行くが、帰り着く迄に腐るのだ。
魚は釣れず、貝や海草すら取れない。
ほんの少し山に果物があっても、触れると変色して落ちる。だが、それを啜って食った。
木の根を食い、名も知らぬ草を食った。
本当に呪いなら……。住職は専門外である。
「神罰でしょうか?」
「祟りだと仰いますか?」
「あまりに、異常。あまりに、奇妙ではありませんか」
住職は隣の郷の神社を訪ねた。
辺鄙な片田舎の神社は、負けず劣らずのオンボロさではあったが、空気が清浄だった。
黴も腐りもせず、住職は久方ぶりにまともな食事を口に入れていた。
郷の皆が苦しんでいる時に一人だけご馳走を食べるわけにいかないと断った住職に、「あなたが倒れたら誰が神仏に祈るのです?」と神主に説得された形になる。ご馳走と言っても芋の粥だが。
隣の郷の神主と住職は連れ立って、郷中を浄めた。
「こう……何と言うか……手応えが無いですね……」
浄めたという実感が無いと、神主は語った。
毎日毎日、御仏に経をあげている住職も、同じ事を感じていた。
突然、裸で宙に放り出されたかの様な、いきなり突き放されたかの様な、神仏が確かに居たその場所がカラになったかの様な……そんな感覚だった。
むなしさと焦燥が押し寄せる。
郷長の家を燃やして、神主は祝詞を上げ、お祓いをして隣の郷へ戻って行った。
何も変わらなかった。
既に手は尽くした。
ふと、住職の脳裏にあの旅の男が浮かんだ。
もしやと住職が無縁仏の墓を暴く。
「……なんという事だ……」
仏は、今死んだかの様に壺に蹲っていた。
ざわりと背筋が総毛立つ。
災いだ。
これが、災いそのものなのだ。
住職とまだ動ける男達で、壺を海に流した。
道中、皆で念仏を唱え続け、流した岩場では戻らぬよう成仏するよう、必死に経をあげた。
壺が沖へと流され、これで安心だと思った。
違った。
翌朝、山が朽ちていた。
一晩で木々は腐り、池も川も干上がり酷い臭いがした。
住職は山を確認して回り、口と鼻を押さえて山を降りた。
泣き叫ぶ声がした。
「やめてくれ! おっ母を食べんでくれ!」
目をやると、男どもが縋る若い男を殴り付けた所だった。
鎌で殴られた男が倒れる。
駆け寄るより早く、鎌を持った男達が群がった。
住職は、思わず後ずさっていた。
いよいよ食う物も無くなった郷では、あちこちで人が人を喰らう姿が見られた。
いや、もしかしたら、住職の預かり知らぬ所で、既にそれは始まっていたのだろう。
いつから?
どこから?
そうか、と誰かが言う。
死んだ者は喰って良いのだ、と。
殺して食えば良いのだ、と。
郷は地獄へと、郷の者達は餓鬼の群れへと成り果てていた。
死体の骨をしゃぶり、皮とほんの少しの肉をせせり食う餓鬼。
既に言葉は通じぬだろうと、悟っていた。
住職には止められなかった。
だがせめて、この地獄が外に漏れ出してはいけない。
住職は静かに郷を離れ、郷に続く唯一の道を封じた。
郷長が慌てて寺へと駆け込んで来た。
辺鄙な片田舎のオンボロ寺には住職が一人で住んでいた。
「なんだね、そんなに慌てて……」
その年、その地には珍しい大雪が降った。
人々は雪をかき、布団を被り、蓄えで細々と食いつなぎ、七日目。やっと雪がやんだのを喜んでいた。手を着けなかった場所では屋根よりも高くそびえ立った雪の壁が人の侵入を阻んでいた。
郷長の家の裏、蔵の辺りも手を付けられていなかった。
数日し、雪が大方溶けて来た頃、件の蔵の辺りから男の遺体が表れた。
「これは……」
足元の悪い中、急かされて山を下りれば、見知らぬ男の遺体とご対面である。
だが、雪で冷やされて腐る事もなく臭いもせず、綺麗な遺体だった。
確かにこれは住職の仕事だ。
男は、大雪の数日前に郷長の家を訪ね、何か一言だけ告げて去った旅の者だと言う話だった。
何を言われたのかは覚えていないと、郷長は語った。
この郷には誰一人として知り合いは居らず、そもそも何の為に訪れたのか、どこの誰なのかもわからなかった。
遺体は山の寺で無縁仏とされた。
その頃から少しずつ何かが狂った。
その夏は土が痩せ不作に見舞われた。
家畜が病で次々と死んだ。
神隠しで幼い子供が何人も消えた。
食物があり得ない速度で腐った。
黴が蔓延し、流行病で何人もの人が倒れた。
異常だった。
「本当に行くのかい?」
父母を病で喪った郷長は、二人を墓に納めて言う。
「神隠しに合った一番下の子が出てきたら、お願いします」
恐らくは生きてはいないだろうがと言外に告げる。
「このまま残れば、郷のみんなの不安は増すばかりでしょう」
誰かが郷長は呪われていると言い出し、郷長と家族は郷を追われた。
だが災いは続いた。
食べ物に困り、郷の者全員が痩せ細った。
他所の郷へ食べ物を貰いに行くが、帰り着く迄に腐るのだ。
魚は釣れず、貝や海草すら取れない。
ほんの少し山に果物があっても、触れると変色して落ちる。だが、それを啜って食った。
木の根を食い、名も知らぬ草を食った。
本当に呪いなら……。住職は専門外である。
「神罰でしょうか?」
「祟りだと仰いますか?」
「あまりに、異常。あまりに、奇妙ではありませんか」
住職は隣の郷の神社を訪ねた。
辺鄙な片田舎の神社は、負けず劣らずのオンボロさではあったが、空気が清浄だった。
黴も腐りもせず、住職は久方ぶりにまともな食事を口に入れていた。
郷の皆が苦しんでいる時に一人だけご馳走を食べるわけにいかないと断った住職に、「あなたが倒れたら誰が神仏に祈るのです?」と神主に説得された形になる。ご馳走と言っても芋の粥だが。
隣の郷の神主と住職は連れ立って、郷中を浄めた。
「こう……何と言うか……手応えが無いですね……」
浄めたという実感が無いと、神主は語った。
毎日毎日、御仏に経をあげている住職も、同じ事を感じていた。
突然、裸で宙に放り出されたかの様な、いきなり突き放されたかの様な、神仏が確かに居たその場所がカラになったかの様な……そんな感覚だった。
むなしさと焦燥が押し寄せる。
郷長の家を燃やして、神主は祝詞を上げ、お祓いをして隣の郷へ戻って行った。
何も変わらなかった。
既に手は尽くした。
ふと、住職の脳裏にあの旅の男が浮かんだ。
もしやと住職が無縁仏の墓を暴く。
「……なんという事だ……」
仏は、今死んだかの様に壺に蹲っていた。
ざわりと背筋が総毛立つ。
災いだ。
これが、災いそのものなのだ。
住職とまだ動ける男達で、壺を海に流した。
道中、皆で念仏を唱え続け、流した岩場では戻らぬよう成仏するよう、必死に経をあげた。
壺が沖へと流され、これで安心だと思った。
違った。
翌朝、山が朽ちていた。
一晩で木々は腐り、池も川も干上がり酷い臭いがした。
住職は山を確認して回り、口と鼻を押さえて山を降りた。
泣き叫ぶ声がした。
「やめてくれ! おっ母を食べんでくれ!」
目をやると、男どもが縋る若い男を殴り付けた所だった。
鎌で殴られた男が倒れる。
駆け寄るより早く、鎌を持った男達が群がった。
住職は、思わず後ずさっていた。
いよいよ食う物も無くなった郷では、あちこちで人が人を喰らう姿が見られた。
いや、もしかしたら、住職の預かり知らぬ所で、既にそれは始まっていたのだろう。
いつから?
どこから?
そうか、と誰かが言う。
死んだ者は喰って良いのだ、と。
殺して食えば良いのだ、と。
郷は地獄へと、郷の者達は餓鬼の群れへと成り果てていた。
死体の骨をしゃぶり、皮とほんの少しの肉をせせり食う餓鬼。
既に言葉は通じぬだろうと、悟っていた。
住職には止められなかった。
だがせめて、この地獄が外に漏れ出してはいけない。
住職は静かに郷を離れ、郷に続く唯一の道を封じた。
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