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03.ある日森の中
しおりを挟む抵抗が無駄だと知ってから、僕は諦めて森の入り口まで歩いた。案内を終えると、顔を隠した人間たちは朝に向けて白む空の下を急ぎ足で去って行った。きっと彼らはこの後、何もなかったかのようにいつも通りの朝を迎えるのだろう。
僕はただ茫然と自分の境遇を思って絶望していた。
もっとこの身体が健康であれば。
父の期待に見合った成果を挙げられれば。
好きで病弱だったわけではない。普通に育って、友達と外で遊んで、どこかの女の子と恋愛をしたかった。二人で待ち合わせをしたり、共通の話題で盛り上がったりしたかった。
僕はただいつも見物者だった。
窓から見える子供たちの姿を羨ましがり、その気持ちを隠すように本の海に沈む。活字を追いかけている間だけは、自分の不遇を忘れることが出来た。行ったこともない国の景色や、食べたことのないフルーツの味を想像しては、小さな幸せを感じていた。
(………狼はどこに居るんだろう?)
聞いた話によると、その大きな狼は群れではなく一匹で行動しているらしい。獰猛な牙は人間の頭蓋骨をも噛み砕き、生き血を啜ることで永遠の命を手にしているとか。
生贄たちがその後どうなったのかなんて、考えるだけで手足が震え出しそうだ。僕は狼に出会って何をすれば良いのだろう。案内人が言うには、命が惜しければ少しでも気に入られた方が良いみたいだけど。
そもそも、こんな貧弱な、ましてや男の身体で狼を虜にしようだなんて馬鹿げた発想だ。
はぁっと吐き出した溜め息は、少し空気を白くして消えた。寒さの残る外の世界をこんな薄いローブだけで彷徨うなんてあまりに無謀だ。狼に見つけられるのが死体になってからでは遅い。
かじかんだ指先に息を吹きかけて擦り合わせる。
今頃もう村人たちは朝を迎えている頃だろう。僕が朝露を載せた葉っぱを避けながら寒い森の中で迷っている間、彼らは温かいスープを囲んでこれから始まる一日について話している。
なんて、惨めなんだろう。
落とした視線の先に影が差した。慌てて見上げると長身の若い男が立っている。短く切られた茶色い髪に、服の上からでも分かる鍛え抜かれた筋肉。村の娘たちが見たら黄色い声を上げそうな整った顔立ちをしている。
「お前は誰だ?」
「……っ、僕は、」
狩人だと思った。片手に薪の束を持っていたし、その逞しい四肢と険しい表情は、きっと彼の生きる世界の厳しさを物語っているのだと考えたから。
「僕はヒューイです。この先の村から来ました。狼を探しているんですが、道に迷ってしまって……」
一思いに吐き出した言葉を聞いて、男は首を傾げる。
「狼を……?」
「えっと、はい…」
「まだ朝も早い。見たところ食糧も持っていないようだし、俺に付いて来い。朝飯ぐらいは用意してやる」
「え!良いんですか?」
「困ってるんだろう?」
コクコクと頷くと、男はフッと笑った。
その瞬間に少しだけ覗いた彼の素顔は思っていたよりも優しそうで、もっと笑えば良いのにと僕は勝手な感想を抱く。
とにかく、人に出会えたことが嬉しかった。
だからきっと油断していたんだと思う。
連れられて行った男の家で、僕はそれはもうへべれけに酔っ払ってしまったから。
記憶にあるのは濃い森林の匂いと、汗で張り付く前髪を鬱陶しく思ったこと。そして、それらすべてを溶かし込む熱。
僕は確かに、その心地よい温度に溺れていた。
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