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第10話 『スロットルと鼓動、そしてキス』

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Scene.01 雨の朝、胸に灯った青の記憶(結視点)

 朝の六時半。
 目覚ましが鳴るよりずっと前に、私は目を覚ました。

 静かな部屋に響く、しとしとと優しい雨音。
 その音が、不思議と現実を引き戻してくる。

 「……ああ、今日だった」

 バイクで通勤するようになって、初めての“雨の日”。
 通学なら休めることもあるかもしれない。でも、会社勤めに“雨だからやめとく”なんて選択肢はない。

 覚悟を決めて、カーテンを開ける。
 窓の外、グレーの空から降る雨は優しげだけれど、アスファルトに落ちたそれは、じっとりと、重たく染みていくようだった。

 仕度を終えて玄関を出ると、GSX-S125は、カバー越しに雨を受け止めていた。
 でも、不思議だった。濡れているはずなのに、なぜだか……たくましく見えた。

 「……行こう」

 覚悟を決めて、レインウェアを着た後シートに跨がる。

 ――でも。

 走り始めて、すぐに思い知った。
 雨の路面は、こんなにも神経を使うものなのかと。

 マンホールの上を抜けるたび、タイヤが少し滑る感覚。
 白線や交差点のペイント。
 坂道の下りでは、ブレーキをかける指が、無意識に震えていた。

 「……怖い」

 それでも、進むしかない。

 転びたくない。ただ、それだけ。

 だけど……あの瞬間。
 国道の右折でブレーキをかけた、そのとき。

 キィイイ――ッ!

 タイヤが、一瞬空を滑った。

 「……っ!」

 とっさに足をついて、なんとか踏ん張った。
 転ばずに済んだ。けれど、心臓は壊れた時計みたいに、激しく暴れていた。

 そんなとき。

 「……大丈夫ですか?」

 その声に、びくりと振り向く。

 青いレインジャケットの男の人が、バイクを路肩に停めて、こちらへと歩いてきていた。

 一瞬でわかった。

 「……隼人さん?」

 ヘルメットの下から覗いた顔。
 あの整備工場で、初めてジスペケを見せてくれた人。
 凛ちゃんのお兄さん――隼人さんだった。

 「初めての雨か。……バイクが立ってて、よかったな」

 穏やかな声。
 冗談みたいな口調だけど、ほんの少し、優しさがにじんでいた。

 私が小さくうなずくと、彼は無言でポケットからタオルを出してくれた。

 「ほら。シールド、拭いておいたほうがいい。視界は命綱だから」

 「……ありがとうございます……」

 声が震えたのは、寒さのせい……だけじゃない。

 彼は、ほんの一拍の間を置いて、ぽつりと呟いた。

 「バイクって、さ。誰にも頼れない時間が多いだろ。でもな、誰かの言葉って、あとで思い出すと、ちょっとだけ強くなれたりするんだよ」

 ――その言葉が、胸にすっと入ってきた。

 彼はそれ以上何も言わず、白いYZF-R1にまたがった。

 「会社、近いんだよな。……じゃ、行ってらっしゃい」

 そう言って、ひとつ手を挙げると、静かに走り出していった。

 私は、その背中を、しばらくの間、ただ見送っていた。
 たった一言しか言ってないのに。
 たった一瞬だけの出来事なのに。

 ……なんだろう、この気持ち。

 さっきまで、手の中にあった恐怖が、ほんの少しだけ和らいでいた。
 代わりに、胸の奥に、あたたかい風が吹いたような――そんな気がした。

 「……うん、行こう」

 私はもう一度、ジスペケのエンジンを確かめる。
 雨は、まだ止みそうになかったけれど。

 怖さの向こうに、確かに何かが灯っていた。



Scene.02 距離がほどけていく音(結視点)

 雨の日の朝に、隼人さんに助けられてから――
 私は、何度も、あのガレージへ足を運ぶようになった。

 もちろん「お客」として。
 オイル交換、チェーンの清掃、タイヤの空気圧。
 GSX-S125を手に入れてから、バイクと向き合う時間が増えた。

 でも、理由はそれだけじゃない。

 そのたびに、「隼人さんいますか?」と声をかけて、
 整備中の隼人さんに、小さな手を振る。

 「よう。……また来たのか」

 苦笑い混じりの声は、少しずつ、角が取れてきたような気がした。

 はじめのころは、ただの整備士とお客さんだった。
 でも、何度も通ううちに、会話が増えて、
 少しずつ、名前も呼び方も、砕けてきた。

 「瀬戸さん、クラッチレバーの握り方、力入りすぎだな」
 「えっ、そうなんですか……」
 「ん、手首で引っ張ってごらん。もっと楽にできるよ」

 「……あ。すごい、軽く感じる」
 「だろ? 機械ってな、人間と一緒で、押し付けすぎると動かなくなる」

 そんな会話が、いつしか心地よくなっていた。

 ある日、作業が一段落したタイミングで、
 彼がガレージの奥から缶コーヒーを二つ持ってきた。

 「ブラックしかないけど、いいか?」

 「……はいっ!」

 緊張して答える私に、彼は少しだけ目を細めた。

 「なんでそんなに元気よく返事するんだ」

 「だって……何だか、ちょっと嬉しくて」

 その一言に、彼の表情がわずかに緩んだ気がした。

 私が行くたび、彼は私のバイクを丁寧に点検してくれる。
 言葉は少ないけれど、不器用な手つきにこもる優しさが、いつもそこにあった。

 「バイクって、エンジン音で状態わかるんですね」
 「……まあな。機械は正直だから」

 「隼人さんって、バイクのことになると、優しいですよね」
 「……バイク以外だと優しくないみたいな言い方だな」

 「ふふっ、そういうわけじゃ……でも、今のちょっと面白かったです」

 そんなふうに笑って返すと、彼は目を逸らしながら、工具をいじっていた。
 耳が、少し赤かったのは……気のせいじゃないと思う。

 ある日、閉店時間ギリギリに駆け込んだ私に、彼がポツリと言った。

 「……気をつけて帰れよ。今日は風が強いから」

 たったそれだけの言葉だったけれど、
 胸の奥に、何かがやさしく積もった気がした。

 そうして季節は、春から初夏へと少しずつ巡っていく。

 私は知らず知らずのうちに、あの人の言葉や仕草を覚えていった。
 好きな缶コーヒーの銘柄、仕事終わりに聴いてる音楽、工具を握るときの癖。

 一方で、隼人さんの表情も、ほんの少しずつ――変わっていったように思う。

 私が笑うと、彼も目元を緩めて。
 私が困ると、無言でそばにいてくれて。

 そんな静かな優しさに、私は何度、救われただろう。

 きっと、まだこれは“恋”とは呼べない。
 でも、ほんの少しずつ、確かにあたたかいものが育っている。

 言葉にならない想いが、いつか形になる時まで。
 私は、きっとこの距離感が好きなんだと思う。

 いや、――好きになってしまったのかもしれない。



Scene.03 距離の名をした温度(隼人視点)

 最初に「瀬戸 結」という女の子がうちに来た時、
 それは“凛の知り合い”として、そして“一人の客”としてだった。

 バイクが欲しいという話を、どこかよそよそしく話していた彼女。
 少し緊張してて、でも目だけはまっすぐで――それが不思議と印象に残った。

 選んだのは、あいつ――優斗の形見だった、青いジスペケ(GSX-S125)。

 正直、驚いた。
 こんな小柄な子が、あのバイクを選ぶとは思わなかった。
 しかも、それを真っ直ぐな目で「この子にします」と言ったんだ。

 ……あいつと、似てた。

 初心者で、バイクの事なんてろくに知らなくて、でも――心だけは強かった。
 「怖いけど、走ってみたい」って、真っ正面から言える奴だった。

 その目を、彼女もしていた。

 だから、譲った。
 整備も仕上げも、いつもより丁寧にした。

 それからだ。
 彼女が、頻繁に顔を出すようになったのは。

 最初は、まぁ、整備が気になるのかと思った。
 でもオイル交換とか、空気圧チェックとか――いちいちマメすぎる。

 ……いや、悪いとは思ってない。

 「また来ちゃいました」なんて、少し笑ってくる。
 凛とは違って、どこか“控えめ”なんだけど、妙に人懐っこいところがあった。

 最初は正直、ちょっとだけめんどくさかった。
 こっちは忙しい時もあるし、手が汚れてるとスマホだって触れない。

 だけど。

 「隼人さん、この間教えてくれたクラッチ、すごく楽になりました」
 「バイク、ちょっとずつ怖くなくなってきました」
 「……今日、会社でうまくいかなくて……でも、帰りに寄ったら少し元気出ました」

 そんな言葉を、ぽつりぽつりと、落としていく。

 そのたびに、何かが胸の奥を撫でていった。

 いつの間にか、彼女のことを“瀬戸さん”と呼ぶのが、やけに他人行儀に感じてきた。

 「……結ちゃん、こっち持って」

 名前で呼んだ時、彼女がちょっと驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑ったのを、今でも覚えてる。

 缶コーヒーを二人で飲んだ時。
 グローブを忘れて、手が冷たくなってた彼女の指先に、自分の工具用のハンドクリームを貸した時。
 作業中に髪が揺れて、油に触れそうになったから、思わず手で押さえてやった時――

 ……ああ、気づいてた。

 俺は、気づいてた。

 バイクを語る時の嬉しそうな目。
 凛の話をすると、少し照れる横顔。
 そして、たまに自分を見つめる、まっすぐな視線。

 そういうひとつひとつが、じわじわと心の中に入り込んできた。

 まるで、知らないうちに服に染みこんでくる、雨粒みたいに。

 それを「好意」と呼ぶには、自分は不器用すぎる。
 でも。

 この子が来るたび、ガレージの空気が少しだけ軽くなること。
 この子が笑うたび、自分もなんとなく笑えていること。

 その全部が――すでに答えだった。

 あの朝、雨の中ですれ違った時。
 スリップしかけて足をついた彼女の、小刻みに震える肩を見て、思わず声をかけた。

 「……バイクが立ってて、なによりだな」

 彼女が無事で、本当にホッとした。

 それが「好き」という言葉になるには、きっとまだ時間がかかる。
 けど、その想いが静かに育っていることだけは、俺の中で確かだった。

 たぶん、きっと、今でも――育ち続けている。



Scene.04 静かな整備工場の夜

 二度目のしまなみツーリングから数日後。
 仕事帰りの結は、なぜか真っ直ぐ家に帰る気になれず、ハンドルを今治オートセンターへと向けていた。

 夜の整備工場は昼とは別の顔をしている。
 街灯に照らされたシャッター、静けさの中に漂う油と鉄の匂い。
 バイクを停めて扉を開けると、薄暗いガレージに小さなライトの光が浮かんでいた。

 「こんばんは……お邪魔します」

 声をかけると、奥から金属を締める音が返ってきた。
 整備台に向かい、隼人が無駄のない動きでKDX125SRをいじっている。
 手首の動き、集中した横顔――どこか研ぎ澄まされた空気が漂っていた。

 「お、結ちゃんか。どうした、ジスペケの調子か?」

 「ううん、今日は……ただ来ただけ。なんとなく……ここに居たくて」

 その言葉を聞き、隼人は工具を置き、結を見た。
 真剣な整備の表情が少し緩み、口元に柔らかい笑みが浮かぶ。

 「……そうか。なら、コーヒー淹れるぞ。親父はもう上がってるしな」

 その一言が、結の胸を不思議と温かくした。



Scene.05 消えないエンジンの記憶

 コーヒーを手に、ふたりは工場の隅にある古いベンチに腰を下ろした。
 夜の工場は静まり返り、風がシャッターを揺らす音と、遠くの道路の車音がかすかに混じっている。
 時間がゆっくり流れる中、結はカップを見つめながら口を開いた。

 「……このバイク、優斗さんの形見なんですよね」

 「そうだ」

 隼人は短く答え、視線を宙に漂わせる。
 その声色には懐かしさと少しの寂しさが滲んでいた。

 「最初は、怖かったんです。大切な人のバイクを、私なんかが乗っていいのかなって。
 でも今は……この子が支えてくれてる気がします。優斗さんは知らないのに、不思議ですね」

 「……あいつのジスペケの音、俺は今でも耳に残ってる。
 クラッチは雑で、アクセルも荒い。だけど楽しそうな音だった」

 隼人は小さく笑った。それは懐かしさと痛みが混ざった表情だった。

 「バイクが好きで、下手でも、いつもニコニコで……。結ちゃん、お前と少し似てるよ」

 「私と……?」

 「そう。最初はお前も不安そうだった。でも、最近は違う。今のお前の目は優斗と同じだ。
 走ることが楽しくて仕方ないって目をしてる」

 結は胸がじんと熱くなり、言葉が出なかった。
 静かな工場に、優斗の記憶とジスペケの鼓動が重なって流れていく気がした。



Scene.06 鼓動が、近づいて

 整備台の横に置かれたジスペケ。
 その存在が、結には今まで以上に愛おしく感じられた。

 隼人はチェーンの張りを確認しながら、ふと結を見た。
 「……最近、よく笑うようになったな」

 「えっ……?」

 「最初に来た時、お前はもっと無表情で、バイクのことも信じきれてなかった」

 「……そうかも。あの頃は、自分が嫌いで、何も上手くいかなくて。
 ただ毎日流されてるだけだったから」

 結は自分の両手を見つめ、小さく息を吐いた。

 「でも今は……ちゃんと走ってる気がする。どこに向かうか分からなくても、自分の意思で」

 隼人はゆっくり顔を上げ、真っ直ぐに結を見据える。
 その瞳には、迷いが一切なかった。

 「――だったら、もう迷う必要はない」



Scene.07 そして、キス

 夜の工場は、工具の音が止まり、時間さえ止まったように静かだった。
 互いの視線が絡む。結の胸が早鐘を打つ。
 何も言えないまま、息が少し熱を帯びていく。

 隼人が一歩、結へと近づく。

 「……結ちゃん」

 「はい……?」

 その声に答える間もなく、隼人の手が彼女の頬を優しく包み込む。
 そして――迷いなく唇が重なった。

 短い時間。それでも世界は確かに変わった。
 胸の奥で何かが熱く広がり、結は目を閉じた。



 「……ずっと、気になってた。君のこと」

 「わ、私も……」

 声は震えていたが、それは恐れではなかった。
 ただ胸いっぱいの温かさが、彼女を包んでいた。



Scene.08 エンジンのように、心も動き出す

 夜の空気は少し冷たく、星がにじんでいた。
 結はジスペケに跨り、エンジンをかける。
 静かな工場に、低く力強い鼓動が広がる。

 「……じゃ、また来ますね」

 「おう。次は昼間に来い。親父に変な顔されるからな」

 「ふふっ……分かりました」

 ジスペケの音が夜を切り裂き、彼女の胸にも同じリズムが響く。
 開いたスロットルは、もう戻らない。

 恋はまだ始まったばかり。
 でも、それはバイクと同じ。動き出したら、もう止まらない。

 To be Continued...
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