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12.変わらないモノ

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目が覚めると、電車の中だった。

座席に座っているうちに、すっかり寝こけてしまったようだ。大きな窓ガラスの向こうを、青々とした田んぼが流れている。

ガタン・・・ガタン・・・

なだらかな車両の揺れ。心地よいリズムが、私を夢の中に引き戻していく。

ドスン!

肩に何かぶつかった。横を向くと、多波さんが私の肩にもたれかかっていた。肩をするりと抜けて、彼の頭が目の前に下りてくる。

顎の下に剃り残した髭、大きい瞼、ゴツゴツした鼻。

・・・何年経っても、作りは変わらないんだな。

ぼんやりと思った。唯一変わったのは、多波さんの頭に、白髪がチラホラ生えてきた事だろうか。彼はとても気にしていた。「そのままでいいよ」と言って抱きしめたら、途端に泣き始めるから、焦ったっけ・・・。

多波さんの頭を、そっと自分の膝に乗せた。膝枕の状態。

車内は私達だけだし・・・たまには、いっか。

そっと彼の頭を撫でると、優しい匂いが鼻先をくすぐった。不意に、彼の瞼が開いた。ハッと目を見開いたかと思うと、今度は、ぱちくりさせている。自分の状況を、判断しかねているようだった。やがて、分かったらしく・・・

ガバッ!!

飛び起きた。

「ごめん、望。重かったよな」

望?・・・一瞬、誰かと思った。そうだ、私の名前だ。

どうも多波さんに名前で呼ばれるのは、慣れない。・・・というか、苗字すら殆ど呼ばれなかったような。

「これ、食う?」「何が好き?」「どっちがいい?」

いつも主語がないんだよ、多波さんは。

「○○駅、○○駅」

車内アナウンスが、目的地に到着したことを告げた。多波さんは、網棚の大きなリュックを背負って紙袋を持つと、私に手を差し伸べた。

「行こうか」

彼の手に引き上げられるようにして、私は席から立ち上がった。手を繋いでホームに降りる。今日は快晴。眼下には、どこまでも続く田園。青々とした稲の穂が、風に吹かれて鳴っている。

艶やかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、空に両手を突き上げて、思いっきり背伸びをした。

「気持ちいい~」

ふと多波さんを見ると、こちらに背を向けて、コソコソとスマホをいじっていた。私は悪い笑みを浮かべて、背を丸めた。彼の死角に潜り込み、大きな手から、スマホをスッと抜き取った。途端に慌てふためく彼。

「あ!返してくれ!」

「ダメだよ。歩きたいって、言ったじゃない」

スマホの画面には、タクシー会社の電話番号が並んでいた。

「でも、遠いぞ。万が一・・・」

「大丈夫だって。も~、本当に心配性なんだから」

多波さんにスマホを返した後、私は強引に彼の手を取り、指を絡めた。恋人繋ぎで田んぼ道を歩いていく。

田園風景を楽しみながら40分ほど歩いて、目的地に到着した。二階建ての大きな日本家屋。立派な庭がついている。庭の入口に進むと、色とりどりの花が出迎えてくれた。花々を通り過ぎ、玄関に向かう。鯉の泳ぐ池、風格のある松、苔むした石灯籠。珍しくて、ついキョロキョロしてしまう。玄関の呼び鈴を鳴らすと、すぐに戸が開いた。

「いらっしゃい」

黒髪ロングの美しい女性が、笑顔で迎えてくれた。FS会のリーダー、サラだ。彼女は私達を見て、一瞬、目を見張ったけれど、やがて穏やかに微笑んだ。サラの後ろから、髭を生やした恰幅のいい男が、廊下をのしのしと踏みしめやってきた。

「初めまして。こんなところまで、疲れたでしょう。上がって、上がって」

サラの旦那さんだ。気さくな笑顔で多波さんと私を歓迎してくれた。

「「こんにちは!」」

旦那さんの後ろから、可愛らしい男の子と女の子が、ぴょこんと顔を出す。サラの子供達だ。

「ねぇねぇ、お土産ある?」

「あるよ、チョコレート好き?」

「好き好き!チョー大好き!」

多波さんが持っていた紙袋を渡してあげると、子供たちは、大はしゃぎで二階へ駆け上がっていった。

「こら!お菓子は、ご飯の後よ!」

サラは小さい背中を叱りつけると、腕を組んで口元を歪めた。

「も~、お行儀が悪くて困っちゃう」

「今、渡したら、まずかったね。ゴメンね」

「ううん、大丈夫よ」

「大学時代の友達なんだって?サラと同じ、文学部なの?」

旦那さんに尋ねられて、私は固まった。冷や汗が頬をつたう。

「ええ、まぁ・・・」

・・・ごめんなさい、旦那さん。私は、別の大学です。

心の中で、謝った。

「こっちよ」

サラはそう言うと、客間に案内してくれた。襖を開けると広い和室だった。天然木でできた飴色の大きな座卓に、藍色の座布団が4つ、座卓にはお茶とお菓子が用意してある。

「三人だけで話しても、いいかしら?」

「もちろんだよ」

サラの要望に、旦那さんはニッコリ笑ってOKした。

「お父さん!みてみて!」

二階から、子供たちの声がする。

「はいはーい、今行く!」

子供たちに急き立てられ、旦那さんは二階に上がっていった。

サラは和室の襖を閉めると、キョロキョロと辺りを見回した。他の襖が開いていないか、確認しているようだった。それが終わると、彼女は私達に向き直った。

私は息を飲んだ。彼女の表情に。唇を震わせ、目に涙を溜めている。スッと一筋、涙が頬を伝う。

「多波・・・」

サラはさめざめと泣いた。こぼれ落ちる涙を手でぬぐうと、濡れた頬に穏やかな笑みを浮かべて、多波さんに尋ねた。

「・・・本当に・・・アナタなの?」

「ああ」

多波さんは、微笑みを湛えていた。優しさと慈愛にあふれ、どこまでも晴れ渡る青空のような微笑み。

以前の彼は、眉間にシワを寄せてへの字口が、お決まりだったのに・・・今では別人のようだ。

奇跡のような変貌を遂げた彼を、サラはただ見つめていた。

多波さんの病状は、何年もの間、一進一退を繰り返していた。けれど、ある時、突然。それは終わりを迎えた。本当に、唐突に、飛躍的に回復していったのだ。

情欲の波に溺れていた多波さんは、荒波を泳ぐ術を身につけ、

そして、ついに・・・

陸に上がったのだ。

悪魔の彼は姿を消し、優しい彼だけがここに留まった。

サラは多波さんに歩み寄ると、頬へと手を伸ばし、瞳に彼を映しながら、言葉にならない何かを呟いていた。指が頬に触れるかと思ったけれど、寸前で下ろされる。

多波さんはその場で正座をして、首を垂れた。俗に言う、土下座。

「本当に迷惑ばかりかけた。許して欲しいとは、言わない。謝罪だけでも、させてもらえないだろうか」

サラも、深々と彼に土下座をした。

「こちらこそ、今までの非礼をどうかお許しください」

私だけ立っているのも、おかしいので、正座をした。二人の土下座が終わると、サラは私に飛びついた。

「多波を救ってくれて、本当に・・・ありがとう」

顔をぐしゃぐしゃにして泣くサラを、私はそっと抱き寄せて、頭を撫でた。

「別に、救ってないよ。多波さんは、自分で陸に上がったんだよ。私はただ、多波さんの側にいただけ・・・」

かつて、多波さんを治療しようと、三年粘った女性がいた。それは紛れもない、サラのことだった。三年間、多波さんと寝食を共にした彼女は、ボロボロになった。そして苦肉の策として、あのFS会を彼に提案したのだった。

初めは、彼女を敵と思っていた。でも「多波さんと一緒に暮らす」と伝えた時に、気がついた。口は悪かったけれど、彼女は私を心配してくれていたのだ。

「もう自分のように、ボロボロになる女性を見たくなかった」

と、彼女は後で言っていた。

多波さんとの生活に疲れて、私が自殺未遂を起こした時、真っ先に彼女は駆けつけてくれた。「なんでも、力になるから」と、手を握りしめ泣いてくれた。私は彼女に、FS会を解散するように頼んだ。彼女は一瞬ためらったけれど、私が望むならと、すぐに解散してくれた。彼女は、多波さんを憎んでいたけれど、同じくらい愛していたのだ。

FS会が解散するにあたり、トラブルが起きないかと気を揉んだけれど、それも稀有だった。夜道で刺される、家に火をつけられる、なんていう物騒な事は、一つもなかった。穏やかに解散できたのは、みんなが、多波さんを愛していたからだと思う。

サラはFS会の解散後も、私を気にかけてくれた。私に色々な本を貸してくれた。心理学、医学、生物学、社会学、法学、なんでも。FS会の応接間に、ずらっと並んでいた本だった。多波さんと暮らしていた時に、集めたモノだという。

彼女は私に、とっておきのノートをくれた。多波さんの病状を書き留めたノートだ。それが、とても励みになった。私が辛くて夜中に電話をしても、サラ黙って話を聞いてくれた。彼女は、いつも私を支えてくれた。

という訳で、多波さんとの地獄生活を乗り越えられたのは、彼女の尽力が大きかった。初めて会った時は、敵だったけれど、今では盟友だ。

「正直、妬けちゃうわ・・・」

サラは、笑顔で言った。

「えへへ・・・なんだか照れるね、多波さん」

私と多波さんは、顔を見合わせた。

「・・・なぁ、望」

多波さんが、おずおずと言う。

「その・・・多波っていうの、そろそろ、やめないか?同じ多波だろ・・・」

「あはは。ごめんね、誠一さん。ついね、癖で・・・えへへ・・・」

「誠一さん」という言葉を聞いて、多波さんの顔は、真っ赤になった。

「2人とも結婚おめでとう。それから赤ちゃんも。」

サラは、にっこり笑って両手を合わせた。

そう。私は今、妊娠7カ月だ。お腹が、こんもりと膨らんでいる。

結婚出産・・・もうしないかなぁと、思っていたけれど、誠一さんの病状が落ち着いて、私達は籍を入れることにした。子供はどうしようかと、散々悩んだけれど、彼が欲しいと言ってくれたので、そうすることにした。

結婚後、すぐに妊娠した。妊娠を知った時の誠一さんは、そりゃあ、もう・・・言わなくても分かるよね。

「はー、高齢出産かぁ・・・やっぱり不安だよー」

これから待ち受ける嬉しい試練に、私は思いを馳せた。

「大丈夫よ。私が色々教えてあげるから、まかせて!」

サラは、ノリノリだ。

「お古のベビー服出してあるから、選んでいって。性別どっちだっけ?」

「女の子だ」

すかさず、誠一さんが答える。

三人でベビー服を選んだ。それから、皆んなでご飯を食べて、皆んなで笑った。

この10年で、色々なモノが変わった。私も、サラも、誠一さんも・・・。

誠一さんと過ごした古ぼけたアパートは、老朽化で取り壊しになった。今は、引っ越してマンションに住んでいる。綺麗なテーブルと椅子、新調したカーテン、広くなった部屋、本当に何もかも変わった。

あ。

そうそう、

変わっていないモノが、一つだけある。

あの甘ったるい恋愛小説。

あの本は、今も本棚に並んでいる。

*おわり*

最後までお読み下さり、ありがとうございました。
番外編も、もしご興味ありましたら、お付き合い下さい。

※多波の病について
アイディアの元となった病はありますが、彼の体質、症状、心理状態、回復の流れなど、病に関する作中の内容は、全てフィクションです。多波の病は、完全なファンタジーです。現実の病とは、全く関係がありませんので、混同されないようお願い致します。
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