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【番外編4】10年後の2人(6.本当の幸せ)

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朝。
目を覚まして、ベッドからモゾモゾと顔を出す。マットレスに顔を埋めたまま、眠気を帯びた半開きの目で窓の外を眺めた。萌黄色のカーテンの隙間から、眩しい青空が覗いている。いい天気。

空の青さに吸い寄せられるように起き上がった途端、ふわりと体が傾く。掛け布団の中から太い腕が伸びてきて、私をベッドに引き戻した。

「望、おはよう」

低い声が、耳元をこちょこちょ、くすぐる。

「おはよう、誠一さん」

チュっとおでこで音がして、口と口が触れ合う。私は両手を広い背中にまわした。ピタリ。重なり合う体。誠一さんの高い体温が肌に染み込んで、体が溶けていく。二人なのに一人になったかんじ。

彼の脚に、つま先をじゃれつかせると、隆々とした太腿がいたずらっ子みたいに、私の股に潜り込んできた。体をあちこち絡め合いながら、お互いの肌触りや舌触りを楽しむ。

猫のようにじゃれあった後は、一緒にベッドを出て、カーテンを開ける。私はリビングのソファーに腰を下ろし、誠一さんはキッチンでお湯を沸かし始める。

カチン。数分後、コンロの火が止まり、コーヒーの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。マグカップを両手に持った誠一さんがやってきて、私の隣に腰を下ろす。ソファーが深く沈み込む。私の体が巨体に傾く。二人で寄り添い合う。ピッタリと。

誠一さんからマグカップを受け取って、コーヒーを一口飲んだ。酸味と、苦味と、優しい甘さで口の中が満たされる。私のは角砂糖一つ、彼のは角砂糖たっぷり。窓枠に縁取られた8階から見える高い空を、いつもの味と一緒に堪能する。

もう、3ヶ月。籍を入れてから3ヶ月、か・・・。

今日は土曜日。きっとこんな一日だ。二人でコーヒーを飲みながらゆっくりと目を覚まして、遅めの朝食をとる。その後は、もう一度ベッドでじゃれ合うか、外へ行って古い商店街や公園を散歩するか。今日はどっちの気分だろう。日が沈めば夕食をとって、お風呂に入る。その後は、彼とベッドに潜り込み、クスクスと笑い合いながら、猫のように戯れる。そして、いつの間にか眠りに落ちる。

平日は、仕事があるから早足になるけれど、大体、同じような日々。籍をいれる前と、暮らしは殆ど変わらない。でも、変わったコトが一つだけある。

不安がない。全く。1ミリも。

誠一さんがくれた本当の幸せは、只々穏やかな日々だった。

入籍。それは、紙一枚の出来事だった。でも、そのペラペラの紙が、長年まとわりついていた不安を、根こそぎ吹き飛ばした。

当たり前で、淡々とした、同じような日々に、心が震える。

今までの生活は、ジェットコースターだった。登ったと思ったら、すぐ降る。しかも、猛スピードで。誠一さんと出会って初体験をした後、彼は他の女を抱いていた。何人も、何人も、抱いていた。それでも、彼を諦めきれなくて、一緒に暮らすようになった。

それなのに、彼はまた誰かを抱いていた。彼が自殺して、私も自殺して、死んだと思ったのに、二人とも生きていて・・・「ずっと一緒にいよう」そう、誓い合った。何度も、何度も。

それでも、ジェットコースターは止まらなかった。何年も、何年も。コースターの終点について、安全バーが上がるまで10年もかかった。

ああ・・・もう、不安にならなくていいんだ・・やっと地に足がついたんだ。

婚姻届に自分の名前を書いた瞬間、そう思った。

よく死ななかったな。よく生きてきたな。私も、誠一さんも。

ようやく手に入れた、平凡な日常。穏やかで、暖かで、笑い声があふれる日常。その全てが、眩しくてたまらない。

マンションに引っ越してきて、3ヶ月。本当に夢のような日々を過ごしている。

でも、ここ最近、気になる事が一つできた。なんだか、だるい。体が。今日は朝の4時に目が覚めた。熱を測ったら37.2℃。昨日も微熱だった。その前も。

風邪かな?と思ったけれど、他に気になる事があった。アレが1週間以上遅れている。いや、今までも1週間遅れることは、たまーにあった。

気にしすぎ?・・・でもなぁ。

予定日過ぎから、誠一さんに言おうか言わまいか、ずっとグルグル考えていた。

今日は言う。今、決めた。よし、言うゾ。言うんだ、私。

意を決して、彼に向き直る。

「「あのさ」」

高い声と低い声が、キレイにハモった。互いの顔が、みるみるほころび、くつくつと笑いがこぼれる。

「望、先に話して」

「お先にどうぞ、誠一さん」

「俺は後でいいよ」

「私が先に聞きたいの」

「じゃあ・・・言うぞ」

「ふふっ、どうぞ」

すると、誠一さんは真剣な表情になった。また愛でも囁かれるのかな?

「遅れてるだろ・・・、その・・・生理」

「ぶっ!!」

先に言われてしまった。吹き出す私を見て、彼はオロオロし始める。

「すまん・・・無神経だった。でも・・・具合悪が悪そうに見える。心配だ」

「ううん、心配してくれてありがとう」

広い手が、おずおずと私のおでこに触れた。

「ちょっと熱っぽいな」

「使ってみよっか、アレ。確か予定日の1週間過ぎから、大丈夫だったはず」

アレが、なにか分かったらしく、誠一さんの顔が色づく。

私はリビングの棚から、例の物を取り出した。妊娠検査薬だ。ソファーの彼に目配せをして、トイレに向かう。トイレで検査薬の採尿部に尿をかけ、それを持ってソファーに戻った。

検査薬を二人でじっと眺める。すると、じわじわと判定部分に線が出てきた。陽性。陽性だ!

「わぁ!誠一さん、やったね・・・あれ!?」

彼は声を押し殺して、さめざめと泣いていた。いかつい顔に、涙の筋が幾重にも重なって、頬がテラテラと光っている。

「・・・すまん」

「だだだだ、大丈夫!?まだ、早いよぉ!?病院行かないと!」

「・・・そう・・・だな」

彼は眉間にシワを寄せながら、指で目の間を摘まむようにグイグイ擦った。

最近、誠一さんは涙脆い。すぐ泣く。婚姻届を役所に出しに行った時もそうだった。彼が泣くと私まで泣けてくる。二人でボロボロ泣くので、役所の人はオロオロしていた。幸せすぎる日常に、どうも私達は免疫がない。

陽性と出た検査薬を眺めていたら、私もなんだか泣けてきた。互いの体に手を伸ばし、二人で抱き合って静かに泣いた。

私達はずっと避妊をしていた。けれど、入籍したタイミングで、子供について話し合った。お互い、いい歳だったので、私はちょっと気が引けた。だって親が歳だと、子供が可哀想かなと思って。

でも、誠一さんは「それでも欲しい」と言ってくれた。遠慮がちに「欲しい」と言った顔が、可愛かった。あの顔を思い出すだけで、今でも口元が緩む。

最愛の人と結ばれて、末永く幸せに。それが誠一さんの夢だった。

実は、その夢には続きがあった。愛する人との子供を授かり、温かい家庭を築く、という夢。普通の恋愛が出来なかった彼は、人一倍、普通の家庭に憧れていた。

その話を聞いていて、私も段々、誠一さんに似た赤ちゃんが欲しくなってきた。まぁ、人生一回きりだし、子供がいたら楽しいかもしれない。そう思い直した。

ということで入籍後、子作りを解禁。そして、あっさり、できてしまった。まさかこんなに早くできるとは・・・。

私が自分のお腹に手を当てると、誠一さんも大きな手を重ねた。全く実感はないけれど、多分ここに赤ちゃんがいる。

お腹に手を置いたまま、反対の手でコーヒーを啜ろうとして、ふと思った。

「そう言えば、コーヒーって妊娠中も飲んでいいのかな?」

「デカフェだ」

「え?」

「これはデカフェだから大丈夫だ。その・・・子供を作ると決めたタイミングで切り替えた。アルコールはもちろん、カフェイン、生モノも注意した方がいいそうだ」

いつのまにか誠一さんの手には、A4サイズの本がのっていた。『新米パパとママに贈る妊娠・出産の全て』という本。本には、付箋がびっしり。中にも蛍光マーカーが引っ張ってある。

仕事が早い!早すぎる!というか、その本はいつ買ったの!?

妊娠してから調べればいいかな、と思っていた私は、驚きのあまり、鯉みたいにポカンと口を開けていた。

呆気に取られている私をよそに、誠一さんはスマホを軽快にスクロール&タップしている。そして、私に向き直って言った。

「近くの産婦人科、午前中はやってるみたいだ。後で行こう。今、飯つくる。望は寝てろ」

妊娠の可能性が発覚して数分しか経っていないのに、テキパキと親モードに突入していく誠一さん。私は、なんだか置いてけぼりだ。

彼がソファーから立ちあがろうとしたので、私は慌てて、たくましい腕を両手で引っ張った。誠一さんは驚いたような顔で、私を見下ろしている。私はニッと笑って、引き戻した腕に抱きついた。

「もう少しだけ、ゆっくりしたいな。病院は、それからでも遅くないでしょ?」

「それは構わないが・・・」

「お願い」

「分かった」

誠一さんは穏やかに微笑み、再びソファーに深く腰をかけた。彼の重みで、またソファーが沈み込む。私は巨体に寄りかかる。体がピッタリ寄り添うと、彼は私の腰を抱き寄せた。

窓の向こうは、雲一つない青空。果てしなく続く青。まるで海のよう。彼の呼吸に合わせて、私の体がゆっくりと上下する。大海原で船に乗っているみたいだ。

赤ちゃんは気になるけど・・・今はもう少しだけ、この心地よい波に揺られていたい。

「産後は地獄」「自分の時間ない」「夫、死ね!」

子持ちの友達が、こぼしていた愚痴。

子供を作ると決めた時、一瞬思い出したけど、何故か心に響かなかった。

大丈夫。

時間がなくても、大丈夫。地獄でも、大丈夫。死ねって思っても、大丈夫。

子供が生まれたら、きっとまた色々あるだろう。笑う事も、泣く事も、傷つけ合う事も。ジェットコースターみたいな日々がやってくる。

でも、大丈夫。いつか必ず、この穏やかな日常に戻ってこられる。彼となら、きっとどんな波も乗り越えていける。

ふふっ・・・へんなの。誠一さんとの過酷な日々が、今は希望になっている。

ぼうっと、まどろんでいる私の耳元で、優しい声がした。

「望、今まで俺と一緒にいてくれて、ありがとう」

「ふふっ、これからもずっと一緒、でしょ?」

「もちろん、ずっと一緒だ。死んでも一緒だ」

「ふふふ・・・熱烈ね」

「当たり前だ、俺には望しかいない」

コツン。二人でおでこを合わせた。

「望、愛してる」

「私も愛してる、誠一さん」

手を絡め合う。握り合う。固く、固く。どんな荒波に飲まれても、決してこの手は離れない。

「ずっと一緒にいよう」

この思いが消えることはない。

***おわり***

最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。
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