夏蝉鳴く頃、空が笑う

EUREKA NOVELS

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#2 「列車」

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 新しい街での僕の暮らし。
 案外それは悪くないようで、どこか物足りない。
 何不自由のない生活の中で、何か不自由なものを満たしたい。
 そんな矛盾を抱えて、僕は生きている。
 あの街に置き去りにしてきた物の中に僕が欲しかったものが詰まっていたのだろうか。
 今更栓無いことだとは分かっていても、何度も頭をよぎる。
 あの日、あの時、あの鈍行列車に乗り込まなければ。

「僕の心は満たされていたのかな」

 無い物ねだりだって分かっている。
 あの頃の僕は何も知らなくて、変わる景色にばかり目を奪われて。
 今からだって遅くない。
 あの街に今からでも戻れば。
 でも、その勇気が出ない。
 あの日のどうしようもなく希望に満ちた列車が今では生活の糧を得るための電車に代わってしまった。
 なら今の僕には、あの列車とあの街の景色はどんな色で、どんなふうに映るんだろう。
 そう考えるといつの間にか体が少しだけ軽くなったのを感じた。
 「随分と遠回りをしたな」と嘯きながら、好奇心で虚飾した重たく感じる心を持ち上げて、僕は――

 列車に乗り込んだ。
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