追伸

咲花楓

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追憶

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 響く風の音。鳴る蝉の声。目に染みる汗と、痛いくらい眩しい日の光。聞こえない波の音を聞きながら、ただ足を動かす。いつも通りの午後三時。今日は七月の五の日。未だ夕焼けは知らず。角を曲がり、海岸線と合流する私を、潮風が迎える。打ち付ける波の音を聞きながら、風と暑さに揺られていた。眩しい青に照らされる水面を反射するアスファルト、ふと、その上に少女が見えた。可愛らしい顔に大きな帽子、華奢な体にワンピースがよく似合う。紛うことなきその「美少女」に、私は目を奪われてしまった。私は自転車を止め、堤防へと上る。コンクリートが熱い。
 「え、えっと、この町の人じゃ、ないよね……?」
 話す理由を咄嗟に探し、出てきた言葉を紡ぐ。今の私にとって、彼女がこの町の人間なのかとかは二の次だ。ただ彼女と話してみたい。そんな衝動が起きてしまった。
 「うん、えっと、昨日越してきたばっかで」
 可愛らしい声で答える。昨日。何も聞いてなかったし何も気づかなかった事を許せない。こんなにも可愛らしい、美しい子がこの町に越してきたのか、と少し驚く私に彼女は言葉を続ける。
 「元々東京に住んでた……んですけど、学校、行けなくなっちゃって」
 そう言葉を溢す。
 「そろそろ戻らないと。お母さんが待ってる」
 言葉を濁して、立ち去ろうとする彼女を引き止めることはしなかった。
 「うん、またね」そう言って私も立ち上がる。また、いつか会えるなんて信じてしまっている。そりゃあこんなに小さい町なら、またいつかは会えるだろう。でももう会えないかもしれない、なんて考えが過ってしまう。そう思ってしまうほど、私は彼女に惹かれてしまっていた。コンクリートの熱が、未だ手に残っていた。


 
 「……あ、やっと目、覚めた?」
 目を覚ますと、あの少女がいた。何なんだこの状況は。忘れてしまっていた記憶を掘り起こす。あれから彼女のことでいっぱいになってしまったような脳内から、何とか正常な記憶を呼び戻す。今日は七月の六の日。帰り道、自転車のブレーキが故障して。
 「畑に倒れてたんだよ?心配しちゃって」
 木陰に座る彼女は、私を覗き込んでそう言った。
 「あ……ありがとう、ごめんね、心配かけちゃって……」
 慌てて飛び起き、止めてある自転車に目をやる。使い古されたそれはあらぬ方向に曲がり、事切れていた。
 「ブレーキ、壊れちゃったみたいで……はは……」
 この自転車ともお別れか、と惜しみながら言葉を漏らし、少し痛む足で無理に立とうとする。
 「痛っ」
 「大丈夫?まだ少し休んだほうが良いよ」
 そう彼女に言われ、再び座り込む。
 「いやー、なんかごめんね……」
 気まずい。何か話さなければ。
 「えっと……あなたは、高校生?」
 そう思っていた矢先、先に切り出したのは少女の方だった。
 「え……、あ、うん、そこの坂からずっと上に行ったとこ。」
 何か、もっと言えることはないだろうか。そういえばこの子、東京から来たと言っていた。そう思い、慌てて付け足す。
 「教室から海、見えるんだよ」
 小さい頃からずっとここに住んでいる私にとって、東京の、都会の学校の教室から見える景色は全く知らない世界だ。見知らぬ景色にいつしか思いを馳せてしまう。
 「いいなぁ……」
 目を輝かせる少女。その目の光を絶やさんとばかりに質問を続ける。
 「ね、学校、楽しい?もっと聞かせてほしい、学校のこと。」
 そうしてしばらくの間、私は彼女と話した。どういう授業を受けているのかとか、何の部活に入っているのかとか。と言っても私は部活には入っていないのだけれど。
 「……部活に入ってたら帰りが遅くなるだろうし、私と出会えなかったかもね。」
 なんて彼女が笑う。あまりにも眩しいその笑顔に、思わず私も目を細める。気づいた時には、この時間が続けばいいのに、なんてことを考えてしまっていた。そんな私をスマホの通知が現実へと引き戻す。液晶に映る時計を見て、早すぎる時間の経過を認識した。スカートについた砂を落としながら立ち上がる。
 「この後時間ある?お礼、したくて」
 「お礼?」
 「うん、助けてくれたから。アイスでも食べようか。」
 そうして向かったのは近くの売店、冷凍庫が冷たくて気持ちいい。ずっと手を突っ込んでいたくなる。2つに分けられるタイプの棒状のアイスを買い、2つに割る。ひんやりと伝わる温度は、上がり切った心の温度さえも冷ます。
 「はい、どうぞ。」
 「あ、ありがとう……」
 暑さも涼しさも、この小さな氷の粒の冷たささえ、2人で分かち合った。
「暑いね」なんて、風を送り合って、笑い合いながら。
「全然涼しくないね」なんて、手を止めた彼女の顔が、何故だか頭から離れない。
 2人ぼっちの木陰、昨日出会ったばかりの私たちは、まるでもう親しい友人かのように笑いあっていた。ふと、私は彼女に、帰らないのか訪ねる。
「うん、きっと大丈夫。お母さんは優しいから。」
 どこか寂しそうな彼女に、私はまた聞いてしまう。
「どうして、学校に行けなかったの?」
 その瞬間、黙り込んでしまう彼女。何か思いつめたような、曇った表情だ。言葉はもうそこまで来ているのか、それでも彼女はそれを抑え込んで答える。
「それは……ごめん、うまく、言えなくて……」
 なんとなく知ってはいけないような、自分も傷を負いそうな、そんな気がした。
「……そっか、ごめんね。急にこんなこと聞いて」慌てて謝る。
 突如現れる静寂。無言の間を経て、彼女が口を開く。
「あなたはさ、今、楽しい?幸せ?」
 突然そんなことを聞かれ、戸惑ってしまう。よく考えてみればわからない。普通の家庭に生まれ、普通に暮らしている。それは紛れもなく幸せなんだとは思う。でも、心の中では納得していないというか、私は自分の人生に満足していない。恐らく正解はない。幸せという定義されていない事に関して、自分がそうである、そうでないと言える根拠はどこにもない。ただ、今の私を定義できるとするなら、言える答えは。
「うん、私は幸せ、だよ。」
 なんて、根拠も定義もない曖昧な返答をする。
「……そっか。」少女は俯く。
 少しの間、少女は俯いたまま何も言わなかった。でもそれは、ただ黙っているわけじゃない。きっとなにか、思うことがあるのだろう。彼女は俯いたまま続ける。
「あなたはさ、死ぬことって、考えたこととかある?死んだらどうなるのかな、とか」
 考えたこともなかった。いや、正確に言えば少しは考えたことがある。でもそれは少し疑問に思っただけで、深く考えたことはない。
「……私ね、死ぬのが怖いの。今の幸せな人生が終わってしまう、って。」
 彼女は苦しそうに笑う。きっと無理をしている。何か、大きなものを背負っているんじゃないか、なんて考えてしまう。それはきっと、彼女の小さな背中にはとても大きすぎるものなのだろう。それでも私は、きっと私は、そのすべてを否定したかった。何故彼女が急にこんな話をし出したのか、私にはわからない。
「もう、帰らないと。」
 曇った表情のまま立ち上がる彼女に、どこにあるのかもわからない、彼女の心に抗うように言った。
「また、会おうね」
「うん、ここで待ってる。いつでも。」
 遠くから見てもわかるような、目立った大きな木の下。木陰。日の光に照らされる彼女の背中を見送る。何を背負っているのか、わたしにはわからない。それでも、わかってあげたい。そんな無責任で勝手なことを思ってしまう。とても黒く、深く、悲しい何かが彼女の奥に見えた気がした。まだ青い空を見上げる。鞄の中の書類を思い出す。進路。
「あぁもう!」
 葛藤が入り混じった私の心は日に照らされ、今にも私ごと溶けてしまいそうだった。


 
 その夜、夢を見た。暗くて深く、恐ろしい夢。細かくは覚えていなかった。それでも何故だか、とても恐ろしかった。目を覚ましたその時、私はもうあの少女には会えないのではないかと思ってしまった。午前四時半、きっとそういう夢だったのだろう、と行方不明の自分の記憶を決めつける。目も覚めてしまったし、二度寝するには微妙な時間だ。私は着替え、ドアを開ける。きっと両親はまだ寝ているだろう、気づかないだろうと思い、外へ出る。まだ淡い朝焼けに照らされる地平線を眺める。まだ覚めない町の空気は、いつもよりも少し冷たい気がした。
「……進路……ね」
 零れ落ちるように、不安を含んだ言葉が口に出る。ずっと目指していた道に、疑念が生じている。本当にその道でいいのか。そこへ進んだとして、私はどうするのか。わかりもしない未来のことを思い浮かべては憂う。
「私……なにしたいんだろ」
 そんな私の目を覚ますように誰かが言う。
「おはよ。あなたもここ、来てたんだ」
「うわぁっ!?」
 びっくりして飛び上がりそうになる。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
 そこには、あの少女がいた。独り言を聞かれていないか、そもそもこんなところで会えるのか、なんて色々なことが頭の中を飛び交う。そんな私の脳内交通網を切り裂くように言う。
「朝早くの海、綺麗だろうなって思って。来ちゃった。まさかあなたがいるなんて思わなかったけど。」
 こちらこそ、だ。あれからというもの、よく彼女と会っていたが、まさかこんな場所でも会うとは思わなかった。
「……何か、悩んでる?」
 やっぱり、聞かれていたのか。悩み、といえばいくらでもあるが、
「進路……だよね……」
 やっぱり聞かれていた。
「……うん……私、今の進路で本当にいいのかな……って……」
 なんて、言葉を漏らしてみる。ただ思い浮かぶまま連ねた言葉も、きっと消えていくのだろう。まだ中学生の彼女にこんな話をしたところで、わかってくれるのだろうか。
「……あなたはさ、本当は何がしたいの?」
 本当は。
「あなたはさ、何が好き?やっぱり音楽?よく話してるもんね」
 本当に好きなこと。確かに私は音楽が好きだ。前に彼女と話した。でもそれは決してレベルの高いものではなく、趣味のレベルであって。
「夢、ないの?」
 そんなことを聞かれる。
「あなたはギターが弾けるし、作曲家?歌手かな?」
 なんて話を膨らませる。やめて。私に、今の私にそこまでの才能なんて。
「あなたが聞かせてくれたあの歌、良かったよ。」
 私の思考という連なった紙を切るかのように遮る。そういえば彼女に聞かせた。夏の恋心を歌った曲。
「あの曲、あなたが作ったの?」
「そ、そうだけど、全然レベル高くないし」
 そう返す私の言葉に被さるように、食い気味に彼女は言う。
「じゃあきっと、あなたはすごい作曲家さんになれるね。」
 夢か、と言われれば判断ができない。確かに、音楽を仕事にできれば、みんなに私の曲を聞いてもらえればそれは嬉しい事だ。でもそれは、私にとってそれは夢なのか?どこか遠すぎて手を伸ばせずにいるそれは、朝焼けの、夜空の星にも似ている。手を伸ばしても届かない。そんなもの。きっと、夢なんてものじゃない。
 もっと遠くにあって、もっと……。
「あなたなら、夢を叶えられる。」
 何か詰まったような表情で彼女は声を絞り出す。
「私の」
 
 そのか細い声は、波の音にさらわれてしまう。もう戻ってこないような、刹那の音を、私は聞けなかった。きっとこれは、もう聞けないのだと、そう心が言っていた。
「……やっぱり、なんでもない。」
「そっか。」
 聞いちゃいけない気がした。聞いてしまったら、私は戻れなくなってしまう。でも、私は何かを彼女にもらった気がする。きっと届かなくても、いつかは手が届くのだろうか。そう淡い希望が胸に、いつのまにか灯った気がした。願ったものは夢じゃない、叶えるものなんだと、教えてくれた気がした。
「……私ね、夢がいっぱいあるの」
 彼女が言う。
「じゃあ、叶えないとね。」
「……うん」
 そう答える彼女の目は、心なしか少し悲しげだった。



「あははっ、冷たいよ」
 青く光る水飛沫に笑みを溢す彼女を見つめる、波の最中。潮風に揺られる木々の葉が遠くで揺れる。脚が膝まで浸かりそうな塩水は、やがて夏の温度を攫う。
 海に入りたい、なんて言い出したのは少女のほうだった。理由はわからないが、どこかに不安を覚えていた。いつも感じているあの不安。それが何かはわからないまま、結局いつもそっとしておくことしかできない。そんな気持ちもどこか、日に焼かれ昇華してしまいそうだった。
「……どうしたの?」
 覗き込む少女の目は、まっすぐ私を見る。その水晶体には、網膜には、彼女の世界には、きっと私だけが写っているのだと。今、感じた。
「ううん、大丈夫。」
 私も同じ。私には彼女しか映っていない。今も、明日も。まっすぐに少女を見つめて、そう答えた。
「私、海って入ったことなくて」
 少し俯く少女がそう言う。
「だから、あなたと来られてよかった。こんなに冷たくて気持ちいいなんて知らなかった。」
 海に入ったことがないなんて、都会の子はみんなこうなのだろうか。無邪気に笑う彼女はどこか、いつもの落ち着いた彼女とは違う気がした。
「海がしょっぱいって、本当なのかな」
 そう言って手で海水をすくい上げる彼女は、それを不思議そうな顔で見つめる。
「あ、そんなに口に入れたら」
 それを口に含んだ途端、思わず口の中の物を吐き出してしまう。
「うぇっ、こんなにしょっぱいの!?」
「だから言ったのに。」
 口の中に残る塩の味が容易に想像できる。喉の焼けるようなあの最悪の後味。
「うええ、口の中がしょっぱい……」
 今まで見たこともない少女の姿に、どこか愛しさを感じた。
「もう、ほら。一旦戻って水飲む?」
「うん……」
 水の滴る細い腕を引く。思えば、彼女に触れたのは初めてだった。真っ白で病的なほど細く、か弱い腕。静かにその腕を見つめる私は、何かを振り払うようにそのまま砂浜へ向かった。

 ガコン、と音を立てる透き通った水の入ったボトルを手に取る。まだ明るい日差しはまるで人々を外から追い出すようだ。ひんやりと冷たいそれを少女に渡す。
「ん、ありがと」
 何台か側を軽トラが通り過ぎる。
「あれ、何かな」
 その行く先を指さす少女。
「ああ、あれはお祭りの準備かな」
「お祭り……聞いたことある」
 まさか、お祭りも知らないのか。最近の都会の子は海もお祭りも知らないなんて、なんだか恐ろしい。
「うん、今度花火大会があるの。」
 花火大会。この時期になると必ずやる、お決まりのイベントだ。
「花火って……あの、空で爆発する……?」
「え……あ、花火も知らない……?」
「あ、いや、知らなくはないけど……ずっと、遠くから見るしかできなかったから……」
 残念そうに答える。
「じゃあ、近くで見たことはないんだ。」
「うん。」
 東京は、遠くから花火を見るのだろうか。いや、そもそもあのビルだらけの場所に花火をやる場所があるのか?全く想像がつかない。やはりきっと、私の知っている世界とは違うのだろう。そう割り切ることにした。
「ね、一緒に行こうね。花火、見てみたい。」
 期待の目を向けてくる。こっちに来てから色々な知らないものに出会ってきたのだろう。そのすべての瞬間を、彼女と共有している。
「うん、行こうね。一緒に。」
 それはまるで甘い呪いのように。振り返ればそこには少女がいた。気付けばいつも傍にいた。共に時を過ごしていくうちに、彼女は私にとって特別な存在となったのだと、そんな気がした。
「またね。」
 と別れの言葉を交わすのも、何度も出会うのも。その全てが鮮明に、色濃く脳に焼き付く。
「星が綺麗に見えるね……」
 いつかの夜、星空を見上げたその時も、私は彼女を鮮やかに描いていた。重なる手の温度を確かめながら。か弱く、白く。それでも確かに熱を帯びていた。私は、この気持ちに名前を付けられなかった。

 

 昼下がりの坂道、力いっぱいにペダルを漕ぐ。いつも通りのあの道。いつものように彼女が待っている。
「ね、あのね。さっき、すごいところ見つけて」
 彼女は目を輝かせながら言う。
「ついてきて!」
 妙に高まったテンションの彼女の後を追いかけて着いたのは、一面に広がる向日葵畑。黄色く広がるその花たちは、一斉に太陽の方を向いている。青空を反射するかのような花たちは青く輝くようだった。青い向日葵、本当にあるのか、私にはわからない。ただ、彼女に似合うだろうなと、そんな幻想を抱くだけだった。
「ここ、見つけたの?」
 そう彼女に聞く。
「うん、朝にね、家から遠くに見えたの」
 そう自慢げに話し、背の高い向日葵に隠れるように彼女は走り回る。ぜぇぜぇと息を荒くしながらも、彼女は私に笑いかける。彼女がこんなに動き回っているのは見たことがない。きっと、こんな景色も見たことがないのだろう。少し苦しそうにする彼女に心配しながらも、その笑顔を見て、私は確信を持った。と、いうよりも、自分に正直になる覚悟ができた。
 向日葵の森を抜け日が照りつける道へと出る。汗で輝く彼女にタオルを渡し、持ってきたスポーツドリンクを渡す。
「……ありがと、いいの?」
 もともと自分のために持ってきたが、あまりに汗をかきすぎている彼女が心配になってしまった。
「うん。もちろん」
 水滴が滴るペットボトルを開ける彼女。それを眺めながら私は言った。
「あのね。やっぱり音楽、やってみようと思う。」
 その私の言葉に、彼女は嬉しそうに言う。
「……そっか、よかった。またあなたの曲、聞かせてね。沢山。」
 優しく微笑む彼女の顔に、決心がついてよかった、と思える。いつか、もっとたくさん聞かせてあげたいな、なんて。それは自分ではなく彼女のためなのだが。それでも喜んでくれる人がいるというのは嬉しいもので、それが続ける理由になってくれたのだ。
「うん、君は私のファン、第一号だからね。」
「なにそれ、ふふ」
 なんて彼女が笑い出す。
「これで一つ、解決かな」なんて、順序よく不安事を潰していく私の心には、まだ何かがあった。
 でも私はそれを見ようとはせず、閉じ込めておくことにした。きっといつか、失くしてしまうように。そう願った。それが良いのだと知った。向日葵の葉を伝う水滴が地面に落ちる。日に照らされたそれは輝き、私たちを見つめる。未だ乾ききらない昨日の雨が、空気を少し湿らせる。まるで晴れ切らない私の心みたいだ、なんて考えてしまう。天気と心がリンクする、というような小説をどこかで読んだ気がする。世界はそういうものなのだろうか。誰かを中心に回っているのだろうか。動き続ける空、真っ白く静止した入道雲を眺める。
 きっと、世界は自然に回り続ける。時は残酷に、平等に私たちを取り巻く。それでも、少なくとも私の世界は違った。彼女という特別な存在が真ん中に置かれている。ただその中に、私だけが生きているのだ。強く手を握る彼女をどこまでも追いかける。土を踏みしめる足が沈み込むのを引き上げるように、少し軽くなった足取りで。それでも、小さな背中は私を不安にさせる。彼女を失いたくないとさえ、そんなことを願ってしまっていた。



 カレンダーが1枚消え、夏休みに入った。例年よりも暑い世界に、まだ夏休みじゃなかったのか、なんて疑問さえ浮かんでしまう。ギターを抱え、ノートを凝視する。新しい歌を。彼女への歌を。また聞かせてあげたい。それは、今の私の"夢"だった。どうして夢、なんて遠い存在に考えてしまうのか、私には理解できなかった。大学の入試案内が広がる机、まだ共通テスト対策には入っていないらしい。
 音楽を続ける、と決めたはいいもののただ惰性で続けるようになってしまっては困るし、最低限の学歴は欲しい。なので適当に、文学部で絞り込んだ。ただ、あらゆる学問の中で一番向いていると感じたのが文学だったというだけの話だ。まあ、作詞などにも繋げられるかもしれないし、と自分を納得させるまでに、そう時間はかからなかった。
 蒸し暑い部屋の中、こうしてギターを抱えている間だけ、私は生き返る。捲ったカレンダーも中盤に差し掛かっている。彼女は毎日、笑顔を絶やさなかった。でもその度に、あの時の疑念が脳裏を過ぎる。きっと考えすぎなのだろう。ありもしない結末を、未来を、私は頭の片隅に置き、忘れようとしていた。でも忘れちゃいけない気がして、忘れられずにいた。それを振り払おうと、私は必死に頭を動かした。手を動かした。何も考えずに、ただひたすらに。言葉を綴った。想いを綴った。彼女に届くはずがないと、こころのどこかでは気づいていた。

 その日、彼女はまたあの向日葵畑に行きたいと言い出した。太陽の宗教。花たちの讃歌が聞こえる。そんな情景をも無視して、彼女は畑の奥、森へと足を運ぶ。時刻はもう七時が近い。
「ねえ、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
 そう聞く私に、彼女は何も答えない。おかしい。何かが。まるでいつもの彼女じゃない。
「ねぇ、大丈夫?」そんな私の声も無視して、彼女は歩く。
 まるで、私を引き離すように。嫌だ。行かないで。私を置いていかないで。まるで彼女に縋るように、私はひたすら彼女に着いていく。視界が開けた時、既に暗くなった空に、大きな花が咲いた。その重い音は私の心を震わせ、熱い温度さえも伝わってくる。
「花火……」
 そういえば、今日は花火の日だった。開けた神社、山の上のそこは、花火を見るのに絶好の場所だった。空に映るその花は、まるで私たちに用意されたように咲く。
「もしかして、これを知ってて」
「ここなら花火、よく見えそうだな、って」
 そう彼女が答える。
 赤、緑、紫とカラフルに彩られるその空は、まるで夢のような景色で。彼女と見るそれはいつも眺めていたものとは違う、鮮やかな色で世界を彩っていた。花火に見惚れる彼女の横顔が美しくて、何故か緊張してしまう。
「綺麗……」
 そう声を漏らす彼女に応える。
「うん。すごく綺麗。」
 その言葉は花火、そして彼女に向けたものでもだった。音を立てて光が空へと上がる。きっと大きい花火だ。空が光り、また花が咲く。その一瞬、花が咲く。薄暗く響く爆発音も、するはずのない火薬のにおいも。すぐそばの、彼女との距離に色を付けた。握られた手は強く、そして優しく包み込む。この時間がずっと続けばいいのに、そう思った。

 瞬間、奪われる唇。感じたことのない感触、でも確かに何かわかる感触。そこには、他の誰でもない、彼女がいた。

 動けない。

 どっ、どっ、どっ、と。心臓が大きく動く。胸が苦しい。息が震える。

 鼓動がうるさい。花火の音すら掻き消す。大きく見開いた目の前にいた彼女は、顔を赤らめて視線を逸らす。そうして私の手を強く引き、山をどんどんと降りる。突然の出来事に、私は何も考えられずにいた。本当に一瞬の、刹那の出来事だった。でもそれは確かに、あった。心臓の音が鳴り止まない。苦しいくらいに、私の中で暴れる。花火大会の下、たくさんの屋台が出ている。花火はもう終わったのか、空に花は咲かなかった。灯るたくさんの光、照らされる闇の中、そっと私を見つめる。その顔は美しくて、儚くて。涙混じりに綴られた言葉も、掠れて消えてしまいそうで。

「もう、行かなきゃ。」

 いやだ、行かないで。と、声は出なかった。
 
「いつか、あなたが大人になっても。」

「忘れないで。」

 そう言って、どうしてか彼女は走り去ってしまう。追えなかった。

 きっと追いつけた。

 追いかけちゃいけないって、どこかわかっていたのかもしれない。

 こんなに急なお別れが、最後のお別れになるなんて。

 考えもしなかったし、考えたくもなかった。





 6畳半、抱えたままのギターの6弦が地味に音を鳴らす。凝視していたノートもいつしかは視界からは外れてしまっていた。東京、炎天下、曇りのない空。今日は七月の五の日。私は考えるのを放棄していた。
 なんとなく入った大学での成績もまちまちで、なんとかバイトをして食い繋いでいる。惰性で続けている音楽も行き詰まっている。どうしてあんなに熱くなっていたのか、今はもう思い出されない。 夏は嫌いだ。聞くに耐えない夏の喧騒を窓で遮る。私は何をしているのだろう。一体何に突き動かされ、何をしようとしたのだろう。溜まった洗濯物に積み上げられた本の山、付きっぱなしのデスクトップに、午後三時半を示す時計の針。まるで怠惰の権化とも言わんばかりに気力を失った私は、何かを思い出せずにいた。必死に生きてきた今日までも、まるで切り取ったかのように一部が消え掛かっていた。
「きっと忘れるさ」
 そう思っていたあの夏の日。もう戻ることのない、あの夏を。戻らない記憶を指でなぞる。青くて、苦しい。もう戻らない、あの続き。
 ふと、何かを思い出したかのように押し入れへ体を突っ込んだ。ぼんやりとしたまま。私はずっと、何かを探していたんだ。ここへ来るときに持ってきたもの。そこに、何か大切なものがあったはず。ありもしない、でもたしかにそこにあるものに手を伸ばす。そこにあったのは、文字の綴られたノート。殴り書きみたいに描かれていたそれは、歌だった。少女が誰かへの恋心を歌った曲。パラパラとページを捲る。そのひとつひとつが、私の記憶にこびりついた錆を落としていく。そしてたどり着いたのは、まだ見えない世界。書きかけの、あの曲。
 思い出した。あの日と、君の全てを。忘れてしまっていた、あの夏の日のこと。
 鍵をかけるのも忘れ、無我夢中で飛び出す。3番線の電車に乗り込む。行く宛なら、とっくのとうに決まっている。まるで何かに急かされるように、足を動かす。あの日から会えなかった彼女。彼女と過ごした日々を、どうして忘れてしまったのだろう。海へ向かう列車は、いつしか暗闇の世界を走っていた。眠らない世界を抜け、いつしか世界は眠っていた。終点に着いた電車を降り、走る。まだ遠いけど、ここからは闇の世界。目的地へ続く列車はない。それでも私にはあの町へ、いや、彼女の元へ行く以外に道はなかった。暗闇の中を、ただひたすらに走る。走る。転んでも、止まらなかった。止まれなかった。

 気づくと辺りは明るくなっていた。午前七時を指すスマホの画面には、朝日が映っていた。道の途中で眠ってしまっていた。知らない間に座っていたベンチから立ち上がる。もう知っている場所まで来ている。もうすぐそこにあるはずだ。私の生まれ育った場所。あの夏を過ごした、あの場所が。

 響く風の音。鳴る蝉の声。目に染みる汗と、痛いくらい眩しい日の光。聞こえない波の音を聞きながら、ただ足を動かす。今はもう聞こえないタイヤの音も、故障した自転車で落ちたことも、何故だか懐かしく感じる。帰ってきたのだ。あの場所へ。学校を横目に、坂を下る。角を曲がり、海岸線と合流する。打ち付ける波の音を聞きながら、風と暑さに揺られていた。
 ふと、堤防の上に少女がいた。そんな気がした。可愛らしい顔に大きな帽子、華奢な体にワンピースがよく似合う。そんな美少女が、そこにいた気がした。堤防へ上る。コンクリートが熱い。彼女はいない。それでもなんとか、話す言葉を探す。
「夢、叶えられた?」
 ふと、そんな声が聞こえた気がして俯いていた顔を上げる。
「まだ……かも。何も……わからなくて」
 自分の中の答えも、この先に待つ答えも、探すとどこか不安になっていく。期待すらできない自分の人生、それでも彼女がくれた希望をいつだって信じていたのかもしれない。
「……願ったのなら、それは夢じゃない。叶えるものだよ。」
 そんな言葉が、聞こえた気がした。いつか私が彼女に話したこと。言葉を飲み込む。きっともう、彼女はいない。それでも信じたかった。
「こんな話じゃつまんないね。じゃあ、もっと楽しい話をしよう」
 なんて言う。この言葉は彼女に届いているだろうか。潮風に揺られる長い髪を、真っ白なワンピースを。体温を、匂いを思い出していた。相も変わらず痛くて恥ずかしいほど青い空。光を乱反射する水面を見下ろす。この景色は、いつだってあの時の事を鮮明に思い出させる。止まっていた秒針が、少しづつ動き出すのを感じた。立ち上がり、堤防から降りる。コンクリートの熱がまだ手に残っている。遠く離れていた彼女は、確かにいた。まだ、行くべき場所がある。何度も彼女と出会ったあの場所。あの日と同じように、彼女に会いに行く。待っていなくても、たとえ君がいなくても。
「ここで待ってる。いつでも。」
 そんな言葉を思い出す。分かりきってはいた。彼女はいなかった。木陰に座る彼女も、私を覗き込む彼女も、どこにも。まるで跡形もなく消えてしまった彼女に、夢であったのでは、とさえ思ってしまう。夢ならそれで構わない。どうかもう一度思い出させてほしい。いつもの木の下。彼女が座っていたあの場所。未だ彼女の熱が残っている気がする。毎日のように、この木陰で話していたあの時を思い出す。彼女の笑顔も、優しさも、全部思い出した。そっと、地面に触れる。他の場所とは少し違う、盛り上がった部分があった。自分が何を感じ取ったかはわからない、ただ直観に従うまま、私はその土を手で掘った。コツン、と、何かが手に当たる。それはお菓子の箱のようだった。よく見る、銀色のもの。私は蓋を開ける。失くしてしまった日々を取り戻すように。中には紙が入っていた。

「あなたへ」

「そういえば、まだ名前も聞いていなくて。こんな書き出しになっちゃってごめんね。」
 そこにあったのは、おそらく、いや、きっと彼女の文字だろう。読み進める。彼女に掛けられた、私が彼女に掛けていた鍵をひとつづつ取っていく。
「私は、重い病気にかかっていました。お母さんもお医者さんも治るって言ってたけど、きっともう治らないとわかってました。だから私には、生きる意味が分かりませんでした。このまま真っ暗な世界で終わりを待つのを、受け入れていました。お母さんが引っ越そうと言った時も、私はどうでもいいと思いました。眺めていた海に飛び込んでそのまま戻れなくなったらいいのに、なんて考えていました。でも、そんなときにあなたに出会いました。話しかけてくれたあの日のことも、その次の日も。いつでも私と笑ってくれました。毎日が楽しくて、あなたのために生きたい、なんて思えました。それでも、もう私の終わりは近づいていました。毎日たくさんの薬を飲みながらなんとかあなたと会えていました。それでもだんだん苦しくなってきて、ひどくなってきて、いつか急に会えなくなるんじゃないかと、毎日怖かったです。あなたともっと笑いたかった。歩きたかった。隣にいたかった。あなたの隣で、ずっと生きていたかった。私は、あなたが好きでした。声も、笑った顔も、ギターの音色も。そのすべてが輝いて見えて、私の人生を照らしてくれました。だから、死にたくなかった。もっと一緒にいたかった。それでも、もうだめなこともわかってた。きっとこの想いは伝えられないかもしれない。あなたはきっと、忘れてしまうかもしれない。でも、忘れたらそれでいい。あの日と私の全てを。あなたには笑っていてほしいから。あなたの夢が叶うように願っています。」


「こんな書き方になっちゃってごめんね。伝えたいこと、ちゃんと伝わってるかな。」


「少し照れくさいけど、これだけ言わせてね」


 
「愛してるよ」


 
 ぼやける視界に溜まる水を腕で拭う。溢れ出す感情を堪え、続きを読もうとする。炎天下、快晴の下。ずっと霧がかかっていた私の心は、青く澄み渡っていた。悲しみも苦しみも全部受け入れて、絞り出した声を空へと届ける。
「私はまた、あの夏と出会えたよ。全部思い出した。あの日と君の全てを。忘れるなんて、んなわけないじゃん」
 そう呟く私は、何故か笑っていた。あぁ、この声が届くのなら。

「私も、君が好きだよ。愛してる。」

 そして手紙へ目をやる。目に映るのは、彼女の生命。そこに綴られていたのは、二文字と、それに続く言の葉。

「追伸、
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