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後編 便意を追い越した青年時代
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■七
キーホルダーが鼻の先を掠め、開け放してあった窓から外へ飛んでいった。放物線の着地点を流れる川は、午前中に直撃して去っていった台風のせいでかなり増水していた。見たこともない高さまで水嵩は増し、轟轟と怒れる大地の雄叫びみたいな音を立てていた。
一瞬息が止まった。代わりに心臓が一度大きく鳴った。全身が熱くなって、背中がぴりぴりと痒くなる。テーブルの上に視線を走らせた。スマホの隣にコスモ星丸のキーホルダーを確認することができて安心する。
「てめえ、聞いてんのかよ」
右の本格派の投げ終わりみたいに、右手右ももを高く上げたままの状態で葵が言った。冷めた表情で、ベッドに腰をかけたままの俺を見下ろしていた。彼女は怒りに任せて俺の部屋の合鍵を捨てた。学生時代にバイトしてプレゼントしたグッチのキーホルダーをつけたまま一切躊躇なく、むしろ俺に見せつけるみたいにその剛腕で窓の外へ放り投げたんだ。変わっちまうもんだなって思った。出会った頃は会話にも苦労するほど大人しい子だったのに。
「聞いてるよ。浮気なんてしてない」
「ネタはあがってるんだよ、クソが」
こんな風に品のない言葉を俺の前で使うようになったのは、いつからだったっけな。大学で同じサークルに入ってた頃はさ、先生や先輩に使う言葉が綺麗で、それで気になり始めたんだぜ、俺。それなのに。学生時代から付き合って今年で三年目か。お互いに就職もした。学生時代が遠い昔みたいだ。あの頃は概ね幸せだった。今は悪魔が不幸で塗り潰した画用紙に塗り残しを発見しては、その余白を幸せって思い込むような生活をしている。ま、大人になるってそんなもんだって聞くし、一人だけわがまま言ってても仕方がないよな。
「なに言ってんだよ。どうしたんだよ葵。それより合鍵どうすんだよ。流されたぞ」
俺は窓から首を出し、眼下を流れる準用河川を見下ろした。所々街灯に照らされて水が脈動しているのが分かるけど、アパートの二階からでは音の方が迫力があった。合鍵とキーホルダーは間違いなく流れに飲まれ、遥か彼方へと消えた。葵が川を狙って投げたのは分かっていた。最悪なことに先週から部屋のエアコンが壊れ、窓を開け放すことでなんとか凌いできたことを葵は知っていたからな。網戸なんて破れて役に立たねえんだよ。どうせ虫たちに食らわされるなら、窓を開け続けてたってそれほど被害は変わらない。こんな状況じゃなければ、葵は合鍵をゴミ箱とかシンクの中とかに捨てたはずだ。ほとぼりが冷めれば拾えるしな。過去にもそういうことはあった。あったからこそ、俺へのダメージが少ないって分かっていたんだろう。二度と戻って来ない場所へ投げ入れてこそ、ダメージは確かなものになり、自らの鉄の意思もアピールできる。物を捨てるってことは思い出を捨てるってことだ。一瞬頭を過ったとしても、中々実行に移せることじゃない。大したもんだよな。
「もういらないから捨てたんだよ。私がゴミをどこに捨てようが、おめえに関係ないだろうが」
「俺に関係なくても、ほら、今はエコとかそういう意識が浸透しているからさ」
「私には関係ない」
葵ははっきりと言い切った。関係ない生物なんていない。売り言葉に買い言葉だとしてもひどい発言だった。こういう人類は俺の方舟には乗せられないな。
大体浮気ってなんなんだよ。今日は水曜日だった。社会人にとって夢も希望も感じられない水曜日の夜だ。月曜日の午前中から苦痛を感じ続けてなんとか週の折り返し地点まできたけど、休みまではまだ二日もある。疲れていた。早めに寝るのも勿体ないので、サブスクでドラマを一気見しながら寝落ちするつもりだった。でも葵がやって来た。やって来るなり俺を責めた。「哲也、私になにか言う事あるでしょ?」の鎌かけから「浮気してるって知ってるんだからね」の展開は早かった。こういう時、下手に言い訳をしちゃいけないって経験で分かっていたからクソみたいな理論にもじっくり耳を傾けていたのに「なんか言いなさいよ」だ。で、弁解をすると「言い訳すんな」でフィニッシュ。合鍵を捨てられ、恫喝は終わらない。もしかしたらあの鍵は、俺を目掛けて投げたのかも知れないな。
「ちょっと落ち着きなさいよ。一人で興奮してるだけだって。な? 葵の友達がさ、俺と知らない女が手を繋いで歩いてるのを見たってのを根拠に騒いでるわけだろ? 何度も言うけど人違いなんだって。そんなの証拠にならないよ。そんなことで喧嘩してたらこの先やっていけないよ。まずは冷静になって確かめて、それでも不満なら対話を重ねればいいじゃん。話しにならないよ」
「じゃあ浮気してない証拠を見せてよ」
「それがないんだよ。俺の話を信じてもらうしかない」
と言いながらも、俺の視線はテーブルの上に吸い寄せられた。証拠という言葉に反応して自分のスマホを見てしまった。まずい、と思った。視線を葵の元に戻すと、彼女が俺の視線を追っていることに気付いた。やっぱりまずい。俺はベッドに腰を掛けている体勢で、葵はテレビの前に立っていた。ローテーブルはちょうど二人の真ん中にある。葵の視線が再び移動し、俺達の目が合った。その瞬間、俺は猫科の野生動物みたいに体をしならせてテーブルに飛びついた。葵もカンガルーみたいに力強く跳ねたのが見えた。二人の伸ばした手がスマホに伸びる。球際に強いのは俺の方だった。一瞬早くスマホに触れると、腹のあたりまで引き寄せて肘を振り回した。
「スマホ見せろよ」
葵が俺の脇腹に蹴りを入れながら叫んだ。ちょうど良いところに入ったみたいで目眩がした。それでも俺はうつ伏せになって、体と肘と床でスマホをガードした。もう一度、今度は拳を同じ場所へ的確に叩きつけられる。彼女の拳は小さかったけれど、それが功を奏したみたいだ。ガードをすり抜け、蹴りを入れた場所へ寸分違わずヒットすることが出来たんだから。思わずえずいた。脇腹から吐き気がせり上がってきて、気付くと「おええ」という声が漏れていた。それでもガードを下げるつもりはなかった。冷や汗をかきながら必死に耐えた。
しばらく猛攻が続いた。もうなにをされているのか分からなかった。もしかしたら床を三回くらい転がされたかも知れない。ようやく暴力の雨がやんだ。攻め疲れってやつだな。俺は腕の隙間から葵を見上げた。予想通りこちらを見下ろしながら、肩で息をする彼女の姿がそこにあった。披露困憊って感じだったけど目は死んでいなかった。悔しさが全身を支配して、なにをすれば俺がより傷つくか熟考してるみたいな意地悪な表情だった。
目が合った。顔を上げる。その様子を見て、葵が動いた。テーブルに置いてあった俺のキーホルダーを手に取った。コスモ星丸のキーホルダーをだ。俺は腕を伸ばすことしか出来なかった。しこたま殴られて、体が言う事をきかなかった。
「こんなもの」
葵が振りかぶった。美しい投球フォームだった。俺が好きなタイプのピッチングフォームだ。彼女の指先から放たれたキーホルダーは、再び夢の放物線を描いた。呆気ないほどすんなりと、窓の外に消えていく。
「あー、あー、あー」
意味のない言葉を叫ぶことしか出来なかった。さっきまでの体の痛みが嘘のようだった。跳ねるように立ち上がってもなにも感じなかった。ただ熱いだけだ。痛くはない。窓から顔を出してキーホルダーの行方を探す。感じるのは増水した川の流れと、自然が物理法則に従う音だけ。同様の軌道を描いたグッチのキーホルダーがこの世から消えたんだから、コスモ星丸も同じ運命を辿るのは分かっていた。でも諦めきれなかった。
「あー、あー、あー」
今度はそう言って葵を見た。責めたつもりだった。だけど意味がなかった。彼女はコスモ星丸にどんな意味があるのか知らなかった。以前鼻で笑われて「キーホルダー買ってあげようか?」なんて言われたこともあるし。スマホをビーチフラッグできなくて、腹いせに隣にあった物を投げ捨てただけ。それだけだったはずだ。だけど、俺が乱心したのを見て満足したようだった。なんだか分からないけれど、ようやく致命傷を負わせることが出来たって顔だった。わざと勝ち誇った表情を作って俺のことを挑発する。
「あー、あー、あー」
俺は葵を突き飛ばした。あれだけ暴力を振るわれても、耐え忍ぶだけだけだったのに今回ばかりは手が出た。でも暴力が目的ではなかった。外に出たかった。葵は玄関まで向かう動線上に立っていた。だから押しのけた。アパートの裏に回って川の様子を見に行きたかったんだ。もしかしたら見つかるかも知れない。興奮した頭にはそんな希望しか見えていなかった。ちくしょう。こんなことが許されるのか。
「どこ行くんだよ。逃げるのかよ。帰ってきても私はもういないと思えよ」
まだやってやがる。最早お前との関係なんてどうでもいいんだ。
「あー、あー、あー」
こっちだって捨て台詞を吐こうとしたけど上手く口が回らなかった。裸足のまま玄関から飛び出し、アパートの階段を駆け下りた。建物の裏に回って川との境のネットフェンスに顔を押し付ける。大量の水の流れが絶望の音を奏でていた。こんなことが許されるのか。もう一度心の中で呟いた。誰からも返事はなかった。俺は一人だった。くぅーと腹が鳴った。懐かしい鳴き声だった。腹の虫が「僕がいるじゃないか」って慰めてくれているようだった。嫌な予感がし始めていた。
■八
まずは飼い犬が吠えた。獲物を見つけたみたいに激しく吠えて、首輪でリードをこれでもかと引っ張る。飼い主はいかにも老いさらばえて足腰の弱ったたお婆ちゃんで、いつ犬が人間の支配から逃れることに成功するか分からなかった。お婆ちゃんは完全に犬に引きずられていた。犬の鳴き声とその剣幕には驚いたが、たとえば脇に飛び退くみたいなことはしなかった。そんな元気はなかった。俺はその時俯き加減で歩いていて、犬の声に気付いてふっと顔を上げたくらいのものだった。今にも飛びかかってきそうな犬と、必死にリードを引っ張るお婆ちゃんが目に入ったけど、来るなら来いくらいにしか思わなかった。結局お婆ちゃんが動物虐待ぎりぎりのグーパンチを犬の背中に何発か入れたことで、俺は噛まれずに済んだ。
「ごめんなさいね」
腹に良いのを入れられて放心状態の犬を、今度はお婆ちゃんが引きずっていく。すれ違う瞬間こちらに柔和な表情を見せるが、犬に吠えられるよりこの時の方がよっぽどぞっとしたね。平気でペットをぶん殴れる人間の笑顔なんて信用できない。
「ええ、おはようございます」
俺は疲れ切った体に鞭打って頷いた。これが今見せることが出来る最大限の礼儀だった。長年生き永らえてきたサイコパスに目をつけられたくはないもんな。凶暴な犬には同情した。動物として正しい反応を取っただけだ。早朝の住宅街、いつもの散歩道でずぶ濡れの人間に出会ったならそりゃ驚くだろう。
真夜中にキーホルダーを探し始めて、川沿いを随分と下流まで来てしまっていた。途中、瓶ビールの蓋を獲物と間違えて水嵩の増した川に飛び込んだ時は死を覚悟した。都会の川を流されたおかげで、ゴミが溜まって中洲みたいになっている場所に引っ掛かり命拾いした。あの瞬間は、不法投棄された自転車の持ち主に感謝したもんだね。命の危険にさらされても尚、キーホルダーを探すのをやめられなかった。溺れた時に分かった。大自然は半端じゃないなって。自分の体なんてものともしなかったぜ。七十キロ近い物体を軽々と下流へ運んでいくだから、精々十グラム程度のキーホルダーなんて今頃太平洋の藻屑となっているんじゃないかって思えた。だけど諦められなかった。反対に、すぐ先の足元に落ちているような気もしたし。
日が昇ってしばらく経ってからようやく我に返った。今日も仕事だ。夏で良かった。日が昇るのが早いから。裸足で、服はずぶ濡れだった。俺の命を救ったチャリの錆びついた部品が等価交換を申し出て、着ていたTシャツを肩口から背中側の裾にかけて切り裂いていた。普段はドブ川って表現する水の中を泳いだのと、真剣に捜索活動に従事してかいた汗のせいで嫌な臭いをぷんぷんと発していた。
犬に吠えられてからも三十分以上歩いた。通行人も多くなってきた。皆、俺のことを不審者と決めつけた目で見た。違う。俺はピアノマンだ。ずぶ濡れの記憶喪失で、理由もわからずこの街を彷徨っているんだってふりをした。あまりに恥ずかしかったからな。
自宅アパートに辿り着くと、玄関が開いていた。葵はいなかった。不用心な女だ。帰るなら帰るで施錠くらいしていってほしいもんだね、と思った。が、鍵は全部失くなったことを思い出した。俺はそれを探しに真夏の大冒険に出かけたわけだし。コスモ星丸もグッチも失くなった。合鍵はもうない。しばらくは無施錠生活だな。疲れていたしどうでも良かった。どうせ盗られるようなものはなにもない。唯一盗られたくなかったものは、川に流されていった。それよりも、これから出勤しなければならないって事実の方が、よっぽど差し迫った脅威だった。
寝不足のまま出社した。覇気のない顔で社内をうろうろとして、今日は最低限のパフォーマンスしか発揮できないことをアピールした。演技力がなかったせいか、ランチタイムを迎える前に先輩からどやされた。ただ席についていたり、物を右から左に運んだり、キーボードを叩いてみたり、俺のやる気を疑う上司から面談の申込みがあったりするだけの時間が過ぎた。
その間、俺はずっと腹の調子を気にかけていた。弊社で扱っているオフィス用機器のことなんて気にもかけなかった。そんなこと随分と久しぶりだった。小学生の頃の一時期、恐怖のどん底に突き落とされただけなのに。腹痛への恐怖は俺の体に染み付いているらしい。あの時以降、一般的な腹痛を感じることならあった。みかんを食べすぎて下痢が止まらないこともあった。ウイルスに感染してトイレから出られなくなったこともあった。もちろん、普通のなんてことない便意を長時間我慢したこともある。だけど小三の頃の、トイレで神様を呪うような、いやトイレにいなくても呪い続けるような状態におちいったことはなかった。コスモ星丸のキーホルダーがあったからだ。トイレまでの距離がやけに長く感じた時、俺はポケットのキーホルダーを握った。個室を占領している誰かを目から飛び出る殺意のビームでやっつけながら便意を我慢している時も、俺はキーホルダーに触れていた。そうしてなんとかやり過ごしてきたんだ。今更あのキーホルダーに不思議な力があるとは思わない。確かに子供の頃に、あの不思議な力を入れてもらってから腹の調子は落ち着いた。でもそれはさ、積極的にかかりにいった暗示みたいなもので科学的根拠なんてないって分かってる。分かっているけど、お漏らししないためのお守りになっていたのは確実だ。お漏らししない期間が長ければ長いほど、その効果は自分の中で絶大になっていった。今じゃ、手放すことの出来ないラッキーアイテムだった。
それを失くした。もし平穏な生活を送るための片道切符じゃなかったとしても、あれは父ちゃんの形見みたいなものなんだぞ。それを簡単に捨てるなんて、葵のやつ改めてとんでもない女狐に化けたもんだよ。もしかしたら、気にしなければそれで済む問題なのかも知れない。もう腹の調子はすっかり治っていて、というかあの時期だけ調子が悪くて、キーホルダーなんて関係なく健康体なのかも知れない。だけど断然気になった。喪失感と危機感がない交ぜになって、今はまだ感じない腹痛を生み出そうとしいた。
定時になった途端、俺は会社を飛び出した。仕事は残っていた。今日一日なにもしなかったんだから当然だ。上司や先輩は度肝を抜かれたような表情で俺を見送った。あいつ今日なにしに来たんだ? ってハテナが頭の上に浮かんでいた。取り敢えず、腹の調子が危機に瀕することはなかった。気にし過ぎたせいで、違和感を感じた程度だ。それにしたって、隣の席に座る先輩に向けてちょいと尻を上げながらガスを発射することで解消できた。そう、昼前に俺へ小言を食らわした先輩に、ちょっとした仕返しをしていたわけだ。そんな感じでなんとか一日をやり過ごしただけだ。しかしまだ安心はできない。早めに帰宅して、自分の体を労るべきだろう。
電車に乗ると、いつもより若干空いている気がした。定時で帰宅したことにより、ラッシュの時間帯を避けられたんだろう。腹に残る違和感を、なんとか宥めようと俺は無心になった。なにも考えたくはなかった。自分で自分を追い込み、変なプレッシャーを感じることで余計に腹の調子が悪くなるということは分かっていた。
自宅の最寄り駅に到着する直前に、本当に腹がちくちくと痛み出したような気がした。でも俺はそのサインを無視した。気にするから調子に乗るんだ。子どものいたずらと一緒。こっちが大げさに反応すると嵩に懸かってエスカレートする。だから電車をおりた後、すぐそこにあった駅のトイレもスルーした。トイレを意識することで、余計に腹が痛くなりそうで怖かった。これくらいの痛みなら、ガス抜き一発で簡単に治るって思ったし。改札をくぐった辺りで、もう無視なんて出来なくなった。こりゃいかんわ。本物だわ。軽率に屁なんてこけんわ。
足を止めて改札の向こう側を見る。駅のトイレに戻った方がいいだろうか。それとも帰宅ルートにあるコンビニのトイレを狙った方が確実か。こういう時、それが不合理な選択だと理解していても必ず前に進んでしまうのはどうしてだろうな? 再度改札をくぐって駅のトイレに向かう方が絶対に時間はかからないはずなのに、俺はこの時も前進することを選んだ。なんかその方が文字通り前向きに行動しているようで心理的負担が軽くなるからだろうか。
少し腰を曲げ、踵を地面につけないトイレゾンビ独特の歩き方でコンビニに向かった。腰を曲げることで腹を労れるような気がしたし、つま先立ちをすることで吸収できない衝撃を、踵を通して食らうこともなかった。ま、そんな小細工なんて関係なく、刻一刻と限界は近づいてきていたけどな。駅から一番近いコンビニに辿り着いた時、俺はすっかり汗だくになっていた。社会人になって初めて漏らしてしまうかも知れないって恐怖で頭も真っ白になっていた。俺の目には、もうトイレしか見えていない。チャクラを開いて第三の目で見ても、トイレしか映っていない。
「いらっしゃいませっ」
コンビニの店員にしてはやけに愛想が良かった。息も絶え絶えに店内へ進入した俺へ、警戒心のない満面の笑みを見せていた。今月の満点スマイル賞ものだ。職業差別をするわけじゃないが、この店で埋もれるには惜しい人材だった。彼にはもっと相応しい場所があると思った。俺は店員の声かけを無視して、真っ直ぐトレイに向かった。いくらコンビニ店員として天性の才能があるとはいえ、今にも決壊しそうなダムを尻に抱えた人間を癒やすことなんてできないってことだな。途中、間違えてバックヤードの扉を開けてしまって「お客様」と店員から声をかけられた時も、大いなる不満を主張するために、過去最大の舌打ちをして対応した。店員はしゅんとして肩をすくめていたが、俺には関係ない。
最近めっきりと縮小してしまった雑誌コーナーの傍らに楽園への扉を見つけると、そこへ不格好な動きのまま飛び込んだ。正面に洗面台があって、左右に一つずつ個室の扉があるレイアウトだった。両方とも引き戸にバーハンドルがついていて、バリアフリーに配慮されているようだった。右側の扉のむこうは男性用の小便器。こちらは扉が少し開いていた。中を覗くと一人が立って用を足すのがやっとのスペースしかこさえられていない。その奥に掃除用具置き場が設置されている。問題外だ。ここに用はない。まだ個室には入っていないとはいえ、ここはもうトイレだ。俺は見てくれなんて気にせずに右手で左右の臀部を強く握り、物理的に肛門を閉じながらもじもじと振り返った。左側の扉。そこには男女兼用のプレートが掛けられていた。左手でバーを引く。なにぶん右手は他の用事に駆り出されていたものでね。開かない。手元を確認する。表示錠が非情の赤を展開している。誰かが入っている。クソが。ぐっと唇を噛み締めた。一瞬怒涛のノックを炸裂させようと拳を握るが、理性がそれを止める。誰かに排便を催促するなんて、そんなみっともない真似は出来ない。それじゃあ、俺のうんこを奢ってもらうみたいじゃないか。
とはいえ焦った。少し前までは腹に入っているのが固いあいつなのか、柔らかいあいつなのかは分からなかった。予想することは出来るけど、本当のところは分からない。もう水より薄い液体状のうんこがすぐそこまで迫っていると思ってトイレへ急ぐと、意外にも健康的なものがひりでることだってある。そういう、出てからのお楽しみみたいなもんでもあるんだよ。ところが今や、腹の中にあるのは下痢だって確信できた。もしまだ固形を保っている部分があったとしても、肛門のすぐ裏側で括約筋達によって液体に濾されているだろう。それくらい強烈な痛みが腹に差し込んでいた。
ひっひっふー。ラマーズ法が有効だった。いや、本当に有効なのかは分からない。なんとか痛みを体と脳から外に流そうと決意した時、勝手にそんな形で呼吸をしていた。決死の光線を目から発射して、親の仇を睨みつけるように赤の表示を見つめた。意思の力によって鍵を開けようとしていたのかもしれない。
もう我慢の限界だ。一か八かの賭けに出る時がやってきた。今、肛門のすぐそばで順番待ちをしている気の早い一派の、次の一手には耐えられそうもない。俺が出来ることといったら、それがブラフのガスだと仮定して慎重に尻の穴から出すことだけだ。一派の本陣だったらそこで終了。奴らのブラフだったら後五分は耐えられるかも知れない。そんな賭けだ。表示錠を確認する。まだ赤のまま。考えている暇なんてない。俺は最悪の事態に備えた。備えたっていっても、震える膝に鞭打って、壁際に移動しただけだけどな。だって考えようによっちゃ、今この時こそ最悪の事態なわけだし。全神経を肛門周りの肌、そして筋肉に集中させた。ゆっくりと感触を確かめながら肛門を開く。すぅ。寝ぼけたような音と共にガスが抜けていく感覚があった。それでも警戒は怠らなかった。まずはガスで油断させ、その後で本陣を外界へ送り込む二段構えの奇襲をしてくるかも知れない。目を瞑り、集中を解かずにいきみ続ける。すぅぅぅ、すぅ。最後のすぅでガスが抜け切った。くせえ。くせえが、賭けには勝った。下半身を中心に安堵の鳥肌が広がる。
それでも変わらず便意はあった。十段階でいうところの八はあった。どんなにのんびりとした性格の奴でもトイレに立つだろうし、赤ちゃんなら泣き喚いて不快感をあらわにするレベルだった。でも俺がさっきまで味わっていたのは十段階で十七の便意だ。それに比べれば大したことはない。目論見通り後五分は我慢できそうだった。
カチャっと音が鳴り、表示錠が青に変わった。なるべく姿勢を正した。相手だって、一勝負終わって扉を開けたらそこに漏らす寸前って態度の男が立っていたら嫌だろう。壁に寄りかかり、いかにも買い物ついでにトイレに寄った紳士を演じた。いかんせん、さっき充満させた屁の臭いを誤魔化すことは出来なかったが、それすら俺が放ったものではないって顔を堂々と作ってみせた。
扉が開くと、そこに立っていたのは女性だった。ただの女性ではない。屁の臭いを嗅がすのが申し訳なくなるほど綺麗な女性だ。お、良い女だな。確かに一瞬そう思ったよ。この女の後にトイレに入るのも悪くないだろうってな。だって仕方がないだろう。コンビニのトイレは基本的には男女兼用なんだから。文句なら店員に言えよ。女が洗面台の前まで来るのを待って、俺は個室のドアへ飛びついた。これは我慢できなかった。いくら紳士ぶっても念願のガンダーラを前にしたら少しでも早く辿り着きたいって考えてしまうのは当たり前だと思う。バーを持ち、さっきは動かなかった方向へ扉を引く。すると、そこで背中を叩かれた。ダメージを与えるような刺激ではなく、注意を促すような叩き方だった。
「やめてもらいたいんですけど。女性が入った後ですよ」
この個室の前任者が、汚いものでも見るような冷酷な顔をして言った。ハンカチで鼻を覆っているところを見ると、存分にガスの臭いを吸い込んでしまったようだ。
「男女兼用ですから」
俺は扉に掲げてあるプレートを指さした。本当なら一刻も早く個室にこもりたかったが常識的な大人として振る舞った。どうやら、絶対に我慢の出来ない第二波が迫ってきているようだった。第一波をやり過ごし、洗面所を毒ガスで満たした恩恵はそれほど長く続かなかったらしい。
「ふん」女はプレートを殺し屋みたいな目つきで一瞥して鼻で笑った。「だからって常識で物事を考えられないんですか?」
こいつ。多様性に前頭葉をファックでもされたのか? 常識を語っていいのはこっちだし、お前がのうのうと便器を不法占拠している間、石に穴があくほどの強度で深く考え続けたのもこっちだ。便意は思考を強くさせるんだよ。大体それを俺に言ってどうするんだ? 男女兼用のプレートを堂々と掲げた店側に主張するべき意見だろう。一瞬呆気に取られたね。ぽかんとしてしまって、ここで言うべき百の正論は喉の奥に詰まったままになった。なにより自分の体の中で燻っている火種は余談を許さない状況だった。
女を無視して素早く個室に入り、鍵を閉める。赤は止まれだ馬鹿野郎。個室の中には芳香剤の微かな花の香りが漂っていた。そして、確かな大便の香りも。あの女の置き土産ってところだろうな。これを嗅がれるのが恥ずかしかったんだろうが、生憎そんな性癖は持ち合わせていない。ましてや、この切羽詰まった状況で性的に興奮なんて出来るか? 心配なんてしなくていい。俺はたった今路上生活者がひどく汚したトイレでも喜んで使うつもりだ。ま、コンプライアンスに脳幹を亀甲縛りされたような頭では、そこら辺の機微を想像することもできないんだろうな。
個室の中は意外と広かった。三畳くらいはあるだろうか。車椅子でも入れるサイズだった。俺が便器に辿り着くより前に、トラブルの予感で駆けつけた店員が女とタッグを組んだ声が聞こえた。恥ずかしげもなくトイレをノックし「お客さん」なんて言っている。扉のむこうで何が起ころうと知ったことではない。どうせあの店員は、満面の笑顔を無碍にされた恨みを晴らそうとしているだけだ。それか俺のことを何も買わないでトイレだけ使う不届き者のトイレ泥棒だと思っているのか。ふざけるな。一勝負終わったら、戦利品としてコーヒーの一杯くらい買って帰ろうと思っていたさ。
二人の行動には心底腹が立った。そして怒りと同時に更に強く便意が湧き上がった。乱暴にベルトを緩めズボンとパンツを同時に下げながら、勢い良く便座に座ろうとした。見切り発車気味にゴーサインを出そうとした瞬間、視界がくるりと反転した。腰と側頭部に衝撃が走った。少し遅れて右肘に鈍い痛みが広がる。
長時間便意と格闘をしたことで、俺の太もも裏は汗で濡れていた。エンジンオイルさながらに便座との摩擦がゼロになった結果、俺は座ろうとした勢いを殺せずに便座から転げ落ちたのだ。便座に脇腹を打ち付けながら、タイル張りの床に腰から落下した。何が起きたか分からなかったから、当然その衝撃を殺すことなんて出来ず、最終的にこめかみの近くを便座にぶつけた。無意識の体の反応で、落下中手で支えるものを探したもんだから、右肘が便座の裏側に挟まり、しかし重力を無視することが出来ずに全体重がかかった結果、便器に関節を極められるっていう奇妙な構図が生まれたわけだ。
頭を打ったせいで、意識がはっきりとしなかった。くらくらと地面が揺れ、視界は靄がかかったように滲んでいた。いや、一瞬ではあるがはっきりと気絶したんだと思う。だって意識を失ったことによって肛門括約筋が緩み、タイルにヘドロを撒き散らしていたから。ぼんやりとした頭の片隅に、茶色い液体が生息地域を求めるかのようにゆっくりと広がっていく様子が映った。
「大丈夫ですか? すごい音がしましたけど」
個室の外から声が聞こえた。俺は何故か「平気だ」って叫んでいた。まるで自分の声じゃないみたいだ。これが生存本能ってやつか。だって全然平気じゃなかったから。叫んだ時に腹に力が入ったのか、ナチスがヨーロッパを侵略した時の世界地図みたいに、下痢便が勢いよく床を侵食した。これが大丈夫なら、殺人だって無罪ってことになるだろう。
勢力を拡大したヘドロが、いよいよズボンに到達しそうになって俺は慌てて腰を上げた。ところが、思わぬ場所へ東プロイセンみたいな飛地を作っていた排泄物を踏んでしまった。結局そのぬかるみに足を取られて再び転倒することになるのだが、右腕は便器にストレートアームバーを極められたままだったから今度も受け身を取れなかった。後頭部を強かに床へ痛打した。自分の下痢が若干のクッションになったとしても、かなりの勢いで打ちつけた。ああ、世界を侵略しようとするナチス軍のど真ん中に俺の後頭部が投下されたんだよ。
はっきり言って腹痛に殺されるって思ったね。体中が痛かった。息をするのがやっとの状況だ。そして、のたうち回ったせいでスーツはひどい有様だった。クリーニングに出すにしても、その前に覚悟を決めて自宅で水洗いする必要があるだろう。こうなった原因は明らかだった。腹痛だ。ただの腹痛に俺は殺されかけたんだ。自分の汚物にまみれ、コンビニのトイレで昏倒した今の状況すら幸運に思えた。一歩間違えば、情けない謎の死を遂げるところだった。俺はこんな形で死にたくはない。
最後の力を振り絞り立ち上がる。ゆっくりと慎重に右手を便座の裏から引き抜いた。扉の外は更に騒がしくなっているが、しこたま頭を打ったことで余計な雑音が気にならなくなっていた。死にかけた人間に、人間社会のクレームなんて通用しないってことだ。ふと壁を見ると手書きのポスターが貼ってあることに気付いた。読もうとするが焦点が合わない。しっかりしろ。両手で頬を張る。顔にべっとりと汚物がついた。ちくしょう、こんなところにも。手の平を確認すると、汚れがこびりついているのが分かった。きっとどろんこ遊びさながらに床をのたうち回った時に触れてしまったのだろう。だけど、頬の痛みで意識ははっきりした。どうせ髪の毛まで汚れているんだ。今更顔なんてどうということもない。張り紙には「三十分以上のご使用はお控えください」とある。その後は安全確認のため店員が解錠するか、警察に連絡をする場合があるらしい。ということはまだ二十分以上あるってことだな。外の連中がいくら騒いだところで、個室を利用する権利は俺にある。便器周辺のグラウンド・ゼロから距離を取り、改めてその惨状を眺めた。悲惨だった。きっと俺自身はもっと哀れな状況になっているのだろう。頭が痛んだ。打った場所も痛かったし、現状を切り抜ける方法を考えようとすると鈍痛が走った。全て腹痛がもたらした結果だった。このままではまずい。一刻も早く解決策を見つけなくてはならない。
■九
なんとかしないといけない。子どもじゃないんだから。大人が、社会人が、日常的にギリギリの腹痛に晒され、いつも漏らすか漏らさないかの瀬戸際にいるなんて許されない事態だ。コンビニのトイレでは危なかった。命の危険が迫ることで目が覚めた。腹痛は人を殺す。肉体的にも、そして社会的にも。たかが腹痛、されど腹痛ってところだな。
コンビニでの出来事は、自分の中でなんとかギリギリセーフと解釈することにした。危なかったけれど、なんとか持ちこたえた思い出として、記憶の棚にしまうことにした。変な女に絡まれて、スーツは結局破棄することになったけれど、なんとか持ちこたえた。あの後二十分かけて個室内を清掃し、体中にこびりついた汚物を拭き取ることでやり過ごすことが出来たんだ。個室には洗面台がなかった。だから当然体は、トイレットペーパーを便器の水に浸して使うことで綺麗にした。体中から発することになった臭いは如何ともし難かったが、俺自身が発している臭いなのか、トイレに充満した臭いかなんて誰にも分かりはしない。意を決してトイレの扉を開け、堂々と外に出たよ。誇らしかったな。変な女と愛想の良い店員は俺の姿を見るなり後ずさった。多分俺が出てきたら、どんな風に罵倒してやろうかを散々考えていたはずだ。じゃなきゃ見知らぬ男のクソを三十分近く待つことなんて出来ない。でもあいつらは何も言えなかった。空いた口を塞いで、ついでに鼻まで指で塞いでいた。俺か個室から、とんでもない臭いがしていたんだろう。空いた空間にさっと体を入れて、狭い洗面所を脱出。結局何も買わずにコンビニを後にしたってわけだ。結局のところ、俺はあの時パンツに漏らしたわけではない。場所もトイレの個室だった。排便という概念を拡大解釈すれば、通常通りのお通じだったと言えるだろう。だからギリギリセーフ。実に危なかった。
だが、そんな幸運いつまでも続かないことは分かっている。いつか、公衆の面前で完膚なきまでに漏らすに決まっている。一度でもそんなことがあれば、俺は社会的に終わってしまうんだ。しかもキーホルダーを失くしてからというもの、日に日に腹の調子は悪くなってきている。忘れかけていた小三の頃の感覚に近づいてきているって言えるだろう。あの時は子どもだった。今にも漏らしそうな人間を助けてくれるセーフティーネットがあった。保健室登校なんて、今考えればよく出来た制度だよな。大人たちもなにかと助けてくれた。それがどうだ? 今は誰も助けてくれない。腹痛っていうスティグマに晒され、自己責任で生きるだけだ。しかも、あの頃みたいにピチピチの肛門括約筋を持ってはいない。約十五年怠けていたせいで、どうやら俺の括約筋は衰えているらしかった。ここぞ、という時の踏ん張りが効かない。本気で尻の穴を締めていても、どこかやわになってしまった感覚があった。どうやって鍛えていいかも分からない場所だ。これはいただけない。
病院には行った。俺も馬鹿じゃない。子どもでもない。体に不調があったら、すぐに病院だ。散々待たされたあげく、医者が問診のみの精密検査なしで導き出した答えはストレス性の過敏性腸症候群だとよ。だから? って感じだ。薬も貰った。薬剤師が違法なドラッグでも手渡すみたいに「注意して飲まないと、本当に便秘で苦しむことになりますから」って小声で注意をして薬を渡してきた。こっちも、それで? って感じだった。医者も薬剤師もガキの頃から俺達を出し抜こうと企んで必死に勉強した結果、俺にアホみたいなアドバイスしか出来ないんだから笑えるよな。お前らのガリ勉は、俺の腹痛にはクソの役にも立たなかったなって言って、その場で漏らしてやりたい気分だった。
病名が分かっても、薬を飲んでも腹痛は治らなかった。馬鹿な医者とその子分の薬剤師のおかげで、やることは明確になった。俺にはキーホルダーが必要だった。ただのキーホルダーじゃない。あの教祖の力が込められたキーホルダーが必要だったんだ。西洋医学では俺の腹痛は治せない。かと言って、東洋医学で内側からじわじわと、なんてやっている暇はない。そんなことをしている間に、十回は社会的に死ぬだろう。
今すぐ教祖を探し出す必要がある。そして再び例の力を込めてもらうんだ。とんちんかんなことを言っているのは分かっている。怪しい宗教家にインチキパワーを込められたキーホルダーを後生大事に持ち歩いて、それで腹痛が収まるわけがない。ましてや、そのキーホルダーを最近失くしたことで腹痛がぶり返したなんてあり得ない。結局は気の持ちようで、精神的な問題でしかないはずだ。でも、俺はそれで十五年世界と戦ってきたんだ。インチキを能動的に盲信して、肌身離さず持ち歩くことで腹痛を克服したんだよ。上手くいってたんだ。医者の言う事を信じて、薬剤師に媚びへつらってそれで病が治る間抜けも多いんだから同じことだろう。
早速行動を開始した。そうと決めたら素早く行動できるのが、俺の長所の一つだから。まずは当時を知る友人に連絡を取る必要があった。晋ちゃんや長谷、大ちゃんとかあの辺の連中だ。あいつらとは中学に入ってからそれほど仲良くはしていなかった。別に憎しみ合っていたわけじゃない。喧嘩もなかった。ただ、大人になる過程で趣味や趣向が変わるなんてよくあることだろ? 次第になんとなく所属するグループが変わって、交流も少なくなった。中学卒業以降は別々の高校に進学したし、今何をやっているかも知らない。だけど、大ちゃんとは成人式で連絡先だけは交換していた。あいつ、すっかり痩せちまっていて不憫な見た目をしていたんだ。それで気になって声をかけた。女にモテたくて、高校を卒業した後必死こいてダイエットに励んだんだと。気付くのが遅すぎるだろって思った。急激で病的なダイエットをしてなんとか生きてるって感じだったから、成人式の時がピークで今はきついリバウンドに晒されているかも知れない。もちろん大ちゃんが、成人式で女にはモテることなんてなかった。それがまた悲しかった。
そうだ。大ちゃんはその時バンドを組んでいたんだ。誘われて一度ライブを見に行ってやったことがある。なかなか良かったよ、演奏は。大ちゃんはギターを弾いていた。子供の頃のイメージで語るなら、ドラム一択って感じだったから少し意外に思ったのを覚えている。イギー・ポップとかデビッド・ボウイとかその辺のカバーを演ってた。若者のニーズを無視したセットリストに、観客はぽかんとしてたよ。でも俺は楽しめた。バンドが最後の曲を演奏し終えるまでは。クールなボーカルが先にステージを去り、その後で感極まった大ちゃんが、バスキアの王冠が描かれたTシャツを脱ぎ始めた。それでそのシャツをステージから客席に投げた。女投げで。裸になった上半身には甘美なタンクトップの日焼け跡があった。それでおかま投げ。Tシャツは見るからに汗でびっしょりと濡れていた。観客は、彼らのライブ中にしっかりと休ませた反逆の心に火をつけて大きな悲鳴を上げた。黄金の弧を描いて客席の床に落ちたシャツはモーゼのような役割を果たした。皆が少しずつ端に避け、大ちゃんが投下したファットマンを中心に綺麗な円形が出来た。俺は情けなかった。
いくらライブが上手くいったっていう錯覚におちいっていたからって客観性をなくしちゃいけない。だから、群衆に押し出されたふりをして最初に大ちゃんのシャツを踏んだ。それを合図に一度引いた人の波が再び満ちた。何人もの靴底で大ちゃんのシャツはボロボロになった。ライブが終わる頃、便所の前でボロ雑巾のようになっている布の塊が目に入った。あれはTシャツだったのか。それともバーカウンターのダスターがなにかの拍子に床に落ちた結果だろうか。どちらにしろ、悲しかったな。ライブ終わりの大ちゃんに挨拶はしなかった。自分の愚行は自分が一番分かっていると思ったから。敢えて注意してやることもあるまい。おそらくその日以来大ちゃんと話していない。
というわけで、まずは大ちゃんに連絡をした。大ちゃんはあの宗教団体のことを覚えていなかった。いや、微かに記憶にはあるみたいだったけど、ほとんどうろ覚えで詳しいことは知らないような口ぶりだった。当然、教祖があの後どうしているのかなんて、全く興味を持っていなかった。大ちゃんは成人式で会った時の、今にも死にそうな話し方ではなく、昔の印象が残る、首の脂肪で声帯を圧迫されたような声の出し方をしていた。あれから数年が経ち、無事リバウンドを果たしたということだろう。大ちゃんには他の連中の連絡先を聞いた。意外だったのは、俺以外の全員が今でもそれなりに交流を持っていることだった。こっちはこっちで、自らあのグループを飛び出して広い世界を冒険しに行ったと思っていたけど、本当は追い出されたのかも知れないな。覚えてないけど。真実は闇の中ってわけだな。俺、なにやったんだろ?
晋ちゃんも長谷も亮介も村っちも、反応は大ちゃんと同じようなものだった。全員にとって、あの日の出来事は子どもの頃の淡い思い出でしかなかった。たとえば晋ちゃんが木登りで落下して骨を折った日とか、長谷が近所のおっさんに喧嘩を売って返り討ちに合った日とか、その辺の記憶と変わらないってことだろう。俺だって実際に晋ちゃんがどこで木登りをしていたかとか、長谷をぶん殴ったおっさんがどうしているかなんて知らないわけだし。
あの時の全員と昔話をして、どうにか奴らの記憶を刺激してやろうと思ったけれど、全部不発に終わった。大体があいつらは全員賢い子どもではなかった。記憶力も人より劣っているはずだ。元からないものを刺激しようと思っても、そりゃ上手くはいかない。疲れたがそれでも希望はあった。子どもだったから覚えていない、という可能性が大きかったからだ。それなら、当時既に大人だった関係者に話を聞けば良い。母ちゃんだ。
スマホを操作し、母ちゃんに連絡を取る。呼び出し音が鳴っている間に、何を話せば良いかを考えた。母ちゃんと宗教施設に乗り込んだ日のことはなんとなく覚えている。あんなに身近で誰かが警察に逮捕される様子なんて見たことがなかったし。それで母ちゃんが泣いたんだ。逮捕された教祖に俺がなにかされたんじゃないかって心配して。母ちゃんが思っているようなことではないけれど、確かになにかをされていた。そしてそれを、母ちゃんに言ってはいけないことだと認識していた。正直に告げても隠しても母ちゃんを傷付ける気がした。だからなかったことにした。あの日を振り返ることはなかった。母ちゃんから聞かれるようなこともなかった。母ちゃんがどんな気持ちで、あの宗教団体のことを無視したのかは分からない。俺と同じような気持ちだったのかも知れない。それとも、大人にとってあれはありきたりな日常に過ぎなくて、すぐに忘れてしまうような出来事だったのか? だとしたら母ちゃんは当時のことを覚えているのだろうか? 突然不安になる。
「なにかあった?」
母ちゃんの声は弾んでいた。スマホの近くにはいなくて、着信に気付いてから慌てて通話ボタンをタップしたのだろう。母ちゃんにはこういうところがある。ちょっと過保護というか。母子家庭で育った寂しさは俺にはあまりない。喪失感はあるし、出ていってから一度も会っていない父ちゃんに会いたい気持ちはある。でも寂しくはなかった。元々の性質がイカしたロンリーウルフタイプなのかも知れないし、寂しい思いをさせないように母ちゃんが必死になって育ててくれたからなのかも知れない。支えがあったってことだ。でも母ちゃんにはそれがない。元夫はどこかに消えた。爺ちゃんと婆ちゃんは生きてはいるけれど、すぐに会える距離には住んでいない。近くに住んでいたとしても母ちゃんの自立心旺盛な性格的に、頼ることなんて出来ないだろう。そんなだから、ちょっと息子の俺に依存している部分があるんだ。もちろん俺だって母ちゃんを支えようと努力はしたさ。でも今との間には反抗期を挟んでいるわけだろ? その頃の俺に母親を支えて生きるなんて選択肢はなかった。反抗抵抗対抗の時期に親への愛を歌う瞬間なんて訪れない。それでちょっと鬱陶しくなっちゃってさ。就職が決まった段階で家を出た。実家からそれほど離れていないアパートで一人暮らしをするのは、新入社員の安月給ではちょいとキツいものがあったけれど、母ちゃんにあれやこれやと世話を焼かれながら過ごすよりはマシだって思えた。気兼ねなく女を連れ込んで、朝から晩までヤりまくることも出来るわけだし。ああ、そうだ。どうやら葵とは正式には別れることになったらしい。あれからいくら連絡をしても無視されているしさ。それに葵と別れるきっかけになった浮気相手の陽菜とも結局上手くいかなかった。葵が捕まらないもんで、正式に付き合い始めようかと考えていたのに「あなたと付き合うつもりはない」なんてきっぱりと断られた。つまり俺は年上の女に体を弄ばれたってわけだ。何度かのセックスでご奉仕させていただけて大変光栄でございました。ああそうだよ。葵の想像通り、俺はしっかりと浮気をしていた。まったく女の勘ってのも大したもんだよな。完璧なまでのアリバイ工作も無敵の第六感で見抜いちまうんだから。それでも俺は陽菜を売るような真似だけはしなかったよ。最後まで沈黙を保った。葵のジェラシーを馬鹿にすることで丸く収めようと試みたりもした。その結果がこれか? あなたと付き合うつもりはないか? 今は腹痛に囚われたプリズナーなもんで、はっきり言って女関係のことを気にしている暇なんてないからいいものの、本当なら大声で泣いてしまうくらいショックだったよ。要は一人暮らしのメリットは、既に一つ死んだってことだ。今や母ちゃんの干渉から逃れるだけの家賃6万5千円。手取り十九万って話さ。
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「なによ? どうしたの? あんたが電話なんて珍しいじゃない。お金? お金の話なの?」
金は足りてねえよ。貯金もねえ。でも今はそんな話をしたいわけじゃない。母ちゃんの矢継ぎ早の質問は、実家にいた頃を思い出させた。だから嫌なんだ。
「違うって。そういう話じゃなくて。昔さ、近所に変な宗教があったろ。なんかインチキなことしてたみたいなやつ」
「あー、あったね。でもあんたが小学校の頃の話で、ずいぶん昔だよ」
「そこでさ、教祖みたいな人が逮捕されたのを一緒に見ただろ? 確か母ちゃんがちょうどカチコミに行く時でさ。覚えてる?」
「うん、覚えてるけど」母ちゃんの言葉は途端に歯切れが悪くなった。「それがどうしたのよ?」
「そういえばあの時の話、あんまりしてないよな。結構衝撃的だったけど」
「まあねえ。あんまり気持ちの良い思い出じゃないしね」
「なんか知ってんのかよ?」
「知らないよ、なんで?」
「だって変だろ。あんな小さい街でインチキ宗教家が逮捕されたんだぜ。それなのにさ、大人はその話一切しなかったろ? 子どもは馬鹿だから話題に上がらない噂話なんてすぐ忘れちまうって分かってるみたいだった」
「そんなのあんたの被害妄想でしょ。そうじゃなくて、私はあんたのことが心配だっただけ。ほら、あの時捕まった教祖って人、女の子にイタズラして捕まったでしょ? 覚えてる? もしかしたらあんたもなにかされたんじゃないかって気が気じゃなくてさ。でも、そんなの子どもに詳しく説明するわけにもいかなくて、本当に動揺してたの。それにあんたあの頃さ、お腹の調子が悪かったじゃない? ずっと下痢気味で。何回か学校にも行けないって泣いたこともあるし。多分私達の離婚でストレスを感じてたのよ。もし教祖になにかをされてたら、傷つくだけじゃなくてもっとお腹の調子も悪くなるだろうなって思った。だから、ただ黙って哲也の様子をそれまで以上に詳しく観察してただけ」
実家を離れた理由をもう一つ思い出した。母ちゃんはなにかっていうと、父ちゃんとの離婚を持ち出してめそめそとやり始める癖があるんだ。これが耐えられなかった。離婚なんて二人の問題だ。そりゃ子どもとしては両親が仲良く暮らしてくれるのが一番良いけど、一緒にいることで二人が不機嫌なまま生活するならいっそ別れてしまった方が良い。親が年中喧嘩をしているようなギスギスした家庭なんて耐えられないからな。そういう意味では父ちゃんと母ちゃんの離婚を受け入れていた。今になってそう思うってわけじゃなく、当時からそう思っていた。だから母ちゃんを責める気はさらさらない。勝手に消えた父ちゃんには文句を言いたくなることもあったけれど、母ちゃんにはない。それなのに、なにかと毎回離婚の話に繋げて、それで自己憐憫に走り出す。俺はなんて言ってやったらいいんだ? なにをすればいい? 答えは出なかった。実家にいる時は無機質な頷きでなんとかやってきた。肯定も否定もしない逃げの一手でやり過ごしたことが多かった。だけどそのやり方は自分自身を疲れさせるだけだった。手出しは出来ないがぴしゃりと正論をぶつけるわけにもいかない。結構早い段階で、俺は母ちゃんの離婚話が苦手になった。それでまた鬱陶しくなっちゃってさ。就職が決まったら家を出ようって決意したもんよ。
「ああ、分かったよそれは。別に母ちゃんを責めてるわけじゃないって。それにあの後、腹の調子は良くなったろ? だからあいつにはなにもされてないんだって。離婚のストレスも教祖のイタズラも関係ない。ただそういう時期だったってだけでさ」
「確かにね。しばらく気にしてたんだけど。あれ以降、お腹が痛いって騒がなくなったからそれで安心したのよ」
「そうだろ? それであいつについて、なにか覚えてることはないか?」
「なんなの急に? 私だってそんなに詳しくは知らないわよ。あんたがなにもされてなくて、街から犯罪者が消えたならそれで別に構わないんだから」
「詳しくなくても、知ってることを教えてくれよ。頼むよ」
声の調子をニュートラルに保つのが難しかった。あんまり悲壮な具合にしてしまうと、母ちゃんは必要以上に心配してパニックにおちいるだろう。ただ、あんまり軽々しく話しても駄目だ。この人は真剣に取り合わず「分からない」で押し通そうとしてくる。たとえなにかを隠しているわけではなくても、ただ思い出すのが面倒で「知らない」「分からない」としか反応しなくなるんだ。
「うーん」と母は記憶を辿るように唸り始めた。ってことはつまり、俺の「頼むよ」が母ちゃんにとってちょうど良いところ、やらかいところに刺さったのだろう。俺は逸る気持ちをおさえつけるようにしてスマホを握り、辛抱強く更年期のババアの記憶が蘇るのを待った。
「セックスカルトだったって聞いた。確かしばらく父兄の間で噂だった。そうよ、特に女の子の子どもがいる家庭は大変だった。親が知らない内に被害にあっているかも知れなかったから。そうそれで、だから警察と先生とPTAで話し合って、子どもには秘密にしようってことになったんだ。子どもに説明出来ないでしょってことになってさ。私はそんな臭いものに蓋をするみたいなやり方反対だったし、哲也に聞かれたら正直に話そうと思ってたけど、あんたそんなに興味なさそうだったし。ていうか、あんたもその話題避けてたみたいだったし。あんまり話したくないのかなって思ってた。それが私を余計に不安にさせたんだけど。でもさ」
「ちょっと待て。セックスカルトってなんだよ」
母ちゃんの話はまだまだ続きそうだったが、取り敢えず耳馴染みのない言葉を抽出して尋ねる。そこを無視して先には進めなかった。でも母ちゃんは聞かれた途端に我に返ったような態度をとった。「それは、ほら」とお茶を濁す。
「なんだよ? 言ってよ」
「ほら、男ってなるべく色んな女に手を出したくなる生き物でしょ」
「もういい」
聞いておいてなんだけど、母親の口からそんな言葉聞きたくはなかった。聞く前から、なんとなくそういう意味かなってことは分かっていたけど教祖を探し出す手がかりになると思ったから止められなかった。大体家族でセックスって単語が頭についた言葉を議論するなんて馬鹿げてる。失敗した。だから強引に話題を変えるつもりだった。
「そうね、もういいわね」ふうっと、スマホ越しに息を吐いたのが分かった。どうやら母ちゃんも、自分が母として触れるべきではない話に首を突っ込んだって理解したらしい。でも続けて「あの人もそんな男だった。だから追い出したの」って、父ちゃんの浮気癖に言及した。イタチの最後っ屁みたいに。それだけは付け加えておかないと気が済まないって感じで。今父ちゃんの話なんてしてないだろうが。俺はそっとスマホを耳から離した。母ちゃんは急遽舵を取ったその先に、絶好の話題が待っていることに気付いたのだろう。父ちゃんの悪口と、いかに自分が悲しい思いをしたかっていうのを絶妙な配分で話しだした。自分から連絡したという負い目を感じていたから、こちらから無下に通話を切ることはできなかった。そんなことをしたらむこうから掛け直してきて「電波悪いわね、良いところに移動しなよ」なんて迷惑な提案をしてくるだろうし。着信を無視しても無駄だ。出るまでリダイヤルを繰り返すだろう。そういう人なんだよ、この人は。だから気が済むまで話をさせてやる。聞かないけどな。こうやって通話口を耳から離して、時折「ああ」とか「うん」とか言葉を放ってやればそれで気が済むんだから。そうして、話題と話題の切れ目を見つけて素早くつま先を突っ込む。「じゃあまた今度連絡するわ」って言って通話終了。もちろん、しばらくは連絡をしない。少なくとも、息子の大切な時間を浪費したことに母ちゃんが気付いて反省するまでは。それか、その息子が今日みたいな気紛れを起こすまでは。それまで精々首を長くして待ってるんだな。
「じゃ、また今度な」
母ちゃんが息継ぎをしたのを見計らって一方的に通話を切断した。まだなにか喚いていたけど、掛け直してこなかったのを見ると、まあ満足したんだろう。長話には辟易したけど、あの教団がセックスカルトだったって分かっただけでも一歩前進だ。ところで、セックスカルトってなんだ? 母ちゃんの口から聞くのは嫌だったから中途半端な理解で終わってしまったが詳細を知る必要があった。ネットで検索する。ほう。教祖が女や男を良いように扱う宗教か。教義も信仰もなく、ただただ自分が気持ち良くなるために立ち上げた団体というわけか。男なら一度は夢見ることを実際にやらかしたアホたれってことだな。そんな奴が近所で活動をしてたんじゃ、そりゃ母ちゃんじゃなくても警戒するだろう。ネットをいじくったついでに、あの時の事件について情報が載っていないものかと考えた。検索してみようと意識を集中させて、そして指が止まる。
あいつの名前なんだっけ? なんていう団体名だっけ? 簡単に思い出せると思っていて後回しにしていたが、肝心の検索ワードが頭の中からすっぽりと抜けてしまっていることに気付いた。なんとか記憶を辿ろうとするが、無駄な努力に終わりそうだった。いくら自分の中で大きな出来事だったといえ、固有名詞なんて覚えていない。顔なら覚えている。声も喋り方も分かる。あの時あの場所であったことも大体は思い出せる。今ならきっと街ですれ違えばあの時の男だって分かるはずだ。でも名前は覚えていない。それがたまらなくもどかしい。
仕方がないので、今分かっている情報を組み合わせて調べてみることにする。年代と地域とセックスカルトで検索をかけた。調子に乗った名前の賃貸物件が上がってくるだけだった。手がかりはなし。
母ちゃんなら教団と教祖の名前を覚えているだろうか? あの様子じゃ覚えてないだろうな。それに、今話したばっかりなのに、再び母ちゃんの言葉のシャワーを浴びる気には到底なれない。結局あの団体がセックスカルトで、教祖が目の前で捕まったのなんて小さな街の小さな事件だってことか。そう考えると、そんなことで人生が変わった自分自身がとてもちっぽけな存在に思えた。
スマホが鳴る。いつか気紛れに登録した飲食店からの広告メッセージだった。お腹も鳴る。いつか、いやすぐにでも絨毯爆撃でもって肛門を刺激してくる腹痛からの犯行予告メッセージだった。どうすればいい? 腹痛の予感に冷や汗をかきながら考えるが、良い答えなんて浮かびそうもなかった。ごろごろごろって、雷の準備運動みたいな音で内蔵に脅しをかけられるだけだった。
■十
この日は電車で遠方の得意先を巡る、出張を余儀なくされた。本当は、ちょっと前から上司に命令をされていたんだけど、虎視眈々とタイミングを見計らっていた。出張って言っても、宿泊が必要なほど離れているわけではない会社が相手だった。飛行機だとか新幹線だとかで出かけて、ホテルに宿泊しなければならないような大都市の会社はまだ任せてもらえないしな。べつに任せてもらいたいわけじゃないけど。とにかく、俺が顔出すのは精々隣県に点在する中小企業が相手だった。上司に催促された段階でバカ正直に向かってしまうと、一社につき一日潰れてしまうような場所にある会社だ。普段ならそうする。当たり前だ。上司の命令なんだからありがたく電車の旅を楽しませてもらうさ。行きの車内では充分な睡眠を取って、先方に新商品の提案かなんかして、それで帰りの車内ではビール飲んでそして直帰を決める。最高じゃないか。でも今はそんな日帰り旅行を楽しめない。腹が痛えもんでな。どういうわけか、俺の担当範囲では特急や急行を使うことを許されてない。その社内制度に文句はない。だって鈍行で行けってことだろ? 時間がかかって直帰しても許される風土が社内にはあったから。今は違う。トイレがあるかないかも分からない一般車両に、長時間揺られるのは不安だった。そこで俺は考えた。「たまには顔を出して存在を思い出させろ」っていう上司からの命令が、同じ方向で三社溜まったら一気に出かけようと企んだのだ。
もちろん、入念な計画が必要だった。新商品の勉強なんてしない。そんなの先方とお茶でも飲みながら媚びへつらってれば自然と口から飛び出てくるもんだ。だけど、疼き続ける腹の虫の機嫌を取るにはコツが必要だった。トイレ付きの電車に乗ることができれば無駄になってしまうが、それでも考えずにはいられなかった。二十分毎に電車を降りて、トイレに駆け込んでも大丈夫なように行動計画を立てた。便意がなくても降りるくらいの慎重さが大切だ。そして降りた駅のトイレの場所。これも覚えた。そんなことをやってても遅刻しない時間。もちろん最優先で調べた。流石の俺でも、知らない土地でうんこを漏らし、その足で得意先に向かう度胸はないからな。本当はこんな状態で出張なんて勘弁してほしかったけど、交通費を節約する方法を大々的に上司へプレゼンすることで褒められたし、行かないわけにもいかなかった。
各駅停車を更に二十分毎に降りながら目的地に向かった。腹が痛くなる前にトイレに寄った。俺の場合「出る。もう間に合わない」って思ってからじゃないと、いくら気張っても出てこない恥ずかしがり屋な大便たちを腹の中に飼っていたから、便器に腰を下ろしても無駄なことが多かった。それでも、そうすることで気は休まった。気が休まると、ある程度便意も引っ込んだ。つまり作戦勝ちってことだ。何度か乗り換えをしたが、トイレがついている電車もあった。その場合は、トイレ休憩を入れる駅を飛ばすことも出来た。アポイントの時間に遅れることもなかった。三社目で担当の総務部長と話しながら微かに便意を感じた。仕事の話が終わって、部長は玄関まで見送りに出てくれた。そのタイミングでトイレを借りて、部長を玄関に十五分ほど待たせてしまったのが本日のハイライトだった。でもそれくらいで済んだんだから、この出張は成功だったって言えるだろう。
帰りの電車でアルコールは飲まなかった。というか、キーホルダーを失くして以来アルコールとカフェインは摂らないように気をつけている。理屈は分からないが、カフェインを摂取すると途端に腹が痛くなった。アルコールの方は、それほど排便作用はなさそうだったけど肛門の筋肉が緩むのは確実だった。いざという時、締りのない尻で対応に当たるのは失敗の元だと思った。
何事もなく電車に揺られた。帰りの計画は立てていなかった。なるべく早く帰宅したいのは山々だったけど、途中の駅でトイレに立ち寄っても誰かを待たせるわけではない。何度でもぶらり途中下車してやる覚悟があった。ところが俺の腹の虫は本当にへそ曲がりな奴だった。痛くなっても大丈夫、というタイミングでは決して騒ぐことはなかった。こっちが不安になってしまうほど、その主張を弱めて身を潜めているのが分かった。いつもより朝早くから活動したせいか、心地の良い眠気を感じていた。それでもなんとか睡魔に耐えた。
このところ、睡眠時のリラックスした状態を狙って、肛門を突破しようと試みる不届き者の存在に悩まされていた。寝てるんだから尻の穴を緊張状態に保っているわけがない。守衛さんは休んでいるだよ。そこを顔パスみたいにして軽い挨拶だけで通過しようとするんだからどうしたって反応が遅れる。だけど寝ているとはいえ、俺だって間抜けじゃない。最終的に門を破られる瞬間には必ず排便センサーが働く。後はどれだけ時間が残っているかの問題だ。ベッドから飛び起きてトイレに駆け込む程度の時間があればセーフだし、なければアウト。どっちにしても、気持ち良く寝ているのにいきなり心拍数を上げながら飛び起きてトイレに走るなんて最悪の起床だ。その後にパジャマの洗濯と床掃除と下半身を中心にシャワー浴びる面倒が待っていればより最悪。だから俺は、必死になって眠気に耐えた。カフェインに頼ることはできないから、イヤホンをつけてスマホでエロ動画を流した。眠気が強力すぎて、ちっとも俺の玉を刺激することなんて出来なかったけど睡魔とのバランスをなんとか取ることが出来た。プラスにはならないが、マイナスにはしない戦い方だった。
最後の乗り換えが終わった。後は地元の駅まで一時間弱席に座っているだけで良い。その安心感が自分を油断させた。それと都市部が近づいてきたせいでそれなりに電車が混んできた。隣に人が座っているのにエロ動画の鑑賞会なんてできるわけがない。はじめの内は目を見開くことで眠気に耐えようとしたが、すぐに諦めた。いつの間にか眠っていた。意識が戻ったのは、やっぱり猛烈な便意を感じたからだった。この野郎。ちょっと眠っただけですぐこれか? 寝ぼけ眼で辺りを見渡す。突然焦りだした俺から少しでも距離を取ろうと、隣に座っていた男性が腰を浮かす姿が目に入った。電車はちょうど駅に停車しようと速度を緩めているところだった。焦りに任せて立ち上がった。その拍子に、自分が思っているよりもずっと近くにうんこ軍が迫っていることに気付いた。尻の穴付近に若干の水分を感じるのは汗だろうか。それとももう漏れてる? 電車が完全に停車するまで普通の人間らしくドア付近で立っていることさえ出来なかった。その場でしゃがみ、肛門を右足の踵にのせた。物理的に蓋をしようって考えだった。こうすれば気持ちが萎えて体が屈したとしても、踵が物理的にお漏らしから守ってくれる。
どこかから空気が排出される音と共に電車の扉が開いた。俺の尻の穴から屁が出る時よりもずっと優しい音だった。転げるようにホームへ躍り出る。ここから先は気持ちとの戦いだ。諦めた方が負ける。ここがどこの駅なのかも分からなかったが、取り敢えず走った。走りながら状況を分析した。進行方向に改札が見えた。そしてその手前にトイレの表示が。助かった。とはいえ、一歩足を前方に伸ばす度うんこは腹の中で勢いをつけた。そして一歩足を下ろす度、その勢いもろとも肛門に流れ込む。腹痛もひどいものだった。ぎゅうぎゅうと可愛らしさのかけらもない音を腹の中で放っていた。きっとその音通り、内蔵を全部雑巾絞りみたいにして水分を下へ下へと送り込んでいるんだろう。
トイレまでの孤独な道のりを進んでいると、すぐ横を誰かに並走されていることに気付いた。スーツを着た中年のサラリーマンらしき男だった。情けない調子で腰をへこへことさせながら、錆びついたロボットみたいな歩き方で同じ方向へと進んでいた。俺はすぐに気付いたね。こいつの目的地はトイレだなって。もう一つ気付いたことがある。こんなぎくしゃくした歩き方の奴と余裕で並走されてるんだから、俺は走れていないんだなって。ずっと全力疾走しているつもりだった。でもあまりにもきつい便意のせいで、この哀れなサラリーマンと同じようなC‐3PO歩きになっているんだろう。情けなかった。人のふり見て我がふり直せだ。歩き方を変えようと思った。少しでも余裕のある形に。でも駄目だった。当然だ。お漏らしの瀬戸際に立たされた人間がトイレまでのデスロードを進む時はその形でしか動けない。走れもしないし歩けもなしない。ただぎくしゃくと進むだけ。
男とはまさにデッドヒートを繰り広げた。当然初対面だったけれど、昔からのライバルみたいに肘と肘が当たるような近さで並走した。多分相手も俺の目的が分かっていたはずだ。少しでも先んじようと躍起になっているのが伝わった。ただデッドマン特有の騎士道精神が二人の心には存在していた。直接肘をぶつけたり、足をかけたりするような非紳士的行為は行われなかった。もう少しでトイレに辿り着く。そう思った瞬間、腹の中で戦艦大和が大砲を自らの船底へ向けて発射するみたいな衝撃が走った。ここ最近で一番の力を振り絞った。全神経を肛門の一点だけに集中させた。水分がぬるっとすり抜けたような気がしたが、なんとか船腹に穴があくようなことだけは防いだ。でもその一連の流れのせいで足が止まった。俺は無意識に、壁に手をついて立ち止まっていた。男がトイレへ消える瞬間こちらを振り返った。一瞬勝利の笑みを唇に浮かべたのを見逃さなかった。後は運を天に任せるだけだ。
足を引きずりながら、少し遅れて男性用トイレに進入した。嫌な予感がした。入口の面構えよりもずっと室内は狭かった。まずは個室を確かめる。二つしかない。手前の一つは既に閉まっている。見える位置にさっきの男の姿はない。当然閉まった個室の奥で勝利の余韻を味わっているのだろう。もう一つの個室の扉は開いているように見えた。希望を胸に、しかしよろよろと進んだ。そして絶望することとなった。扉は開いているのではなく、存在していなかった。代わりに黄色いテープが貼られ、そこにラミネート加工された用紙がぶら下がっている。「修復中のため、使用禁止」
小便器を使用している人間はいなかった。トイレの中には手前の個室に入った男と俺だけしかいないってことだ。腹の調子を考えると、扉なしの個室に入って用を足すこともやぶさかではなかった。本当にそうするつもりだった。だって俺の運も、天に見放されたわけだし。どうにかサヴァイヴするにはそうするしかないように思えた。最早個室ではない個室の中を覗く。こりゃだめだ。どう使用したらこうなるのか分からないが、便器には大きなヒビが入っていて、どうやら水道の元栓も閉められているようだった。カラカラに乾いていて、電気店のショウルームに置かれた商品のような佇まいだった。厳密にはもっと薄汚れて大胆なヒビが入っていたから、なんだか現代アートの作品みたいに見えた。
俺は手前の個室の前に腰を下ろした。例の踵で肛門を押忍するスタイルで男が用を足すのを待った。もう我慢の限界を超えていた。多分パンツの中には総量の四分の一程度の水分が漏れ出てしまっていただろう。それでも本丸を便器以外の場所で垂れ流すつもりはなかった。これはプライドの問題だ。確かにキツかった。これまでの人生で味わう屈辱を全て合わせてから泥団子にしてぶつけられるみたいな辛さだった。だけど、俺はトイレ争奪戦に負けたんだと自制心を働かせた。これは敗者が負担する苦しみでもあった。ノックなんて不要だった。男とは紳士協定で結ばれた、いわば仲間でもあった。もう一つの個室が壊れていることを知らなくても、素早く用を済ませ個室を空けるのがマナーだった。
男の話し声が聞こえた。独り言を言いながらじゃないとうんこを出せない体質なのか? はじめはそう思った。だがすぐに、動画を視聴している音だって気付いた。しかもおでこをくっつけた扉のすぐむこうから聞こえてくる音だった。ふざけんじゃねえ。俺達バンド・オブ・ブラザースじゃなかったのかよ。叫びたくなった。そんなことをすれば肛門の寿命を短くするだけだからしなかったけど。扉のむこうの能無しは、話の通じない大馬鹿野郎だった。ここを自宅のトイレだとでも思っているのか? 公共の場だぞ。用を済ませたらとっとと出る。人間として最低限のそんなモラルすら持ってないのか? 極限の状態で個室が空くのを待っている他人がいるかも知れないって、当たり前の想像力があれば呑気にスマホで動画視聴なんて出来ないはずだ。もう排便は終わったのか? それで余韻を楽しんでるのか? それともまだ完全には終わってなくて、次の波を待っている時のお楽しみなのか? どっちにしても太え野郎だった。
「それじゃあね、始めていきましょうか。えー、今回もね、いつまでも異性にモテ続けたいおじさん達のためにね、とっておきの情報をお届けしますよ」
くだらねえ。男が見ている動画の出演者は実にくだらない話を繰り広げていた。テレビとかサブスクとかで視聴できる、多少なりとも金をかけて制作された番組ではなさそうだった。いかにも素人丸出しっていう喋り方だった。大方動画サイトに投稿された番組でも見ているんだろう。俺はそれほど熱心に動画サイトを漁る方ではないけれど、それでも有名なチャンネルの配信者のことは知っていた。見たこともある。だけど、今聞こえる動画はそういったものではなさそうだった。駆け出しの馬鹿が配信している番組か、諦めの悪い馬鹿が熱心に配信し続ける番組かのどちらかだろう。
「今日はね、ゲストを呼んでますから、特別ゲスト。テレビみたいでしょ? でも地上波じゃ聞けないことを話しますよ。皆さん期待してくださいね。それではどうぞ、こっちです。ここに座っていただいて」
「あ、どうも。特別ゲストだなんて言いすぎですよ。緊張させないでください」
ただ不思議だったのは、この出演者の声に聞き覚えがあったことだ。どこか親しみと懐かしさを感じた。もしかしたら、うんこを我慢しすぎて気を失いかけているのかも知れない。知り合いに動画配信者をやっているような愚か者はいなかったはずだ。だけど気になった。ただ現実逃避の矛先が向いた先にあった出来事に過ぎないかも知れないけれど、確かに覚えがあった。
「この男、最近知り合っただんけどさ、若い頃はモテモテだったらしいんだよ。今じゃまあ、おじさんへの階段を着々とのぼり始めている見た目をしているけどな。でも昔はセックスカルトみたいなのやってさ。すごいだろ? 少しでも皆の参考になるような話が聞きたくてさ、今日は無理言ってゲストで登場してもらったんだよ」
「やめてくださいよ、お恥ずかしい。過去の話ですから。罪も償ってますんで」
なんだと? 思わず踵を浮かす。パンツに不快な染みがすぐに広がり始めるのを感じた。それでも恐らく驚きと興奮で、便意が一瞬戦意喪失して胃の方向に向かって引っ込んだ感触があった。扉を激しくノックする。こうなったら一方的に紳士ぶってもいられない。すると扉の向こう側からもノックが返ってくる。違う。今はそういう反応が欲しいわけじゃない。
「おい、お前今なにを見てんだ? ちょっとそのスマホ見せろ」
ノックを続けながら叫んだ。中の男は「へ、あ、え?」とか素頓狂な声を上げた。「私に言ってます?」
そうだよ、お前だ。この際トイレを不法占拠している罪は忘れてやる。だけど今視聴している動画についての情報は吐いてもらうぞ。そんな気分だった。教祖の手がかりがそこにあるはずだ。絶対に逃せない。さっきまでは肛門を中心とした半径三センチだけが俺の熱源だったが、今や体全体が熱くなっていた。情熱に突き動かされるように、扉の上部に手をかけた。飛び上がって体を浮かせ、天井との隙間に首をねじ込む。男の反応がもどかしかった。なにが起きているのか分かっていない奴に、一から説明してやる気なんてなかった。強引にでもスマホを覗き込み、こちらの事情を説明することなく動画のチャンネル名みたいなヒントを確認するつもりだった。隙間に頭を差し込んだところ、手が痺れて力が抜けた。一瞬扉の上部の縁にギロチンチョークを極めらてしまう。足をばたつかせ、右足を扉のノブに乗せることでどうにか体勢を立て直した。個室の中を上から覗くと、男が便器に座っている姿が見えた。ももの上に肘を乗せて両手でスマホを持っているスタイルだった。まだこちらには気付いていない。激しく揺れ、尋常ならざる音が鳴る扉を気にして泣きそうになっていた。
「おい、そのスマホ見せてみろ」
声をかけると、男は左右をきょろきょろとやった後、はっと気付いて頭上を見上げた。俺と目が合う。男は目を見開いた後、驚きで腰を浮かし、そしてそのままスマホを手放した。男の股の間へするりと吸い込まれ、スマホは便器の中へ着水した。
「なんだあんた。なんなんだあんた」
男は口を震わせて言いながら、片手でパンツとズボンを引き上げ、片手で扉のドアを開けようと試みていた。
「ああっ」
不用意に扉のノブを回されて、俺はバランスを崩した。再びトイレのドアにフロントチョークを極められる。その状態で男が扉を開いたため、俺は半回転しながら隣の個室の衝立に背中を打ち付けることになった。
「変態だ。覗き趣味の変態がいるぞ。誰か駅員呼んでくれ」
なんとか隙間から首を抜き地上に降り立つと、男がズボンをおさえながら逃げていく後ろ姿が見えた。首と背中が痛んだし、男の騒ぎようも気になったが、俺には便器の中に消えたスマホの方が大切だった。個室に入り、迷わず便器に手を突っ込む。不思議と汚いとか臭いとかキツいとか3Kだとか、そういう感情はなかった。奴が視聴していた動画にしか興味を持たないスマホ探索ロボット。それが俺だ。茶色に滲んだ透明な水と、ほとんど溶けたトイレットペーパーの泥濘を手でかき回す。指先に固い物体が触れた。これだ。スマホだ。掴んでサルベージする。掴んだ物体を掲げる。うんこだ。固いうんこだ。便秘気味のうんこだ。クソっ。他人のうんこを直に掴んでしまったのが悔しいわけじゃない。あの野郎が、便秘にも関わらず俺に勝負を仕掛け、更に勝利し、そして個室を占領していた事実が悔しかった。便秘なら我慢できるはずだろ。それなのに、既にパンツを濡らしかけていた下痢の俺をいたずらに虐げやがった。信じられない。あいつは悪魔だ。大体駅のトイレなんて、下痢便専用だろうが。便秘気味の人間がたっぷり時間をかけて対処するような場所じゃない。
「この男です」
悪魔の声がした。振り返ると、俺のことを指さして制服を着た駅員に事情を説明しようとしている大馬鹿野郎の姿が見えた。ズボンから手を離しているところを見ると、道中で上手く履けたようだな。
「困りますよ、お客さん」
連れられてきた駅員が渋々といった様子で俺に言う。まだ本気で警戒はしてなかった。俺の手にうんこが握られているのを見るまでは。
「違うんですよ、これは」俺は慌ててうんこを便器に落とした。ぽちゃんと音がして、お釣りが腕に跳ね返ってきた。「そういうことじゃないんですよ」
「変態だ。スカトロ野郎だ」
男が鬼の首を取ったかのように囃し立てる。
「違う」
「言い訳できないぞ」
「手を洗ってからついて来なさい」
俺と男と駅員が同時に喋る。逮捕される。それは嫌だ。駅員の制服は明らかに警察のものとは違うのに、今にも手錠をかけられそうな迫力があった。俺は焦って言い訳を重ねようとした。いくつもの言葉を積み重ねれば誤解は晴れると思った。だって俺は腹が痛くて途中下車してトイレに入っただけなんだぜ。それでこんな騒ぎになるなんて馬鹿げてる。ただ、もう一方ではこの期に及んで便器の中のスマホが気になった。男が見ていた動画の中にあの教祖が映っているはずなんだ。それ以外に手がかりはなかった。このチャンスを逃せば、一生腹痛に苦しまなければいけなくなる。焦燥感が情熱を後押しした。再び便器に手を突っ込む。
「こら、やめなさい」
汚れることを覚悟した駅員が俺の肩を掴んだ。離してくれ、それどころじゃないんだ。便器の中をかき混ぜるのに集中したかったから声は出さなかった。それくらい真剣だった。
「もう警察呼びましょうよ」
男の声だった。考えてみれば自分が汚したトイレを別の人間に漁られてるんだもんな。どの程度の恐怖を感じているのかは、世界でもこいつにしか分からないだろう。
「あなたね、ここでそんなことしちゃ駄目なの。ここは大便をする場所。分かる?」
分かってる。俺だってさっきまでは喉から手が出るほどうんこがしたかった。いや。突然思い出したかのように、便意が蘇った。いや。今だってしたい。手を便器に突っ込みながら顔を上げた。男は少し後ろに下がり、まるで可哀想な変質者を見るような視線をこちらに送っている。駅員の方はもっと必死だった。そりゃ、他人のうんこを漁るモンスターと一番近くで対峙してるんだもんな。人生で一番気が抜けないシーンだって言えるだろう。俺は罠にかかった獣同然だった。どんな未来が待っているのか容易に想像出来た。獣だったら殺されて食べられる場面だった。でも俺はこう見えて人間だ。捕まって前科がつく。悲しくなった。悲しさが更に大きな便意の波を引き寄せる。俺は二人を追い出して個室のドアを閉めようと思った。そうさ。この期に及んでゆっくりと排便する夢を見たのさ。便器から手を抜き、二人の前に出す。汚れた手の効果はてきめんだった。二人とも俺の手から距離を取った。だけど、狭い空間でお互いが自分勝手な方向に飛び退いたため、結局はさほど変わらない場所に着地することになった。
俺の下腹部は呪の歌みたいな音を立てていた。もう我慢できない。それに、最早我慢する必要もないように感じた。最悪な状況で、自分を傷付ける要素が一つ増えるだけだ。ダイエット中に夕飯をたらふく食った後、食後のデザートとしてチョコレートを一欠片食べるくらいのものだ。今更尻からチョコレートを吹き出したって情勢は変わらない。じゅうじゅうじゅう。ステーキを鉄板でウェルダンするような音がトイレに響いた。程なくして、しゃがんでいた俺のズボンの様々なところから水状のうんこが滴り落ちた。トイレの床に草間彌生作品みたいな水玉模様が出来上がる。
「だから言っただろう」俺は力なく便器に身を預けた。もうどうでも良かった。「だから言っただろう」言ったかも知れないし、言ってないかも知れなかった。「漏れそうだって言っただろう」破れかぶれで繰り返した。
「すみませんでした。息子にはよく言って聞かせます」
母ちゃんが駅員に頭を下げる様子をぼんやりと眺めた。俺は駅員達が客から身を隠して仕事をする、事務所のような場所に引っ立てられていた。
あの後、俺は便器に突っ伏して泣いた。泣き声は漏らさなかった。どっちかと言うと嗚咽ってやつだな。自分が情けなかった。自暴自棄にもなって、社会人として世間で戦うために着ていた鎧を脱いでしまったんだ。そんな戦士の休息に気付いた男と駅員は、途端に優しくなった。男たるもの、こういう夜だってある。三人の男たちがこの日はじめて一つになった瞬間だ。共感の波に乗って、このまま無罪放免でお願いしますって気になった。涙で押し通せるなら、いつまでだってべえべえ泣いているつもりだった。でも俺は許されなかった。駅員は「落ち着いたら、事務所で話を聞くから」って告げた。その時は俺が落ち着くことなんて、未来永劫ないって思っていたけど、数分便器に顔を突っ込んだ体勢でいたら呆気なく落ち着いた。というか、冷静になったんだ。こんな不浄な場所にはいたくないって心から思った。
汚れたまま事務所に連れて行かれた。そのまま当直の駅員が使うようなシャワールームに通され体を洗った。「頼むからよく汚れを落としてからボディタオルを使ってくれよ」って念を押された。誰に口を聞いているんだ。俺ほど漏らした後のシャワーを上手く使いこなせる人間はいねえぞ。そうは思ったがしおらしく頷いた。それどころか「脱いだスーツは捨ててください」なんて涙を誘うような台詞まで吐いた。さっぱりしてシャワー室から出ると、新品の白ブリーフと、使い古したグレーのスウェットのセットアップが準備されていた。ブリーフのサイズは合わなかったけれど、至れり尽くせりだって感じた。傍らに黒いゴミ袋が置かれていた。呪物が封印されるみたいに憎しみを込めて口が固結びされていた。中身を確かめてみようと思ったけど、思い切ってハサミで切断するまでは誰にも開けられない結び方だった。それにわざわざ確かめるまでもない。俺の着ていた衣服一式が入っているのは間違いないんだから。なんで分かるか? 誰にも解けない伝説の賢者の封印を破って、臭いが漏れ出てきているからだよ。
ゴミ袋片手に事務所に戻ると、駅員数名と、俺に一本糞を握らせた悪魔が待っていた。幸い警察官の姿はなかった。そこで俺は土下座をした。身綺麗になって欲が出た。できることなら、このまま警察のお世話になることなく家に帰りたかった。そのまま頭を上げず、俺の奇行の原因の全ては腹痛にあったことを繰り返した。ただうんこがしたかっただけなんだって。漏れそうで、焦りが生んだ奇跡なんだって。もちろん男がスマホで見ていた動画のチャンネル名が知りたかったから、このような大胆な行動に出たなんて説明はしなかった。そこに俺に魔法をかけた教祖が出演しているはずだからって言っても、余計に話が拗れるだけだろうから。
「警察に被害届を出しますか?」
駅員たちは俺のことを哀れに思うというよりも、積極的に関わりたくなかったのだろう。男に水を向けた。
「まあ、私も個室を長い時間使い過ぎたかも知れないので。そこまではいいです」
男はそっけなく言った。こっちは俺の同情を誘う作戦に上手くはまったようだった。それに土下座しながらさり気なく、こちら側の責任は三割、トイレに籠城した人間の責任が七割っていう理論を隠し味に使ったからでもあった。こいつは他人に流されやすい体質なのだろう。もう勘弁してやれよっていう駅員達の前で、我を張る度胸がないんだ。
そうして男は去っていったが、俺の方はそうもいかないようだった。身元引受人を要求された。問題を起こした人物全員に、こういう傲慢な対応をするのかは分からない。でも俺は駅員の私物である下着とスウェットを拝借していた。弱みを握られていた。まさかブリーフを返却しろってわけじゃないだろうけど、そのまま帰すわけにもいかないって気持ちはなんとなく分かった。それにまあ、一時的に駅の治安を悪化させた自覚もあったし。
家族か職場の人じゃなきゃ駄目だってことだったから、喜んで母ちゃんを指名させていただいた。職場の人にこんな失態を知られるわけにはいかない。
しばらく弱くて馬鹿なふりをして過ごした。散々ゴマをすったもんだよ。昔から駅員に憧れてたんすよ、みたいなこと言って。で、母ちゃんが車を走らせて駅までやってきたわけだ。ゴミ袋片手に上下スウェットで電車に乗るわけにもいかず、電話で俺が車をリクエストした。母ちゃんもそんな息子と並んで電車に乗る精神的デメリットを瞬時に計算して受け入れてくれた。ま、電車でも車でも、結局は実家から一時間程度かかる場所に俺は捕らえられていたし、どっちでも良かったんだろう。とにかく俺は疲れていた。早起きして遠出した疲労感がここにきて俺の体をいたぶり出した。頭がぼうっとして働かなかった。体も三十分間泳ぎ続けた後みたいに重い。
「すみませんでした。息子にはよく言って聞かせます」
だから俺は母ちゃんの様子をぼんやり眺めるしかなかったんだ。母ちゃんはそんな俺の近くまでやってきて髪の毛を掴んで「ほら、あんたも頭を下げなさい」ってやった。頭なら散々下げた後だった。なんなら土下座だってしたし。でも、迎えにきてくれた恩も感じてたから、俺は人形みたいにされるがまま何度も頭を下げた。
母ちゃんは賄賂なのかお礼なのかブリーフとスウェットの代金なのかは分からないが、財布を取り出して駅員にいくらか渡していた。俺の位置からではデスクに積まれたファイルが死角になってどの程度の額だったかは見えなかった。でも、駅員が一切遠慮することなく金を受け取ったのは見えた。お前の白ブリーフと襟元がだるだるのスウェットにいくらの価値があるんだろうな? このサスティナブルにファックされた時代で、誰にも求められない古着にどれくらいの値打ちをこけるんだろうな? 問い質したくなったが、なにせ俺は彼らのサービスを甘んじて受け入れた側の人間だったから何も言わなかった。
そうして俺は帰宅を許された。この時点でようやく荷物を返してもらった。それまでは逃亡を図る恐れがあるってことで、やんわりとバッグを取り上げられていたから。
母ちゃんが運転するホンダの軽自動車に乗ると、甘い匂いが鼻をついた。舌打ちをしながら、ルームミラーにぶら下がった芳香剤をグローブボックスに放り込んだ。車内をココナッツの匂いで保ちたいなんていう欲求は理性的な人間のものじゃない。窓から放り投げられないだけ感謝するんだな。俺はすぐにスマホを取り出して動画サイトを開いた。無限に広がるネットの海の中で、男がトイレで視聴していた動画を探すのは骨が折れる作業だろうが、それでも記憶が鮮明な内にやっておかなくてはならない。今ならまだ、いくつかのヒントを覚えていた。出演者たちの声はまだ忘れていない。というか、あの声と喋り方。思い出の中の教祖とまったく同じだった。俺の記憶力も捨てたものではない。それと、動画の内容。おじさんになってもモテたいって人間が、夢みたいな戯言を話していた。いくつかの単語を拾い集めてキーワードにすれば、見つかる可能性はあった。
しばらく母ちゃんの運転する車の助手席で作業に没頭した。その間、母ちゃんは一言も話さなかった。導火線に火がついていることは分かっていた。いずれ爆発することも知っていた。これが母ちゃんのやり方だ。子どもの頃から、俺がなにかしでかしてその尻拭いに奔走した後は、必ずこんな静寂の間を作った。俺のことを泳がせて、油断したところにずどんと雷を落とすってやり方だ。そんなの慣れていた。小細工されることで、この野郎って反抗心も芽生えてしまうし逆効果だった。それでもまあ、母ちゃんとしても息子をどんな風に反省させるか考える時間が必要なんだろうけど。
「なにやってんのよ、あんた。恥ずかしかったじゃない」
信号が赤になって車が停車したタイミングで大声を出した。内容よりもただ、その声量にびっくりした。首を痛めるくらいに鋭く母ちゃんの方を向いてしまう。
「ごめんね」
言おうと決めていた言葉を口にする。男は取り敢えず謝っときゃそれでいいんだ。
「ごめんねじゃないよ。もしかしてあんたまたお腹壊してんの? だからこの前子供の頃の話を聞いたの?」
ああそうだよ。名推理だな。そんなことを思いながら「反省してるよ」って言った。視線はスマホに落としてた。反省するふりよりもずっと大事なことが画面の中にあると思っていたからな。何度かキーワードを入れ替え、再検索を繰り返す。検索結果を上から順に眺めていると、口元を髭に覆われた親しみのあるおじさんのサムネイルが目にとまった。飲食店のような場所を背景に、やたらと人懐っこい笑顔を見せる中年男性が正面を向いて座っている。画面の端にはセンスのないフォントで「今回はゲスト登場」とか「モテすぎて逮捕された男」とか描かれている。チャンネル名は「おじさんなのに、モテてもいいですか?」ときた。反吐が出るぜ。反吐は出るけども、外出先で落としたコンタクトを地面で見つめたような快感が走った。動画を開く。
「それじゃあね、始めていきましょうか。えー、今回もね、いつまでも異性にモテ続けたいおじさん達のためにね、とっておきの」
あの極限状態で聞いた声と同じだった。見つけた。サムネイルと同じ場所でおじさんが喋っている。恐らくこの男が配信者なのだろう。ということは。十秒スキップ。もう一度。そうしてもう一度。すると画面に配信者とは別の男が突然現れた。再生ボタンをタップする。
「今日は無理言ってゲストで登場してもらったんだよ」
「やめてくださいよ、お恥ずかしい。過去の話ですから。罪も償ってますんで」
ここだ。動画を停止させる。整った顔の面影は少なかった。長かった髪は洒落っ気もなく短く刈り込まれ、白髪も目立った。肌に凹凸が刻まれ、顔の大きさもイメージと違う。体全体が太ったからか、倍ぐらいの大きさに見えた。でもあの堀の深い目鼻立ちは、子どもの頃に見た教祖そのものだった。目当ての人物は意外と呆気なく見つかった。だとしたら、駅のトイレで繰り広げた俺のコメディーは一体なんだったんだ?
「見つけた」
気付くと声を出していた。
「は? ていうかあんた人の話聞いてんの?」
「あの教祖を見つけた。ほら」と言ってスマホを母ちゃんの顔の前に突き出す。「見てみろよ」
「ちょっと危ないから」
母ちゃんは慌ててハンドルを切った。ちょうどそこにあったコンビニの駐車場に進入する。車を停めると、一つ本格的に説教をしてやろうと腕まくりをして二十歳を超えた息子と対峙する。だけど俺は、母ちゃんが怒鳴り声を上げる前に口を挟んだ。
「ほらこれ、あの時の教祖。動画に出てる。ほら、見てみろよ」
「そんなことどうでもいい」
母ちゃんは目の前で振られるスマホを払って避けた。だけど俺が「ほら、いいから」と真剣に続けるものだから、一度怒りは引っ込めてスマホを見ることにしたようだった。怒りの六秒間ルールに則って、母ちゃんのアンガーマネージメントをしてやったってわけだ。俺が成し遂げた快挙を、知っている人と共有したかっただけなのに怒られる筋合いなんてない。
「なにこれ?」
母ちゃんは画面をちらりと見てから、視線をこちらに送った。いいから見てみろと言わんばかりに俺はスマホに向けて顎を振る。母ちゃんは渋々それに従った。動画の再生を始める。俺としては、どんな反応を期待していたんだろうな? 自分と同じくらいの驚きをもって称賛してくれるとでも思っていたんだろうか。母ちゃんの反応はイマイチだった。途中までは良かった。スマホを見て、一瞬眉間に皺が寄るのが分かった。その後で画面から顔を遠ざけた。きっと老眼が始まっているだろうからもっとよく確認するには、その無様な姿を晒すしか方法がないんだ。だけどそこまでだった。俺の検索スキルを褒めるようなことはしなかった。不意に顔を上げ、目を瞑るとゆっくり首を振った。
「あんたさ、いい年してモテるとか言ってる奴に近づかないでよ。お腹が痛いなら、駅で大暴れしたり馬鹿な動画にヒントを求めたりしないでちゃんとした西洋医学に頼りなさい。本当、頼むよ。私、子育て失敗したのかしら」
その後は無言だった。母ちゃんは俺にがっかりしているみたいだった。そりゃそうだ。その気持ちは分かる。自分だって将来息子が出来て、その息子が二十歳を超えてうんこ漏らして、駅のトイレで大暴れをして一時間離れた場所まで車で迎えにきたりしたら同じ気持ちになる。しかも帰りの車内でくだらない動画を見せられて、子どもの頃に捕まった宗教団体の教祖を見つけたなんて騒ぎ始めたら正気を失うだろう。だから、黙るだけでなんとか気持ちの整理を図っている母ちゃんは良くやってるって言える。断言できる。ま、照れくさいから直接は言えないけどな。
母ちゃんは俺をアパートまで送り届けると、さよならも言わず悲しい顔をして帰っていった。ちょっと辛気臭すぎるとは思ったけど、文句は言わなかった。だけどな、俺の方は最後に「ごめんね」と「ありがとう」を、耳を揃えて発言したぞ。少しは大人になれよ母ちゃん。鍵の閉まっていない自分の部屋に入る。いい加減玄関の鍵を直さなくてはと思うけれど、実害がないのでそのままにしている。泥棒だってもう少し気の利いた部屋を狙うだろう。もしも俺の部屋に押し入ろうなんて考えるこそ泥がいるとしたらそいつはただのアホだ。何も盗めないし、すぐに捕まる。だから安心していた。
リビングの照明をつけて、ソファーに身を投げだした。ようやく我が家へ辿り着いた。長い道のりだった。だけど、力を抜くよりも前にやることがあった。スマホを取り出して教祖の情報を集める。車の中で早速登録したチャンネルを表示させた。登録者数も視聴回数も多くない。というか少ない。思った通りこれはネットの海を漂う木っ端チャンネルの一つらしい。アーカイブしてある動画の数もそれほど多くはない。動画を古い順にソートして、片っ端から視聴してみることにした。これが実につまらなかった。妙に若者にすり寄ってくるじじいの話に光る部分はなかった。もちろん男として学ぶべき点もない。これはあれだな。コンビニの前で煙草を吸っている時に現れる、酔っ払った一本くれじじいの話を聞いている時の感覚だな。非情に退屈な動画の連続だったけれど、不思議と見ていられた。
「マコちゃん」って自称するこの配信者は、きっと恐ろしいほどに短絡的な人間だ。努力を嫌い、楽な方へ美味しい方へ流されて生きてきた。動画配信を始めたのだって、楽に美味しくお金を稼ぎたい、女にモテたいって願望を満たすためでしかないはずだ。どうせ動画配信なら、それがすぐに叶うって誰かから入れ知恵されたんだろうな。残念ながら今のところその夢は叶っていない。恐らくずっと叶わないだろう。三ヶ月後にはこのチャンネルの更新もなくなるんじゃないかな。中々叶わない夢を追い続ける度胸と根性を持っているはずがない。だけど、マコちゃんには妙な魅力があった。顔も体型も、発言から推測できる内面も我儘な中年男性の典型だったが、愛想が良かった。屈託なく笑う表情も声も、他人を不快な気分にはさせなかった。そう考えると馬鹿な思想を撒き散らすだけの動画も、夢の世界を語る子どもを見ているようで、和やかな気分になるというものだ。なんで自分がそんな風に優しい気持ちでマコちゃんのことを見れるのかは分からなかった。きっと死ぬ前に死んでいるような無害な男を、これ以上傷付ける気にはなれなかったんだろう。
全ての動画を流し見で視聴したが、問題の教祖が出演しているのは一つだけだった。二ヶ月ほど前に公開された動画だった。どこで収録されたのかは分からなかった。飲食店のようだが、マコちゃんも流石にコンプライアンスに関する知識はあるのか、場所を特定するような情報はなかったし、一般のお客さんの顔には丁寧にモザイクがかけられていた。教祖の特徴といえば、若い頃よりも随分とみすぼらしくなった外見と、それに不釣り合いなほどフォーマルな衣装だった。白いワイシャツに黒のベストを羽織り、一丁前に蝶ネクタイなんかをしている。まるで執事かなにかのコスプレだった。すぐにぴんと来た。こいつ、またなにかやっていやがるなって。分からないけど、有名アニメの登場人物のコスプレで若い女でも誘いこもうとしてるんじゃないか? だとしたら、お縄になった過去をまったく反省していないことになる。マジで太え野郎だぜ。
教祖は自分のことを仮名で鈴木って名乗っていた。マコちゃんも気を使いながらそう呼んでいたし、画面に出てくるテロップにもそう表現されていた。記憶が定かではないけど、少なくとも鈴木が本名ではないことに俺は気付いていた。ということは、その線からこいつに近づくことも出来ない。ただ、出演している動画を最後まで見ると、間違いなく鈴木がコスモ星丸のキーホルダーに力を込めたあいつ本人だってことが分かった。肝心なことはぼかしていたし、当時のことを詳しく語ることはなかったが、捕まった時期や罪状を聞くと、俺が知っているあいつ以外には知らない内容だって確信できた。
直接仮名鈴木に近づくことができないって分かってもそれほどがっかりはしなかった。それならマコちゃん経由で近づけば良い。マコちゃんからは年齢なりの落ち着きが全く感じられなかった。チャンネルの詳細を見ると、あらゆるSNSにアカウントを持っていることが分かった。俺はその類のアカウントは作らない主義だったけど、わざわざマコちゃんのために作ったよ。一番無難で有名なSNSに、無表情のまま女になりすました捨てアカウントを作ってる時は、自分がやっていることを疑問に思ったもんだ。
完成した二十二才、ショップ店員、恋人募集中のひよりちゃんが早速マコちゃんにメッセージを送った。いつも動画を楽しく拝見しています。特に鈴木さんが登場した回が大好きです。お二人の掛け合いが本当に面白くてファンになっちゃいました。出来たら実際にお会いしたいんですけど迷惑ですか? とかなんとか。鈴木だけに会いたいなんて言うと、マコちゃんは絶対へそを曲げると思った。それでなくても、簡単に返信を貰えるとは思わなかった。作戦の一つに過ぎなかったんだ。今日は流石に疲れたから、念の為マコちゃんにメッセージを送って、それからのことは明日考えようと思った。マコちゃんだって雑魚配信者とはいえ、自分のチャンネルを持っているんだ。視聴者からのメッセージにその都度対応してたんじゃ体が持たない。
すぐに返信が来た。簡単なものだった。早すぎて気付くのに遅れたくらいだ。「ぜひお会いしましょう」とのことだった。なりすましだとは微塵も疑っていない様子だった。ちょっと落ち着きのなさすぎる文章だった。マコちゃんはまるで自分だけのファンのように、ひよりちゃんを扱っていた。どうやらきっぱりと断言しないと分からないらしい。だから、鈴木さんのファンなんです。会わせてくださいって返した。流石に自分の勘違いが身に沁みたのか十分以上スマホは鳴らなかった。きっと不貞腐れたんだろう。まあいい。今日分かったことは、マコちゃん程度の底の浅い人間ならいつだって良いように利用できるってことだ。
諦めかけたその時、メッセージが送られてきた。鈴木に聞いてみたが、ひよりちゃんが信頼できる人物か確認してくれと頼まれた、とある。本当かどうかは分からない。呼び出してひよりちゃんを手籠めにするつもりなのかも知れない。きっとその可能性は高い。そんなことを考えているともう一度スマホが鳴る。あの動画を見てくれたのなら分かると思うけど、鈴木は過去の事件のせいでかなり用心深くなっている。出演交渉する時も結構難儀したんだ。だからまずは私がひよりちゃんを審査して、合格したら鈴木に会わせるっていう段取りでいきましょう。と書かれていた。一つ目のメッセージだけじゃあまりに怪しいと思ったのだろう。だけど二つ目のメッセージを読んでも怪しさは払拭できていなかった。余計に中年男性の性欲みたいなものが滲み出てきていて怖かった。だが二十二才独身女性のひよりちゃんの中身は俺だった。それで構いませんってハートの絵文字つきで送って、その日は寝させていただいた。就寝中も、枕元でずっとスマホが鳴っていた。落ち着け、マコちゃんよ。
■十一
あれから何度かマコちゃんとメッセージのやり取りをした。大体マコちゃん八割、ひよりちゃん二割って感じの頻度だった。その比率から分かったことは、マコちゃんは相当暇な男だってことだ。もしかして、こんな貧弱チャンネルの動画配信者一本で食っていっているのか? って不安になるほど頻繁に連絡を寄越した。まともな職に就いている人間には、ここまでの頻度は叩き出せない。
早々に会う日時と場所を決めた後、俺は問題に対処しなければならなかった。ひよりちゃん役を誰かに演じてもらう必要があったから。でもま、これは大した問題ではない。別に俺が一人で待ち合わせ場所に登場して、マコちゃんのことを締め上げれば簡単に佐藤の情報を吐くだろうとも思えた。だけどさ、そんな乱暴はしたくないだろ? なるべく誰も傷つけずにことを運びたかった。たとえ生きている価値のない終わった中年相手でも、そのポリシーは変わらない。というわけで、代役を立てる必要があった。元彼女と元浮気相手っていう二代巨頭を失った俺には、母ちゃんっていう奥の手しか残されていなかった。その事実に気付いた時は我ながら愕然としたもんだよ。泣きたくなった。でもさ、女友達が何人もいるような男の方がよっぽど女々しいと思うんだよな。下心を隠して女と接するっていう情けない努力に身を捧げた人達なんだから。
なので母ちゃんの出番だ。二十二才のひよりちゃん役にしてはいささか薹が立っているけども、ネットだけのやり取りで起こることの範疇だとも言える。誰も本当のことは話さないし見せない。マコちゃんも良い勉強になるんじゃないかな。それと母ちゃんとしても、俺が二十二才役を任せたと知ったら悪い気はしないはずだ。てことは、まさにウィンウィンの配役だって言えるはずだ。とはいえ母ちゃんには当日まで本当のことは話さなかった。この前駅に迎えに来てもらったお礼として、たまには二人でランチでもって話にした。断られても面倒だし、また腹痛が始まったんじゃないかと疑っている母ちゃんにいらない心配をされるのも鬱陶しかった。それでも母ちゃんは半べそかいて喜んでたよ。電話の向こうで言葉を詰まらせながら「ありが、とう」とか「楽し、みにしてる」とか言ってた。最終的には騙し討ちすることになるけれど、この瞬間の感動を味わえたんだからもうそれでいいよな。
待ち合わせ場所に指定されたカフェには、母ちゃんの車を出してもらった。ココナッツの芳香剤がまたルームミラーにぶら下がっていた。母ちゃんが目を離した隙に外してグローブボックスに押し込んだ。
「会ってほしい人がいるんだ」
俺はそう切り出した。母ちゃんは何故か待ってましたとばかりにハンドルを叩いた。
「結婚すんの?」
「いや、違う」首を振ると、母ちゃんはあからさまに落胆した表情を見せた。「会って欲しい人は男だよ。この前動画見せただろ? その配信者。あの人に連絡取って今日会う約束をしたの。それで、母ちゃんにはひよりちゃんを演じてもらいたいわけ」
「え? ちょっと待ってよ。二人でランチって約束だったじゃない? どういうこと?」
「用を済ませたら、ランチでもなんでも奢ってやるから。その前に頼みを聞いてくれよ」
「なにそれ、なにそれ。嫌なんですけど。この前の動画の人って、あの人でしょ? 教祖に繋がりのあるさ。え? 絶対嫌なんですけど」
こんなにも母ちゃんが非協力的な態度を取るとは思っていなかった。騙したことに怒り、ちょっと反抗されるくらいは想定していたけども、車を路肩に停めてエンジンを停止するくらいに駄々をこねられるとは思っていなかった。「そういうことなら、私行かないよ」って宣言される。
なんでここまで拒否反応を示すのか、俺には分からなかった。だって知らない男と、他人のふりをしてちょっと話すだけじゃないか。しかも母ちゃんは元々社交性のあるタイプだ。人見知りするから他人とは関わりたくないってタイプじゃない。それなのに。なにか事情があるのか? 気にはなったが、待ち合わせの時間は迫っていた。母ちゃんに有無を言わせないために時間ギリギリに到着するスケジュールを切っていたのが仇になった。
「最近また腹が痛くなって、下痢が止まらないんだよ。子どもの頃と同じなんだ。もちろん病院にだって行ったよ。でもさ、そういうことじゃ俺の腹痛は治らないんだよ」
だから早々に切り札を使った。どこまで話すべきか分からなかったがとにかく急いでいた。まさかキーホルダーが腹痛のお守りになっていたことまで話す気はなかったが、それらしいことを言って母ちゃんをその気にさせるしかない。
「それがなんで動画配信者と会うことと繋がるのよ?」
母ちゃんは意外と冷静だった。息子の魂の叫びだけでは押し切れなかった。エンジンをかけて再び車を発車させる。
「とにかく腹が痛くて日常生活に支障が出てるんだよ。こんなんじゃ仕事中も不安だし、不安が更に腹を痛くさせるんだ。でも、今日母ちゃんが男に会ってくれたら、ちょっとは解決するような気がするんだよ。理由は言えないけどさ」
「なにそれ? あんた自分でわけの分からないこと言っているの自覚してる?」
「してるよ。でもさ、元を正せばこれって体質の問題だろ? つまり生まれつきの障害だってことになる。だろ? 別に誰のことも責めちゃいないよ。体質の問題で親を責めるなんて甘えたガキのやることだ。俺は俺として生まれたことを受け入れてる。そりゃたまに、もっと背が高かったらなとか思うけど、概ね満足だよ。でも考えちゃうんだよ。ジャンキーが次の一発のためになんでもしちゃうみたいな心境で、次のトイレを探している時にさ。ああ、こんな体質で生まれなきゃ良かったって。これって誰のせいなんだろうなって」
「それは反則じゃない?」
「いやだから責めてないよ。この腹痛はきっと、神様が暇潰しに俺へ下した当てずっぽうの天罰なんだろうなって思ってる。だけど悲しいのはさ、父親を知らずに育った俺が、慢性的な腹痛を抱えている俺が、恵まれない子どもだった俺が、厳しい世間をなんとかサヴァイヴしてるってのに、そのことを一番よく知ってる母親がこんな些細な頼みも聞いてくれないってことだよ」
これは効いた。母ちゃんは「な」とか言っちゃってその後絶句してた。黙ってたけど、運転が荒くなったことで内心穏やかではないことはバレバレだった。断っておくけど俺は普段、親の弱点を突くようなことはほとんどしない。母ちゃんの方から積極的に父ちゃんの話を蒸し返してきても相手にしない。親の離婚であんたに寂しい思いをさせてって泣き言を言ってきても鼻で笑ってやってる。そのリアクションこそが本心だからだ。今の俺がどんな形をしていたとしても、それは自分自身で人生を選択したからだ。親のせいじゃない。ってことはこの先もし俺がスーパースターになったとしても、それは親のおかげなんかではなく、単純に俺自身だけがすごいってことになるんだけどな。それに、俺は親の罪悪感を安売りしてしまうつもりはなかった。相手にしないということをしながら、鼻で笑いながら、値打ちをこいていたわけだ。これはいつかここぞっていう場面で使えるかもしれないなってほくそ笑みながら。それが今だ。
「本当に前みたいなお腹の痛さなの? もうずっと?」
「ああ、そうだよ。いっつも腹の調子が気になって、それで更に調子が悪くなるような感じ。どうしようもない。苦痛だよ」
「そっか。子どもの時と同じ感じなのね」ちょうどカーブに差し掛かっていた。動揺した荒い運転を予感し、俺はアシストグリップを握った。ところが母ちゃんの運転はそこですっと安定した。氷の上を滑るみたいに滑らかにカーブを曲がっていく。「嫌だけど、まあそれであんたのお腹の調子が治るっていうなら仕方がないかもね。近い内にこうなるような気がしていたし、あんたが本当に困ってるならこっちから提案してた可能性だってあるわけだし」
後半は独り言のように小声でボソボソと言っていた。妙な納得の仕方をしているなとは思った。早めにボケちまったのかってさ。でも、要はマコちゃんに会うことを了承したってことだろう。後のことはどうでもいい。
待ち合わせをしたカフェは、俺のアパートからも実家からもそう遠くない場所にあった。車で一時間もかからない。ってことは、前に母ちゃんが俺を迎えに来た駅よりも少し近いってことだ。マコちゃんと連絡を取り始めた時、一番最初に気になったのはそこだ。いくらマコちゃんが親しみのある笑顔と、微笑ましい登録者数を抱えている動画配信者とはいえ、住んでいる場所まで馴染みがあるとは思えない。ネットってさ、世界中に繋がってるんだぜ。まかり間違ってマコちゃんがブータンとかバングラディッシュとかに住んでいたとしても不思議じゃない。で、大体中間辺りの香港で会いましょう、なんて国際派の常識で言われたらどうする? お漏らしを防ぐために海を渡れってか? 税関でなんて説明する? 腹痛改善のためって言うのか? ラリった運び屋だってもう少しマシなことを言うぞ。そんな風に密かに心配していたものだから、マコちゃんが待ち合わせ場所に隣県のカフェを指定してきた時、内心かなりほっとしたもんだよ。でもさ、こちらが住んでいる場所を尋ねる前に指定してきたことにはひよりちゃんはがっかりしたね。だからモテないんだよって最後通告したくなった。もしひよりちゃんがかなり遠くに住んでたらどうする? ま、ひよりちゃんとしてもこんな男には自分が住んでいる街を教えたくはないだろうから責め立てるのはやめておいてやったけど。
そのカフェは駅前の商店街の端の方にあった。ビルの一階が店舗で、その上は贅沢なマンションになっているようだった。指で数えると十二階建てだった。
大きなガラス窓がいくつか通りに面していて、その間はレンガで埋められている。窓の外にはテラス席があり、生意気そうな小型犬を連れた夫婦が優雅にマグカップを揺らしている。駐車場は隣接されていなかった。近くのコインパーキングに車を停め、母ちゃんに先頭を譲る形で店内に入った。入店する直前にレディーファーストの陣形に変えたのは、既にマコちゃんが待ち構えていた場合のリスクを考えてのことだった。ひよりちゃんが男連れで入店するなんてどう考えてもおかしいもんな。どんなに頭の回転が鈍くてもハニートラップの予感が頭を過るはずだ。
店構えからする想像以上に、店内は奥に広かった。ステージでも設置すればライブハウスになりそうな広さがあった。入口から見て右端にカウンターとレジ、正面と左側にはいくつもの客席が並んでいた。全てが赤いレンガと黒いパイプと木製の板で構成されたようなレイアウトだった。入口で立ち止まり、店内の席を見渡した。マコちゃんはまだ来ていないようだった。あいつは目印にくまのぬいぐるみをテーブルに置いて待つ、なんてロマンチックなことをぬかしていた。センスのなさに呆れたよ。なんて奴だって思った。だけど、テーブルにぬいぐるみを乗せた間抜けは今のところ見当たらない。この上遅刻までするんだから、きっとマコちゃんは一生手に入らないものを追いかける狩人のままなんだろうなって思った。死ぬまで獲物を手にすることはできない。安心して母ちゃんの横に並ぶ。俺は鞄からひよこのぬいぐるみを出して、母ちゃんに渡した。
「なにこれ?」
「目印」
「ダサ」と吐き捨てるように言って母ちゃんはぬいぐるみを懐に抱えた。「まだ来てないの?」
「遅刻だな。じゃあ、適当にテーブル席に座っててくれ。そのぬいぐるみをテーブルに置くのを忘れないで。いいか? 母ちゃんは今から二十二才のひよりちゃんだ。で、相手の男はマコちゃん。マコちゃんはあの教祖の現在を知っているから、なんとかして聞き出してくれ。でも聞き出せなくても、マコちゃんに気に入られれば教祖に繋いでくれるって話だから無理はすんなよ。俺もそこのカウンター席に座って監視してるからさ、なにかあったらこっちに合図を送ってくれ。すぐに助けに行くから。まあ、でも危険はないよ。間抜けな男が相手なんだ。同じ中年でも母ちゃんの方がよっぽどやり手だからさ」
「間抜けねえ」
呆れたような、がっかりしたような顔で母ちゃんは言った。なんて言ってほしかったんだ。マコちゃんを形容する言葉はこの世にその一言しか存在しないんだぞ。俺は家族を戦場に送り出すような気持ちで母ちゃんの背中を押した。母ちゃんは何度かこちらを振り返りながら、店の中央辺りの席についた。俺はカウンター席に座った。カメラのアプリを起動させたスマホをナプキンホルダーに立てかけて、振り向かなくても背後の席を観察できる体勢を整えた。会話の内容は聞こえないだろうが表情なら確認できる。母ちゃんが苦虫を噛み潰したような顔をしているのが分かる。しかし年取ったな、母ちゃんも。千二百万画素の前面カメラが皺の一つ一つを映し出していた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
明らかに注文を聞きに来た店員の声だった。だけど俺は最新のスマホを使って母ちゃんの顔を盗撮するっていう、かなり倒錯した趣味に走っていたもんだから一瞬誰が誰に話しているのか分からなくなった。店員の声を、マコちゃんの動画の中で聞いた声だと勘違いした。つまり、マコちゃんが現れたって思ったってことだ。スマホを確かめ、もどかしくなって直接振り返る。母ちゃんの席には他に誰もいない。
「あの」と、もう一度同じ声が聞こえて初めて、カウンターの向こう側に男が立っているのを理解した。少し顔を上げると染み一つない白いシャツと黒いエプロンが見えた。
「ホットレモンティー」
メニューを確認することなく言った。大して飲みたくなかったけれど、最近じゃいつもホットレモンティーを注文することにしていた。本当はアイスカフェラテが飲みたかった。でも今は牛乳もコーヒーも、そして冷たい飲み物も遠慮していた。どれも俺の腹にはキャロライナ・リーパー並みの刺激物になるからな。
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
店員が去っていくのが気配で分かった。店員の声に驚いてマコちゃんと間違えるなんて。俺は知らない間にかなり緊張しているようだった。それか、一刻も早く教祖に会いたくてワクワクしているのか。どちらでもいいが、そういった種類の心の揺れがもたらす結果は分かっていた。腹がゴロゴロと疼き出した。まだ我慢出来る程度の痛みだが、数分後にはどうなっているか分からない。もしかしたら数秒後には土砂崩れが起きてダムを決壊させようとするかも知れない。俺はスマホから目を離した。首を振ってトイレの場所を確認する。入口とは反対側のカウンターの先にトイレのサインを見つけた。大慌てでトイレに向かった場合、導線上の非常に邪魔な位置に、タブレットでなにかを読み耽る男の席があった。いざとなったらテーブルごとなぎ倒してトイレに向かおうって誓う。その時の俺はブルドーザー。誰にも止められない。
すぐにスマホへ視線を戻した。
「お待たせいたしました」頭上で声がして、スマホを見つめる視界の端に飲み物が置かれた。俺は運ばれてきたグラスをなんとなく邪魔だと思った。指で手繰り寄せて大きく一口含み、飲み物を少し離れた場所に置いた。喉を鳴らしながら、口に入った液体を体内に流し込む。ああ、このアイスカフェラテ美味いな。口の中のものを飲み干して一息ついてから初めて違和感を覚えた。あまりに堂々と店員が運んでくるもんだから疑いもしなかった。こりゃ俺にとっては劇薬だ。グラスを確認する。ホットじゃなくてアイスだし、茶色と白が混ざった色の液体だし、湯気を立てるカップじゃなくて、水滴のついたグラスだ。大馬鹿野郎。よりにもよって、俺の本当のニーズに沿った間違いをしやがって。怒りが湧いた。俺が感じたのは確かに怒りの感情だった。でも腹の中の悪魔たちは喜びの感情を抱いていた。酔っ払ったみたいに腹の中を縦横無尽に暴れ出して喜びを表現しているようだった。尻の割れ目にじっとりとした汗をかき始めたのが分かった。ぬるぬるとして落ち着かない。まだ漏らしてないのに、もう漏らしたみたいな感触だった。
スマホを見る。母ちゃんが一人でひよこのぬいぐるみを弄んでいる。まだマコちゃんは現れていないようだ。入口を確認する。誰かが新しく入店してくる気配はない。トイレに目をやると、ちょうど男が出てくる姿を確認出来た。気取った紫のハンカチで手を拭いている。この店のトイレにいくつ個室があるかは分からないが、俺の危機管理センサーによると、決して多くはないだろうということが分かった。店の大きさ的に二つあれば良い方だろう。もしかしたら、この奇跡のような凪の時間を活用して、トイレで用を済ませておいた方が良いかもしれないな。そんな甘いことを考えると、もう駄目だった。へその下辺りにあったはずの痛点が、すっと移動し肛門を刺激した。いや、肛門を通り過ぎて太ももの裏を刺激していた。こうなると、我慢のしようがない。
立ち上がってトイレに向かおうとしたところで、目の前に例の店員が立っていることに気付いた。呑気にグラスを拭いたりしている。もう限界って感じだったけど、もう限界だからこそ俺は余計なことをしようとしていた。気付くと「おい」と言って、注文を間違えたことにキツいクレームを入れようと思った。今じゃなくても良いことは痛いほど分かっていた。でも、暴れる腸が痛みのはけ口を探していた。正解は間違いなく便器なんだけど、その痛み自体が身近な不正解に反応することはよくあった。今回の場合は店員に対するクレームだった。「はい?」と、素頓狂な顔をして店員が顔を上げる。
教祖だった。
一瞬時間が止まったかのように感じた。いや、止まったのは俺の呼吸と腹痛だけだ。時間はなにがあっても止まりやしない。反射的に胸に掛けられた名札を見た。「AMASAWA」とある。あまさわ。天沢。そうだ、こいつの名前は天沢だ。天沢はカフェのエプロンをしてそこでグラスを拭いていた。ベストを羽織って蝶ネクタイをした執事の格好はコスプレではなかった。このカフェの制服だったんだ。動画で見るよりも若く見えた。かと言って、昔の美貌を感じるわけではない。今ではちょっと彫りの深いただのおじさんだ。「なんですか?」声をかけておいて、それからたっぷりと無反応で過ごすっていう新手の脅しを仕掛けられたとでも思ったのか、天沢は不安そうに口走った。
俺だって狼狽えた。まさかこれほど近くにこの男がいるなんて思わなかったからな。絶対に探し出してやるって気負ってたけど、それにしたってマコちゃんを締め上げるのが先だって分かってたし、まさかこんな風に出会えるとは思ってなかった。で、それ以上言葉が出なかった。そして腹痛が復活の狼煙を上げて、軟便が猛スピードで肛門に迫ってくるのを感じた。
「お前、ちょっと待ってろ。そこ動くなよ」
俺はトイレに向かって小走りになりながら、やっとの思いで言葉を吐いた。指だってさした。指先から放ったビームで、天沢をその場所に釘付けできるってこの時は信じていた。トイレの扉を開けた。思った通り、トイレの中は狭かった。タブレットに夢中のあいつを途中でなぎ倒すのは忘れた。極限状態では衝突よりも回避を選択するものだって学んだ。個室は一つしかなかった。ズボンと下着を同時に下ろしたのは、まだ個室の扉を開ける前だった。今トイレの扉が開けば、位置的にはマフィンを頬張る綺麗な女性の席から俺の尻が丸見えだっただろうが、そんなことは気にしてられなかった。こっちは外資系のビジネスマン並みに一秒だって無駄には出来ない身なんでね。祈るような気持ちで個室の扉に手をかける。開いた。中には誰もいない。トイレットペーパーが散乱し、マナーの悪いド阿呆が小便を便座と床に撒き散らしているような底辺レベルの個室だったけど望むところだ。俺は一瞬だって迷わなかったね。どんな雑菌が付着しているかも分からない便座へ大胆に腰を下ろした。便座に太ももが触れる前に、俺のツァーリ・ボンバはノバヤ・ゼムリャ島へと着弾していた。ももの裏がしっかり便座にタッチダウンした頃には、もうお釣りが返ってきているような早業だった。助かった。まだ祈っていた。もう安全地帯にいるにも関わらず、祈ることをやめられなかった。いまだに人類が宗教戦争をやめられない理由が分かった気がした。トイレの個室にこそ神は宿っているんだ。
「お客様」扉のむこう側から声を掛けられた。天沢の声だった。たとえそれがどんな内容であろうと、用を足している人間に外から声をかけるなんてマナー違反だ。すっこんでろって怒鳴りつけたくなった。でもやめた。出来なかった。人体の不思議。第二波がやってきたからだ。便器に自分の大便を産み落とす時、これで全て出しきった。やりきったって感じる。それなのに一度引いた波が、それ以上の強さと大きさでもって再度押し寄せるなんて一体どうなってるんだ。第二の波はどこからやってくる? 第三、第四の波はどこに隠れてた? これは確実に生命の神秘だ。誰にも解明できやしない。「アレルギーがございましたか?」
天沢は心配しているようだった。こんこん、と控えめにノックをし、プライバシーに配慮した小声で尋ねてくる。俺の方はというと、便意に肛門をアックスボンバーでもされているような具合でノックされていた。体内に大量の蝉を忍ばせているかのようにやかましい音が下腹部の辺りで鳴っている。便意に比べれば、天沢のなんと優しいことよ。腹を刺激するだけ刺激して、中々外の世界に飛び出してこない第二波に手こずりながら俺は冷静さを取り戻そうとしていた。
「いや、アレルギーじゃない。いいからカウンターでちょっと待っててくれ。話がある」
「私にですか? 一体どんな?」
「お前、天沢だろ?」
「ええ」少し間がある。きっと胸につけた名札を見ているのだろう。「そうです。ネームプレートをつけるのは、オーナーの方針でして。若い子は個人的なクレームに繋がるからって嫌がる子もいるんです。でも私はこの通り、おっさんですから」
自嘲気味の乾いた笑いが聞こえた。落ち着かなかった。第二波に怯えながらする話じゃない。せめてカウンターで対面しながら話したかった。だけど今更詳細は脱糞し終えたら話すから、なんて寝ぼけたことは言えない。賽は投げられた。今更芋引くわけにはいかない。
「違う。俺が言いたいのはそういうことじゃない。お前教祖だろ?」
「なんですか、それ?」
ひどく動揺した声と、そこら辺に立てかけてあるモップを倒したような音が響いた。続けて天沢が後ずさりをする靴の音、そして乱暴に扉が開閉する音、それとほぼ同時に、俺の肛門から地球をえぐるミサイルみたいな第二波が発射された音も聞こえた。何故逃げる。予想外の行動だった。正体を見破られてそんなに動揺するなら、なんで動画なんかに出演した。疑問はあったがここで逃走を許すわけにはいかない。俺は自分でも信じられないくらい甘く尻を拭いてからズボンを上げた。転げるようにトイレから出ると、物音で振り返った母ちゃんと目が合った。心配ない、というつもりで俺は一度頷いた。後はもう天沢の行方を追うために店内へ視線を走らせていた。いない。と思ったが、数名の客が同じ場所を心配そうに眺めていることに気付いた。視線を追う。テラス席の向こうの通りを走る人影が目に入った。一体どこに行こうっていうんだ。俺はズボンのボタンを留めながら店を出た。遠ざかっていく天沢の背中が見える。
第三波の脈動を感じていた。普段なら今すぐトイレに駆け込むほど強烈なやつだった。この時だって一瞬迷ったさ。遠ざかりつつある天沢を追うっていう修羅の道を選ぶか、それともトイレっていう天国に戻るか。だけど俺は戦士だ。トイレに背を向ける愛の戦士。気付くと上半身を丸め、腰を後ろに突き出した聖なる行進の姿勢で駆け出していた。あまり速度は出ない。当たり前だ。重力と運動の法則が与える人体への影響を最大限おさえた移動の仕方なんだから。それでも少しずつ天沢との距離は縮まった。あいつは動きばっかり大げさだったけれど、前進する力が極端に弱かった。つまり足が遅かった。もどかしかった。全力で走ることが出来るなら、すぐに捕まえられるのに。周囲には買い物帰りと見られる歩行者が何人もいた。良い見世物だっただろうよ。バタフライでもしているように地上を走る中年が、情けない格好でよちよちと二足歩行をする男に追いかけられているんだから。しかも、追いつかれようとしているんだぜ。俺が街でそんな滑稽なブルース・ブラザーズを見たら笑うね。
数十メートルかけて、ようやく天沢の背中が手に届きそうな範囲まで近づいた。その頃にはもう、下半身の後ろ側に感じているのが単純な汗なのか、それとも既に漏らしてしまっているのか分からなかった。でも次の瞬間に理解した。俺は漏らしてなんかいないって。
青天の霹靂だった。突然稲妻が走ったみたいな、急転直下の痛みだった。それは喉から肛門をジグザグに繋ぐ刺激だった。最早我慢とか根性の問題ではなかった。体の反応として、俺はその場で第三波を全て漏らした。足を止めるつもりなんてなかった。なんてったって、あと少しで天沢の肩に手をかけられそうなくらい近づけていたんだからな。でもその瞬間俺は立ち止まったんだ。動きながら排便するってのは、きっと神が作り給うた人体の機能としておかしな動きなんだろう。突然立ち止まり、そしてうずくまる時間さえ与えられずに漏らした。ずどんって感じだった。正に雷だ。重力に逆らって、飛び上がるかと思った。もしかしたら古代人もこんな経験をして、空への憧れを募らせたのかも知れないって思ったよ。やってしまってから、ゆっくりと地面に腰をおろし膝を抱えた。これが第三波なんだから、走りながら尻に感じていたのは汗だったんだって確信した。お漏らしは苦痛を伴う。改めて感じた。勝手に漏れてるなんて生易しいものじゃない。ま、今考えることではないけれど、そんなことを考えてしまうほど混乱していた。その最中でも、汚れた尻を隠そうと地面にしゃがみ込んだんだから、大した防衛本能だよな。こんな人混みの中、漏らしたことを他人に悟られるわけにはいかない。これはテロじゃないんだからな。街をパニックにおとしいれたいわけじゃない。ただの個人的な過失にすぎないんだから。
顔を上げると、天沢の背中はゆっくりとだが確実に遠ざかっていった。俺はその様子を眺めるしかなかった。尻を地面に擦り付けて、じりじりと道の端に移動しながらな。別に地面にうんこの筋でお絵かきしたかったわけじゃない。社会通念上、通りの真ん中でしゃがみ込んでいるわけにはいかなかったし、なによりそんなことをしていれば目立ってしまう。結果的には、都市化された商店街の道に、ミニサイズのナスカの地上絵みたいなものを描いてしまうことになったから余計に目立ったけど、それは本意ではなかった。
するとその時、天沢が背後を振り返った。俺がしっかりとその背中を追っていた時も、奴は何度かこちらを振り返った。その度に恐怖におののいたような表情を見せ、そして走る速度を上げようとした。残念ながら天沢の運動神経はその要望には答えられないようだった。一層激しく、そして無様に手足を動かしてはいたが肝心の速度は上がっていなかった。一度なんて、鳥が羽ばたくみたいな格好になってたんだぜ。あれじゃあ、少なくとも地上を速く走る効果は薄い。でもこの時は違った。そりゃそうだ。自分を追いかけていた奴が遥か後方でうずくまっていることに気付いたんだから。俺はそこで、天沢の表情を見るのをやめようかと思った。だって、こんな体勢であいつの勝ち誇った顔を見たくはなかったから。天沢は俺を見つけて、走る速度を緩めるとやがて立ち止まった。遠くから見ても分かるほど、大きく肩で息をしていた。足がもつれたのか、その場でふらついたりして。虫の息って感じだった。俺の方は虫の死体って感じだったけど。
それで、驚いたことに天沢はふらふらとこちらに近づいてきた。心配そうな顔してさ。もしこれが北風と太陽みたいな計画だとしたら嬉しかったけど、この時はそんなにハッピーじゃなかった。なにせ糞を漏らしてたもんで。誰にも近寄られたくはなかった。それだけじゃない。なんだか気持ちが悪かった。さっきまで全力で逃げていたのに、なんで近づいてくる? おかしいだろ。今度は俺の方が逃げたくなった。で、逃走経路を確保しようと周囲を確認した。通行人が何人か遠巻きに俺のことを見ていた。皆、道端でうずくまる俺のことを心配したような表情をしていた。それで分かった。俺はよっぽど哀れなルックスだったんだろうよ。世界中の誰もが同情するような可哀想な男。それなら、さっきまで逃げていた人間が心配になって様子を見に来るのも頷ける。
「大丈夫ですか?」
ふらついたり立ち止まったりしながら、息も絶え絶えに天沢が俺の傍らに立った。大丈夫に見えるか? 最悪だよ。最悪の状態だ。道端で糞を漏らしたって事実だけで最悪なのに、いまだ腹の中で第四波が疼いてるんだからもう泣けてくるってもんだ。しかもどうせ最寄りのトイレは遠いんだろ? こんな時に限ってな。あ、もう漏らしてんだからトイレなんて関係ないか。やかましいわ。
「大丈夫じゃねえよ、なんで逃げるんだよ」
取り敢えずその訳が知りたかった。じゃなきゃ俺の汚れたズボンが、そしてパンツが浮かばれない。
「いや、それは」と口籠る。
「いいから言えよ。こっちの状況が分かってるのか? 俺にもう失うものはないんだよ。今人間の尊厳の全てを失ったからな。いいから言え」
思わず大声を出してしまった。俺のことを憐れんでいた通行人達が一歩後ずさりをして、やがてその場を離れた。
「あんたもあの動画を見たんだろ? 軽い気持ちだったんだ。十年以上経ってるし、珍しい事件でもない。言っちゃ悪いが、どこにでもある小さな事件だよ。誰も知らないと思った。それにあの人も、大したチャンネルじゃないって自分で言ってたんだ。視聴者はほとんど知り合いで、飲み屋で話すのと変わらないって」
「なんのことを言ってる?」
「だからさ、あんたもあの動画を見て正義感に駆られたんだろ? それで俺のことを調べて懲らしめに来た。そうなんだろ? 別に俺は犯罪自慢をするつもりはない。罪は償ったつもりだし、過去のことだって思ってる。でも酒に酔った勢いで、思い出話をすることくらいあるだろ? 仲間内で楽しむような話題さ。そんな軽い気持ちで飲み屋でたまたま会ったあの人に話してしまって、それで興味を持たれた。自分が配信してる動画に出てくれって言われてさ。誰も見てない小さなチャンネルだから心配いらないって。ちゃんと断ったよ。でもしつこくて、それで一回だけ出演した。特別バズったわけじゃない。視聴回数も普段通りって聞かされた。自分でも気になって調べたよ。まあ、寂しい数字だった。少しの間は安心してた。でも、配信から数週間経った頃から店に変な連中が現れるようになった。どうやら犯罪歴のある人間が、のうのうと生きているのが許せないっていう人種がいるみたいなんだ。本人には全く関係ないのに。どうやって調べたのか俺には分からないけど、わざわざ職場までやってきて嫌がらせをするんだ。にやにやしながら俺のことをスマホで撮影したり、店の子に俺の犯罪歴について話したり。確かに実害はなかったよ。オーナーは俺の過去を知ってるしな。店のスタッフだって今の俺を信じてくれた。でも気味が悪かった。で、今日あんたに話しかけられた時、遂に実力行使で直接的に暴力を振るおうって奴が現れたと思った。だから逃げた。これでいいか?」
「俺が? 暴力? ふざけんな。そんなつもりなかった」
「本当にそうか? あんた鬼気迫る雰囲気があったぞ」
「糞が漏れそうだったからだよ。ちなみに」今だってそうだ、って言おうとしたところで第四波が肛門から流れ出た。もう我慢する気も起きなかった。泡みたいだった。第一波は固形。第二波は水を含んで、第三波はほぼ水。そして第四波は泡だ。胃と腸が協力してありもしない幻想みたいな排泄物をしぼり出した結果、泡みたいな下痢が出ることになる。俺のうんこは正当な進化論の記録を現実に刻み込んでいた。ズボンとパンツの防御力では耐えきれなくなったようで、地面にマグマみたいな下痢が溢れてきた。偶然近くを歩いていた働き蟻が、その溶岩流に飲み込まれたのが見えた。天沢は一瞬鼻を摘んで眉間に皺を寄せた。ただその行動が社会的弱者に対してあまりにも失礼だと感じたのか、指を離して「近くに家がある。そこまで歩こう」と鼻声で言った。俺は自分自身に遠慮なんてしなかった。思いっきり鼻を摘みながら「頼む」って答えた。
■十二
天沢にシャワーを借りた。非常にありがたかった。でもあいつが逃げたせいでこうなったんだから、借りを返してもらっただけとも言えた。天沢に対してどんな感情を抱けばいいのか分からなかった。心は宙ぶらりんのまま、俺は必死に体を洗った。人んちだからって、漏らした後の処理を大胆に行うことはなかった。こんな時こそ慎重に繊細に行動する必要がある。どんな人間にも敬意を払うことが重要だ。下半身の大半には油みたいになった便失禁の汚れが付着していた。まずは手の平で汚れをしっかり落としてから、今度はボディーソープをつけて洗った。いきなりボディタオルを使って、無神経に直接うんこを付着させたりはしない。石鹸の香りが便本来の悪質な臭いと混ざり、吐き気がするような悪臭が風呂場に充満する。窓を全開にして換気扇も回す。これは自分のためではない。風呂場を貸してくれた天沢への礼儀だ。人んちの風呂場に悪臭は残さない。当たり前のことだろう。下半身の汚れが取れたら、今度はボディタオルを使用して本格的に体を洗った。もちろん上半身も。そして髪の毛も。直接的には汚れていないかも知れないが、なにかの拍子に明後日の場所へと付着しているのがうんこってもんだ。油断はできない。仕上げに、冷水を頭から浴びた。人間の尊厳をかけたギリギリの戦いが続いてオーバーヒートした思考をクールダウンさせたかった。
天沢のマンションは、カフェが入っている建物の最上階にあった。天沢に連れられて部屋に向かった時、彼が堂々と店の方角に戻るもんだから何事かと思った。もしや、既に痛々しいほど汚れている俺の下半身後方を、店まで戻ってさらしものにでもする気か、と警戒した。だけど、天沢はカフェの入口の手前にあるマンションのエントランスに俺を連れ込んだ。それで気付いた。ここに住んでるのか? って。結構良いマンションだった。見るからに築浅だし、駅チカの一等地にある。もしかしたらカフェ店員の他になにかをやって、悪どく稼いでいるのかも知れない。一瞬気を引き締めたが、まあそれも一瞬のことだった。ズボンの裾からは、恥の自動追尾システムみたいなうんこがグラウンド・ゼロから筋を作っていたし、なにより俺はシャワーを借りたかった。もし貸してくれるなら多少の悪なら目をつぶろうと思えた。
さっぱりした気持ちで風呂場から出ると、脱衣所にタオルと着替えが用意されていた。タオルは太陽の匂いがした。アディダスのオールドスクールなジャージは若干オーバーサイズ気味だったけれど、今の気分にはぴったりだった。汚れからは解放された。体にぴったりフィットするようなものは着たくなかった。そこでふと思った。汚れた俺の服はどうなったんだろうって。出来ることなら、捨てて欲しかった。そうじゃなくても、ゴミ袋に入れて部屋の外かベランダ辺りに出しておいて欲しかった。俺はどうせ、漏らした時に着ていた服は二度と着ないってルールを自分に課しているから手間は取らせたくない。それに、自分が汚したものを、他人にどうにかしてもらうなんて居心地が悪かった。
脱衣所から長い廊下に出る。入る時にも思ったが、最上階には天沢のこの部屋しかなかった。エレベーターの中ではキーをかざしてボタンを操作していたし、この階に玄関は一つしかなかった。長方形の形をした建物だったから、恐らくカフェと同じくらいの面積があるのだろう。右側を見ると薄暗い中に玄関が見えた。俺が廊下に塗りたくってしまったであろう、玄関から風呂場までの汚れは既に綺麗に拭き取られている。左側の突き当りにはドアはなく、そのむこう側にリビングらしき広い空間が広がっていた。俺はリビングに向かった。遂に落ち着いた状態で天沢と対峙出来る。腹痛との戦いは厳しいものだった。分の悪い戦場に駆り出され、そして時には敗北した。でもこれでそんな生活とはおさらばだ。心が踊った。自然と口の中に唾が広がり、俺はそれをゆっくりと飲んだ。
リビングは広かった。天井は高く、ベランダ沿いに展開される窓は大きかった。風通しの良い空間にリビングとダイニングとキッチンが同居していた。天沢の姿はなかった。その代わり、細いジーンズと白いシャツを着た女性の姿が見えた。こっちを向いてアイランドキッチンの流しでなにかを洗っている。視線は手元に落ちていて、俺のことには気付いていなかった。
「あの、天沢は?」声を掛けると、女が顔を上げた。垂れた髪の毛を耳にかけ、こちらに笑いかける。
「彼は一旦店に戻ったの。急に店を飛び出したみたいだし、ちょっと外すにしても引き継ぎしたいからって。でもすぐに戻って来るはずだよ。きみのこと心配してたし」
「はあ、そうですか」
「取り敢えずこれでも飲んで落ち着いて」
女はカップに入れたコーヒーを目の前のローテブルに運んだ。向かい合うソファーに座れってことだろう。カフェインを摂取する気はないが、俺はそれに従った。
「大丈夫? 哲也くん」
突然名前を呼ばれてぎょっとした。顔を上げると女のいたずらっぽい笑顔があった。
「なんで俺の名前知ってるんすか?」
「だってきみ、子どもの頃と雰囲気があんまり変わってないもの。すぐに分かっちゃった。私のことは分からない?」
女の顔をまじまじと観察する。涼し気な目元に記憶がくすぐられた。だけど思い出すことは出来ない。ここで我が物顔をしているってことは、天沢のパートナーなのか? それにしちゃ若いぞ。年齢は俺より少し上ってところだろうか。でも天沢みたいなじじいとは釣り合っていない。あ、でも天沢にはロリコンの過去があるからな。簡単に恋愛対象を絞り込むことはできない。
「いやあ、そうですね、ちょっと」
「そっか、覚えてないよね」
女は少し寂しそうに俯いた。儚げな美人は好きだ。罪悪感が疼いた。同時に性欲も。
「もう少しで思い出せそうなんですけど、なにかヒントもらえませんかね?」
「もういいって。覚えてないのが当たり前だし。きみは小さすぎたから。同級生の佐藤桜覚えてる? 私は姉の玲奈だよ。子どもの頃によく遊んだじゃない」
「ああ」と分かった風な顔をしながら、頭をフル回転させてまずは佐藤桜のことを思い出していた。名前に覚えはあった。姿形もなんとなく記憶にある。確か小学生の、しかも低学年までは仲が良かったけどそれ以降は遊ばなくなった。それで、あいつは多分中学受験をしたはずだ。それ以降見かけることはなくなったし、当然今も親交はない。そうだ。桜には姉ちゃんがいて、抜群に頭が良かった。ちょっと地味だったけど優しくしてくれて綺麗だった。玲奈姉ちゃん。思い出した。最後に会ったのはいつだっただろうか。
「久しぶりだねえ。いつぶりだろ?」玲奈姉ちゃんも同じことを考えていたらしく首を傾げた。「あ、もしかしたら私が高校生の頃、彼のところで会ったのが最後かな?」
彼のところ。玲奈姉ちゃんは高校生だった。事実を羅列すると記憶が刺激され、突然頭の中にある映像が蘇った。俺は天沢と玲奈姉ちゃんが一緒にいるところを見たことがある。そうだ。あれは天沢の宗教施設を一人で尋ねた時のことだ。俺はコスモ星丸のキーホルダーに天沢の力を入れてもらおうとして。それで、渋っていた天沢を玲奈姉ちゃんが説得してくれたんだ。いや、ちょっと待て。あの頃は子どもだったからなんとも思っていなかったけれど、あの時の二人はどう考えても事後って感じの雰囲気だった。人払いをして、畳の部屋に布団を敷いて。それで俺が訪ねた時、天沢は上半身が裸だったし、姉ちゃんは慌てて制服を着たような感じだった。毒牙にかかっていたのか姉ちゃんよ。あんたも被害者の一人だったのか。だとしたら、今も一緒にいる理由はなんだ。ストックホルム症候群の症状が重いやつかなにかか?
「玲奈姉ちゃんがなんでここにいるの? こんなこと聞いちゃいけないかも知れないけど、その、姉ちゃんだって天沢の被害者の一人なんだろ?」
俺はマジでデリカシーのないことを尋ねた。自覚はしていたが、それでも好奇心には勝てなかった。それに、もしも今もまだ姉ちゃんが洗脳みたいなことをされているなら放ってはおけない。
「え、ああそのこと? 別に私は被害者じゃないよ」
「だって、あの時姉ちゃんは天沢にやられてたんだろ? 子どもの頃はなにも気付けなかったけど今なら分かるよ。あんた性被害者だろ」
「だから違うって。確かに彼は宗教みたいな仕組みを利用して女の子に手を出してたけど、それは私と付き合う前のことだから。私と出会ってからはそんなことなかったの」
「嘘だ。天沢は逮捕されたじゃないか。姉ちゃんきっと騙されてるんだよ」
「捕まったのはね、私のせいなの」
姉ちゃんの瞳が突然揺れた。表面張力みたいになんとか俺と視線は交差していたけど、それもやがて床に落ちた。悲し気な女は好きだぜ。言葉の意味はまるで分からなかったけどな。
「なんで姉ちゃんのせいになるのさ。悪いのはあいつだろ。ただのロリコンだよ」
「そうね。そう思われても仕方がないことを彼はした。女の子を騙して関係を迫ったことにかわりはないんだし。私も初めて彼に声を掛けられた時はかなり警戒したし。ほら、私もまだ高校生だったしね。しかも真面目な高校生。哲也くんだって覚えてるでしょ? 当時の私のこと」
「まあね。確かに優等生って感じだった。だから驚いたんだよ。なんで姉ちゃんが天沢と一緒にいるのか分からなくて。もしかしたら、他の人達と同じで、天沢の信者じゃないかって思ったんだよ、確か。だって接点なさそうじゃないか。天沢にしたって、姉ちゃんみたいなタイプより、もっと簡単に騙せる女の方が楽だろうし。今はあんなだけど、当時のあいつは子どもながらに見惚れちまうほど格好良かったから、それだけでついて行っちゃうような軽い女を相手にした方が簡単だろう。大体どこで出会ったんだよ?」
「地元だよ。彼の方から声をかけてきた。確かに今はあんなだけど、当時は漫画の中の王子様に声を掛けられたみたいな気分だった」
「なんだよ、真面目な学生も結局は顔かよ」
「違うの。いや、そうだったのかも知れないけど、それだけじゃないの。彼には私の他に何人も女がいるのは知ってた。格好良いし、そんなものなのかなって思ってた。今考えれば、きっと女の子を上手く利用してただけなんだろうけど。私も本気じゃなかったし。負け惜しみなんかじゃなくてね。恋っていうよりも、興味だったの。私の周りには天沢みたいな人いなかったし。彼、どんなにたくさんの女の人に囲まれててもどこか寂しそうだった。まるで誰も本当の自分のことは見てくれないって拗ねてるみたいだった。だから気になったの。当時の私もそうだったから。自分で言うのもなんだけど、勉強は出来たと思う。真面目だったし。だけどそうじゃない自分のことも自覚していた。もっとどろどろとした、黒い感情を持て余す普通の子どもだったのに、誰もそんな私を見ようとはしなかった。自分でも隠していたし当然なんだけどさ」
つまんねえ話だった。繊細を気取った図太い人間二人の与太話だ。あくびが出そうだった。子どもの頃に憧れた玲奈姉ちゃんも結局はここまでの人間だったかってがっかりもした。誰も本当の自分を見てくれないだってよ。一旦立ち止まって、その本当の自分とやらをどこで見つけたのかを考えてみるといいぜ。結局はそう思ってもらいたい理想の自分なんだろ? 本当の自分なんてどこにもいやしない。誰かがこうだって思うあんたが無数にいるだけなんだから。それでも姉ちゃんはまだ許せる。当時多感な高校生だったんだから血迷うことだってそりゃあるだろう。でも天沢はその時いくつだったんだ? 多分二十代後半とか三十代前半とかだろ。おいおい、じじいの領域に片足突っ込んだ奴が本当の自分とか言っていたのか? いや、ちょっと待てよ。そうやって繊細な自分を自ら演出していたからモテたのか? だとしたら俺だって今からそれやるぞ。
「それでね」
玲奈姉ちゃんは思い出話に夢中だった。俺はその話の中に当時天沢が女にモテた理由の内、ルックスに依存しない部分を抽出することに夢中だった。玲奈姉ちゃんはのぼせ上がっていた。要はこういうことだった。
お互いに寂しさを抱えた男女が、特別に惹かれ合い恋に落ちる。女は男の悪事を止めようと説得する。男も反省し同意する。ところが女はまだ未成年だった。かなり年上の男と付き合っていることを女の親が知ることになる。しかも相手の男は近所であまり評判の良くない男だった。女の親は娘のことを心配するあまり、警察に通報をする。玲奈姉ちゃんが天沢の逮捕を自分のせいだって言い張る理由はこの部分なんだろうな。男は逮捕される。間抜けなことに、男には情事を撮影して後で楽しむ性癖があった。しかも女と真剣に付き合った後もそのデータを処分していなかった。それはそれ、これはこれって感じだったんだろうな。その割り切り方、俺は好きだぜ天沢よ。で、その中には未成年の女子が何人かいた。それで実刑。女には夢があった。自分のカフェを持つことだ。塀の中の男とも手紙で約束をしたらしい。罪を償った後一緒に夢を叶えましょうって。自分の親が通報して捕まったことへの罪悪感だったんだろうな。幸い女は頭が良かった。大学で経営学を学び、色々なカフェでアルバイトをした。大学卒業後は、大手コーヒーショップの社員にもなった。そこで実践的なカフェの経営を学んだ。大胆にも一年で独立し、学生時代のアルバイトと正社員時代の給料を元手に自分だけの小さなカフェを開店させた。経営は上手くいった。ここら辺は流石姉ちゃんって感じだよな。今は別々のコンセプトで三店舗のカフェを経営するやり手ってわけだ。ちなみにマンションの下にある店舗は、一番新しい店らしい。どの段階で男が出所したのか言及はなかった。女が学生時代、既に出所していたのか、それともカフェを出店してから最近になって一緒になったのか。どちらにせよとんでもないことだ。性犯罪者と共に働く夢なんて、誰もが見れることじゃない。一瞬血迷ってそういうことを目標にしたとしても、時間が経てば目が覚める。なんて馬鹿なことを考えていたんだろうってさ。だけど女は違った。女性をたぶらかして乱暴するっていう世界で一番情けない行為を犯した男をずっと待っていた。まったく呆れるね。二人の間にどんな種類の結びつきがあるのかは、結局理解できなかった。いや、姉ちゃんは情感たっぷりって様子で話してたよ。やり過ぎてこっちが冷めたもの。トゥーマッチな演技には辟易した。つまり俺には理解できなかったってことだ。真面目な高校生と、イケメン詐欺師にどんな共通点があるってんだ。お互い似たような寂しさを抱えて生きていた? 笑わせるぜ。誰だって大体同じような寂しさ抱えているもんだろう。姉ちゃんは必死になってその「同じ寂しさ」ってワードを強調していたけどさ、だったら俺だって寂しいぜ。それなのに俺は女とも別れ、浮気相手にさえ振られた。ほら、寂しいぜ。一生かけて養ってくれよ。そうしてくれるなら、くだらない仕事なんてすぐに辞めて、大石良雄ばりの忠誠心でもって姉ちゃんに尽くすぜ。だけどそうはならないわけだろ? ふざけんな。素直にさ、天沢の若い頃のルックスに心底惚れたって言えばいいんだ。今は年齢なりのおっさんだけど、惰性と情だけで付き合っているってさ。それで天沢の方はっていうと、良い金蔓とセックスの相手が同時に見つかったってだけだろうな。宗教を立ち上げて酒池肉林を作り上げるなんて、元々危ない橋だってきっとあいつは気付いてた。そこまでアホじゃないはずだ。でも辞められなかった。性欲をおさえられない程度にはアホだっただろうから。辞め時を見計らっていた。そんな時に、全てを捧げてくれる女に出会った。それで辞めた。ただそれだけのことだろうよ。ま、全部が全部天沢の洗脳ってこともあり得るけどな。天沢が姉ちゃんを洗脳して、今こうなってるってだけで。じゃなきゃ、今じゃしょぼくれた性犯罪者がこんなによくしてもらえるなんてやっぱり変だろう。
「すまん、ちょっと忙しくなってきたから交代できるか」
エプロンをしたままの天沢がリビングに顔を出した。姉ちゃんは俺と天沢の顔を見比べてから「分かった」って言って、部屋から出て行く。二人にまつわる過去の話で気持ちが盛り上がったのか、一瞬天沢と目を合わせた姉ちゃんの顔は火照っていた。今夜は盛り上がるんだろうな。精々頑張ってくれ。
「それで、きみは誰なんだ?」
エプロンを解きながら、天沢は斜向かいのソファーに腰を下ろした。
「俺は中村哲也。子どもの頃、お前に会ってる。お前が警察に捕まる前のことだ。だから正体も知ってる」
「じゃあやっぱり、昔のことを責めに来たってことか」
天沢は覚悟を決めたような厳しい顔で、ソファーの背もたれに背を預けた。
「いや、だから違うって。お前がどんな犯罪を犯してたって俺は気にしない。どっちだっていい。そんなことのために来たわけじゃない」
「じゃあなにしに?」
「お前が不思議な力を持っていることは知っている。昔、キーホルダーに力を込めてもらった。俺を覚えてるか? 願いが叶うようにしてもらったんだ。それ、もう一度やってくれ」
俺はぐいっと顔を近づけた。天沢がそれを避けるように顎を引く。そして「ふふふ」と、落胆したような笑みをこぼした。
「なにがおかしい?」
「悪いけど覚えてない。いや、きみを信じてないわけじゃない。でもあの頃はそういう戦略をとっていたんだ。小学生にはお菓子と子供騙しを。中高生には大人な女や男と現実逃避できる場を。そんな風に少しだけ良い思いをさせて、子から親に俺達のことを宣伝させる。中にはクレームをつけてくる親もいたけど実際に子どもを傷つけたわけじゃない。俺のことを知ってるんだよな? じゃあ俺がしたことも知ってるんだろ? あれは冤罪だ。俺は性犯罪者なんかじゃない。全員合意があったし、子どもには手を出さなかった。中学生だって成熟した大人の体になってる女だっているし、成人でも子どもみたいな体の女だっている。そういうことだ。信じてくれ」
「だからそんなことどうでもいいんだって。気持ち悪いな。普通の会話で成熟した体とか言うなよ」
「それなのに、色んなレッテルを貼られた。ロリコン、セックスカルト、性犯罪者。本当の俺を信じてくれたのは玲奈だけなんだ。こんな俺に仕事も用意してくれて。感謝してる」
天沢は俯きながら話して、なんと目頭を拭うような仕草をとった。勘弁してくれよ。おっさんの涙なんて見たくないんだ。おじさんがめそめそしている横で、俺はどうすれば話をちゃんと聞いてもらえるのかを考えた。いや、考えるまでもない。めそめそモードのおじさんになんて遠慮する必要はないんだ。頭を切り替えた。密かに闘志を燃やす。
「お前の泣き言なんて聞きたくねえんだよ。寝言は夜、ベッドの中で玲奈姉ちゃんに聞いてもらうんだな。俺の話を聞け。お前には不思議な力があるんだろ? その力でもう一度俺の願いを叶えろ」
ぱん。と音が鳴った。俺が思い切り天沢の頬を張った音だ。こっちの話に集中してもらう必要があった。天沢は瞬間的に叩かれた頬を手でおさえた。その後、恐る恐る俺の方を見る。
「なんで、こんなこと?」
「お前を探してたんだよ。やっと見つけた。だからお前は俺の願いを叶える義務がある。その義務からは逃れられない。さあやれ。今やれ」
「でも、できないんだ」
俺はもう一度腕を振り上げた。勢いをつけた掌底を、天沢の頬ぎりぎりで止める。「次は止めないぞ。え? もう一発欲しいのか?」
「違うんだ。そういうことじゃなくて」天沢が体を捻るようにして立ち上がり、こちらとの距離を取る。「できないんだよ」
「よし、そこで目を瞑れ。今度はグーでいくからな」
拳を握りしめた。すると天沢が飛びついてきて俺の拳をおさえつける。
「だから、俺にそんな力はないんだって。きみも大人なら分かるだろ。そんな力この世にあるわけがない。それに、さっきも言ったはずだ。子どもには子供騙しを提供したって。そういう戦略だったから。手品みたいなものだよ。俺は大学で少し心理学を齧ってたから、それを応用して子どもを信じさせてただけ」
「いや、そんなはずはない。信じろ。俺のことも、お前自身の力のことも。こういうのはな、信じることから始まるんだ」
信じられない告白だとは思わなかった。薄々勘付いてはいた。だって俺結構リアリストだし。でも認めることはできなかった。認めてしまえば、長年腹痛がおさまっていた事実も説明がつかなくなるし、今悩んでいる腹痛を治す方法も見失う。天沢の力は今や俺のアイデンティティみたいなものだった。
「信じるもなにも、本人がないって言ってるんだから。さっき俺は自分の罪を否定したよな。全員と同意があったって。それは本当だ。でも不思議な力なんて嘘だ。あれは嘘。子供騙しなんだって。俺は性犯罪者じゃないけれど、嘘つきのイカサマ師なんだ。分かってくれよ」
「嘘だ」言いながらもなにが嘘でなにが本当なのか区別がついていなかった。「分かった。嘘でもいい。信じるから昔と同じようにその子供騙しを俺にかけてくれ。それでいいから。お前の子供騙しに力があるのかも知れない。いや、力なんてなくてもいい。だってそうだろ。俺の腹痛を長年に渡っておさえていたし、玲奈姉ちゃんをいまだに洗脳し続けてる」
「全部きみの思い込みだよ。それに玲奈のことは洗脳なんかじゃない」
「いいからやれ」思わず大きな声を出してしまう。顔も熱い。興奮している自分に気付いた。同時に、腹の中が揺れるのを感じた。着々と新しい燃料を生産しているらしい。そのことに気付くと後は早いぞ。再び腹痛でのたうち回るのも時間の問題だ。「形だけでもいいからやれ。効果があるかないかは後で分かる」
「分かったよ、分かったから」
天沢が顔の前に手をやって防御姿勢を取った。その恐れ慄いた表情を見ると、俺がどのくらい必死になっていたのか分かった。
「よし」
「それじゃあ、えっと、どうやればいいんだっけ。まあ形だけだからなんでもいいか。よし。そうだ。確かキーホルダーとかそういった、普段持ち歩くものが必要だったんだよな」
「いや、いい。もう大人だから直接やってくれ。心配するな。いきなり破裂するようなことはないから」
そう言って、天沢に背中を向けた。天沢は一瞬考えてから「そういえば、そういう制約も作ったな」と笑った。
「やれ」
もう不思議な力の恐喝だった。俺は天沢が持っているはずの力を、奴にその場でジャンプさせてカツアゲしてた。天沢が背後に周り背中に手をかざすのを感じた。目を瞑ると、肩甲骨の辺りが暖かくなっていくのが分かった。イエーイ。これで腹痛ともおさらばだぜ。
■十三
腹の中はまるで東映作品のオープニングみたいになっていた。荒磯に波だ。胃、腸、肛門という三つの岩に、荒ぶる自然の脅威が絶え間なく襲いかかる。乱暴に引いては押し寄せる波が、岩に衝突し白く砕けた。
トイレにこもっていた。体をくの字に曲げて、肘を膝の上にのせようとするが、体が震えているため上手くバランスが取れない。額には玉の汗をかいていた。時折汗雫が眉やこめかみ、そして瞼を通る大冒険を経て目頭に到達した。その度に痙攣したみたいな瞬きで不快感を消していたが、足りなければ背筋でなんとか体を支えて手の平で拭った。もちろん下痢は、断続的に尻の穴から噴出していた。もう何時間トイレにこもっているのか、自分でも分からなかった。毎日同じような生活だった。今が昨日の続きなのかも、明日のデモンストレーションに過ぎないのかも分からなかった。俺はトイレの住民だった。たまに住処から外の世界に出て行くこともあるが、結局は腹痛に呼び寄せられてスイートホームにすごすごと帰っていく。
以前なら神に祈りたくなるような下痢の時だって、俺はもうそうしなかった。ただただ現実を呪っただけだ。だって神なんていないし、この世には不思議な力はないから。そう。天沢に力なんてなかった。俺の腹痛は全然治っていなかった。
天沢の子供騙しに付き合ってから二週間以上経っていた。帰宅してからすぐに腹痛が始まった。いつものことだった。不思議な力が効き始めるのだってある程度時間がかかるはずだ。なんだってそうだろう。すぐに効果が出る努力なんてこの世にはない。そうは思ったものの、一向に体調は良くならなかった。なんなら悪くなっていったかな?
俺の気力を搾り取るような腹痛が続いた。仕事にも行かなくなった。俺には完璧な通勤ルートがあった。自宅を出て、コンビニだとか公園だとかスーパーだとかをなぞって、とにかく五分以上トイレのない場所を歩かなかった。駅についてしまえばこっちのもんだ。各駅にトイレがあるからな。だけどこの頃にはもう、五分なんて生易しいことを言ってられなくなっていた。一分につき一か所はトイレが欲しかった。実際には五分程度我慢できる時もあったけれど、それでは安心できなかった。不安があるってことは、それだけ我慢できる時間を減らすってことだ。家のトイレに閉じこもっている方が安心だった。会社からの電話は無視した。心配しているふりをして、俺に面倒事を押し付けようとする魂胆が見え見えだった。それか、誰だって本当は仕事なんてしたくないのに、その夢を軽やかに叶えている俺に嫉妬して小言を食らわせようとしているか。とにかく電話に出たところで現状は変わらないわけだし、調子を合わせてやる必要もない。会社に本当の理由なんて知らせてない。休み始めた初日に連絡をして、体調不良っていう古典的理由を告げただけだ。次の日からはもう連絡してない。体調不良が続いているって判断するか、飛んだって判断するかは人事部の仕事だ。俺の仕事じゃない。正直に四六時中腹が痛くてどうにもならないって言っても良かった。だけどそんなこと言っても結局同じだろ。病院に行けって言われるだろうけど、医者なんて糞の役にも立たないことは分かっている。ただのズル休みって判断されるかも知れない。だから言う必要なんてないんだ。初日にちゃんと連絡したことで義理は果たした。そこを評価してもらいたいね。それでも、このままならいつかクビになっちまうことも分かっていた。望むところだよ。毎日スーツの後ろ側を汚して出社するのと、クビになるのとどっちがマシか比べてみろよ。大体の人間が俺の選択を支持するはずだ。
そんな感じで最初の一週間が経った後、ようやく俺は現実を認めた。こりゃ治ってねえなって。天沢の野郎、マジでただの詐欺師だったんだなってな。認めれば気持ちが楽になると思った。現状を確認して前に進むことも出来るからな。でもこの時はそんな風に思えなかった。絶望ってやつだな。二度と平穏な暮らしを送れることはないって思い込んだ。どうでも良かったんだ。俺はトイレで暮らし、たまに無理やり食事もする。食欲なんてなかったし、家に碌な食料は残っていなかったからな。当然、食事中だって尻からは排便している。栄養を摂取すると同時に排出しているんだ。これはサスティナブルって言って良いのかな? 摂取量と排出量のバランスが崩れれば俺は死ぬだろう。トイレで、尻を汚しながら痩せ細って栄養失調で死ぬんだ。母ちゃんも息子の死因を他人には説明出来ないだろうな。
そうして二週間が経ったってわけだ。もう家に残っている食料はほとんどなかった。腹痛のせいで食欲が失くなってなかったら辛かっただろうな。体重だってかなり減っているに違いない。髭はぼうぼうに生えていたし、風呂に入っていないから体中がベタついていた。途中で尻を拭くのを諦めたから、パンツとズボンの内側には魅惑のピーナッツバターがたっぷりと塗られていたことだろう。だって拭いても拭いても汚れるんだから。俺は元来綺麗好きなんだ。一生懸命拭き取ろうとすると血が出るんだよ。意味のないことに血を流すなんて戦争みたいなものじゃないか。ピース。はっきり言って、もうどうでも良かった。俺は死を待つだけの情けない人間になり下がっていた。
そんな時だった。トイレに籠もっていると、インターホンが鳴った。遂に来やがったかと思った。職場の人たちが最後通牒を突きつけにやって来たんだ。無視してやろうかと思った。どうせすぐにはトイレから出られないし。だけど自分がトイレに籠もっている時にインターホンを連打されるのも落ち着かないもんだぜ。俺は走れないタイプのゾンビみたいに足を引きずりながら玄関に向かった。他人に見せるには忍びないほど汚い風体だったし臭いも相当なものだったろうけれど関係なかった。死を覚悟した人間には、そういう度胸が備わるから。のぞき窓も確認せずに扉を開けた。そこに立っているのが誰だろうと構いやしない。ありのままの自分を好きになるってこういうことだからな。
母ちゃんが立っていた。俺の姿を見て、一瞬眉間に皺を寄せた。
「なんだよ」
なんとか言ったが、上手く発音できなかった。この二週間誰とも会話をせず、独り言さえほとんど言わなかった俺の喉はすっかり退化していた。表面がからからに乾いて、しかも上手く動いてくれなかった。
「なんだよじゃないわよあんた。汚い格好して。臭いし」母ちゃんは遠慮なく顔を歪ませて、鼻までつまんだ。「会社から電話があったわよ。出社して来ないって。部長さんから。心配してた。様子を見に行ってやってくれって。私情けなかったわよ。息子が社会人になってもまだこんなことで駆り出されるなんて」
「無視すればいいだろ」
「あら? 反抗期に戻ったの? いいから中に入れなさい」
母ちゃんは肩で俺を押しのけて部屋の中に入っていく。途中であまりの惨状に「ぎゃあ」って悲鳴を上げてた。自分では意識してなかったけど、部屋の中は相当散らかっていたから。その背中を追う。母ちゃんは閉めっぱなしだった窓を勝手に開けたり、散らかったゴミを袋にまとめたりし始めた。母ちゃんは高性能のルンバみたいなものだった。AI搭載で二足歩行の。だけど別に嬉しくはなかった。むしろ俺のテリトリーを侵害する敵対国家みたいに思えた。いくつになっても親に掃除をされるってのは、落ち着かない気持ちになるもんだ。ふん。勝手にやればいいさ。俺はお花を摘みに行かせてもらう。
用を済ませた。流石にちょっとしか出なかった。ここのところ多くなっている泡状の大便が、ほんの少し肛門から滴り落ちただけだ。情けないほど少量なのに、一丁前に激痛が走るんだからどうかしてるよな。原因と結果の均衡が取れてないと思うんだけど。腹をさすりながらトイレを出ると、母ちゃんはこの短時間であらかた掃除を終えていた。冷蔵庫にどこかで買ってきたらしき食料を詰めている。助かったとも思ったが、余計なことするなよとも思った。どうせ食欲なんてないし。それでも生存本能が少しずつ食べるように促すもんだから、死への道程が伸びてしまう。死ぬのは怖いが、このまま生きていく自信はなかった。どうせなら早いところ消えてなくなりたいってのが本心だった。
「ほら、これ」
母ちゃんは食料が入ったビニール袋から真剣な顔でなにかを取り出して、こちらに向けた。見慣れないものだった。受け取って袋を開けると豪華なポケットティッシュみたいな形をしたものが入っていた。俺はそれを取り出し様々な角度から観察した。外でうんこをする時はこれを使いなさいってことか? 高級ティッシュだから俺の弱っちい肛門をこれ以上血まみれにはしないはずだからってことなのか?
「なんだよ、これ」
「ナプキン。お腹痛いんでしょ。会社にも行けないくらいなんだからきっと困ってるんだって思って。うんちに対しては防御力弱いけど、それパンツに貼り付けとけば精神的な支えにはなるよ」
舐めるなよって思った。確かに俺は腹痛で死にかけている人間だよ。それは認める。真っ当に生きることを諦めた終わった奴だ。でもな、ナプキンをつけて外出なんてしねえ。それは男性の自尊心を自ら傷付ける行為だ。それに外出時の対策を考える段階はとうに過ぎ去った。外出自体できねえからな。
「なんだよそれ」
でもな。一応貰っておいた。なにがあるか分からないし、この際プライドは脇に置いておくことにすると、ナプキンは悪くないアイデアだって思えたから。男には分からない吸収力があるって聞くしな。
「それで、どうなの? 体調の方は。最悪?」
「まあな。それよりさ、あの時途中でいなくなってごめんな」
まずは謝罪をしたかった。もしかしたら腹痛のことをあまり喋りたくなくて、それで話題を変えたかっただけかも知れない。でもさ、俺が玲奈姉ちゃんのカフェで、母ちゃんを置き去りにして、まいたのは事実だから。しかもさ、直前でいきなり他人に会う仕事を押し付けて、それから消えたんだから母ちゃんからしたら堪ったもんじゃなかっただろうってずっと思ってた。あの後俺は、玲奈姉ちゃんのペントハウスから出てカフェに戻った。店の中に母ちゃんの姿はなかった。駐車場に車もなかった。俺は姉ちゃんや天沢と小一時間やりとりしていたはずだから、突然消えた息子に呆れて帰ったんだと思ってた。それからは腹痛が治る期待と、治らなかった絶望を感じて生きていたもんだから母ちゃんに連絡するのを忘れていた。
「たしかに」母ちゃんは肝心なことを思い出したかのように膝を叩いた。「ちょっと勝手過ぎじゃない」
「悪いと思ってるよ。ごめんな。あの後大丈夫だったのかよ」
「ああ、マコちゃんのこと? あんたが店を飛び出してからすぐに来たわよ。で、まあ、なんだか適当な話をして解散。それだけ」
「それだけ? なんにも言われなかった? なんというか、こっちはあいつを騙していたわけだからさ。嫌な態度をされなかったか?」
「どうだろうなあ? 時間も経ってるしちょっと思い出せないかも。でもまあ、今こうしてあんたの目の前にいる私は元気なわけだしさ」
なんだか怪しかった。まさかあの日の出会いがきっかけになってマコちゃんとの黄昏流星群が始まったとか? げえ。考えたくもない人間交差点だぜ。
「母ちゃんまさかあの男となにかあるのか? 勘弁してくれよ。それならそれで構わないけどさ、息子に悟らせないくらいの気は使えって。これは非常にデリケートな話ですよ」
「違う違う違う。私とマコちゃんが? そんなわけないじゃないの」
「普段からマコちゃんって呼んでるのか? 随分親し気じゃねえかよ。まあいいさ。母ちゃんだってずっと一人で生活するのは寂しいわな。でもな、これだけは言っておくぞ。俺はあいつを父ちゃんだなんて呼ばねえ。それだけは覚えておいてくれ」
「ちょっとなに先走ってるの? そういうところ、本当あの人にそっくり」
「あの人って誰だよ? 父ちゃんのことか?」
「あんた本当になにも覚えてないんだね」
「なにをだよ?」
母ちゃんは肩を落としていた。俺はその仕草を、これ以上惚け切れないと悟った嘘つきが最後に逆ギレを試している様だと解釈した。行動に意味なんてなく、少しでもこちらに罪悪感というダメージを与えたいだけなんだ。母ちゃんはわざとらしく俺の顔色を覗き込むようにして伺ったりしていた。ふふふ。そんなことをしたら、反対に自分の罪悪感が疼くはずだ。なんてったって、俺は骸骨みたいに痩せちまっていたはずだし、健康とは程遠い顔色だろうからな。親として、こんなに自分を不甲斐なく感じることもなかろう。
「マコちゃんを見て、なにか感じなかった?」
「感じたよ。こうはなるまいって思った。みっともねえおっさんだなって」
「そうじゃなくてさ。まあいいわ。じゃあ父親のことは覚えてる?」
「あ? なんだよ急に。そりゃ覚えてるよ。小三の時会ったきりだけどな。当たり前だろ、父親だぞ。それがどうしたんだよ」
「あんたの腹痛が始まったのはその小三の時だよね。父親が出ていって、それで精神的なショックからストレス性の胃腸炎になった。当時お医者さんにかかったの覚えてる? そう言われたの」
「覚えてないけど、それがどうした? 病名が分かったからって、病気が治ったのか? あの後俺は随分と苦しんだぞ。それに、父ちゃんがいなくなったからじゃねえ。俺はそんなことでストレスを感じたりはしねえよ。ただそう生まれてきちまったってだけで、原因なんてないんだよ。だから必死にもがいてさ、自分でなんとかしたんじゃないか。今だってそうだよ。腹のことならずっとなんとかしようとしてる」
「子どもの頃、あんたはある時期を境にお腹の調子が良くなり始めた。多分、親子二人になった生活にも慣れて、ストレスが減ってきたからだと思うんだ」
「だからさ、父ちゃんのせいじゃないって。もちろん、母ちゃんのせいでもない。もうなんて言ったらいいのか分かんねえよ」
「今もあの時と同じように苦しんでるんでしょ? もうあんたも大人だから、私がどうにかしてあげることはできないけど、もしかしたらあの人なら力になれるかも知れない。会ってみる?」
「誰に?」
「父親に」
なんでそうなる。いくら俺の腹痛が両親の事情とは関係ないって説明しても母ちゃんは納得してくれない。本気でもどかしかった。赤ん坊と話しているような気分になった。それに、なんで父親に会ったら俺の腹痛が治るんだ? どういう理屈だ? 母ちゃんの中では腹痛の原因は俺が父ちゃんを失ったことで、治ったのはその状況を受け入れたからっていう理論が出来上がってしまっている。分かった。その理論は認めることにしよう。だけどそれは子どもの頃の話だ。第一次下痢ブームの時の話なんだよ。第二次下痢ブーム真っ只中の俺には通用しない理論なんだ。今の俺はコスモ星丸のキーホルダーを失って、それで腹痛に苦しんでるんだよ。父ちゃんの存在に付け入る隙なんて与えてない。お呼びじゃないんだよ。
ただ、そんなガチガチに固めた俺の理論にも穴があった。コスモ星丸のキーホルダーも、天沢の力も効果がないってことが分かったからな。つまり原因不明だ。俺は一生かけて下痢に苦しんで死ぬんだ。その運命を受け入れつつあった。だから尚更母ちゃんにはやめてもらいたかった。親の真剣な表情で俺を惑わせないでもらいたいもんだね。子どもっていうのはさ、親のそんな態度を条件反射で信じてしまう傾向にあるから。藁を掴むようなこの状況で父ちゃんに会って、その結果今と変わらなかったらそれこそ俺は挫けてしまう。もしかしたら自ら死期を早めるような行動だって取ってしまうかもしれないぞ。分かってるのか?
それとも。それとも本当に腹痛と父ちゃんになにか関係があるのか? 俺はこの不調をどうにか治そうと突っ走った。天沢を見つけたし、不思議な力の恐喝だっておこなった。その結果がどうだ? なにも変わらなかった。希望を失っただけだ。俺以外で俺の腹痛のことを本気で考えられるのは母ちゃんだけだ。自分の計画が失敗に終わったのなら、今度は母ちゃんの案を試してみたって損はないのかも知れない。
だけどどうにも現実感が伴わなかった。だって母ちゃんと父ちゃんに今でも繋がりがあるとは思えなかったから。連絡なんてずっと取っていないはずだ。前に聞いた時、あんたの父親は行方不明ですってはっきり言っていたし。
「どうやって? 父ちゃんは行方不明なんだろ? 嘘だったのかよ? 本当は会ったりしてるのか?」
「それは本当よ。あの人とは離婚してから一度も連絡してない。向こうからもない。お互いに会うつもりはなかったんじゃないかしら」
「じゃあどのみち会えないってことか」口に出してから、自分が意外とがっかりしていることに気付いた。「父ちゃんに会えたら、なにか変わると思うか?」
「うん。あんた、あの人のこと大好きだったから。自分が思ってるよりずっとね」
そういう自覚はなかった。それでも、母ちゃんからそう思われていることは嫌ではなかった。俺を苦しめる腹痛は、本当にストレスが原因なんだろうか。しかも父ちゃんがいなくなったことで生じたストレスなのか。分からない。検討もつかない。だけど、この二週間で初めて腹の辺りに心地良い温かさを感じた。それまでは腹の中に永久凍土をぶち込まれたような冷たさしか感じなかったから余計に。
「じつはさ」
驚くほど自然にこれまでの経緯を口にしていた。腹痛にまつわる、母ちゃんには黙っていた部分をすべてぶちまけた。父ちゃんからもらったコスモ星丸のキーホルダーのこと。天沢の不思議な力のこと。当然、子どもの頃に天沢にされたことも話すことになった。恥ずかしかったが、今更隠すことでもないように思えた。所詮俺はうんこ垂れなんだ。子供の頃にどんなことがあって、それを大人になるまで信じていたり、やっぱり疑ったりしていても等身大の自分の下半身はこれでもかってくらいに汚れている。全部話し終えてから、俺はなんでこのことを長年母ちゃんに黙っていたのかなって考えたほどだ。怒られたくなかったからか? 子どもの頃はそうだったかも知れない。でも今はそうじゃない。これ以上心配をかけたくなかったからだ。秘密にすることで、余計に母ちゃんを苦しめている自覚はあったのに。つまり、女手ひとつで俺を育ててくれた母ちゃんの気持ちより、面倒事を抱えないことの方が大切だったってことだ。それか、母ちゃんの謂れのない罪悪感を利用して、いつか自分のわがままを通そうと企んでいただけか。多分どっちも正解だった。
母ちゃんは俺の話を聞いても動揺は見せなかった。もちろん激怒するようなこともなかった。ただ黙って耳を傾けた後「そっか」って言った。そして「それでもやっぱりあの人には会うべきだと思う」とも言った。真相を聞いた後でも、母ちゃんは主張を変えなかった。
くうーん。腹の中で音が鳴った。今までの凶暴な咆哮ではなく、俺の機嫌を取るような音だった。もしかしたらなにかが変わるかもって思い始めていたのかも知れない。ただもし変わらなかった場合俺はもう諦める。もちろん生きることをだよ。これが最後のチャンスだ。
■十四
待ち合わせ場所は、天沢が働く玲奈姉ちゃんのカフェだった。あの日と同じだ。母ちゃんによると、父ちゃんが決めたそうだ。ってことは、父ちゃんはずっと俺の生活圏内に住んでたってことか? じゃなきゃこのカフェを選ぶことはないだろう。俺はテーブル席について、父ちゃんを待っていた。目の前にはホットレモンティーが湯気を立てていた。さっき天沢が、今度は間違えないで持ってきたんだ。褒めてやるつもりはない。ウエイターなんだから客の注文を間違わずに運ぶなんて基本中の基本だからな。当たり前のことだ。あいつが得意気にレモンティーをテーブルに乗せた時、俺は思い切り無視をしてやった。なんだかちょっと気不味かった。天沢に対しては、俺もやりすぎた面があったと思うし。だけどこちらから謝るつもりもない。だってただの役立たずだったわけだからさ。「やりぎたかも」と「いやお前の方から謝れよ」が心の中に同居して、その結果気不味く無視することしかできなかったんだ。玲奈姉ちゃんの姿は店内にはなかったけれど、もし顔を合わせても上手く対応できないだろう。素っ気ない態度を取ってしまうかも知れない。
こうなることは待ち合わせ場所を聞いた時点で予想ができた。だから嫌だったんだ。しかも、一度大きな腹痛に襲われた場所でもあるから、座っているとすぐに腹が騒ぎ始める。パブロフの犬みたいなもんで、嫌な記憶は俺の心に大きなトラウマを残すのさ。待ち合わせ時間になっても父ちゃんは現れなかった。大体俺は今の父ちゃんの姿が分からなかったんだ。昔の姿ならイメージすることができた。だけど天沢でさえ、こんな風に変わってしまうんだから十五年っていうのは男の風貌を変えるには充分過ぎる時間なんだろう。だからテーブル席に座る俺のことを父ちゃんが見つけるしかない。母ちゃんによると、今の俺が写った写真のデータを送ったから大丈夫とのことらしいが、どうにも信用出来ない。時間が風貌を変えるってことで言えば、父ちゃんよりも俺の方に大きな変化があったはずだ。小三の頃よりも遥かに身長は伸びたし、雰囲気だって変わった。子どもから大人に成長する時期だったんだから当たり前だろう。だから事前に母ちゃんに抗議をした。「心配しなくても、あんたが息子だってすぐに気付くよ。自分の子どもなんだもん」なんて言ってた。そんなもんなのかね。俺にまだ子どもがいないことをいいことに適当なこと言ってはぐらかしていないことを願うよ。
周囲を見渡しても父ちゃんらしき男性は見つからなかった。そこで俺は、一旦トイレに向かうことにした。父ちゃんと会うと決めてから、ずっと緊張していた。なにしろ約十五年ぶりの親子の再会なんだ。でも嫌な緊張ではなかった。どちらかというと、楽しみとか待ち遠しいみたいな緊張だった。ま、良い緊張って言えるのかな。だけど腹の中の悪魔たちに良い緊張も悪い緊張もなかった。違和感は違和感だ。俺の気持ちとは関係なく大車輪の働きで大便を生産し続けた。もちろん家からこの店に辿り着くまでの間も、大人しくはしていなかった。父ちゃんに会えるのは楽しみだったけど、無傷でカフェに辿り着く保証なんてどこにもなくてそれが不安だったくらいだ。結局母ちゃんの車で送ってもらうことになったんだけど、マジで家とカフェの間にある全てのコンビニに立ち寄るつもりで運転してもらった。実際に全てのコンビニのトイレを借りる事態にはならなかったけれど、五軒ははしごすることになった。そんなだから、実際に父ちゃんと再会する直前に、大きな波を感じたとしても不思議じゃなかった。
前にも使ったトイレの個室に入ると、途端に腸が鋭く反応した。テロが起こったビルから我先にと脱出する愚かな人間みたく便が便器へと吹き出した。さっきまでは、まだもう少し我慢できるといったレベルだったのに別の寄生先を見つけた途端こんな反応なんだからまったく現金な奴らだよな。
膝が扉にぶつかるような狭い空間だった。左手の壁には口に出しては言えないような下品な落書きが小さな文字で書かれている。だが不思議と落ち着いた。多分過去に使用したことがあるからだ。どんなに汚いトイレでも、一度命を救われたらそこは楽園。俺は色んなトイレによって生かされて手広くやってる生命体だから、本来なら生活圏は全部天国って言っても過言ではないはずなのに、なんでこんなにも生きづらいんだろうな。
「大丈夫か?」
扉をノックされると、膝に振動を感じた。ノックをした人間に魂を掴まれたような気持ちがした。不快だった。聞き覚えのある声だった。一瞬、父ちゃんかと思ってしまうが違う。天沢の声だ。
「トイレの個室に籠もっている時っていうのは大抵大丈夫じゃない」まともに受け答えをする気にはならなかった。「大体あんたはお呼びじゃないんだ。それともこの店にはトイレケアのサービスが付帯されてるのか? 違うだろ? 分かったら口を閉じて自分の仕事に戻るんだな、この詐欺師が」
「そこまで言うことないだろ。俺はただきみの体のことが心配で。それに不思議な力なんてないことは教えてたはずだし」
「ああ、お前に力なんてないよ。ウエイターとしての力だって怪しいぜ」
「その調子だと、やっぱりきみの願いは叶わなかったようだね」
扉の外から人の気配が消えた。天沢が仕事に戻ったんだろう。彼はもしかしたら、本当に俺のことを心配しているのかも知れない。招かれざる客を見つけて気にしていると、前科のあるその男がまたしてもトイレに立った。ありもしない不思議な力を強請られたとはいえ、その後が気になる男でもあった。トイレに向かいさり気なく声をかける。ところが「詐欺師が」だって。なんて憎たらしい返答なんだ。俺だってそう思う。逆の立場ならたまったもんじゃないだろう。でもさ。うんこしている人間に外から声をかけるなんて、どんなことを言われても仕方がないくらいのマナー違反なんだよ。いい加減に学んでくれ。
トイレから出て席に戻ろうとすると、そこに男の背中があることに気付いた。数分便器に座って俯いたことで方向感覚が狂い、元の席を見失ってしまったのかと思った。店内の様子とトイレの位置を数回確認し直す。いや、俺の席はあそこだ。間違いない。男の背中に視線をやりながら恐る恐る近づく。緊張はしていなかったと思う。ただ、自分の吐く息がやたらと近くに聞こえていてうるさいほどだった。男の背中をゆっくりと回り込む。肩、胸、顔。期待を込めてゆっくりと観察した。マコちゃんだった。
マコちゃんのことを実際に目の当たりにしたことはなかった。動画で視聴して外見を知っているだけだ。だけど考えてみればこの店はマコちゃんのテリトリーなんだ。いても不思議じゃない。だけどタイミングを考えて欲しい。常連なのかも知れないが、今は会いたくはなかった。それにおっさん、席間違えてるぞ。このテーブルには俺が頼んだレモンティーが乗っているだろう。
「あの、ここ、僕の席なんですけど」
少し減ったカップを指さしながら言った。マコちゃんはテーブルの下でスマホを見ていた。俺が声をかけると顔を上げ、スマホの画面を天板につけた形で置いた。
「大きくなったな。困ってるんだろ。俺なら解決出来るぞ」マコちゃんは確かな口調でそう言った。その後で「動画回していいか?」とスマホを持ち上げる。
「ダメに決まってるだろ、イカれてるのか?」
わけが分からなかったが、取り敢えずその手からスマホを叩き落とした。こいつ、なにを言っていやがるんだ。続く言葉が出てこなかった。代わりにマコちゃんの顔をよく観察した。驚いたような丸い目をしているが、恐らくそれは通常の表情なんだろう。鼻は高く骨っぽい。口は横には小さいが縦には大きい。唇が太いんだ。その周りを無精髭が覆っている。というか髭が顔の下半分のほとんどを支配している。そのせいで、本来の顔の印象が掴みにくかった。
「ほら、父ちゃん父ちゃん」マコちゃんは人差し指で自分の顔を指差しながら笑った。「髭で分かりにくいか? 剃ってくればよかったな。でも大丈夫。髭剃ればさ、昔とそんなに変わってないから」
言われてみれば、マコちゃんのむさ苦しい髭面の中に、昔の父ちゃんの見窄らしい面影を感じることが出来た。でもさ、もしそれが本当だったら息子の俺が分からないわけないだろう。動画を見た瞬間にピンと来るはずだ。あ、この馬鹿な動画配信者の正体は父ちゃんだってさ。本当にそうか? 俺は天沢にも気付かなかった。時の流れは残酷だ。美しい青年をただの中年に変える。さっきそのことを認めたばかりじゃないか。それに動画を見た時、俺は自分の腹痛のことばかり考えていた。そこに意識をフォーカスしていたんだ。まだまだモテたいだなんていうふざけた動機で動画を配信する大馬鹿野郎の実態なんて気にもとめなかった。見えてるようで、見てないんだ。意識してなかったから。これはボクシングで言うところの消えるフックみたいなもんだ。相手の拳が消えるなんてことはあり得ないのに、意識しないだけで消えたみたいに感じる。違う。俺は気付いていたのかも知れない。最初にマコちゃんの動画を見た時、いや、トイレの扉のむこうから音声を聞いた時か。彼の声に親しみを感じたはずだ。懐かしいって思ったことを覚えている。今となってはその懐かしさを天沢に感じていたのかマコちゃんに感じていたのかは分からないけれど確かに感じた。あの時はただ、昔の知り合いの声に似ているだけって思ったけれど、顔が見えない状況で感覚が鋭くなっていたのかも知れない。俺は、マコちゃんの声を、ちゃんと父親の声だと認識していた。ただ意識しなかっただけだ。
「なんで?」
「なんでって、愛に頼まれたからだよ。びっくりしたぜ。ファンとの待ち合わせ場所にあいつが現れたんだからな。せっかく楽しみにしていたのにさ、一気に葬式みたいな空気になった」
マコちゃんは当時のことを思い出したのか、顔を歪ませた。右目だけを器用に瞑って、唇を尖らせるその歪ませ方には見覚えがあった。
「あれは、その」
「ああ愛から聞いた。お前、天沢ちゃんのこと探してたんだろ? まあいいさ。ネットの世界で生きてりゃ、こんなのよくあることだよ。愛に久しぶりに会えたしな。向こうはどう思っているか分からないけど、俺は嬉しかったよ。おまけにその後、こうして連絡までしてきてくれた。お前が困ってるって言ってな。あの時せっかく会えたんだから連絡先くらい交換してくれって泣きついた甲斐があったってもんだよ」
母ちゃんのことを、名前で愛って呼んだ。その発音の仕方で確信が持てた。きっとこの人は本物の父ちゃんだ。みっともない動画配信者をやっているんだと思うと泣けてくるが、母ちゃんのことを愛って言う時の甘ったるい発音は変わっていない。それだけで決めつけるなんて変かも知れないけど、でもそう思った。
「俺のこと、どこまで聞いてる?」
「あのキーホルダーを失くして困ってるって聞いた。それで腹が痛くなって大変だって。愛の奴さ、お前を救えるのは俺だけかも知れないとか言うんだぜ。なんか怖いよな。それと、天沢ちゃんからも少し。息子が世話になったわけだし。それよりお前、まだあのキーホルダー使ってたんだな」
「ああ、最近までずっと使ってた。失くしちゃったんだけどさ」
父ちゃんの手が顔の近くまで伸びてくる。咄嗟のことだったけれど、反射的に頭を逸らすなんてことしなかった。その手が何をどうやって掴むか分かっていたからだ。思った通り父ちゃんの手は俺の耳の上辺りを掴んで乱暴に撫でた。体温すら懐かしいって、一体どういうことなんだろう。母ちゃんは言ってた。小三の時に父ちゃんが出ていって俺はストレスを感じたって。自分ではそんなの考えたことがなかった。いや、寂しかったさ。でもストレスとは違う。しかも腹痛の原因になってるだなんて的外れもいいところだ。俺はあの時、本当はなにを感じていたんだろう。子どもながらに泣き叫んでも仕方がないって諦めていただけなのか。母ちゃんをこれ以上傷つけないようにわがままを言うのはやめようって自分を誤魔化したのか。思い出せない。もしかしたら自分でも分からなくなるほど奥の方に感情を押し込めた結果なのかも知れない。寂しかっただけでは済まされない思いがあったのかも知れない。気付くと俺は耳のそばにある父ちゃんの手を握っていた。あったかい。手を繋いで近所を散歩した時のことを思い出す。悪さをして引っ叩かれて泣いた後、涙を拭ってくれた時のことを思い出す。指先から父ちゃんのあたたかさが伝わって、全身が心地良い温もりに包まれる。
「困ってるんだよ、助けてくれよ父ちゃん」
父ちゃんの手は大して大きくもないのに、これでもう大丈夫だって気にさせられる、頼りになる父親の手だった。
「安心しろよ。きっと助けてやれるから」
父ちゃんは俺の髪の毛を掴むのをやめた。そして俺に向けて、手の平を見せるように広げた。右手だった。左手はポケットの中に入れたままだった。指の間から父ちゃんの真剣な表情が見えた。なにをやっているのかは明らかだった。気付いた瞬間は、思わず笑いそうになった。きっと事前に天沢から聞いたのだろう。この姿勢と表情は不思議な力を使う時の天沢とそっくりだった。自分も天沢みたいな力が使えると思っているのだろうか。それとも俺がこういうオカルト的な手法に弱いとでも思っているのか。とにかく、必死になって出来もしないことをやろうとしている父ちゃんが滑稽でたまらなかった。俺はこういう父ちゃんが好きだった。嘘つきでお調子者で、周りに流されやすい。きっと母ちゃんも好きだったはずだ。でも母ちゃんからすると父ちゃんのこんな性格は許せなかったのかもな。浮気性だし。
元々、あのコスモ星丸のキーホルダーは父ちゃんから貰ったものだった。貰った日のことは覚えている。夜の公園で。父ちゃんが家を出ていく二、三日前のことだった。ふと思いついたように、自分の宝物だっていうキーホルダーをくれたんだ。脱いだばかりの下着を洗濯機に隠すみたいにして放り投げて渡された。普通宝物をそんな風に扱うか? って思った。また適当なこと言って、ゴミを押し付けられたんじゃないかってさ。父ちゃんからのプレゼントは嬉しかった。そんなの滅多に貰えなかったからな。だから、貰った瞬間こそ手放しで嬉しかったものの、すぐに冷静になったんだ。少しの間疑心暗鬼になってた。だけど、俺はそれから十年以上キーホルダーを大事にしていた。腹痛が収まるからって理由だけでそうしていたわけではない。父ちゃんの宝物をプレゼントされたって分かっていたからだ。これは我が家の家宝も同然だった。俺はそれを知っていた。何故だ? 何故そんな風に確信できた?
目の前でこちらに向けて手の平をかざし、額に汗をかいている父ちゃんの表情を確認する。ふふふ。やっぱり笑ってしまいそうになる。あんたにそんな力はないだろうって突っ込んでやりたくなるよ。それともなにか。会わなかった十五年間で体質が変わったのか? 超能力体質にでもさ。軽口が今にも口をついて出そうになるが、なんとか堪えた。父ちゃんが冗談でそんなことをしているわけではないことを知っていたから。自分に力があるなんて寝ぼけたことを考えているわけでもないはずだ。ただ俺のことを真剣に考えているだけだ。息子を救いたいって真面目に思っているだけだ。
父ちゃんの真剣な表情を眺めていると、ふと脳裏をよぎる記憶に気付いた。偶然ではないだろう。俺はなにかを思い出そうとして、父ちゃんの顔からそのヒントを得たんだ。あれは、いよいよ父ちゃんが家を出ていく前日の夕方だったと思う。学校から帰宅すると、リビングに父ちゃんがいた。母ちゃんはいない。だって十六時前とかだったし、まともな大人なら働いている時間だったから。数日前から続く両親の喧嘩は最早冷戦状態に入っていた。父ちゃんはポイントを稼ぐために、時々母ちゃんの好きなものを買ってきたりしてたけど全部逆効果だった。母ちゃんの反応はちょっと頑なだった気もするけど、父ちゃんだって配慮が足りなかったからなんとも言えない。コンビニでケーキを買ったのに、それだけで満足してビニール袋を振り回しながら帰るもんだから母ちゃんに差し出す時にはもうぐちゃぐちゃになっていた。それならって、大金はたいてアクセサリーを買ってくるだろ。デパートの一階とかでさ。ピアスだったかな。こう、ハートの形をした可愛いやつ。父ちゃんは期待に目を輝かせながら母ちゃんに渡したんだ。でも母ちゃんは冷めた口調で言った。「こんな高価なもの、誰の金で買ったんだ?」って。父ちゃんはそれを聞いた瞬間に顔を真っ青にしていた。だって、母ちゃんの財布からくすねた金で買ってたから。普通なら、そんなことしちゃいけないって思うだろ? 思わないにしても、意味のないことだって気付く。まともな大人なら。でも父ちゃんは思わないし気付かない。母ちゃんの喜ぶ顔が見たくて、仲直りしたくて、だから脇目も振らずその結果だけを夢見て行動する。厳密に言えばコンビニのケーキだって母ちゃんの金で買ったんだ。父ちゃんは金とは無縁の生活だったからな。でもそれくらいなら、長年の付き合いで母ちゃんも分かっている。だから文句は言わない。見逃してやっているだけなんだ。それなのに父ちゃんは調子に乗るんだ。いつだってそうだ。ケーキで文句を言われなかったんだから今度はピアスだ。これでも喰らえってもんなんだろう。数日の間にそういうことが続いて、母ちゃんは疲れきってていた。夫にキレるのにも疲れ、人の道を諭すのにも疲れ、ついでに息子の面倒を見ることにも疲れていた。話しかけても機嫌の悪い対応をされるだけだから俺は距離を置いていた。こんな時は余計な接触を持たないことが肝心だ。子どもでも分かる道理だった。でも父ちゃんはそういう女心を理解せずに大人になった人間だった。積極的に話しかけては怒られて、しかも堪え性もかったもんだから何度も喧嘩になっていた。両親が顔を合わせれば喧嘩になるような生活は辛かった。だから学校から帰った時、リビングに父ちゃんしかいないことに気付いて少しだけほっとした。もちろん、母ちゃんだけならそれでもいい。どっちのことが好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなかったから。ただ、二人が同じ空間にいるのを見るのは辛かったってだけだ。
「ただいま」「おかえり」って言い合ってから、しばらく経った時だった。その時俺達は並んでソファーに座っていた。正面にテレビがあって、画面になにやら映し出してはいたけれど、どんな番組を見ていたのかは思い出せない。二人ともニュース番組は嫌いだったから、もしかしたら公共放送の料理番組でも流していたのかも知れない。
「ああそうだ、お前、あのキーホルダー持ってるか?」
「え? うん」
俺は頷いた。結局家の鍵を付けて持ち歩いていた。ポケットを探すがない。足元に転がっていたランドセルの中にもない。玄関まで探しに行くと、下駄箱の上に置かれていた。鍵を持ってソファーに戻る。
「それ宝物だって言ったろ? そんな風に雑に扱わないでさ、もっと大事にしてくれよ」
「それ本当なの? また父ちゃんの嘘なんじゃないの?」
「嘘なんかじゃないって。ほら」
父ちゃんは着ていたシャツの胸ポケットからキーホルダーを取り出した。コスモ星丸のキーホルダーだった。貰ったものと同じように塗装がはげていて年代物だって一目瞭然だった。
「なにこれ? なんで同じの二つ持ってるの?」
「ふふん」父ちゃんは勝ち誇ったみたいにして笑った。「これはな、俺の親父に買ってもらったんだ。子どもの頃、つくば万博に連れてってもらってな。親父は俺になんにもしてくれなかった。だから万博に連れてってもらって、お土産にキーホルダーまで買ってもらえて本当に嬉しかったんだ。一つは俺のもの。もう一つは親父にあげた。なんか照れくさそうにしちゃってさ、あんまり嬉しそうでもなかったけど、親父が死んだ後にキーホルダーを見たら俺のと同じくらい使い込んでてさ。それ以来、我が家に伝わる家宝にしてる」
父方の祖父母には会ったことがなかった。どんな人なのか想像つかないけれど、自分の子どもになにもしなかったってのを聞く限り、父ちゃんと似たような人だったのかなって思った。でも、父ちゃんはプレゼントをくれないだけで、他のことはなんでもしてくれる。金がかからなければって条件はつくけれど、よく遊びに連れて行ってくれるし、授業参観や運動会にだって積極的に参加してくれる。まあうちの場合、父ちゃんはほとんど働いていないようなもんだし、暇だっていう理由もあるんだろうけれどさ。爺ちゃんがどんな仕事をしていて、どれくらい忙しかったのかは知らない。だから責めるつもりはないけれど、もしかしたら父ちゃんは自分の親を反面教師にしていたのかも知れないな。
「爺ちゃんは忙しい人だったの?」
「普通だったんじゃねえの? 休みの日は家にいたし。仕事で忙しくて子どもに構ってられないってことじゃなくて、ただそういう人だったんだと思う。別に嫌われてたわけじゃねえけど。子どもになにかしてやるってタイプの父親じゃなかったんだよ」
「そんな爺ちゃんがなんで万博には連れてってくれたの?」
「その頃俺、イジメられてたんだよ」
父ちゃんはなんてことないように言った。それどころか「なんでだろうな?」と首をひねったりしている。その様子を見ると、父ちゃんの方にも原因があったんだって思えた。
「なんで?」
「それが分からないんだよ。でも子どものイジメなんてそんなもんじゃねえのか? 理由なんて後からなんとでもこさえることが出来るけど、本当は些細でしょうもないことなんだよ。気にする必要もない。つっても、それは今振り返って言えることで、当時は苦しい。だから俺は嘘をついてイジメを切り抜けた。自分を大きく見せたり強く見せたり。周りに馴染もうとして必死だった。イジメられてるんだからそれくらいしてもいいだろ? 相手は意地の悪い子どもなんだから、こっちだけ行儀良くする必要もないだろ。それで嘘つきまくってたんだよ。ちょうどその頃、つくば万博が開催されるってクラスで盛り上がってたもんだから、俺は父親に連れてってもらうんだって大ボラを吹いた。父親が連れてってくれるわけがない。近所の買い物にだって連れてってくれないんだから。皆が憧れる場所に行くっていう嘘で、自分を大きく見せたかったんだろうな。覚えてねえけど。だけど、その頃にはもう俺の嘘が周りにバレ始めてた。そりゃそうだ。バレバレの嘘もついてたしな。で、意地の悪い連中は俺を辱めてやろうって企んだ。今度嘘をついたらその場で追求してやろうぜって考えてたらしい。それがちょうど万博に行くっていう嘘をついたタイミングだったんだ。皆に囲まれて『行ったら証拠見せてもらうからな』とか言われた。マジで焦ったぜ。どうしようって思って、かなり追い詰められた。子どもながらに、この嘘がバレたら過去についた嘘も全部追求されるって分かってた。だからダメ元で親父に全部話して、万博に連れてってくれって頼んだ。そしたらさ、いつもみたいに興味ない顔をして話を聞いた後、分かったって」
「急に? 変わった人だね」
「多分、親父にも息子の危機感が伝わったんじゃないかな。それか、俺はその時までなにかをねだったことなんてなかったからたまにはって思ったか」
「それで、万博に行ってキーホルダーまで買ってもらったわけだ」
俺は父ちゃんと爺ちゃんの思い出が詰まったキーホルダーを優しく撫でた。自分だけの宝物ではないんだって実感できた。家族の気持ちが込められた物なんだって。
「学校で自慢したぜ。キーホルダーを見せながらな。皆びっくりしてた。俺は信じてもらえなかった寂しさをたっぷり匂わせてやった。罪悪感を植え付けるために。そしたら、それからイジメはなくなった。人気者になれたわけではないけど、少なくとも辛くない学生生活になった。俺が嘘つきだって噂はまことしやかに囁かれ続けていたし、それからも都合が悪くなったら嘘をつくっていう癖はなくならなかったから、万博に行ったって事実を皆が信じたかは分からない。感覚的に言うと、多分信じてなかった。だけど、所詮は子どもだったから証拠のキーホルダーを突きつけてもっともらしいことを言う奴に反論するだけの知恵が皆にはなかったんだと思う」
「爺ちゃんはなんで急に心変わりしたんだろ」
「だからそれは俺の危機感が」と言いかけて、父ちゃんはなにかを思い出したようだった。「その後、親父は一年もしない内に死んだんだ。癌だって言ってた。だから余命も分かってたはず。それで、最後に俺と思い出を作りたかったのかもな。親父が死んで、お袋と病院に行った時、枕元に俺がやったキーホルダーを見つけた。最後まで大事にしてたんだって思ったよ。元はと言えば親父の金で買ったものなのにさ。俺のと同じくらい色が落ちてた。多分病院でもずっと握ってたんだろうなって感じた。お前にあげたのが、親父のだよ。同じに見えるだろうけれど、俺には見分けがつく。だからこのコスモ星丸のキーホルダーは俺の宝物なんだよ。お前にもなんとなく分かるだろ? 絶対に失くすなよ。代々受け継がれる宝物だからな」
当時は良く出来た話だと思ったよ。感動もした。それでも本当か嘘かは分からなかった。この期に及んでまだ怪しんでいる自分もいた。なにせ父ちゃんは嘘つきだから。だけど、信じることにしたんだ。こっちから信じて、それで幸せになれるならそれで良いって思えた。それにさ、家族の宝物が今俺の手元にあるなんて、なんだかワクワクしたから。父ちゃんはいつもそうやって俺を楽しませてくれた。だから好きだったんだ。
「もういいよ。もう分かったからさ」
父ちゃんの人差し指と中指の間に見える右目を見ながら言った。左の目は薬指に隠れて見えなかった。ふと、父ちゃんの表情が緩む。
「腹、治ってきたか?」
「いやあ、そんなすぐには治らないけどさ」言いながら服の上から腹を撫でてみる。なにも感じない。「母ちゃんから全部聞いたんだろ? 腹のこととか、天沢のこととかさ。それで、同じようにやってくれてるんだろ? ありがたいけど、やっぱり効果はなかったからさ。だからそんな風に汗かくほど頑張らなくていいよ」
「え?」父ちゃんは額の汗をおしぼりで拭きながら心底驚いた顔を見せた。「でも、キーホルダーを持ってることでずっと腹の調子は良かったんだろ? あれを失くした途端にまた痛くなったって聞いたけど。いや、俺には天沢ちゃんに不思議な力があるとかそういうのは分からねえよ。でも実際にお前のお守りにはなってたんだろ? だったら効果があるんだよ。俺の宝物が息子を救うなんて最高じゃねえか。誰の、どんな力でも関係ねえよ。お前にはコスモ星丸のキーホルダーが必要なんだよ」
ほら、と言いながら父ちゃんはポケットに入れていた左手を出した。その手には失くしたはずのキーホルダーが握られていた。色が褪せた具合も、角が取れて丸みを帯びた形もそっくりだった。一瞬、あの日失くしたキーホルダーが時空の狭間に落ちて父ちゃんのポケットから再び現れたのかと思った。でもそんな訳はない。
「ははは、これって」思わず笑ってしまった。もう一つのキーホルダーを手にとって眺める。
「父ちゃんのキーホルダーか」
そうだ。コスモ星丸のキーホルダーは元々二つあった。万博のお土産に買った父ちゃんのものと爺ちゃんのもの。俺が貰ったのは死んだ爺ちゃんのものだったはずだ。
「天沢ちゃんには力がなかったのかも知れないけどよ、俺にはあるから。お前からのエネルギーを右手に感じながら、左手で込めたぜ力。家族の宝物だよ。持ってけ。これが必要なんだろ」
「でもこれは、父ちゃんのだろ?」
嬉しかったが昔話を鮮明に思い出した後のことだった。このキーホルダーが父ちゃんにとってどれだけ大切なものだったかは理解しているつもりだ。ほとんど思い出を作れなかった爺ちゃんとの繋がりを唯一感じられる宝物のはずだ。いくら俺のお漏らしが深刻だからって簡単にもらうわけにはいかない。台風一過の川に捨てられた俺のキーホルダーだって、本来ならそうだ。確かに腹痛予防のお守りだった。あれが手元にあることで安心した。これがあれば絶対に漏らすことなんてないって思えた。そう信じられた。でもそれだけじゃなかったと思う。父ちゃんがくれた宝物だった。小三の頃にいなくなった父ちゃんがくれたプレゼントだったんだ。キーホルダーに触れていると、微かに父ちゃんを感じた。今どこにいるかも分からない父ちゃんと繋がっているって思えた。俺にとっても宝物だったんだ。それを簡単に渡すことなんて出来ない。でも。そうか。もし俺に子どもがいたとして。それなら渡せるか。子どもの危機をキーホルダーで救えるなら。
「まあ、そうなんだけどな。昔話したろ?」
「ああ、万博のお土産で買ってもらったんだろ。爺ちゃんにさ」
「ん? まあ、そうだな」
父ちゃんは歯切れ悪く答えた。
「そうなんだろ? 普段どこにも連れて行ってもらえなかったけど、万博だけは一緒に行った。爺ちゃんは癌で余命わずかだったから、最後に子どもとの思い出を作りたくてさ。違うのか?」
「いや、大体は合ってるけど細部は違うぞ。俺は万博には行ってない。確かにそのキーホルダーは親父に買ってもらったものだけど、多分どこかの土産物屋で買ったんだと思うぞ。あの頃は日本全国どこでも買えたんだ。万博が流行ってたからな」
「はあ? どういうことだよ」
「だからさ、万博に連れてってくれって頼んだんだよ、親父に。連れてってもらうんだって友達に大口叩いちまってピンチだったからよ。それで泣きながら頼んだの。当然断られた。それどころか怒られたんじゃなかったかな? 俺にそんなことを頼むなよ、とか言って。でもある日、どこかでコスモ星丸のキーホルダーを二つ買ってきた。もしかしたら買ってもいないかも知れない。誰かのお土産として貰ったやつかも知れないな、今考えると。それで言われたんだよ。そのキーホルダーで連れて行ってもらったふりをしろって。まあ親父も俺と同じように嘘つきだったからな。疑われたら一つはガキ大将にでもあげろって言うんだよ。そうすることで、周りにも信頼されるようになるからってさ。ま、俺は誰にもやらなかったけどな。二つとも懐に入れた。誰かにやっても、どうせ嘘だって思われるのは目に見えてたし。俺は嘘が上手いことで有名だったから。それにさ、嬉しかったんだ。親父からのプレゼントなんてもらったことなかったから。そんなだから大人になっても、子どもが生まれてもずっと手放せなくてよ。俺の宝物なんだ。でもお前にやる。俺も親父と一緒で、父親としてはなにもしてやれなかった。宝物をやるくらいなんてことはない」
父ちゃんは明らかに悦に入っていた。その顔は動画配信者のマコちゃんに戻っていた。キーホルダーにまつわる思い出が、以前聞いた話とは微妙に違っていた。つまりどっちかが嘘だってことだ。いや、どっちも嘘なのかも知れない。
父ちゃんの額から汗が落ちて、テーブルの水滴と混ざった。だけど、俺のために本気になったってのは本当なんだろう。嘘の気持ちだけじゃ、こんなに汗は流れないもんな。本気で、持ってもいない力を使って、どこから持ってきたかも分からないキーホルダーを目一杯握る。それが子どものためになるって本気で信じていないと出来ることじゃない。
「なんだよ、それ」
吐き捨てるように言った。その瞬間、腹痛なんてまるで感じなかったのは、さっきうんこを済ませたばかりだからだろうか。それとも。
了
キーホルダーが鼻の先を掠め、開け放してあった窓から外へ飛んでいった。放物線の着地点を流れる川は、午前中に直撃して去っていった台風のせいでかなり増水していた。見たこともない高さまで水嵩は増し、轟轟と怒れる大地の雄叫びみたいな音を立てていた。
一瞬息が止まった。代わりに心臓が一度大きく鳴った。全身が熱くなって、背中がぴりぴりと痒くなる。テーブルの上に視線を走らせた。スマホの隣にコスモ星丸のキーホルダーを確認することができて安心する。
「てめえ、聞いてんのかよ」
右の本格派の投げ終わりみたいに、右手右ももを高く上げたままの状態で葵が言った。冷めた表情で、ベッドに腰をかけたままの俺を見下ろしていた。彼女は怒りに任せて俺の部屋の合鍵を捨てた。学生時代にバイトしてプレゼントしたグッチのキーホルダーをつけたまま一切躊躇なく、むしろ俺に見せつけるみたいにその剛腕で窓の外へ放り投げたんだ。変わっちまうもんだなって思った。出会った頃は会話にも苦労するほど大人しい子だったのに。
「聞いてるよ。浮気なんてしてない」
「ネタはあがってるんだよ、クソが」
こんな風に品のない言葉を俺の前で使うようになったのは、いつからだったっけな。大学で同じサークルに入ってた頃はさ、先生や先輩に使う言葉が綺麗で、それで気になり始めたんだぜ、俺。それなのに。学生時代から付き合って今年で三年目か。お互いに就職もした。学生時代が遠い昔みたいだ。あの頃は概ね幸せだった。今は悪魔が不幸で塗り潰した画用紙に塗り残しを発見しては、その余白を幸せって思い込むような生活をしている。ま、大人になるってそんなもんだって聞くし、一人だけわがまま言ってても仕方がないよな。
「なに言ってんだよ。どうしたんだよ葵。それより合鍵どうすんだよ。流されたぞ」
俺は窓から首を出し、眼下を流れる準用河川を見下ろした。所々街灯に照らされて水が脈動しているのが分かるけど、アパートの二階からでは音の方が迫力があった。合鍵とキーホルダーは間違いなく流れに飲まれ、遥か彼方へと消えた。葵が川を狙って投げたのは分かっていた。最悪なことに先週から部屋のエアコンが壊れ、窓を開け放すことでなんとか凌いできたことを葵は知っていたからな。網戸なんて破れて役に立たねえんだよ。どうせ虫たちに食らわされるなら、窓を開け続けてたってそれほど被害は変わらない。こんな状況じゃなければ、葵は合鍵をゴミ箱とかシンクの中とかに捨てたはずだ。ほとぼりが冷めれば拾えるしな。過去にもそういうことはあった。あったからこそ、俺へのダメージが少ないって分かっていたんだろう。二度と戻って来ない場所へ投げ入れてこそ、ダメージは確かなものになり、自らの鉄の意思もアピールできる。物を捨てるってことは思い出を捨てるってことだ。一瞬頭を過ったとしても、中々実行に移せることじゃない。大したもんだよな。
「もういらないから捨てたんだよ。私がゴミをどこに捨てようが、おめえに関係ないだろうが」
「俺に関係なくても、ほら、今はエコとかそういう意識が浸透しているからさ」
「私には関係ない」
葵ははっきりと言い切った。関係ない生物なんていない。売り言葉に買い言葉だとしてもひどい発言だった。こういう人類は俺の方舟には乗せられないな。
大体浮気ってなんなんだよ。今日は水曜日だった。社会人にとって夢も希望も感じられない水曜日の夜だ。月曜日の午前中から苦痛を感じ続けてなんとか週の折り返し地点まできたけど、休みまではまだ二日もある。疲れていた。早めに寝るのも勿体ないので、サブスクでドラマを一気見しながら寝落ちするつもりだった。でも葵がやって来た。やって来るなり俺を責めた。「哲也、私になにか言う事あるでしょ?」の鎌かけから「浮気してるって知ってるんだからね」の展開は早かった。こういう時、下手に言い訳をしちゃいけないって経験で分かっていたからクソみたいな理論にもじっくり耳を傾けていたのに「なんか言いなさいよ」だ。で、弁解をすると「言い訳すんな」でフィニッシュ。合鍵を捨てられ、恫喝は終わらない。もしかしたらあの鍵は、俺を目掛けて投げたのかも知れないな。
「ちょっと落ち着きなさいよ。一人で興奮してるだけだって。な? 葵の友達がさ、俺と知らない女が手を繋いで歩いてるのを見たってのを根拠に騒いでるわけだろ? 何度も言うけど人違いなんだって。そんなの証拠にならないよ。そんなことで喧嘩してたらこの先やっていけないよ。まずは冷静になって確かめて、それでも不満なら対話を重ねればいいじゃん。話しにならないよ」
「じゃあ浮気してない証拠を見せてよ」
「それがないんだよ。俺の話を信じてもらうしかない」
と言いながらも、俺の視線はテーブルの上に吸い寄せられた。証拠という言葉に反応して自分のスマホを見てしまった。まずい、と思った。視線を葵の元に戻すと、彼女が俺の視線を追っていることに気付いた。やっぱりまずい。俺はベッドに腰を掛けている体勢で、葵はテレビの前に立っていた。ローテーブルはちょうど二人の真ん中にある。葵の視線が再び移動し、俺達の目が合った。その瞬間、俺は猫科の野生動物みたいに体をしならせてテーブルに飛びついた。葵もカンガルーみたいに力強く跳ねたのが見えた。二人の伸ばした手がスマホに伸びる。球際に強いのは俺の方だった。一瞬早くスマホに触れると、腹のあたりまで引き寄せて肘を振り回した。
「スマホ見せろよ」
葵が俺の脇腹に蹴りを入れながら叫んだ。ちょうど良いところに入ったみたいで目眩がした。それでも俺はうつ伏せになって、体と肘と床でスマホをガードした。もう一度、今度は拳を同じ場所へ的確に叩きつけられる。彼女の拳は小さかったけれど、それが功を奏したみたいだ。ガードをすり抜け、蹴りを入れた場所へ寸分違わずヒットすることが出来たんだから。思わずえずいた。脇腹から吐き気がせり上がってきて、気付くと「おええ」という声が漏れていた。それでもガードを下げるつもりはなかった。冷や汗をかきながら必死に耐えた。
しばらく猛攻が続いた。もうなにをされているのか分からなかった。もしかしたら床を三回くらい転がされたかも知れない。ようやく暴力の雨がやんだ。攻め疲れってやつだな。俺は腕の隙間から葵を見上げた。予想通りこちらを見下ろしながら、肩で息をする彼女の姿がそこにあった。披露困憊って感じだったけど目は死んでいなかった。悔しさが全身を支配して、なにをすれば俺がより傷つくか熟考してるみたいな意地悪な表情だった。
目が合った。顔を上げる。その様子を見て、葵が動いた。テーブルに置いてあった俺のキーホルダーを手に取った。コスモ星丸のキーホルダーをだ。俺は腕を伸ばすことしか出来なかった。しこたま殴られて、体が言う事をきかなかった。
「こんなもの」
葵が振りかぶった。美しい投球フォームだった。俺が好きなタイプのピッチングフォームだ。彼女の指先から放たれたキーホルダーは、再び夢の放物線を描いた。呆気ないほどすんなりと、窓の外に消えていく。
「あー、あー、あー」
意味のない言葉を叫ぶことしか出来なかった。さっきまでの体の痛みが嘘のようだった。跳ねるように立ち上がってもなにも感じなかった。ただ熱いだけだ。痛くはない。窓から顔を出してキーホルダーの行方を探す。感じるのは増水した川の流れと、自然が物理法則に従う音だけ。同様の軌道を描いたグッチのキーホルダーがこの世から消えたんだから、コスモ星丸も同じ運命を辿るのは分かっていた。でも諦めきれなかった。
「あー、あー、あー」
今度はそう言って葵を見た。責めたつもりだった。だけど意味がなかった。彼女はコスモ星丸にどんな意味があるのか知らなかった。以前鼻で笑われて「キーホルダー買ってあげようか?」なんて言われたこともあるし。スマホをビーチフラッグできなくて、腹いせに隣にあった物を投げ捨てただけ。それだけだったはずだ。だけど、俺が乱心したのを見て満足したようだった。なんだか分からないけれど、ようやく致命傷を負わせることが出来たって顔だった。わざと勝ち誇った表情を作って俺のことを挑発する。
「あー、あー、あー」
俺は葵を突き飛ばした。あれだけ暴力を振るわれても、耐え忍ぶだけだけだったのに今回ばかりは手が出た。でも暴力が目的ではなかった。外に出たかった。葵は玄関まで向かう動線上に立っていた。だから押しのけた。アパートの裏に回って川の様子を見に行きたかったんだ。もしかしたら見つかるかも知れない。興奮した頭にはそんな希望しか見えていなかった。ちくしょう。こんなことが許されるのか。
「どこ行くんだよ。逃げるのかよ。帰ってきても私はもういないと思えよ」
まだやってやがる。最早お前との関係なんてどうでもいいんだ。
「あー、あー、あー」
こっちだって捨て台詞を吐こうとしたけど上手く口が回らなかった。裸足のまま玄関から飛び出し、アパートの階段を駆け下りた。建物の裏に回って川との境のネットフェンスに顔を押し付ける。大量の水の流れが絶望の音を奏でていた。こんなことが許されるのか。もう一度心の中で呟いた。誰からも返事はなかった。俺は一人だった。くぅーと腹が鳴った。懐かしい鳴き声だった。腹の虫が「僕がいるじゃないか」って慰めてくれているようだった。嫌な予感がし始めていた。
■八
まずは飼い犬が吠えた。獲物を見つけたみたいに激しく吠えて、首輪でリードをこれでもかと引っ張る。飼い主はいかにも老いさらばえて足腰の弱ったたお婆ちゃんで、いつ犬が人間の支配から逃れることに成功するか分からなかった。お婆ちゃんは完全に犬に引きずられていた。犬の鳴き声とその剣幕には驚いたが、たとえば脇に飛び退くみたいなことはしなかった。そんな元気はなかった。俺はその時俯き加減で歩いていて、犬の声に気付いてふっと顔を上げたくらいのものだった。今にも飛びかかってきそうな犬と、必死にリードを引っ張るお婆ちゃんが目に入ったけど、来るなら来いくらいにしか思わなかった。結局お婆ちゃんが動物虐待ぎりぎりのグーパンチを犬の背中に何発か入れたことで、俺は噛まれずに済んだ。
「ごめんなさいね」
腹に良いのを入れられて放心状態の犬を、今度はお婆ちゃんが引きずっていく。すれ違う瞬間こちらに柔和な表情を見せるが、犬に吠えられるよりこの時の方がよっぽどぞっとしたね。平気でペットをぶん殴れる人間の笑顔なんて信用できない。
「ええ、おはようございます」
俺は疲れ切った体に鞭打って頷いた。これが今見せることが出来る最大限の礼儀だった。長年生き永らえてきたサイコパスに目をつけられたくはないもんな。凶暴な犬には同情した。動物として正しい反応を取っただけだ。早朝の住宅街、いつもの散歩道でずぶ濡れの人間に出会ったならそりゃ驚くだろう。
真夜中にキーホルダーを探し始めて、川沿いを随分と下流まで来てしまっていた。途中、瓶ビールの蓋を獲物と間違えて水嵩の増した川に飛び込んだ時は死を覚悟した。都会の川を流されたおかげで、ゴミが溜まって中洲みたいになっている場所に引っ掛かり命拾いした。あの瞬間は、不法投棄された自転車の持ち主に感謝したもんだね。命の危険にさらされても尚、キーホルダーを探すのをやめられなかった。溺れた時に分かった。大自然は半端じゃないなって。自分の体なんてものともしなかったぜ。七十キロ近い物体を軽々と下流へ運んでいくだから、精々十グラム程度のキーホルダーなんて今頃太平洋の藻屑となっているんじゃないかって思えた。だけど諦められなかった。反対に、すぐ先の足元に落ちているような気もしたし。
日が昇ってしばらく経ってからようやく我に返った。今日も仕事だ。夏で良かった。日が昇るのが早いから。裸足で、服はずぶ濡れだった。俺の命を救ったチャリの錆びついた部品が等価交換を申し出て、着ていたTシャツを肩口から背中側の裾にかけて切り裂いていた。普段はドブ川って表現する水の中を泳いだのと、真剣に捜索活動に従事してかいた汗のせいで嫌な臭いをぷんぷんと発していた。
犬に吠えられてからも三十分以上歩いた。通行人も多くなってきた。皆、俺のことを不審者と決めつけた目で見た。違う。俺はピアノマンだ。ずぶ濡れの記憶喪失で、理由もわからずこの街を彷徨っているんだってふりをした。あまりに恥ずかしかったからな。
自宅アパートに辿り着くと、玄関が開いていた。葵はいなかった。不用心な女だ。帰るなら帰るで施錠くらいしていってほしいもんだね、と思った。が、鍵は全部失くなったことを思い出した。俺はそれを探しに真夏の大冒険に出かけたわけだし。コスモ星丸もグッチも失くなった。合鍵はもうない。しばらくは無施錠生活だな。疲れていたしどうでも良かった。どうせ盗られるようなものはなにもない。唯一盗られたくなかったものは、川に流されていった。それよりも、これから出勤しなければならないって事実の方が、よっぽど差し迫った脅威だった。
寝不足のまま出社した。覇気のない顔で社内をうろうろとして、今日は最低限のパフォーマンスしか発揮できないことをアピールした。演技力がなかったせいか、ランチタイムを迎える前に先輩からどやされた。ただ席についていたり、物を右から左に運んだり、キーボードを叩いてみたり、俺のやる気を疑う上司から面談の申込みがあったりするだけの時間が過ぎた。
その間、俺はずっと腹の調子を気にかけていた。弊社で扱っているオフィス用機器のことなんて気にもかけなかった。そんなこと随分と久しぶりだった。小学生の頃の一時期、恐怖のどん底に突き落とされただけなのに。腹痛への恐怖は俺の体に染み付いているらしい。あの時以降、一般的な腹痛を感じることならあった。みかんを食べすぎて下痢が止まらないこともあった。ウイルスに感染してトイレから出られなくなったこともあった。もちろん、普通のなんてことない便意を長時間我慢したこともある。だけど小三の頃の、トイレで神様を呪うような、いやトイレにいなくても呪い続けるような状態におちいったことはなかった。コスモ星丸のキーホルダーがあったからだ。トイレまでの距離がやけに長く感じた時、俺はポケットのキーホルダーを握った。個室を占領している誰かを目から飛び出る殺意のビームでやっつけながら便意を我慢している時も、俺はキーホルダーに触れていた。そうしてなんとかやり過ごしてきたんだ。今更あのキーホルダーに不思議な力があるとは思わない。確かに子供の頃に、あの不思議な力を入れてもらってから腹の調子は落ち着いた。でもそれはさ、積極的にかかりにいった暗示みたいなもので科学的根拠なんてないって分かってる。分かっているけど、お漏らししないためのお守りになっていたのは確実だ。お漏らししない期間が長ければ長いほど、その効果は自分の中で絶大になっていった。今じゃ、手放すことの出来ないラッキーアイテムだった。
それを失くした。もし平穏な生活を送るための片道切符じゃなかったとしても、あれは父ちゃんの形見みたいなものなんだぞ。それを簡単に捨てるなんて、葵のやつ改めてとんでもない女狐に化けたもんだよ。もしかしたら、気にしなければそれで済む問題なのかも知れない。もう腹の調子はすっかり治っていて、というかあの時期だけ調子が悪くて、キーホルダーなんて関係なく健康体なのかも知れない。だけど断然気になった。喪失感と危機感がない交ぜになって、今はまだ感じない腹痛を生み出そうとしいた。
定時になった途端、俺は会社を飛び出した。仕事は残っていた。今日一日なにもしなかったんだから当然だ。上司や先輩は度肝を抜かれたような表情で俺を見送った。あいつ今日なにしに来たんだ? ってハテナが頭の上に浮かんでいた。取り敢えず、腹の調子が危機に瀕することはなかった。気にし過ぎたせいで、違和感を感じた程度だ。それにしたって、隣の席に座る先輩に向けてちょいと尻を上げながらガスを発射することで解消できた。そう、昼前に俺へ小言を食らわした先輩に、ちょっとした仕返しをしていたわけだ。そんな感じでなんとか一日をやり過ごしただけだ。しかしまだ安心はできない。早めに帰宅して、自分の体を労るべきだろう。
電車に乗ると、いつもより若干空いている気がした。定時で帰宅したことにより、ラッシュの時間帯を避けられたんだろう。腹に残る違和感を、なんとか宥めようと俺は無心になった。なにも考えたくはなかった。自分で自分を追い込み、変なプレッシャーを感じることで余計に腹の調子が悪くなるということは分かっていた。
自宅の最寄り駅に到着する直前に、本当に腹がちくちくと痛み出したような気がした。でも俺はそのサインを無視した。気にするから調子に乗るんだ。子どものいたずらと一緒。こっちが大げさに反応すると嵩に懸かってエスカレートする。だから電車をおりた後、すぐそこにあった駅のトイレもスルーした。トイレを意識することで、余計に腹が痛くなりそうで怖かった。これくらいの痛みなら、ガス抜き一発で簡単に治るって思ったし。改札をくぐった辺りで、もう無視なんて出来なくなった。こりゃいかんわ。本物だわ。軽率に屁なんてこけんわ。
足を止めて改札の向こう側を見る。駅のトイレに戻った方がいいだろうか。それとも帰宅ルートにあるコンビニのトイレを狙った方が確実か。こういう時、それが不合理な選択だと理解していても必ず前に進んでしまうのはどうしてだろうな? 再度改札をくぐって駅のトイレに向かう方が絶対に時間はかからないはずなのに、俺はこの時も前進することを選んだ。なんかその方が文字通り前向きに行動しているようで心理的負担が軽くなるからだろうか。
少し腰を曲げ、踵を地面につけないトイレゾンビ独特の歩き方でコンビニに向かった。腰を曲げることで腹を労れるような気がしたし、つま先立ちをすることで吸収できない衝撃を、踵を通して食らうこともなかった。ま、そんな小細工なんて関係なく、刻一刻と限界は近づいてきていたけどな。駅から一番近いコンビニに辿り着いた時、俺はすっかり汗だくになっていた。社会人になって初めて漏らしてしまうかも知れないって恐怖で頭も真っ白になっていた。俺の目には、もうトイレしか見えていない。チャクラを開いて第三の目で見ても、トイレしか映っていない。
「いらっしゃいませっ」
コンビニの店員にしてはやけに愛想が良かった。息も絶え絶えに店内へ進入した俺へ、警戒心のない満面の笑みを見せていた。今月の満点スマイル賞ものだ。職業差別をするわけじゃないが、この店で埋もれるには惜しい人材だった。彼にはもっと相応しい場所があると思った。俺は店員の声かけを無視して、真っ直ぐトレイに向かった。いくらコンビニ店員として天性の才能があるとはいえ、今にも決壊しそうなダムを尻に抱えた人間を癒やすことなんてできないってことだな。途中、間違えてバックヤードの扉を開けてしまって「お客様」と店員から声をかけられた時も、大いなる不満を主張するために、過去最大の舌打ちをして対応した。店員はしゅんとして肩をすくめていたが、俺には関係ない。
最近めっきりと縮小してしまった雑誌コーナーの傍らに楽園への扉を見つけると、そこへ不格好な動きのまま飛び込んだ。正面に洗面台があって、左右に一つずつ個室の扉があるレイアウトだった。両方とも引き戸にバーハンドルがついていて、バリアフリーに配慮されているようだった。右側の扉のむこうは男性用の小便器。こちらは扉が少し開いていた。中を覗くと一人が立って用を足すのがやっとのスペースしかこさえられていない。その奥に掃除用具置き場が設置されている。問題外だ。ここに用はない。まだ個室には入っていないとはいえ、ここはもうトイレだ。俺は見てくれなんて気にせずに右手で左右の臀部を強く握り、物理的に肛門を閉じながらもじもじと振り返った。左側の扉。そこには男女兼用のプレートが掛けられていた。左手でバーを引く。なにぶん右手は他の用事に駆り出されていたものでね。開かない。手元を確認する。表示錠が非情の赤を展開している。誰かが入っている。クソが。ぐっと唇を噛み締めた。一瞬怒涛のノックを炸裂させようと拳を握るが、理性がそれを止める。誰かに排便を催促するなんて、そんなみっともない真似は出来ない。それじゃあ、俺のうんこを奢ってもらうみたいじゃないか。
とはいえ焦った。少し前までは腹に入っているのが固いあいつなのか、柔らかいあいつなのかは分からなかった。予想することは出来るけど、本当のところは分からない。もう水より薄い液体状のうんこがすぐそこまで迫っていると思ってトイレへ急ぐと、意外にも健康的なものがひりでることだってある。そういう、出てからのお楽しみみたいなもんでもあるんだよ。ところが今や、腹の中にあるのは下痢だって確信できた。もしまだ固形を保っている部分があったとしても、肛門のすぐ裏側で括約筋達によって液体に濾されているだろう。それくらい強烈な痛みが腹に差し込んでいた。
ひっひっふー。ラマーズ法が有効だった。いや、本当に有効なのかは分からない。なんとか痛みを体と脳から外に流そうと決意した時、勝手にそんな形で呼吸をしていた。決死の光線を目から発射して、親の仇を睨みつけるように赤の表示を見つめた。意思の力によって鍵を開けようとしていたのかもしれない。
もう我慢の限界だ。一か八かの賭けに出る時がやってきた。今、肛門のすぐそばで順番待ちをしている気の早い一派の、次の一手には耐えられそうもない。俺が出来ることといったら、それがブラフのガスだと仮定して慎重に尻の穴から出すことだけだ。一派の本陣だったらそこで終了。奴らのブラフだったら後五分は耐えられるかも知れない。そんな賭けだ。表示錠を確認する。まだ赤のまま。考えている暇なんてない。俺は最悪の事態に備えた。備えたっていっても、震える膝に鞭打って、壁際に移動しただけだけどな。だって考えようによっちゃ、今この時こそ最悪の事態なわけだし。全神経を肛門周りの肌、そして筋肉に集中させた。ゆっくりと感触を確かめながら肛門を開く。すぅ。寝ぼけたような音と共にガスが抜けていく感覚があった。それでも警戒は怠らなかった。まずはガスで油断させ、その後で本陣を外界へ送り込む二段構えの奇襲をしてくるかも知れない。目を瞑り、集中を解かずにいきみ続ける。すぅぅぅ、すぅ。最後のすぅでガスが抜け切った。くせえ。くせえが、賭けには勝った。下半身を中心に安堵の鳥肌が広がる。
それでも変わらず便意はあった。十段階でいうところの八はあった。どんなにのんびりとした性格の奴でもトイレに立つだろうし、赤ちゃんなら泣き喚いて不快感をあらわにするレベルだった。でも俺がさっきまで味わっていたのは十段階で十七の便意だ。それに比べれば大したことはない。目論見通り後五分は我慢できそうだった。
カチャっと音が鳴り、表示錠が青に変わった。なるべく姿勢を正した。相手だって、一勝負終わって扉を開けたらそこに漏らす寸前って態度の男が立っていたら嫌だろう。壁に寄りかかり、いかにも買い物ついでにトイレに寄った紳士を演じた。いかんせん、さっき充満させた屁の臭いを誤魔化すことは出来なかったが、それすら俺が放ったものではないって顔を堂々と作ってみせた。
扉が開くと、そこに立っていたのは女性だった。ただの女性ではない。屁の臭いを嗅がすのが申し訳なくなるほど綺麗な女性だ。お、良い女だな。確かに一瞬そう思ったよ。この女の後にトイレに入るのも悪くないだろうってな。だって仕方がないだろう。コンビニのトイレは基本的には男女兼用なんだから。文句なら店員に言えよ。女が洗面台の前まで来るのを待って、俺は個室のドアへ飛びついた。これは我慢できなかった。いくら紳士ぶっても念願のガンダーラを前にしたら少しでも早く辿り着きたいって考えてしまうのは当たり前だと思う。バーを持ち、さっきは動かなかった方向へ扉を引く。すると、そこで背中を叩かれた。ダメージを与えるような刺激ではなく、注意を促すような叩き方だった。
「やめてもらいたいんですけど。女性が入った後ですよ」
この個室の前任者が、汚いものでも見るような冷酷な顔をして言った。ハンカチで鼻を覆っているところを見ると、存分にガスの臭いを吸い込んでしまったようだ。
「男女兼用ですから」
俺は扉に掲げてあるプレートを指さした。本当なら一刻も早く個室にこもりたかったが常識的な大人として振る舞った。どうやら、絶対に我慢の出来ない第二波が迫ってきているようだった。第一波をやり過ごし、洗面所を毒ガスで満たした恩恵はそれほど長く続かなかったらしい。
「ふん」女はプレートを殺し屋みたいな目つきで一瞥して鼻で笑った。「だからって常識で物事を考えられないんですか?」
こいつ。多様性に前頭葉をファックでもされたのか? 常識を語っていいのはこっちだし、お前がのうのうと便器を不法占拠している間、石に穴があくほどの強度で深く考え続けたのもこっちだ。便意は思考を強くさせるんだよ。大体それを俺に言ってどうするんだ? 男女兼用のプレートを堂々と掲げた店側に主張するべき意見だろう。一瞬呆気に取られたね。ぽかんとしてしまって、ここで言うべき百の正論は喉の奥に詰まったままになった。なにより自分の体の中で燻っている火種は余談を許さない状況だった。
女を無視して素早く個室に入り、鍵を閉める。赤は止まれだ馬鹿野郎。個室の中には芳香剤の微かな花の香りが漂っていた。そして、確かな大便の香りも。あの女の置き土産ってところだろうな。これを嗅がれるのが恥ずかしかったんだろうが、生憎そんな性癖は持ち合わせていない。ましてや、この切羽詰まった状況で性的に興奮なんて出来るか? 心配なんてしなくていい。俺はたった今路上生活者がひどく汚したトイレでも喜んで使うつもりだ。ま、コンプライアンスに脳幹を亀甲縛りされたような頭では、そこら辺の機微を想像することもできないんだろうな。
個室の中は意外と広かった。三畳くらいはあるだろうか。車椅子でも入れるサイズだった。俺が便器に辿り着くより前に、トラブルの予感で駆けつけた店員が女とタッグを組んだ声が聞こえた。恥ずかしげもなくトイレをノックし「お客さん」なんて言っている。扉のむこうで何が起ころうと知ったことではない。どうせあの店員は、満面の笑顔を無碍にされた恨みを晴らそうとしているだけだ。それか俺のことを何も買わないでトイレだけ使う不届き者のトイレ泥棒だと思っているのか。ふざけるな。一勝負終わったら、戦利品としてコーヒーの一杯くらい買って帰ろうと思っていたさ。
二人の行動には心底腹が立った。そして怒りと同時に更に強く便意が湧き上がった。乱暴にベルトを緩めズボンとパンツを同時に下げながら、勢い良く便座に座ろうとした。見切り発車気味にゴーサインを出そうとした瞬間、視界がくるりと反転した。腰と側頭部に衝撃が走った。少し遅れて右肘に鈍い痛みが広がる。
長時間便意と格闘をしたことで、俺の太もも裏は汗で濡れていた。エンジンオイルさながらに便座との摩擦がゼロになった結果、俺は座ろうとした勢いを殺せずに便座から転げ落ちたのだ。便座に脇腹を打ち付けながら、タイル張りの床に腰から落下した。何が起きたか分からなかったから、当然その衝撃を殺すことなんて出来ず、最終的にこめかみの近くを便座にぶつけた。無意識の体の反応で、落下中手で支えるものを探したもんだから、右肘が便座の裏側に挟まり、しかし重力を無視することが出来ずに全体重がかかった結果、便器に関節を極められるっていう奇妙な構図が生まれたわけだ。
頭を打ったせいで、意識がはっきりとしなかった。くらくらと地面が揺れ、視界は靄がかかったように滲んでいた。いや、一瞬ではあるがはっきりと気絶したんだと思う。だって意識を失ったことによって肛門括約筋が緩み、タイルにヘドロを撒き散らしていたから。ぼんやりとした頭の片隅に、茶色い液体が生息地域を求めるかのようにゆっくりと広がっていく様子が映った。
「大丈夫ですか? すごい音がしましたけど」
個室の外から声が聞こえた。俺は何故か「平気だ」って叫んでいた。まるで自分の声じゃないみたいだ。これが生存本能ってやつか。だって全然平気じゃなかったから。叫んだ時に腹に力が入ったのか、ナチスがヨーロッパを侵略した時の世界地図みたいに、下痢便が勢いよく床を侵食した。これが大丈夫なら、殺人だって無罪ってことになるだろう。
勢力を拡大したヘドロが、いよいよズボンに到達しそうになって俺は慌てて腰を上げた。ところが、思わぬ場所へ東プロイセンみたいな飛地を作っていた排泄物を踏んでしまった。結局そのぬかるみに足を取られて再び転倒することになるのだが、右腕は便器にストレートアームバーを極められたままだったから今度も受け身を取れなかった。後頭部を強かに床へ痛打した。自分の下痢が若干のクッションになったとしても、かなりの勢いで打ちつけた。ああ、世界を侵略しようとするナチス軍のど真ん中に俺の後頭部が投下されたんだよ。
はっきり言って腹痛に殺されるって思ったね。体中が痛かった。息をするのがやっとの状況だ。そして、のたうち回ったせいでスーツはひどい有様だった。クリーニングに出すにしても、その前に覚悟を決めて自宅で水洗いする必要があるだろう。こうなった原因は明らかだった。腹痛だ。ただの腹痛に俺は殺されかけたんだ。自分の汚物にまみれ、コンビニのトイレで昏倒した今の状況すら幸運に思えた。一歩間違えば、情けない謎の死を遂げるところだった。俺はこんな形で死にたくはない。
最後の力を振り絞り立ち上がる。ゆっくりと慎重に右手を便座の裏から引き抜いた。扉の外は更に騒がしくなっているが、しこたま頭を打ったことで余計な雑音が気にならなくなっていた。死にかけた人間に、人間社会のクレームなんて通用しないってことだ。ふと壁を見ると手書きのポスターが貼ってあることに気付いた。読もうとするが焦点が合わない。しっかりしろ。両手で頬を張る。顔にべっとりと汚物がついた。ちくしょう、こんなところにも。手の平を確認すると、汚れがこびりついているのが分かった。きっとどろんこ遊びさながらに床をのたうち回った時に触れてしまったのだろう。だけど、頬の痛みで意識ははっきりした。どうせ髪の毛まで汚れているんだ。今更顔なんてどうということもない。張り紙には「三十分以上のご使用はお控えください」とある。その後は安全確認のため店員が解錠するか、警察に連絡をする場合があるらしい。ということはまだ二十分以上あるってことだな。外の連中がいくら騒いだところで、個室を利用する権利は俺にある。便器周辺のグラウンド・ゼロから距離を取り、改めてその惨状を眺めた。悲惨だった。きっと俺自身はもっと哀れな状況になっているのだろう。頭が痛んだ。打った場所も痛かったし、現状を切り抜ける方法を考えようとすると鈍痛が走った。全て腹痛がもたらした結果だった。このままではまずい。一刻も早く解決策を見つけなくてはならない。
■九
なんとかしないといけない。子どもじゃないんだから。大人が、社会人が、日常的にギリギリの腹痛に晒され、いつも漏らすか漏らさないかの瀬戸際にいるなんて許されない事態だ。コンビニのトイレでは危なかった。命の危険が迫ることで目が覚めた。腹痛は人を殺す。肉体的にも、そして社会的にも。たかが腹痛、されど腹痛ってところだな。
コンビニでの出来事は、自分の中でなんとかギリギリセーフと解釈することにした。危なかったけれど、なんとか持ちこたえた思い出として、記憶の棚にしまうことにした。変な女に絡まれて、スーツは結局破棄することになったけれど、なんとか持ちこたえた。あの後二十分かけて個室内を清掃し、体中にこびりついた汚物を拭き取ることでやり過ごすことが出来たんだ。個室には洗面台がなかった。だから当然体は、トイレットペーパーを便器の水に浸して使うことで綺麗にした。体中から発することになった臭いは如何ともし難かったが、俺自身が発している臭いなのか、トイレに充満した臭いかなんて誰にも分かりはしない。意を決してトイレの扉を開け、堂々と外に出たよ。誇らしかったな。変な女と愛想の良い店員は俺の姿を見るなり後ずさった。多分俺が出てきたら、どんな風に罵倒してやろうかを散々考えていたはずだ。じゃなきゃ見知らぬ男のクソを三十分近く待つことなんて出来ない。でもあいつらは何も言えなかった。空いた口を塞いで、ついでに鼻まで指で塞いでいた。俺か個室から、とんでもない臭いがしていたんだろう。空いた空間にさっと体を入れて、狭い洗面所を脱出。結局何も買わずにコンビニを後にしたってわけだ。結局のところ、俺はあの時パンツに漏らしたわけではない。場所もトイレの個室だった。排便という概念を拡大解釈すれば、通常通りのお通じだったと言えるだろう。だからギリギリセーフ。実に危なかった。
だが、そんな幸運いつまでも続かないことは分かっている。いつか、公衆の面前で完膚なきまでに漏らすに決まっている。一度でもそんなことがあれば、俺は社会的に終わってしまうんだ。しかもキーホルダーを失くしてからというもの、日に日に腹の調子は悪くなってきている。忘れかけていた小三の頃の感覚に近づいてきているって言えるだろう。あの時は子どもだった。今にも漏らしそうな人間を助けてくれるセーフティーネットがあった。保健室登校なんて、今考えればよく出来た制度だよな。大人たちもなにかと助けてくれた。それがどうだ? 今は誰も助けてくれない。腹痛っていうスティグマに晒され、自己責任で生きるだけだ。しかも、あの頃みたいにピチピチの肛門括約筋を持ってはいない。約十五年怠けていたせいで、どうやら俺の括約筋は衰えているらしかった。ここぞ、という時の踏ん張りが効かない。本気で尻の穴を締めていても、どこかやわになってしまった感覚があった。どうやって鍛えていいかも分からない場所だ。これはいただけない。
病院には行った。俺も馬鹿じゃない。子どもでもない。体に不調があったら、すぐに病院だ。散々待たされたあげく、医者が問診のみの精密検査なしで導き出した答えはストレス性の過敏性腸症候群だとよ。だから? って感じだ。薬も貰った。薬剤師が違法なドラッグでも手渡すみたいに「注意して飲まないと、本当に便秘で苦しむことになりますから」って小声で注意をして薬を渡してきた。こっちも、それで? って感じだった。医者も薬剤師もガキの頃から俺達を出し抜こうと企んで必死に勉強した結果、俺にアホみたいなアドバイスしか出来ないんだから笑えるよな。お前らのガリ勉は、俺の腹痛にはクソの役にも立たなかったなって言って、その場で漏らしてやりたい気分だった。
病名が分かっても、薬を飲んでも腹痛は治らなかった。馬鹿な医者とその子分の薬剤師のおかげで、やることは明確になった。俺にはキーホルダーが必要だった。ただのキーホルダーじゃない。あの教祖の力が込められたキーホルダーが必要だったんだ。西洋医学では俺の腹痛は治せない。かと言って、東洋医学で内側からじわじわと、なんてやっている暇はない。そんなことをしている間に、十回は社会的に死ぬだろう。
今すぐ教祖を探し出す必要がある。そして再び例の力を込めてもらうんだ。とんちんかんなことを言っているのは分かっている。怪しい宗教家にインチキパワーを込められたキーホルダーを後生大事に持ち歩いて、それで腹痛が収まるわけがない。ましてや、そのキーホルダーを最近失くしたことで腹痛がぶり返したなんてあり得ない。結局は気の持ちようで、精神的な問題でしかないはずだ。でも、俺はそれで十五年世界と戦ってきたんだ。インチキを能動的に盲信して、肌身離さず持ち歩くことで腹痛を克服したんだよ。上手くいってたんだ。医者の言う事を信じて、薬剤師に媚びへつらってそれで病が治る間抜けも多いんだから同じことだろう。
早速行動を開始した。そうと決めたら素早く行動できるのが、俺の長所の一つだから。まずは当時を知る友人に連絡を取る必要があった。晋ちゃんや長谷、大ちゃんとかあの辺の連中だ。あいつらとは中学に入ってからそれほど仲良くはしていなかった。別に憎しみ合っていたわけじゃない。喧嘩もなかった。ただ、大人になる過程で趣味や趣向が変わるなんてよくあることだろ? 次第になんとなく所属するグループが変わって、交流も少なくなった。中学卒業以降は別々の高校に進学したし、今何をやっているかも知らない。だけど、大ちゃんとは成人式で連絡先だけは交換していた。あいつ、すっかり痩せちまっていて不憫な見た目をしていたんだ。それで気になって声をかけた。女にモテたくて、高校を卒業した後必死こいてダイエットに励んだんだと。気付くのが遅すぎるだろって思った。急激で病的なダイエットをしてなんとか生きてるって感じだったから、成人式の時がピークで今はきついリバウンドに晒されているかも知れない。もちろん大ちゃんが、成人式で女にはモテることなんてなかった。それがまた悲しかった。
そうだ。大ちゃんはその時バンドを組んでいたんだ。誘われて一度ライブを見に行ってやったことがある。なかなか良かったよ、演奏は。大ちゃんはギターを弾いていた。子供の頃のイメージで語るなら、ドラム一択って感じだったから少し意外に思ったのを覚えている。イギー・ポップとかデビッド・ボウイとかその辺のカバーを演ってた。若者のニーズを無視したセットリストに、観客はぽかんとしてたよ。でも俺は楽しめた。バンドが最後の曲を演奏し終えるまでは。クールなボーカルが先にステージを去り、その後で感極まった大ちゃんが、バスキアの王冠が描かれたTシャツを脱ぎ始めた。それでそのシャツをステージから客席に投げた。女投げで。裸になった上半身には甘美なタンクトップの日焼け跡があった。それでおかま投げ。Tシャツは見るからに汗でびっしょりと濡れていた。観客は、彼らのライブ中にしっかりと休ませた反逆の心に火をつけて大きな悲鳴を上げた。黄金の弧を描いて客席の床に落ちたシャツはモーゼのような役割を果たした。皆が少しずつ端に避け、大ちゃんが投下したファットマンを中心に綺麗な円形が出来た。俺は情けなかった。
いくらライブが上手くいったっていう錯覚におちいっていたからって客観性をなくしちゃいけない。だから、群衆に押し出されたふりをして最初に大ちゃんのシャツを踏んだ。それを合図に一度引いた人の波が再び満ちた。何人もの靴底で大ちゃんのシャツはボロボロになった。ライブが終わる頃、便所の前でボロ雑巾のようになっている布の塊が目に入った。あれはTシャツだったのか。それともバーカウンターのダスターがなにかの拍子に床に落ちた結果だろうか。どちらにしろ、悲しかったな。ライブ終わりの大ちゃんに挨拶はしなかった。自分の愚行は自分が一番分かっていると思ったから。敢えて注意してやることもあるまい。おそらくその日以来大ちゃんと話していない。
というわけで、まずは大ちゃんに連絡をした。大ちゃんはあの宗教団体のことを覚えていなかった。いや、微かに記憶にはあるみたいだったけど、ほとんどうろ覚えで詳しいことは知らないような口ぶりだった。当然、教祖があの後どうしているのかなんて、全く興味を持っていなかった。大ちゃんは成人式で会った時の、今にも死にそうな話し方ではなく、昔の印象が残る、首の脂肪で声帯を圧迫されたような声の出し方をしていた。あれから数年が経ち、無事リバウンドを果たしたということだろう。大ちゃんには他の連中の連絡先を聞いた。意外だったのは、俺以外の全員が今でもそれなりに交流を持っていることだった。こっちはこっちで、自らあのグループを飛び出して広い世界を冒険しに行ったと思っていたけど、本当は追い出されたのかも知れないな。覚えてないけど。真実は闇の中ってわけだな。俺、なにやったんだろ?
晋ちゃんも長谷も亮介も村っちも、反応は大ちゃんと同じようなものだった。全員にとって、あの日の出来事は子どもの頃の淡い思い出でしかなかった。たとえば晋ちゃんが木登りで落下して骨を折った日とか、長谷が近所のおっさんに喧嘩を売って返り討ちに合った日とか、その辺の記憶と変わらないってことだろう。俺だって実際に晋ちゃんがどこで木登りをしていたかとか、長谷をぶん殴ったおっさんがどうしているかなんて知らないわけだし。
あの時の全員と昔話をして、どうにか奴らの記憶を刺激してやろうと思ったけれど、全部不発に終わった。大体があいつらは全員賢い子どもではなかった。記憶力も人より劣っているはずだ。元からないものを刺激しようと思っても、そりゃ上手くはいかない。疲れたがそれでも希望はあった。子どもだったから覚えていない、という可能性が大きかったからだ。それなら、当時既に大人だった関係者に話を聞けば良い。母ちゃんだ。
スマホを操作し、母ちゃんに連絡を取る。呼び出し音が鳴っている間に、何を話せば良いかを考えた。母ちゃんと宗教施設に乗り込んだ日のことはなんとなく覚えている。あんなに身近で誰かが警察に逮捕される様子なんて見たことがなかったし。それで母ちゃんが泣いたんだ。逮捕された教祖に俺がなにかされたんじゃないかって心配して。母ちゃんが思っているようなことではないけれど、確かになにかをされていた。そしてそれを、母ちゃんに言ってはいけないことだと認識していた。正直に告げても隠しても母ちゃんを傷付ける気がした。だからなかったことにした。あの日を振り返ることはなかった。母ちゃんから聞かれるようなこともなかった。母ちゃんがどんな気持ちで、あの宗教団体のことを無視したのかは分からない。俺と同じような気持ちだったのかも知れない。それとも、大人にとってあれはありきたりな日常に過ぎなくて、すぐに忘れてしまうような出来事だったのか? だとしたら母ちゃんは当時のことを覚えているのだろうか? 突然不安になる。
「なにかあった?」
母ちゃんの声は弾んでいた。スマホの近くにはいなくて、着信に気付いてから慌てて通話ボタンをタップしたのだろう。母ちゃんにはこういうところがある。ちょっと過保護というか。母子家庭で育った寂しさは俺にはあまりない。喪失感はあるし、出ていってから一度も会っていない父ちゃんに会いたい気持ちはある。でも寂しくはなかった。元々の性質がイカしたロンリーウルフタイプなのかも知れないし、寂しい思いをさせないように母ちゃんが必死になって育ててくれたからなのかも知れない。支えがあったってことだ。でも母ちゃんにはそれがない。元夫はどこかに消えた。爺ちゃんと婆ちゃんは生きてはいるけれど、すぐに会える距離には住んでいない。近くに住んでいたとしても母ちゃんの自立心旺盛な性格的に、頼ることなんて出来ないだろう。そんなだから、ちょっと息子の俺に依存している部分があるんだ。もちろん俺だって母ちゃんを支えようと努力はしたさ。でも今との間には反抗期を挟んでいるわけだろ? その頃の俺に母親を支えて生きるなんて選択肢はなかった。反抗抵抗対抗の時期に親への愛を歌う瞬間なんて訪れない。それでちょっと鬱陶しくなっちゃってさ。就職が決まった段階で家を出た。実家からそれほど離れていないアパートで一人暮らしをするのは、新入社員の安月給ではちょいとキツいものがあったけれど、母ちゃんにあれやこれやと世話を焼かれながら過ごすよりはマシだって思えた。気兼ねなく女を連れ込んで、朝から晩までヤりまくることも出来るわけだし。ああ、そうだ。どうやら葵とは正式には別れることになったらしい。あれからいくら連絡をしても無視されているしさ。それに葵と別れるきっかけになった浮気相手の陽菜とも結局上手くいかなかった。葵が捕まらないもんで、正式に付き合い始めようかと考えていたのに「あなたと付き合うつもりはない」なんてきっぱりと断られた。つまり俺は年上の女に体を弄ばれたってわけだ。何度かのセックスでご奉仕させていただけて大変光栄でございました。ああそうだよ。葵の想像通り、俺はしっかりと浮気をしていた。まったく女の勘ってのも大したもんだよな。完璧なまでのアリバイ工作も無敵の第六感で見抜いちまうんだから。それでも俺は陽菜を売るような真似だけはしなかったよ。最後まで沈黙を保った。葵のジェラシーを馬鹿にすることで丸く収めようと試みたりもした。その結果がこれか? あなたと付き合うつもりはないか? 今は腹痛に囚われたプリズナーなもんで、はっきり言って女関係のことを気にしている暇なんてないからいいものの、本当なら大声で泣いてしまうくらいショックだったよ。要は一人暮らしのメリットは、既に一つ死んだってことだ。今や母ちゃんの干渉から逃れるだけの家賃6万5千円。手取り十九万って話さ。
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「なによ? どうしたの? あんたが電話なんて珍しいじゃない。お金? お金の話なの?」
金は足りてねえよ。貯金もねえ。でも今はそんな話をしたいわけじゃない。母ちゃんの矢継ぎ早の質問は、実家にいた頃を思い出させた。だから嫌なんだ。
「違うって。そういう話じゃなくて。昔さ、近所に変な宗教があったろ。なんかインチキなことしてたみたいなやつ」
「あー、あったね。でもあんたが小学校の頃の話で、ずいぶん昔だよ」
「そこでさ、教祖みたいな人が逮捕されたのを一緒に見ただろ? 確か母ちゃんがちょうどカチコミに行く時でさ。覚えてる?」
「うん、覚えてるけど」母ちゃんの言葉は途端に歯切れが悪くなった。「それがどうしたのよ?」
「そういえばあの時の話、あんまりしてないよな。結構衝撃的だったけど」
「まあねえ。あんまり気持ちの良い思い出じゃないしね」
「なんか知ってんのかよ?」
「知らないよ、なんで?」
「だって変だろ。あんな小さい街でインチキ宗教家が逮捕されたんだぜ。それなのにさ、大人はその話一切しなかったろ? 子どもは馬鹿だから話題に上がらない噂話なんてすぐ忘れちまうって分かってるみたいだった」
「そんなのあんたの被害妄想でしょ。そうじゃなくて、私はあんたのことが心配だっただけ。ほら、あの時捕まった教祖って人、女の子にイタズラして捕まったでしょ? 覚えてる? もしかしたらあんたもなにかされたんじゃないかって気が気じゃなくてさ。でも、そんなの子どもに詳しく説明するわけにもいかなくて、本当に動揺してたの。それにあんたあの頃さ、お腹の調子が悪かったじゃない? ずっと下痢気味で。何回か学校にも行けないって泣いたこともあるし。多分私達の離婚でストレスを感じてたのよ。もし教祖になにかをされてたら、傷つくだけじゃなくてもっとお腹の調子も悪くなるだろうなって思った。だから、ただ黙って哲也の様子をそれまで以上に詳しく観察してただけ」
実家を離れた理由をもう一つ思い出した。母ちゃんはなにかっていうと、父ちゃんとの離婚を持ち出してめそめそとやり始める癖があるんだ。これが耐えられなかった。離婚なんて二人の問題だ。そりゃ子どもとしては両親が仲良く暮らしてくれるのが一番良いけど、一緒にいることで二人が不機嫌なまま生活するならいっそ別れてしまった方が良い。親が年中喧嘩をしているようなギスギスした家庭なんて耐えられないからな。そういう意味では父ちゃんと母ちゃんの離婚を受け入れていた。今になってそう思うってわけじゃなく、当時からそう思っていた。だから母ちゃんを責める気はさらさらない。勝手に消えた父ちゃんには文句を言いたくなることもあったけれど、母ちゃんにはない。それなのに、なにかと毎回離婚の話に繋げて、それで自己憐憫に走り出す。俺はなんて言ってやったらいいんだ? なにをすればいい? 答えは出なかった。実家にいる時は無機質な頷きでなんとかやってきた。肯定も否定もしない逃げの一手でやり過ごしたことが多かった。だけどそのやり方は自分自身を疲れさせるだけだった。手出しは出来ないがぴしゃりと正論をぶつけるわけにもいかない。結構早い段階で、俺は母ちゃんの離婚話が苦手になった。それでまた鬱陶しくなっちゃってさ。就職が決まったら家を出ようって決意したもんよ。
「ああ、分かったよそれは。別に母ちゃんを責めてるわけじゃないって。それにあの後、腹の調子は良くなったろ? だからあいつにはなにもされてないんだって。離婚のストレスも教祖のイタズラも関係ない。ただそういう時期だったってだけでさ」
「確かにね。しばらく気にしてたんだけど。あれ以降、お腹が痛いって騒がなくなったからそれで安心したのよ」
「そうだろ? それであいつについて、なにか覚えてることはないか?」
「なんなの急に? 私だってそんなに詳しくは知らないわよ。あんたがなにもされてなくて、街から犯罪者が消えたならそれで別に構わないんだから」
「詳しくなくても、知ってることを教えてくれよ。頼むよ」
声の調子をニュートラルに保つのが難しかった。あんまり悲壮な具合にしてしまうと、母ちゃんは必要以上に心配してパニックにおちいるだろう。ただ、あんまり軽々しく話しても駄目だ。この人は真剣に取り合わず「分からない」で押し通そうとしてくる。たとえなにかを隠しているわけではなくても、ただ思い出すのが面倒で「知らない」「分からない」としか反応しなくなるんだ。
「うーん」と母は記憶を辿るように唸り始めた。ってことはつまり、俺の「頼むよ」が母ちゃんにとってちょうど良いところ、やらかいところに刺さったのだろう。俺は逸る気持ちをおさえつけるようにしてスマホを握り、辛抱強く更年期のババアの記憶が蘇るのを待った。
「セックスカルトだったって聞いた。確かしばらく父兄の間で噂だった。そうよ、特に女の子の子どもがいる家庭は大変だった。親が知らない内に被害にあっているかも知れなかったから。そうそれで、だから警察と先生とPTAで話し合って、子どもには秘密にしようってことになったんだ。子どもに説明出来ないでしょってことになってさ。私はそんな臭いものに蓋をするみたいなやり方反対だったし、哲也に聞かれたら正直に話そうと思ってたけど、あんたそんなに興味なさそうだったし。ていうか、あんたもその話題避けてたみたいだったし。あんまり話したくないのかなって思ってた。それが私を余計に不安にさせたんだけど。でもさ」
「ちょっと待て。セックスカルトってなんだよ」
母ちゃんの話はまだまだ続きそうだったが、取り敢えず耳馴染みのない言葉を抽出して尋ねる。そこを無視して先には進めなかった。でも母ちゃんは聞かれた途端に我に返ったような態度をとった。「それは、ほら」とお茶を濁す。
「なんだよ? 言ってよ」
「ほら、男ってなるべく色んな女に手を出したくなる生き物でしょ」
「もういい」
聞いておいてなんだけど、母親の口からそんな言葉聞きたくはなかった。聞く前から、なんとなくそういう意味かなってことは分かっていたけど教祖を探し出す手がかりになると思ったから止められなかった。大体家族でセックスって単語が頭についた言葉を議論するなんて馬鹿げてる。失敗した。だから強引に話題を変えるつもりだった。
「そうね、もういいわね」ふうっと、スマホ越しに息を吐いたのが分かった。どうやら母ちゃんも、自分が母として触れるべきではない話に首を突っ込んだって理解したらしい。でも続けて「あの人もそんな男だった。だから追い出したの」って、父ちゃんの浮気癖に言及した。イタチの最後っ屁みたいに。それだけは付け加えておかないと気が済まないって感じで。今父ちゃんの話なんてしてないだろうが。俺はそっとスマホを耳から離した。母ちゃんは急遽舵を取ったその先に、絶好の話題が待っていることに気付いたのだろう。父ちゃんの悪口と、いかに自分が悲しい思いをしたかっていうのを絶妙な配分で話しだした。自分から連絡したという負い目を感じていたから、こちらから無下に通話を切ることはできなかった。そんなことをしたらむこうから掛け直してきて「電波悪いわね、良いところに移動しなよ」なんて迷惑な提案をしてくるだろうし。着信を無視しても無駄だ。出るまでリダイヤルを繰り返すだろう。そういう人なんだよ、この人は。だから気が済むまで話をさせてやる。聞かないけどな。こうやって通話口を耳から離して、時折「ああ」とか「うん」とか言葉を放ってやればそれで気が済むんだから。そうして、話題と話題の切れ目を見つけて素早くつま先を突っ込む。「じゃあまた今度連絡するわ」って言って通話終了。もちろん、しばらくは連絡をしない。少なくとも、息子の大切な時間を浪費したことに母ちゃんが気付いて反省するまでは。それか、その息子が今日みたいな気紛れを起こすまでは。それまで精々首を長くして待ってるんだな。
「じゃ、また今度な」
母ちゃんが息継ぎをしたのを見計らって一方的に通話を切断した。まだなにか喚いていたけど、掛け直してこなかったのを見ると、まあ満足したんだろう。長話には辟易したけど、あの教団がセックスカルトだったって分かっただけでも一歩前進だ。ところで、セックスカルトってなんだ? 母ちゃんの口から聞くのは嫌だったから中途半端な理解で終わってしまったが詳細を知る必要があった。ネットで検索する。ほう。教祖が女や男を良いように扱う宗教か。教義も信仰もなく、ただただ自分が気持ち良くなるために立ち上げた団体というわけか。男なら一度は夢見ることを実際にやらかしたアホたれってことだな。そんな奴が近所で活動をしてたんじゃ、そりゃ母ちゃんじゃなくても警戒するだろう。ネットをいじくったついでに、あの時の事件について情報が載っていないものかと考えた。検索してみようと意識を集中させて、そして指が止まる。
あいつの名前なんだっけ? なんていう団体名だっけ? 簡単に思い出せると思っていて後回しにしていたが、肝心の検索ワードが頭の中からすっぽりと抜けてしまっていることに気付いた。なんとか記憶を辿ろうとするが、無駄な努力に終わりそうだった。いくら自分の中で大きな出来事だったといえ、固有名詞なんて覚えていない。顔なら覚えている。声も喋り方も分かる。あの時あの場所であったことも大体は思い出せる。今ならきっと街ですれ違えばあの時の男だって分かるはずだ。でも名前は覚えていない。それがたまらなくもどかしい。
仕方がないので、今分かっている情報を組み合わせて調べてみることにする。年代と地域とセックスカルトで検索をかけた。調子に乗った名前の賃貸物件が上がってくるだけだった。手がかりはなし。
母ちゃんなら教団と教祖の名前を覚えているだろうか? あの様子じゃ覚えてないだろうな。それに、今話したばっかりなのに、再び母ちゃんの言葉のシャワーを浴びる気には到底なれない。結局あの団体がセックスカルトで、教祖が目の前で捕まったのなんて小さな街の小さな事件だってことか。そう考えると、そんなことで人生が変わった自分自身がとてもちっぽけな存在に思えた。
スマホが鳴る。いつか気紛れに登録した飲食店からの広告メッセージだった。お腹も鳴る。いつか、いやすぐにでも絨毯爆撃でもって肛門を刺激してくる腹痛からの犯行予告メッセージだった。どうすればいい? 腹痛の予感に冷や汗をかきながら考えるが、良い答えなんて浮かびそうもなかった。ごろごろごろって、雷の準備運動みたいな音で内蔵に脅しをかけられるだけだった。
■十
この日は電車で遠方の得意先を巡る、出張を余儀なくされた。本当は、ちょっと前から上司に命令をされていたんだけど、虎視眈々とタイミングを見計らっていた。出張って言っても、宿泊が必要なほど離れているわけではない会社が相手だった。飛行機だとか新幹線だとかで出かけて、ホテルに宿泊しなければならないような大都市の会社はまだ任せてもらえないしな。べつに任せてもらいたいわけじゃないけど。とにかく、俺が顔出すのは精々隣県に点在する中小企業が相手だった。上司に催促された段階でバカ正直に向かってしまうと、一社につき一日潰れてしまうような場所にある会社だ。普段ならそうする。当たり前だ。上司の命令なんだからありがたく電車の旅を楽しませてもらうさ。行きの車内では充分な睡眠を取って、先方に新商品の提案かなんかして、それで帰りの車内ではビール飲んでそして直帰を決める。最高じゃないか。でも今はそんな日帰り旅行を楽しめない。腹が痛えもんでな。どういうわけか、俺の担当範囲では特急や急行を使うことを許されてない。その社内制度に文句はない。だって鈍行で行けってことだろ? 時間がかかって直帰しても許される風土が社内にはあったから。今は違う。トイレがあるかないかも分からない一般車両に、長時間揺られるのは不安だった。そこで俺は考えた。「たまには顔を出して存在を思い出させろ」っていう上司からの命令が、同じ方向で三社溜まったら一気に出かけようと企んだのだ。
もちろん、入念な計画が必要だった。新商品の勉強なんてしない。そんなの先方とお茶でも飲みながら媚びへつらってれば自然と口から飛び出てくるもんだ。だけど、疼き続ける腹の虫の機嫌を取るにはコツが必要だった。トイレ付きの電車に乗ることができれば無駄になってしまうが、それでも考えずにはいられなかった。二十分毎に電車を降りて、トイレに駆け込んでも大丈夫なように行動計画を立てた。便意がなくても降りるくらいの慎重さが大切だ。そして降りた駅のトイレの場所。これも覚えた。そんなことをやってても遅刻しない時間。もちろん最優先で調べた。流石の俺でも、知らない土地でうんこを漏らし、その足で得意先に向かう度胸はないからな。本当はこんな状態で出張なんて勘弁してほしかったけど、交通費を節約する方法を大々的に上司へプレゼンすることで褒められたし、行かないわけにもいかなかった。
各駅停車を更に二十分毎に降りながら目的地に向かった。腹が痛くなる前にトイレに寄った。俺の場合「出る。もう間に合わない」って思ってからじゃないと、いくら気張っても出てこない恥ずかしがり屋な大便たちを腹の中に飼っていたから、便器に腰を下ろしても無駄なことが多かった。それでも、そうすることで気は休まった。気が休まると、ある程度便意も引っ込んだ。つまり作戦勝ちってことだ。何度か乗り換えをしたが、トイレがついている電車もあった。その場合は、トイレ休憩を入れる駅を飛ばすことも出来た。アポイントの時間に遅れることもなかった。三社目で担当の総務部長と話しながら微かに便意を感じた。仕事の話が終わって、部長は玄関まで見送りに出てくれた。そのタイミングでトイレを借りて、部長を玄関に十五分ほど待たせてしまったのが本日のハイライトだった。でもそれくらいで済んだんだから、この出張は成功だったって言えるだろう。
帰りの電車でアルコールは飲まなかった。というか、キーホルダーを失くして以来アルコールとカフェインは摂らないように気をつけている。理屈は分からないが、カフェインを摂取すると途端に腹が痛くなった。アルコールの方は、それほど排便作用はなさそうだったけど肛門の筋肉が緩むのは確実だった。いざという時、締りのない尻で対応に当たるのは失敗の元だと思った。
何事もなく電車に揺られた。帰りの計画は立てていなかった。なるべく早く帰宅したいのは山々だったけど、途中の駅でトイレに立ち寄っても誰かを待たせるわけではない。何度でもぶらり途中下車してやる覚悟があった。ところが俺の腹の虫は本当にへそ曲がりな奴だった。痛くなっても大丈夫、というタイミングでは決して騒ぐことはなかった。こっちが不安になってしまうほど、その主張を弱めて身を潜めているのが分かった。いつもより朝早くから活動したせいか、心地の良い眠気を感じていた。それでもなんとか睡魔に耐えた。
このところ、睡眠時のリラックスした状態を狙って、肛門を突破しようと試みる不届き者の存在に悩まされていた。寝てるんだから尻の穴を緊張状態に保っているわけがない。守衛さんは休んでいるだよ。そこを顔パスみたいにして軽い挨拶だけで通過しようとするんだからどうしたって反応が遅れる。だけど寝ているとはいえ、俺だって間抜けじゃない。最終的に門を破られる瞬間には必ず排便センサーが働く。後はどれだけ時間が残っているかの問題だ。ベッドから飛び起きてトイレに駆け込む程度の時間があればセーフだし、なければアウト。どっちにしても、気持ち良く寝ているのにいきなり心拍数を上げながら飛び起きてトイレに走るなんて最悪の起床だ。その後にパジャマの洗濯と床掃除と下半身を中心にシャワー浴びる面倒が待っていればより最悪。だから俺は、必死になって眠気に耐えた。カフェインに頼ることはできないから、イヤホンをつけてスマホでエロ動画を流した。眠気が強力すぎて、ちっとも俺の玉を刺激することなんて出来なかったけど睡魔とのバランスをなんとか取ることが出来た。プラスにはならないが、マイナスにはしない戦い方だった。
最後の乗り換えが終わった。後は地元の駅まで一時間弱席に座っているだけで良い。その安心感が自分を油断させた。それと都市部が近づいてきたせいでそれなりに電車が混んできた。隣に人が座っているのにエロ動画の鑑賞会なんてできるわけがない。はじめの内は目を見開くことで眠気に耐えようとしたが、すぐに諦めた。いつの間にか眠っていた。意識が戻ったのは、やっぱり猛烈な便意を感じたからだった。この野郎。ちょっと眠っただけですぐこれか? 寝ぼけ眼で辺りを見渡す。突然焦りだした俺から少しでも距離を取ろうと、隣に座っていた男性が腰を浮かす姿が目に入った。電車はちょうど駅に停車しようと速度を緩めているところだった。焦りに任せて立ち上がった。その拍子に、自分が思っているよりもずっと近くにうんこ軍が迫っていることに気付いた。尻の穴付近に若干の水分を感じるのは汗だろうか。それとももう漏れてる? 電車が完全に停車するまで普通の人間らしくドア付近で立っていることさえ出来なかった。その場でしゃがみ、肛門を右足の踵にのせた。物理的に蓋をしようって考えだった。こうすれば気持ちが萎えて体が屈したとしても、踵が物理的にお漏らしから守ってくれる。
どこかから空気が排出される音と共に電車の扉が開いた。俺の尻の穴から屁が出る時よりもずっと優しい音だった。転げるようにホームへ躍り出る。ここから先は気持ちとの戦いだ。諦めた方が負ける。ここがどこの駅なのかも分からなかったが、取り敢えず走った。走りながら状況を分析した。進行方向に改札が見えた。そしてその手前にトイレの表示が。助かった。とはいえ、一歩足を前方に伸ばす度うんこは腹の中で勢いをつけた。そして一歩足を下ろす度、その勢いもろとも肛門に流れ込む。腹痛もひどいものだった。ぎゅうぎゅうと可愛らしさのかけらもない音を腹の中で放っていた。きっとその音通り、内蔵を全部雑巾絞りみたいにして水分を下へ下へと送り込んでいるんだろう。
トイレまでの孤独な道のりを進んでいると、すぐ横を誰かに並走されていることに気付いた。スーツを着た中年のサラリーマンらしき男だった。情けない調子で腰をへこへことさせながら、錆びついたロボットみたいな歩き方で同じ方向へと進んでいた。俺はすぐに気付いたね。こいつの目的地はトイレだなって。もう一つ気付いたことがある。こんなぎくしゃくした歩き方の奴と余裕で並走されてるんだから、俺は走れていないんだなって。ずっと全力疾走しているつもりだった。でもあまりにもきつい便意のせいで、この哀れなサラリーマンと同じようなC‐3PO歩きになっているんだろう。情けなかった。人のふり見て我がふり直せだ。歩き方を変えようと思った。少しでも余裕のある形に。でも駄目だった。当然だ。お漏らしの瀬戸際に立たされた人間がトイレまでのデスロードを進む時はその形でしか動けない。走れもしないし歩けもなしない。ただぎくしゃくと進むだけ。
男とはまさにデッドヒートを繰り広げた。当然初対面だったけれど、昔からのライバルみたいに肘と肘が当たるような近さで並走した。多分相手も俺の目的が分かっていたはずだ。少しでも先んじようと躍起になっているのが伝わった。ただデッドマン特有の騎士道精神が二人の心には存在していた。直接肘をぶつけたり、足をかけたりするような非紳士的行為は行われなかった。もう少しでトイレに辿り着く。そう思った瞬間、腹の中で戦艦大和が大砲を自らの船底へ向けて発射するみたいな衝撃が走った。ここ最近で一番の力を振り絞った。全神経を肛門の一点だけに集中させた。水分がぬるっとすり抜けたような気がしたが、なんとか船腹に穴があくようなことだけは防いだ。でもその一連の流れのせいで足が止まった。俺は無意識に、壁に手をついて立ち止まっていた。男がトイレへ消える瞬間こちらを振り返った。一瞬勝利の笑みを唇に浮かべたのを見逃さなかった。後は運を天に任せるだけだ。
足を引きずりながら、少し遅れて男性用トイレに進入した。嫌な予感がした。入口の面構えよりもずっと室内は狭かった。まずは個室を確かめる。二つしかない。手前の一つは既に閉まっている。見える位置にさっきの男の姿はない。当然閉まった個室の奥で勝利の余韻を味わっているのだろう。もう一つの個室の扉は開いているように見えた。希望を胸に、しかしよろよろと進んだ。そして絶望することとなった。扉は開いているのではなく、存在していなかった。代わりに黄色いテープが貼られ、そこにラミネート加工された用紙がぶら下がっている。「修復中のため、使用禁止」
小便器を使用している人間はいなかった。トイレの中には手前の個室に入った男と俺だけしかいないってことだ。腹の調子を考えると、扉なしの個室に入って用を足すこともやぶさかではなかった。本当にそうするつもりだった。だって俺の運も、天に見放されたわけだし。どうにかサヴァイヴするにはそうするしかないように思えた。最早個室ではない個室の中を覗く。こりゃだめだ。どう使用したらこうなるのか分からないが、便器には大きなヒビが入っていて、どうやら水道の元栓も閉められているようだった。カラカラに乾いていて、電気店のショウルームに置かれた商品のような佇まいだった。厳密にはもっと薄汚れて大胆なヒビが入っていたから、なんだか現代アートの作品みたいに見えた。
俺は手前の個室の前に腰を下ろした。例の踵で肛門を押忍するスタイルで男が用を足すのを待った。もう我慢の限界を超えていた。多分パンツの中には総量の四分の一程度の水分が漏れ出てしまっていただろう。それでも本丸を便器以外の場所で垂れ流すつもりはなかった。これはプライドの問題だ。確かにキツかった。これまでの人生で味わう屈辱を全て合わせてから泥団子にしてぶつけられるみたいな辛さだった。だけど、俺はトイレ争奪戦に負けたんだと自制心を働かせた。これは敗者が負担する苦しみでもあった。ノックなんて不要だった。男とは紳士協定で結ばれた、いわば仲間でもあった。もう一つの個室が壊れていることを知らなくても、素早く用を済ませ個室を空けるのがマナーだった。
男の話し声が聞こえた。独り言を言いながらじゃないとうんこを出せない体質なのか? はじめはそう思った。だがすぐに、動画を視聴している音だって気付いた。しかもおでこをくっつけた扉のすぐむこうから聞こえてくる音だった。ふざけんじゃねえ。俺達バンド・オブ・ブラザースじゃなかったのかよ。叫びたくなった。そんなことをすれば肛門の寿命を短くするだけだからしなかったけど。扉のむこうの能無しは、話の通じない大馬鹿野郎だった。ここを自宅のトイレだとでも思っているのか? 公共の場だぞ。用を済ませたらとっとと出る。人間として最低限のそんなモラルすら持ってないのか? 極限の状態で個室が空くのを待っている他人がいるかも知れないって、当たり前の想像力があれば呑気にスマホで動画視聴なんて出来ないはずだ。もう排便は終わったのか? それで余韻を楽しんでるのか? それともまだ完全には終わってなくて、次の波を待っている時のお楽しみなのか? どっちにしても太え野郎だった。
「それじゃあね、始めていきましょうか。えー、今回もね、いつまでも異性にモテ続けたいおじさん達のためにね、とっておきの情報をお届けしますよ」
くだらねえ。男が見ている動画の出演者は実にくだらない話を繰り広げていた。テレビとかサブスクとかで視聴できる、多少なりとも金をかけて制作された番組ではなさそうだった。いかにも素人丸出しっていう喋り方だった。大方動画サイトに投稿された番組でも見ているんだろう。俺はそれほど熱心に動画サイトを漁る方ではないけれど、それでも有名なチャンネルの配信者のことは知っていた。見たこともある。だけど、今聞こえる動画はそういったものではなさそうだった。駆け出しの馬鹿が配信している番組か、諦めの悪い馬鹿が熱心に配信し続ける番組かのどちらかだろう。
「今日はね、ゲストを呼んでますから、特別ゲスト。テレビみたいでしょ? でも地上波じゃ聞けないことを話しますよ。皆さん期待してくださいね。それではどうぞ、こっちです。ここに座っていただいて」
「あ、どうも。特別ゲストだなんて言いすぎですよ。緊張させないでください」
ただ不思議だったのは、この出演者の声に聞き覚えがあったことだ。どこか親しみと懐かしさを感じた。もしかしたら、うんこを我慢しすぎて気を失いかけているのかも知れない。知り合いに動画配信者をやっているような愚か者はいなかったはずだ。だけど気になった。ただ現実逃避の矛先が向いた先にあった出来事に過ぎないかも知れないけれど、確かに覚えがあった。
「この男、最近知り合っただんけどさ、若い頃はモテモテだったらしいんだよ。今じゃまあ、おじさんへの階段を着々とのぼり始めている見た目をしているけどな。でも昔はセックスカルトみたいなのやってさ。すごいだろ? 少しでも皆の参考になるような話が聞きたくてさ、今日は無理言ってゲストで登場してもらったんだよ」
「やめてくださいよ、お恥ずかしい。過去の話ですから。罪も償ってますんで」
なんだと? 思わず踵を浮かす。パンツに不快な染みがすぐに広がり始めるのを感じた。それでも恐らく驚きと興奮で、便意が一瞬戦意喪失して胃の方向に向かって引っ込んだ感触があった。扉を激しくノックする。こうなったら一方的に紳士ぶってもいられない。すると扉の向こう側からもノックが返ってくる。違う。今はそういう反応が欲しいわけじゃない。
「おい、お前今なにを見てんだ? ちょっとそのスマホ見せろ」
ノックを続けながら叫んだ。中の男は「へ、あ、え?」とか素頓狂な声を上げた。「私に言ってます?」
そうだよ、お前だ。この際トイレを不法占拠している罪は忘れてやる。だけど今視聴している動画についての情報は吐いてもらうぞ。そんな気分だった。教祖の手がかりがそこにあるはずだ。絶対に逃せない。さっきまでは肛門を中心とした半径三センチだけが俺の熱源だったが、今や体全体が熱くなっていた。情熱に突き動かされるように、扉の上部に手をかけた。飛び上がって体を浮かせ、天井との隙間に首をねじ込む。男の反応がもどかしかった。なにが起きているのか分かっていない奴に、一から説明してやる気なんてなかった。強引にでもスマホを覗き込み、こちらの事情を説明することなく動画のチャンネル名みたいなヒントを確認するつもりだった。隙間に頭を差し込んだところ、手が痺れて力が抜けた。一瞬扉の上部の縁にギロチンチョークを極めらてしまう。足をばたつかせ、右足を扉のノブに乗せることでどうにか体勢を立て直した。個室の中を上から覗くと、男が便器に座っている姿が見えた。ももの上に肘を乗せて両手でスマホを持っているスタイルだった。まだこちらには気付いていない。激しく揺れ、尋常ならざる音が鳴る扉を気にして泣きそうになっていた。
「おい、そのスマホ見せてみろ」
声をかけると、男は左右をきょろきょろとやった後、はっと気付いて頭上を見上げた。俺と目が合う。男は目を見開いた後、驚きで腰を浮かし、そしてそのままスマホを手放した。男の股の間へするりと吸い込まれ、スマホは便器の中へ着水した。
「なんだあんた。なんなんだあんた」
男は口を震わせて言いながら、片手でパンツとズボンを引き上げ、片手で扉のドアを開けようと試みていた。
「ああっ」
不用意に扉のノブを回されて、俺はバランスを崩した。再びトイレのドアにフロントチョークを極められる。その状態で男が扉を開いたため、俺は半回転しながら隣の個室の衝立に背中を打ち付けることになった。
「変態だ。覗き趣味の変態がいるぞ。誰か駅員呼んでくれ」
なんとか隙間から首を抜き地上に降り立つと、男がズボンをおさえながら逃げていく後ろ姿が見えた。首と背中が痛んだし、男の騒ぎようも気になったが、俺には便器の中に消えたスマホの方が大切だった。個室に入り、迷わず便器に手を突っ込む。不思議と汚いとか臭いとかキツいとか3Kだとか、そういう感情はなかった。奴が視聴していた動画にしか興味を持たないスマホ探索ロボット。それが俺だ。茶色に滲んだ透明な水と、ほとんど溶けたトイレットペーパーの泥濘を手でかき回す。指先に固い物体が触れた。これだ。スマホだ。掴んでサルベージする。掴んだ物体を掲げる。うんこだ。固いうんこだ。便秘気味のうんこだ。クソっ。他人のうんこを直に掴んでしまったのが悔しいわけじゃない。あの野郎が、便秘にも関わらず俺に勝負を仕掛け、更に勝利し、そして個室を占領していた事実が悔しかった。便秘なら我慢できるはずだろ。それなのに、既にパンツを濡らしかけていた下痢の俺をいたずらに虐げやがった。信じられない。あいつは悪魔だ。大体駅のトイレなんて、下痢便専用だろうが。便秘気味の人間がたっぷり時間をかけて対処するような場所じゃない。
「この男です」
悪魔の声がした。振り返ると、俺のことを指さして制服を着た駅員に事情を説明しようとしている大馬鹿野郎の姿が見えた。ズボンから手を離しているところを見ると、道中で上手く履けたようだな。
「困りますよ、お客さん」
連れられてきた駅員が渋々といった様子で俺に言う。まだ本気で警戒はしてなかった。俺の手にうんこが握られているのを見るまでは。
「違うんですよ、これは」俺は慌ててうんこを便器に落とした。ぽちゃんと音がして、お釣りが腕に跳ね返ってきた。「そういうことじゃないんですよ」
「変態だ。スカトロ野郎だ」
男が鬼の首を取ったかのように囃し立てる。
「違う」
「言い訳できないぞ」
「手を洗ってからついて来なさい」
俺と男と駅員が同時に喋る。逮捕される。それは嫌だ。駅員の制服は明らかに警察のものとは違うのに、今にも手錠をかけられそうな迫力があった。俺は焦って言い訳を重ねようとした。いくつもの言葉を積み重ねれば誤解は晴れると思った。だって俺は腹が痛くて途中下車してトイレに入っただけなんだぜ。それでこんな騒ぎになるなんて馬鹿げてる。ただ、もう一方ではこの期に及んで便器の中のスマホが気になった。男が見ていた動画の中にあの教祖が映っているはずなんだ。それ以外に手がかりはなかった。このチャンスを逃せば、一生腹痛に苦しまなければいけなくなる。焦燥感が情熱を後押しした。再び便器に手を突っ込む。
「こら、やめなさい」
汚れることを覚悟した駅員が俺の肩を掴んだ。離してくれ、それどころじゃないんだ。便器の中をかき混ぜるのに集中したかったから声は出さなかった。それくらい真剣だった。
「もう警察呼びましょうよ」
男の声だった。考えてみれば自分が汚したトイレを別の人間に漁られてるんだもんな。どの程度の恐怖を感じているのかは、世界でもこいつにしか分からないだろう。
「あなたね、ここでそんなことしちゃ駄目なの。ここは大便をする場所。分かる?」
分かってる。俺だってさっきまでは喉から手が出るほどうんこがしたかった。いや。突然思い出したかのように、便意が蘇った。いや。今だってしたい。手を便器に突っ込みながら顔を上げた。男は少し後ろに下がり、まるで可哀想な変質者を見るような視線をこちらに送っている。駅員の方はもっと必死だった。そりゃ、他人のうんこを漁るモンスターと一番近くで対峙してるんだもんな。人生で一番気が抜けないシーンだって言えるだろう。俺は罠にかかった獣同然だった。どんな未来が待っているのか容易に想像出来た。獣だったら殺されて食べられる場面だった。でも俺はこう見えて人間だ。捕まって前科がつく。悲しくなった。悲しさが更に大きな便意の波を引き寄せる。俺は二人を追い出して個室のドアを閉めようと思った。そうさ。この期に及んでゆっくりと排便する夢を見たのさ。便器から手を抜き、二人の前に出す。汚れた手の効果はてきめんだった。二人とも俺の手から距離を取った。だけど、狭い空間でお互いが自分勝手な方向に飛び退いたため、結局はさほど変わらない場所に着地することになった。
俺の下腹部は呪の歌みたいな音を立てていた。もう我慢できない。それに、最早我慢する必要もないように感じた。最悪な状況で、自分を傷付ける要素が一つ増えるだけだ。ダイエット中に夕飯をたらふく食った後、食後のデザートとしてチョコレートを一欠片食べるくらいのものだ。今更尻からチョコレートを吹き出したって情勢は変わらない。じゅうじゅうじゅう。ステーキを鉄板でウェルダンするような音がトイレに響いた。程なくして、しゃがんでいた俺のズボンの様々なところから水状のうんこが滴り落ちた。トイレの床に草間彌生作品みたいな水玉模様が出来上がる。
「だから言っただろう」俺は力なく便器に身を預けた。もうどうでも良かった。「だから言っただろう」言ったかも知れないし、言ってないかも知れなかった。「漏れそうだって言っただろう」破れかぶれで繰り返した。
「すみませんでした。息子にはよく言って聞かせます」
母ちゃんが駅員に頭を下げる様子をぼんやりと眺めた。俺は駅員達が客から身を隠して仕事をする、事務所のような場所に引っ立てられていた。
あの後、俺は便器に突っ伏して泣いた。泣き声は漏らさなかった。どっちかと言うと嗚咽ってやつだな。自分が情けなかった。自暴自棄にもなって、社会人として世間で戦うために着ていた鎧を脱いでしまったんだ。そんな戦士の休息に気付いた男と駅員は、途端に優しくなった。男たるもの、こういう夜だってある。三人の男たちがこの日はじめて一つになった瞬間だ。共感の波に乗って、このまま無罪放免でお願いしますって気になった。涙で押し通せるなら、いつまでだってべえべえ泣いているつもりだった。でも俺は許されなかった。駅員は「落ち着いたら、事務所で話を聞くから」って告げた。その時は俺が落ち着くことなんて、未来永劫ないって思っていたけど、数分便器に顔を突っ込んだ体勢でいたら呆気なく落ち着いた。というか、冷静になったんだ。こんな不浄な場所にはいたくないって心から思った。
汚れたまま事務所に連れて行かれた。そのまま当直の駅員が使うようなシャワールームに通され体を洗った。「頼むからよく汚れを落としてからボディタオルを使ってくれよ」って念を押された。誰に口を聞いているんだ。俺ほど漏らした後のシャワーを上手く使いこなせる人間はいねえぞ。そうは思ったがしおらしく頷いた。それどころか「脱いだスーツは捨ててください」なんて涙を誘うような台詞まで吐いた。さっぱりしてシャワー室から出ると、新品の白ブリーフと、使い古したグレーのスウェットのセットアップが準備されていた。ブリーフのサイズは合わなかったけれど、至れり尽くせりだって感じた。傍らに黒いゴミ袋が置かれていた。呪物が封印されるみたいに憎しみを込めて口が固結びされていた。中身を確かめてみようと思ったけど、思い切ってハサミで切断するまでは誰にも開けられない結び方だった。それにわざわざ確かめるまでもない。俺の着ていた衣服一式が入っているのは間違いないんだから。なんで分かるか? 誰にも解けない伝説の賢者の封印を破って、臭いが漏れ出てきているからだよ。
ゴミ袋片手に事務所に戻ると、駅員数名と、俺に一本糞を握らせた悪魔が待っていた。幸い警察官の姿はなかった。そこで俺は土下座をした。身綺麗になって欲が出た。できることなら、このまま警察のお世話になることなく家に帰りたかった。そのまま頭を上げず、俺の奇行の原因の全ては腹痛にあったことを繰り返した。ただうんこがしたかっただけなんだって。漏れそうで、焦りが生んだ奇跡なんだって。もちろん男がスマホで見ていた動画のチャンネル名が知りたかったから、このような大胆な行動に出たなんて説明はしなかった。そこに俺に魔法をかけた教祖が出演しているはずだからって言っても、余計に話が拗れるだけだろうから。
「警察に被害届を出しますか?」
駅員たちは俺のことを哀れに思うというよりも、積極的に関わりたくなかったのだろう。男に水を向けた。
「まあ、私も個室を長い時間使い過ぎたかも知れないので。そこまではいいです」
男はそっけなく言った。こっちは俺の同情を誘う作戦に上手くはまったようだった。それに土下座しながらさり気なく、こちら側の責任は三割、トイレに籠城した人間の責任が七割っていう理論を隠し味に使ったからでもあった。こいつは他人に流されやすい体質なのだろう。もう勘弁してやれよっていう駅員達の前で、我を張る度胸がないんだ。
そうして男は去っていったが、俺の方はそうもいかないようだった。身元引受人を要求された。問題を起こした人物全員に、こういう傲慢な対応をするのかは分からない。でも俺は駅員の私物である下着とスウェットを拝借していた。弱みを握られていた。まさかブリーフを返却しろってわけじゃないだろうけど、そのまま帰すわけにもいかないって気持ちはなんとなく分かった。それにまあ、一時的に駅の治安を悪化させた自覚もあったし。
家族か職場の人じゃなきゃ駄目だってことだったから、喜んで母ちゃんを指名させていただいた。職場の人にこんな失態を知られるわけにはいかない。
しばらく弱くて馬鹿なふりをして過ごした。散々ゴマをすったもんだよ。昔から駅員に憧れてたんすよ、みたいなこと言って。で、母ちゃんが車を走らせて駅までやってきたわけだ。ゴミ袋片手に上下スウェットで電車に乗るわけにもいかず、電話で俺が車をリクエストした。母ちゃんもそんな息子と並んで電車に乗る精神的デメリットを瞬時に計算して受け入れてくれた。ま、電車でも車でも、結局は実家から一時間程度かかる場所に俺は捕らえられていたし、どっちでも良かったんだろう。とにかく俺は疲れていた。早起きして遠出した疲労感がここにきて俺の体をいたぶり出した。頭がぼうっとして働かなかった。体も三十分間泳ぎ続けた後みたいに重い。
「すみませんでした。息子にはよく言って聞かせます」
だから俺は母ちゃんの様子をぼんやり眺めるしかなかったんだ。母ちゃんはそんな俺の近くまでやってきて髪の毛を掴んで「ほら、あんたも頭を下げなさい」ってやった。頭なら散々下げた後だった。なんなら土下座だってしたし。でも、迎えにきてくれた恩も感じてたから、俺は人形みたいにされるがまま何度も頭を下げた。
母ちゃんは賄賂なのかお礼なのかブリーフとスウェットの代金なのかは分からないが、財布を取り出して駅員にいくらか渡していた。俺の位置からではデスクに積まれたファイルが死角になってどの程度の額だったかは見えなかった。でも、駅員が一切遠慮することなく金を受け取ったのは見えた。お前の白ブリーフと襟元がだるだるのスウェットにいくらの価値があるんだろうな? このサスティナブルにファックされた時代で、誰にも求められない古着にどれくらいの値打ちをこけるんだろうな? 問い質したくなったが、なにせ俺は彼らのサービスを甘んじて受け入れた側の人間だったから何も言わなかった。
そうして俺は帰宅を許された。この時点でようやく荷物を返してもらった。それまでは逃亡を図る恐れがあるってことで、やんわりとバッグを取り上げられていたから。
母ちゃんが運転するホンダの軽自動車に乗ると、甘い匂いが鼻をついた。舌打ちをしながら、ルームミラーにぶら下がった芳香剤をグローブボックスに放り込んだ。車内をココナッツの匂いで保ちたいなんていう欲求は理性的な人間のものじゃない。窓から放り投げられないだけ感謝するんだな。俺はすぐにスマホを取り出して動画サイトを開いた。無限に広がるネットの海の中で、男がトイレで視聴していた動画を探すのは骨が折れる作業だろうが、それでも記憶が鮮明な内にやっておかなくてはならない。今ならまだ、いくつかのヒントを覚えていた。出演者たちの声はまだ忘れていない。というか、あの声と喋り方。思い出の中の教祖とまったく同じだった。俺の記憶力も捨てたものではない。それと、動画の内容。おじさんになってもモテたいって人間が、夢みたいな戯言を話していた。いくつかの単語を拾い集めてキーワードにすれば、見つかる可能性はあった。
しばらく母ちゃんの運転する車の助手席で作業に没頭した。その間、母ちゃんは一言も話さなかった。導火線に火がついていることは分かっていた。いずれ爆発することも知っていた。これが母ちゃんのやり方だ。子どもの頃から、俺がなにかしでかしてその尻拭いに奔走した後は、必ずこんな静寂の間を作った。俺のことを泳がせて、油断したところにずどんと雷を落とすってやり方だ。そんなの慣れていた。小細工されることで、この野郎って反抗心も芽生えてしまうし逆効果だった。それでもまあ、母ちゃんとしても息子をどんな風に反省させるか考える時間が必要なんだろうけど。
「なにやってんのよ、あんた。恥ずかしかったじゃない」
信号が赤になって車が停車したタイミングで大声を出した。内容よりもただ、その声量にびっくりした。首を痛めるくらいに鋭く母ちゃんの方を向いてしまう。
「ごめんね」
言おうと決めていた言葉を口にする。男は取り敢えず謝っときゃそれでいいんだ。
「ごめんねじゃないよ。もしかしてあんたまたお腹壊してんの? だからこの前子供の頃の話を聞いたの?」
ああそうだよ。名推理だな。そんなことを思いながら「反省してるよ」って言った。視線はスマホに落としてた。反省するふりよりもずっと大事なことが画面の中にあると思っていたからな。何度かキーワードを入れ替え、再検索を繰り返す。検索結果を上から順に眺めていると、口元を髭に覆われた親しみのあるおじさんのサムネイルが目にとまった。飲食店のような場所を背景に、やたらと人懐っこい笑顔を見せる中年男性が正面を向いて座っている。画面の端にはセンスのないフォントで「今回はゲスト登場」とか「モテすぎて逮捕された男」とか描かれている。チャンネル名は「おじさんなのに、モテてもいいですか?」ときた。反吐が出るぜ。反吐は出るけども、外出先で落としたコンタクトを地面で見つめたような快感が走った。動画を開く。
「それじゃあね、始めていきましょうか。えー、今回もね、いつまでも異性にモテ続けたいおじさん達のためにね、とっておきの」
あの極限状態で聞いた声と同じだった。見つけた。サムネイルと同じ場所でおじさんが喋っている。恐らくこの男が配信者なのだろう。ということは。十秒スキップ。もう一度。そうしてもう一度。すると画面に配信者とは別の男が突然現れた。再生ボタンをタップする。
「今日は無理言ってゲストで登場してもらったんだよ」
「やめてくださいよ、お恥ずかしい。過去の話ですから。罪も償ってますんで」
ここだ。動画を停止させる。整った顔の面影は少なかった。長かった髪は洒落っ気もなく短く刈り込まれ、白髪も目立った。肌に凹凸が刻まれ、顔の大きさもイメージと違う。体全体が太ったからか、倍ぐらいの大きさに見えた。でもあの堀の深い目鼻立ちは、子どもの頃に見た教祖そのものだった。目当ての人物は意外と呆気なく見つかった。だとしたら、駅のトイレで繰り広げた俺のコメディーは一体なんだったんだ?
「見つけた」
気付くと声を出していた。
「は? ていうかあんた人の話聞いてんの?」
「あの教祖を見つけた。ほら」と言ってスマホを母ちゃんの顔の前に突き出す。「見てみろよ」
「ちょっと危ないから」
母ちゃんは慌ててハンドルを切った。ちょうどそこにあったコンビニの駐車場に進入する。車を停めると、一つ本格的に説教をしてやろうと腕まくりをして二十歳を超えた息子と対峙する。だけど俺は、母ちゃんが怒鳴り声を上げる前に口を挟んだ。
「ほらこれ、あの時の教祖。動画に出てる。ほら、見てみろよ」
「そんなことどうでもいい」
母ちゃんは目の前で振られるスマホを払って避けた。だけど俺が「ほら、いいから」と真剣に続けるものだから、一度怒りは引っ込めてスマホを見ることにしたようだった。怒りの六秒間ルールに則って、母ちゃんのアンガーマネージメントをしてやったってわけだ。俺が成し遂げた快挙を、知っている人と共有したかっただけなのに怒られる筋合いなんてない。
「なにこれ?」
母ちゃんは画面をちらりと見てから、視線をこちらに送った。いいから見てみろと言わんばかりに俺はスマホに向けて顎を振る。母ちゃんは渋々それに従った。動画の再生を始める。俺としては、どんな反応を期待していたんだろうな? 自分と同じくらいの驚きをもって称賛してくれるとでも思っていたんだろうか。母ちゃんの反応はイマイチだった。途中までは良かった。スマホを見て、一瞬眉間に皺が寄るのが分かった。その後で画面から顔を遠ざけた。きっと老眼が始まっているだろうからもっとよく確認するには、その無様な姿を晒すしか方法がないんだ。だけどそこまでだった。俺の検索スキルを褒めるようなことはしなかった。不意に顔を上げ、目を瞑るとゆっくり首を振った。
「あんたさ、いい年してモテるとか言ってる奴に近づかないでよ。お腹が痛いなら、駅で大暴れしたり馬鹿な動画にヒントを求めたりしないでちゃんとした西洋医学に頼りなさい。本当、頼むよ。私、子育て失敗したのかしら」
その後は無言だった。母ちゃんは俺にがっかりしているみたいだった。そりゃそうだ。その気持ちは分かる。自分だって将来息子が出来て、その息子が二十歳を超えてうんこ漏らして、駅のトイレで大暴れをして一時間離れた場所まで車で迎えにきたりしたら同じ気持ちになる。しかも帰りの車内でくだらない動画を見せられて、子どもの頃に捕まった宗教団体の教祖を見つけたなんて騒ぎ始めたら正気を失うだろう。だから、黙るだけでなんとか気持ちの整理を図っている母ちゃんは良くやってるって言える。断言できる。ま、照れくさいから直接は言えないけどな。
母ちゃんは俺をアパートまで送り届けると、さよならも言わず悲しい顔をして帰っていった。ちょっと辛気臭すぎるとは思ったけど、文句は言わなかった。だけどな、俺の方は最後に「ごめんね」と「ありがとう」を、耳を揃えて発言したぞ。少しは大人になれよ母ちゃん。鍵の閉まっていない自分の部屋に入る。いい加減玄関の鍵を直さなくてはと思うけれど、実害がないのでそのままにしている。泥棒だってもう少し気の利いた部屋を狙うだろう。もしも俺の部屋に押し入ろうなんて考えるこそ泥がいるとしたらそいつはただのアホだ。何も盗めないし、すぐに捕まる。だから安心していた。
リビングの照明をつけて、ソファーに身を投げだした。ようやく我が家へ辿り着いた。長い道のりだった。だけど、力を抜くよりも前にやることがあった。スマホを取り出して教祖の情報を集める。車の中で早速登録したチャンネルを表示させた。登録者数も視聴回数も多くない。というか少ない。思った通りこれはネットの海を漂う木っ端チャンネルの一つらしい。アーカイブしてある動画の数もそれほど多くはない。動画を古い順にソートして、片っ端から視聴してみることにした。これが実につまらなかった。妙に若者にすり寄ってくるじじいの話に光る部分はなかった。もちろん男として学ぶべき点もない。これはあれだな。コンビニの前で煙草を吸っている時に現れる、酔っ払った一本くれじじいの話を聞いている時の感覚だな。非情に退屈な動画の連続だったけれど、不思議と見ていられた。
「マコちゃん」って自称するこの配信者は、きっと恐ろしいほどに短絡的な人間だ。努力を嫌い、楽な方へ美味しい方へ流されて生きてきた。動画配信を始めたのだって、楽に美味しくお金を稼ぎたい、女にモテたいって願望を満たすためでしかないはずだ。どうせ動画配信なら、それがすぐに叶うって誰かから入れ知恵されたんだろうな。残念ながら今のところその夢は叶っていない。恐らくずっと叶わないだろう。三ヶ月後にはこのチャンネルの更新もなくなるんじゃないかな。中々叶わない夢を追い続ける度胸と根性を持っているはずがない。だけど、マコちゃんには妙な魅力があった。顔も体型も、発言から推測できる内面も我儘な中年男性の典型だったが、愛想が良かった。屈託なく笑う表情も声も、他人を不快な気分にはさせなかった。そう考えると馬鹿な思想を撒き散らすだけの動画も、夢の世界を語る子どもを見ているようで、和やかな気分になるというものだ。なんで自分がそんな風に優しい気持ちでマコちゃんのことを見れるのかは分からなかった。きっと死ぬ前に死んでいるような無害な男を、これ以上傷付ける気にはなれなかったんだろう。
全ての動画を流し見で視聴したが、問題の教祖が出演しているのは一つだけだった。二ヶ月ほど前に公開された動画だった。どこで収録されたのかは分からなかった。飲食店のようだが、マコちゃんも流石にコンプライアンスに関する知識はあるのか、場所を特定するような情報はなかったし、一般のお客さんの顔には丁寧にモザイクがかけられていた。教祖の特徴といえば、若い頃よりも随分とみすぼらしくなった外見と、それに不釣り合いなほどフォーマルな衣装だった。白いワイシャツに黒のベストを羽織り、一丁前に蝶ネクタイなんかをしている。まるで執事かなにかのコスプレだった。すぐにぴんと来た。こいつ、またなにかやっていやがるなって。分からないけど、有名アニメの登場人物のコスプレで若い女でも誘いこもうとしてるんじゃないか? だとしたら、お縄になった過去をまったく反省していないことになる。マジで太え野郎だぜ。
教祖は自分のことを仮名で鈴木って名乗っていた。マコちゃんも気を使いながらそう呼んでいたし、画面に出てくるテロップにもそう表現されていた。記憶が定かではないけど、少なくとも鈴木が本名ではないことに俺は気付いていた。ということは、その線からこいつに近づくことも出来ない。ただ、出演している動画を最後まで見ると、間違いなく鈴木がコスモ星丸のキーホルダーに力を込めたあいつ本人だってことが分かった。肝心なことはぼかしていたし、当時のことを詳しく語ることはなかったが、捕まった時期や罪状を聞くと、俺が知っているあいつ以外には知らない内容だって確信できた。
直接仮名鈴木に近づくことができないって分かってもそれほどがっかりはしなかった。それならマコちゃん経由で近づけば良い。マコちゃんからは年齢なりの落ち着きが全く感じられなかった。チャンネルの詳細を見ると、あらゆるSNSにアカウントを持っていることが分かった。俺はその類のアカウントは作らない主義だったけど、わざわざマコちゃんのために作ったよ。一番無難で有名なSNSに、無表情のまま女になりすました捨てアカウントを作ってる時は、自分がやっていることを疑問に思ったもんだ。
完成した二十二才、ショップ店員、恋人募集中のひよりちゃんが早速マコちゃんにメッセージを送った。いつも動画を楽しく拝見しています。特に鈴木さんが登場した回が大好きです。お二人の掛け合いが本当に面白くてファンになっちゃいました。出来たら実際にお会いしたいんですけど迷惑ですか? とかなんとか。鈴木だけに会いたいなんて言うと、マコちゃんは絶対へそを曲げると思った。それでなくても、簡単に返信を貰えるとは思わなかった。作戦の一つに過ぎなかったんだ。今日は流石に疲れたから、念の為マコちゃんにメッセージを送って、それからのことは明日考えようと思った。マコちゃんだって雑魚配信者とはいえ、自分のチャンネルを持っているんだ。視聴者からのメッセージにその都度対応してたんじゃ体が持たない。
すぐに返信が来た。簡単なものだった。早すぎて気付くのに遅れたくらいだ。「ぜひお会いしましょう」とのことだった。なりすましだとは微塵も疑っていない様子だった。ちょっと落ち着きのなさすぎる文章だった。マコちゃんはまるで自分だけのファンのように、ひよりちゃんを扱っていた。どうやらきっぱりと断言しないと分からないらしい。だから、鈴木さんのファンなんです。会わせてくださいって返した。流石に自分の勘違いが身に沁みたのか十分以上スマホは鳴らなかった。きっと不貞腐れたんだろう。まあいい。今日分かったことは、マコちゃん程度の底の浅い人間ならいつだって良いように利用できるってことだ。
諦めかけたその時、メッセージが送られてきた。鈴木に聞いてみたが、ひよりちゃんが信頼できる人物か確認してくれと頼まれた、とある。本当かどうかは分からない。呼び出してひよりちゃんを手籠めにするつもりなのかも知れない。きっとその可能性は高い。そんなことを考えているともう一度スマホが鳴る。あの動画を見てくれたのなら分かると思うけど、鈴木は過去の事件のせいでかなり用心深くなっている。出演交渉する時も結構難儀したんだ。だからまずは私がひよりちゃんを審査して、合格したら鈴木に会わせるっていう段取りでいきましょう。と書かれていた。一つ目のメッセージだけじゃあまりに怪しいと思ったのだろう。だけど二つ目のメッセージを読んでも怪しさは払拭できていなかった。余計に中年男性の性欲みたいなものが滲み出てきていて怖かった。だが二十二才独身女性のひよりちゃんの中身は俺だった。それで構いませんってハートの絵文字つきで送って、その日は寝させていただいた。就寝中も、枕元でずっとスマホが鳴っていた。落ち着け、マコちゃんよ。
■十一
あれから何度かマコちゃんとメッセージのやり取りをした。大体マコちゃん八割、ひよりちゃん二割って感じの頻度だった。その比率から分かったことは、マコちゃんは相当暇な男だってことだ。もしかして、こんな貧弱チャンネルの動画配信者一本で食っていっているのか? って不安になるほど頻繁に連絡を寄越した。まともな職に就いている人間には、ここまでの頻度は叩き出せない。
早々に会う日時と場所を決めた後、俺は問題に対処しなければならなかった。ひよりちゃん役を誰かに演じてもらう必要があったから。でもま、これは大した問題ではない。別に俺が一人で待ち合わせ場所に登場して、マコちゃんのことを締め上げれば簡単に佐藤の情報を吐くだろうとも思えた。だけどさ、そんな乱暴はしたくないだろ? なるべく誰も傷つけずにことを運びたかった。たとえ生きている価値のない終わった中年相手でも、そのポリシーは変わらない。というわけで、代役を立てる必要があった。元彼女と元浮気相手っていう二代巨頭を失った俺には、母ちゃんっていう奥の手しか残されていなかった。その事実に気付いた時は我ながら愕然としたもんだよ。泣きたくなった。でもさ、女友達が何人もいるような男の方がよっぽど女々しいと思うんだよな。下心を隠して女と接するっていう情けない努力に身を捧げた人達なんだから。
なので母ちゃんの出番だ。二十二才のひよりちゃん役にしてはいささか薹が立っているけども、ネットだけのやり取りで起こることの範疇だとも言える。誰も本当のことは話さないし見せない。マコちゃんも良い勉強になるんじゃないかな。それと母ちゃんとしても、俺が二十二才役を任せたと知ったら悪い気はしないはずだ。てことは、まさにウィンウィンの配役だって言えるはずだ。とはいえ母ちゃんには当日まで本当のことは話さなかった。この前駅に迎えに来てもらったお礼として、たまには二人でランチでもって話にした。断られても面倒だし、また腹痛が始まったんじゃないかと疑っている母ちゃんにいらない心配をされるのも鬱陶しかった。それでも母ちゃんは半べそかいて喜んでたよ。電話の向こうで言葉を詰まらせながら「ありが、とう」とか「楽し、みにしてる」とか言ってた。最終的には騙し討ちすることになるけれど、この瞬間の感動を味わえたんだからもうそれでいいよな。
待ち合わせ場所に指定されたカフェには、母ちゃんの車を出してもらった。ココナッツの芳香剤がまたルームミラーにぶら下がっていた。母ちゃんが目を離した隙に外してグローブボックスに押し込んだ。
「会ってほしい人がいるんだ」
俺はそう切り出した。母ちゃんは何故か待ってましたとばかりにハンドルを叩いた。
「結婚すんの?」
「いや、違う」首を振ると、母ちゃんはあからさまに落胆した表情を見せた。「会って欲しい人は男だよ。この前動画見せただろ? その配信者。あの人に連絡取って今日会う約束をしたの。それで、母ちゃんにはひよりちゃんを演じてもらいたいわけ」
「え? ちょっと待ってよ。二人でランチって約束だったじゃない? どういうこと?」
「用を済ませたら、ランチでもなんでも奢ってやるから。その前に頼みを聞いてくれよ」
「なにそれ、なにそれ。嫌なんですけど。この前の動画の人って、あの人でしょ? 教祖に繋がりのあるさ。え? 絶対嫌なんですけど」
こんなにも母ちゃんが非協力的な態度を取るとは思っていなかった。騙したことに怒り、ちょっと反抗されるくらいは想定していたけども、車を路肩に停めてエンジンを停止するくらいに駄々をこねられるとは思っていなかった。「そういうことなら、私行かないよ」って宣言される。
なんでここまで拒否反応を示すのか、俺には分からなかった。だって知らない男と、他人のふりをしてちょっと話すだけじゃないか。しかも母ちゃんは元々社交性のあるタイプだ。人見知りするから他人とは関わりたくないってタイプじゃない。それなのに。なにか事情があるのか? 気にはなったが、待ち合わせの時間は迫っていた。母ちゃんに有無を言わせないために時間ギリギリに到着するスケジュールを切っていたのが仇になった。
「最近また腹が痛くなって、下痢が止まらないんだよ。子どもの頃と同じなんだ。もちろん病院にだって行ったよ。でもさ、そういうことじゃ俺の腹痛は治らないんだよ」
だから早々に切り札を使った。どこまで話すべきか分からなかったがとにかく急いでいた。まさかキーホルダーが腹痛のお守りになっていたことまで話す気はなかったが、それらしいことを言って母ちゃんをその気にさせるしかない。
「それがなんで動画配信者と会うことと繋がるのよ?」
母ちゃんは意外と冷静だった。息子の魂の叫びだけでは押し切れなかった。エンジンをかけて再び車を発車させる。
「とにかく腹が痛くて日常生活に支障が出てるんだよ。こんなんじゃ仕事中も不安だし、不安が更に腹を痛くさせるんだ。でも、今日母ちゃんが男に会ってくれたら、ちょっとは解決するような気がするんだよ。理由は言えないけどさ」
「なにそれ? あんた自分でわけの分からないこと言っているの自覚してる?」
「してるよ。でもさ、元を正せばこれって体質の問題だろ? つまり生まれつきの障害だってことになる。だろ? 別に誰のことも責めちゃいないよ。体質の問題で親を責めるなんて甘えたガキのやることだ。俺は俺として生まれたことを受け入れてる。そりゃたまに、もっと背が高かったらなとか思うけど、概ね満足だよ。でも考えちゃうんだよ。ジャンキーが次の一発のためになんでもしちゃうみたいな心境で、次のトイレを探している時にさ。ああ、こんな体質で生まれなきゃ良かったって。これって誰のせいなんだろうなって」
「それは反則じゃない?」
「いやだから責めてないよ。この腹痛はきっと、神様が暇潰しに俺へ下した当てずっぽうの天罰なんだろうなって思ってる。だけど悲しいのはさ、父親を知らずに育った俺が、慢性的な腹痛を抱えている俺が、恵まれない子どもだった俺が、厳しい世間をなんとかサヴァイヴしてるってのに、そのことを一番よく知ってる母親がこんな些細な頼みも聞いてくれないってことだよ」
これは効いた。母ちゃんは「な」とか言っちゃってその後絶句してた。黙ってたけど、運転が荒くなったことで内心穏やかではないことはバレバレだった。断っておくけど俺は普段、親の弱点を突くようなことはほとんどしない。母ちゃんの方から積極的に父ちゃんの話を蒸し返してきても相手にしない。親の離婚であんたに寂しい思いをさせてって泣き言を言ってきても鼻で笑ってやってる。そのリアクションこそが本心だからだ。今の俺がどんな形をしていたとしても、それは自分自身で人生を選択したからだ。親のせいじゃない。ってことはこの先もし俺がスーパースターになったとしても、それは親のおかげなんかではなく、単純に俺自身だけがすごいってことになるんだけどな。それに、俺は親の罪悪感を安売りしてしまうつもりはなかった。相手にしないということをしながら、鼻で笑いながら、値打ちをこいていたわけだ。これはいつかここぞっていう場面で使えるかもしれないなってほくそ笑みながら。それが今だ。
「本当に前みたいなお腹の痛さなの? もうずっと?」
「ああ、そうだよ。いっつも腹の調子が気になって、それで更に調子が悪くなるような感じ。どうしようもない。苦痛だよ」
「そっか。子どもの時と同じ感じなのね」ちょうどカーブに差し掛かっていた。動揺した荒い運転を予感し、俺はアシストグリップを握った。ところが母ちゃんの運転はそこですっと安定した。氷の上を滑るみたいに滑らかにカーブを曲がっていく。「嫌だけど、まあそれであんたのお腹の調子が治るっていうなら仕方がないかもね。近い内にこうなるような気がしていたし、あんたが本当に困ってるならこっちから提案してた可能性だってあるわけだし」
後半は独り言のように小声でボソボソと言っていた。妙な納得の仕方をしているなとは思った。早めにボケちまったのかってさ。でも、要はマコちゃんに会うことを了承したってことだろう。後のことはどうでもいい。
待ち合わせをしたカフェは、俺のアパートからも実家からもそう遠くない場所にあった。車で一時間もかからない。ってことは、前に母ちゃんが俺を迎えに来た駅よりも少し近いってことだ。マコちゃんと連絡を取り始めた時、一番最初に気になったのはそこだ。いくらマコちゃんが親しみのある笑顔と、微笑ましい登録者数を抱えている動画配信者とはいえ、住んでいる場所まで馴染みがあるとは思えない。ネットってさ、世界中に繋がってるんだぜ。まかり間違ってマコちゃんがブータンとかバングラディッシュとかに住んでいたとしても不思議じゃない。で、大体中間辺りの香港で会いましょう、なんて国際派の常識で言われたらどうする? お漏らしを防ぐために海を渡れってか? 税関でなんて説明する? 腹痛改善のためって言うのか? ラリった運び屋だってもう少しマシなことを言うぞ。そんな風に密かに心配していたものだから、マコちゃんが待ち合わせ場所に隣県のカフェを指定してきた時、内心かなりほっとしたもんだよ。でもさ、こちらが住んでいる場所を尋ねる前に指定してきたことにはひよりちゃんはがっかりしたね。だからモテないんだよって最後通告したくなった。もしひよりちゃんがかなり遠くに住んでたらどうする? ま、ひよりちゃんとしてもこんな男には自分が住んでいる街を教えたくはないだろうから責め立てるのはやめておいてやったけど。
そのカフェは駅前の商店街の端の方にあった。ビルの一階が店舗で、その上は贅沢なマンションになっているようだった。指で数えると十二階建てだった。
大きなガラス窓がいくつか通りに面していて、その間はレンガで埋められている。窓の外にはテラス席があり、生意気そうな小型犬を連れた夫婦が優雅にマグカップを揺らしている。駐車場は隣接されていなかった。近くのコインパーキングに車を停め、母ちゃんに先頭を譲る形で店内に入った。入店する直前にレディーファーストの陣形に変えたのは、既にマコちゃんが待ち構えていた場合のリスクを考えてのことだった。ひよりちゃんが男連れで入店するなんてどう考えてもおかしいもんな。どんなに頭の回転が鈍くてもハニートラップの予感が頭を過るはずだ。
店構えからする想像以上に、店内は奥に広かった。ステージでも設置すればライブハウスになりそうな広さがあった。入口から見て右端にカウンターとレジ、正面と左側にはいくつもの客席が並んでいた。全てが赤いレンガと黒いパイプと木製の板で構成されたようなレイアウトだった。入口で立ち止まり、店内の席を見渡した。マコちゃんはまだ来ていないようだった。あいつは目印にくまのぬいぐるみをテーブルに置いて待つ、なんてロマンチックなことをぬかしていた。センスのなさに呆れたよ。なんて奴だって思った。だけど、テーブルにぬいぐるみを乗せた間抜けは今のところ見当たらない。この上遅刻までするんだから、きっとマコちゃんは一生手に入らないものを追いかける狩人のままなんだろうなって思った。死ぬまで獲物を手にすることはできない。安心して母ちゃんの横に並ぶ。俺は鞄からひよこのぬいぐるみを出して、母ちゃんに渡した。
「なにこれ?」
「目印」
「ダサ」と吐き捨てるように言って母ちゃんはぬいぐるみを懐に抱えた。「まだ来てないの?」
「遅刻だな。じゃあ、適当にテーブル席に座っててくれ。そのぬいぐるみをテーブルに置くのを忘れないで。いいか? 母ちゃんは今から二十二才のひよりちゃんだ。で、相手の男はマコちゃん。マコちゃんはあの教祖の現在を知っているから、なんとかして聞き出してくれ。でも聞き出せなくても、マコちゃんに気に入られれば教祖に繋いでくれるって話だから無理はすんなよ。俺もそこのカウンター席に座って監視してるからさ、なにかあったらこっちに合図を送ってくれ。すぐに助けに行くから。まあ、でも危険はないよ。間抜けな男が相手なんだ。同じ中年でも母ちゃんの方がよっぽどやり手だからさ」
「間抜けねえ」
呆れたような、がっかりしたような顔で母ちゃんは言った。なんて言ってほしかったんだ。マコちゃんを形容する言葉はこの世にその一言しか存在しないんだぞ。俺は家族を戦場に送り出すような気持ちで母ちゃんの背中を押した。母ちゃんは何度かこちらを振り返りながら、店の中央辺りの席についた。俺はカウンター席に座った。カメラのアプリを起動させたスマホをナプキンホルダーに立てかけて、振り向かなくても背後の席を観察できる体勢を整えた。会話の内容は聞こえないだろうが表情なら確認できる。母ちゃんが苦虫を噛み潰したような顔をしているのが分かる。しかし年取ったな、母ちゃんも。千二百万画素の前面カメラが皺の一つ一つを映し出していた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
明らかに注文を聞きに来た店員の声だった。だけど俺は最新のスマホを使って母ちゃんの顔を盗撮するっていう、かなり倒錯した趣味に走っていたもんだから一瞬誰が誰に話しているのか分からなくなった。店員の声を、マコちゃんの動画の中で聞いた声だと勘違いした。つまり、マコちゃんが現れたって思ったってことだ。スマホを確かめ、もどかしくなって直接振り返る。母ちゃんの席には他に誰もいない。
「あの」と、もう一度同じ声が聞こえて初めて、カウンターの向こう側に男が立っているのを理解した。少し顔を上げると染み一つない白いシャツと黒いエプロンが見えた。
「ホットレモンティー」
メニューを確認することなく言った。大して飲みたくなかったけれど、最近じゃいつもホットレモンティーを注文することにしていた。本当はアイスカフェラテが飲みたかった。でも今は牛乳もコーヒーも、そして冷たい飲み物も遠慮していた。どれも俺の腹にはキャロライナ・リーパー並みの刺激物になるからな。
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
店員が去っていくのが気配で分かった。店員の声に驚いてマコちゃんと間違えるなんて。俺は知らない間にかなり緊張しているようだった。それか、一刻も早く教祖に会いたくてワクワクしているのか。どちらでもいいが、そういった種類の心の揺れがもたらす結果は分かっていた。腹がゴロゴロと疼き出した。まだ我慢出来る程度の痛みだが、数分後にはどうなっているか分からない。もしかしたら数秒後には土砂崩れが起きてダムを決壊させようとするかも知れない。俺はスマホから目を離した。首を振ってトイレの場所を確認する。入口とは反対側のカウンターの先にトイレのサインを見つけた。大慌てでトイレに向かった場合、導線上の非常に邪魔な位置に、タブレットでなにかを読み耽る男の席があった。いざとなったらテーブルごとなぎ倒してトイレに向かおうって誓う。その時の俺はブルドーザー。誰にも止められない。
すぐにスマホへ視線を戻した。
「お待たせいたしました」頭上で声がして、スマホを見つめる視界の端に飲み物が置かれた。俺は運ばれてきたグラスをなんとなく邪魔だと思った。指で手繰り寄せて大きく一口含み、飲み物を少し離れた場所に置いた。喉を鳴らしながら、口に入った液体を体内に流し込む。ああ、このアイスカフェラテ美味いな。口の中のものを飲み干して一息ついてから初めて違和感を覚えた。あまりに堂々と店員が運んでくるもんだから疑いもしなかった。こりゃ俺にとっては劇薬だ。グラスを確認する。ホットじゃなくてアイスだし、茶色と白が混ざった色の液体だし、湯気を立てるカップじゃなくて、水滴のついたグラスだ。大馬鹿野郎。よりにもよって、俺の本当のニーズに沿った間違いをしやがって。怒りが湧いた。俺が感じたのは確かに怒りの感情だった。でも腹の中の悪魔たちは喜びの感情を抱いていた。酔っ払ったみたいに腹の中を縦横無尽に暴れ出して喜びを表現しているようだった。尻の割れ目にじっとりとした汗をかき始めたのが分かった。ぬるぬるとして落ち着かない。まだ漏らしてないのに、もう漏らしたみたいな感触だった。
スマホを見る。母ちゃんが一人でひよこのぬいぐるみを弄んでいる。まだマコちゃんは現れていないようだ。入口を確認する。誰かが新しく入店してくる気配はない。トイレに目をやると、ちょうど男が出てくる姿を確認出来た。気取った紫のハンカチで手を拭いている。この店のトイレにいくつ個室があるかは分からないが、俺の危機管理センサーによると、決して多くはないだろうということが分かった。店の大きさ的に二つあれば良い方だろう。もしかしたら、この奇跡のような凪の時間を活用して、トイレで用を済ませておいた方が良いかもしれないな。そんな甘いことを考えると、もう駄目だった。へその下辺りにあったはずの痛点が、すっと移動し肛門を刺激した。いや、肛門を通り過ぎて太ももの裏を刺激していた。こうなると、我慢のしようがない。
立ち上がってトイレに向かおうとしたところで、目の前に例の店員が立っていることに気付いた。呑気にグラスを拭いたりしている。もう限界って感じだったけど、もう限界だからこそ俺は余計なことをしようとしていた。気付くと「おい」と言って、注文を間違えたことにキツいクレームを入れようと思った。今じゃなくても良いことは痛いほど分かっていた。でも、暴れる腸が痛みのはけ口を探していた。正解は間違いなく便器なんだけど、その痛み自体が身近な不正解に反応することはよくあった。今回の場合は店員に対するクレームだった。「はい?」と、素頓狂な顔をして店員が顔を上げる。
教祖だった。
一瞬時間が止まったかのように感じた。いや、止まったのは俺の呼吸と腹痛だけだ。時間はなにがあっても止まりやしない。反射的に胸に掛けられた名札を見た。「AMASAWA」とある。あまさわ。天沢。そうだ、こいつの名前は天沢だ。天沢はカフェのエプロンをしてそこでグラスを拭いていた。ベストを羽織って蝶ネクタイをした執事の格好はコスプレではなかった。このカフェの制服だったんだ。動画で見るよりも若く見えた。かと言って、昔の美貌を感じるわけではない。今ではちょっと彫りの深いただのおじさんだ。「なんですか?」声をかけておいて、それからたっぷりと無反応で過ごすっていう新手の脅しを仕掛けられたとでも思ったのか、天沢は不安そうに口走った。
俺だって狼狽えた。まさかこれほど近くにこの男がいるなんて思わなかったからな。絶対に探し出してやるって気負ってたけど、それにしたってマコちゃんを締め上げるのが先だって分かってたし、まさかこんな風に出会えるとは思ってなかった。で、それ以上言葉が出なかった。そして腹痛が復活の狼煙を上げて、軟便が猛スピードで肛門に迫ってくるのを感じた。
「お前、ちょっと待ってろ。そこ動くなよ」
俺はトイレに向かって小走りになりながら、やっとの思いで言葉を吐いた。指だってさした。指先から放ったビームで、天沢をその場所に釘付けできるってこの時は信じていた。トイレの扉を開けた。思った通り、トイレの中は狭かった。タブレットに夢中のあいつを途中でなぎ倒すのは忘れた。極限状態では衝突よりも回避を選択するものだって学んだ。個室は一つしかなかった。ズボンと下着を同時に下ろしたのは、まだ個室の扉を開ける前だった。今トイレの扉が開けば、位置的にはマフィンを頬張る綺麗な女性の席から俺の尻が丸見えだっただろうが、そんなことは気にしてられなかった。こっちは外資系のビジネスマン並みに一秒だって無駄には出来ない身なんでね。祈るような気持ちで個室の扉に手をかける。開いた。中には誰もいない。トイレットペーパーが散乱し、マナーの悪いド阿呆が小便を便座と床に撒き散らしているような底辺レベルの個室だったけど望むところだ。俺は一瞬だって迷わなかったね。どんな雑菌が付着しているかも分からない便座へ大胆に腰を下ろした。便座に太ももが触れる前に、俺のツァーリ・ボンバはノバヤ・ゼムリャ島へと着弾していた。ももの裏がしっかり便座にタッチダウンした頃には、もうお釣りが返ってきているような早業だった。助かった。まだ祈っていた。もう安全地帯にいるにも関わらず、祈ることをやめられなかった。いまだに人類が宗教戦争をやめられない理由が分かった気がした。トイレの個室にこそ神は宿っているんだ。
「お客様」扉のむこう側から声を掛けられた。天沢の声だった。たとえそれがどんな内容であろうと、用を足している人間に外から声をかけるなんてマナー違反だ。すっこんでろって怒鳴りつけたくなった。でもやめた。出来なかった。人体の不思議。第二波がやってきたからだ。便器に自分の大便を産み落とす時、これで全て出しきった。やりきったって感じる。それなのに一度引いた波が、それ以上の強さと大きさでもって再度押し寄せるなんて一体どうなってるんだ。第二の波はどこからやってくる? 第三、第四の波はどこに隠れてた? これは確実に生命の神秘だ。誰にも解明できやしない。「アレルギーがございましたか?」
天沢は心配しているようだった。こんこん、と控えめにノックをし、プライバシーに配慮した小声で尋ねてくる。俺の方はというと、便意に肛門をアックスボンバーでもされているような具合でノックされていた。体内に大量の蝉を忍ばせているかのようにやかましい音が下腹部の辺りで鳴っている。便意に比べれば、天沢のなんと優しいことよ。腹を刺激するだけ刺激して、中々外の世界に飛び出してこない第二波に手こずりながら俺は冷静さを取り戻そうとしていた。
「いや、アレルギーじゃない。いいからカウンターでちょっと待っててくれ。話がある」
「私にですか? 一体どんな?」
「お前、天沢だろ?」
「ええ」少し間がある。きっと胸につけた名札を見ているのだろう。「そうです。ネームプレートをつけるのは、オーナーの方針でして。若い子は個人的なクレームに繋がるからって嫌がる子もいるんです。でも私はこの通り、おっさんですから」
自嘲気味の乾いた笑いが聞こえた。落ち着かなかった。第二波に怯えながらする話じゃない。せめてカウンターで対面しながら話したかった。だけど今更詳細は脱糞し終えたら話すから、なんて寝ぼけたことは言えない。賽は投げられた。今更芋引くわけにはいかない。
「違う。俺が言いたいのはそういうことじゃない。お前教祖だろ?」
「なんですか、それ?」
ひどく動揺した声と、そこら辺に立てかけてあるモップを倒したような音が響いた。続けて天沢が後ずさりをする靴の音、そして乱暴に扉が開閉する音、それとほぼ同時に、俺の肛門から地球をえぐるミサイルみたいな第二波が発射された音も聞こえた。何故逃げる。予想外の行動だった。正体を見破られてそんなに動揺するなら、なんで動画なんかに出演した。疑問はあったがここで逃走を許すわけにはいかない。俺は自分でも信じられないくらい甘く尻を拭いてからズボンを上げた。転げるようにトイレから出ると、物音で振り返った母ちゃんと目が合った。心配ない、というつもりで俺は一度頷いた。後はもう天沢の行方を追うために店内へ視線を走らせていた。いない。と思ったが、数名の客が同じ場所を心配そうに眺めていることに気付いた。視線を追う。テラス席の向こうの通りを走る人影が目に入った。一体どこに行こうっていうんだ。俺はズボンのボタンを留めながら店を出た。遠ざかっていく天沢の背中が見える。
第三波の脈動を感じていた。普段なら今すぐトイレに駆け込むほど強烈なやつだった。この時だって一瞬迷ったさ。遠ざかりつつある天沢を追うっていう修羅の道を選ぶか、それともトイレっていう天国に戻るか。だけど俺は戦士だ。トイレに背を向ける愛の戦士。気付くと上半身を丸め、腰を後ろに突き出した聖なる行進の姿勢で駆け出していた。あまり速度は出ない。当たり前だ。重力と運動の法則が与える人体への影響を最大限おさえた移動の仕方なんだから。それでも少しずつ天沢との距離は縮まった。あいつは動きばっかり大げさだったけれど、前進する力が極端に弱かった。つまり足が遅かった。もどかしかった。全力で走ることが出来るなら、すぐに捕まえられるのに。周囲には買い物帰りと見られる歩行者が何人もいた。良い見世物だっただろうよ。バタフライでもしているように地上を走る中年が、情けない格好でよちよちと二足歩行をする男に追いかけられているんだから。しかも、追いつかれようとしているんだぜ。俺が街でそんな滑稽なブルース・ブラザーズを見たら笑うね。
数十メートルかけて、ようやく天沢の背中が手に届きそうな範囲まで近づいた。その頃にはもう、下半身の後ろ側に感じているのが単純な汗なのか、それとも既に漏らしてしまっているのか分からなかった。でも次の瞬間に理解した。俺は漏らしてなんかいないって。
青天の霹靂だった。突然稲妻が走ったみたいな、急転直下の痛みだった。それは喉から肛門をジグザグに繋ぐ刺激だった。最早我慢とか根性の問題ではなかった。体の反応として、俺はその場で第三波を全て漏らした。足を止めるつもりなんてなかった。なんてったって、あと少しで天沢の肩に手をかけられそうなくらい近づけていたんだからな。でもその瞬間俺は立ち止まったんだ。動きながら排便するってのは、きっと神が作り給うた人体の機能としておかしな動きなんだろう。突然立ち止まり、そしてうずくまる時間さえ与えられずに漏らした。ずどんって感じだった。正に雷だ。重力に逆らって、飛び上がるかと思った。もしかしたら古代人もこんな経験をして、空への憧れを募らせたのかも知れないって思ったよ。やってしまってから、ゆっくりと地面に腰をおろし膝を抱えた。これが第三波なんだから、走りながら尻に感じていたのは汗だったんだって確信した。お漏らしは苦痛を伴う。改めて感じた。勝手に漏れてるなんて生易しいものじゃない。ま、今考えることではないけれど、そんなことを考えてしまうほど混乱していた。その最中でも、汚れた尻を隠そうと地面にしゃがみ込んだんだから、大した防衛本能だよな。こんな人混みの中、漏らしたことを他人に悟られるわけにはいかない。これはテロじゃないんだからな。街をパニックにおとしいれたいわけじゃない。ただの個人的な過失にすぎないんだから。
顔を上げると、天沢の背中はゆっくりとだが確実に遠ざかっていった。俺はその様子を眺めるしかなかった。尻を地面に擦り付けて、じりじりと道の端に移動しながらな。別に地面にうんこの筋でお絵かきしたかったわけじゃない。社会通念上、通りの真ん中でしゃがみ込んでいるわけにはいかなかったし、なによりそんなことをしていれば目立ってしまう。結果的には、都市化された商店街の道に、ミニサイズのナスカの地上絵みたいなものを描いてしまうことになったから余計に目立ったけど、それは本意ではなかった。
するとその時、天沢が背後を振り返った。俺がしっかりとその背中を追っていた時も、奴は何度かこちらを振り返った。その度に恐怖におののいたような表情を見せ、そして走る速度を上げようとした。残念ながら天沢の運動神経はその要望には答えられないようだった。一層激しく、そして無様に手足を動かしてはいたが肝心の速度は上がっていなかった。一度なんて、鳥が羽ばたくみたいな格好になってたんだぜ。あれじゃあ、少なくとも地上を速く走る効果は薄い。でもこの時は違った。そりゃそうだ。自分を追いかけていた奴が遥か後方でうずくまっていることに気付いたんだから。俺はそこで、天沢の表情を見るのをやめようかと思った。だって、こんな体勢であいつの勝ち誇った顔を見たくはなかったから。天沢は俺を見つけて、走る速度を緩めるとやがて立ち止まった。遠くから見ても分かるほど、大きく肩で息をしていた。足がもつれたのか、その場でふらついたりして。虫の息って感じだった。俺の方は虫の死体って感じだったけど。
それで、驚いたことに天沢はふらふらとこちらに近づいてきた。心配そうな顔してさ。もしこれが北風と太陽みたいな計画だとしたら嬉しかったけど、この時はそんなにハッピーじゃなかった。なにせ糞を漏らしてたもんで。誰にも近寄られたくはなかった。それだけじゃない。なんだか気持ちが悪かった。さっきまで全力で逃げていたのに、なんで近づいてくる? おかしいだろ。今度は俺の方が逃げたくなった。で、逃走経路を確保しようと周囲を確認した。通行人が何人か遠巻きに俺のことを見ていた。皆、道端でうずくまる俺のことを心配したような表情をしていた。それで分かった。俺はよっぽど哀れなルックスだったんだろうよ。世界中の誰もが同情するような可哀想な男。それなら、さっきまで逃げていた人間が心配になって様子を見に来るのも頷ける。
「大丈夫ですか?」
ふらついたり立ち止まったりしながら、息も絶え絶えに天沢が俺の傍らに立った。大丈夫に見えるか? 最悪だよ。最悪の状態だ。道端で糞を漏らしたって事実だけで最悪なのに、いまだ腹の中で第四波が疼いてるんだからもう泣けてくるってもんだ。しかもどうせ最寄りのトイレは遠いんだろ? こんな時に限ってな。あ、もう漏らしてんだからトイレなんて関係ないか。やかましいわ。
「大丈夫じゃねえよ、なんで逃げるんだよ」
取り敢えずその訳が知りたかった。じゃなきゃ俺の汚れたズボンが、そしてパンツが浮かばれない。
「いや、それは」と口籠る。
「いいから言えよ。こっちの状況が分かってるのか? 俺にもう失うものはないんだよ。今人間の尊厳の全てを失ったからな。いいから言え」
思わず大声を出してしまった。俺のことを憐れんでいた通行人達が一歩後ずさりをして、やがてその場を離れた。
「あんたもあの動画を見たんだろ? 軽い気持ちだったんだ。十年以上経ってるし、珍しい事件でもない。言っちゃ悪いが、どこにでもある小さな事件だよ。誰も知らないと思った。それにあの人も、大したチャンネルじゃないって自分で言ってたんだ。視聴者はほとんど知り合いで、飲み屋で話すのと変わらないって」
「なんのことを言ってる?」
「だからさ、あんたもあの動画を見て正義感に駆られたんだろ? それで俺のことを調べて懲らしめに来た。そうなんだろ? 別に俺は犯罪自慢をするつもりはない。罪は償ったつもりだし、過去のことだって思ってる。でも酒に酔った勢いで、思い出話をすることくらいあるだろ? 仲間内で楽しむような話題さ。そんな軽い気持ちで飲み屋でたまたま会ったあの人に話してしまって、それで興味を持たれた。自分が配信してる動画に出てくれって言われてさ。誰も見てない小さなチャンネルだから心配いらないって。ちゃんと断ったよ。でもしつこくて、それで一回だけ出演した。特別バズったわけじゃない。視聴回数も普段通りって聞かされた。自分でも気になって調べたよ。まあ、寂しい数字だった。少しの間は安心してた。でも、配信から数週間経った頃から店に変な連中が現れるようになった。どうやら犯罪歴のある人間が、のうのうと生きているのが許せないっていう人種がいるみたいなんだ。本人には全く関係ないのに。どうやって調べたのか俺には分からないけど、わざわざ職場までやってきて嫌がらせをするんだ。にやにやしながら俺のことをスマホで撮影したり、店の子に俺の犯罪歴について話したり。確かに実害はなかったよ。オーナーは俺の過去を知ってるしな。店のスタッフだって今の俺を信じてくれた。でも気味が悪かった。で、今日あんたに話しかけられた時、遂に実力行使で直接的に暴力を振るおうって奴が現れたと思った。だから逃げた。これでいいか?」
「俺が? 暴力? ふざけんな。そんなつもりなかった」
「本当にそうか? あんた鬼気迫る雰囲気があったぞ」
「糞が漏れそうだったからだよ。ちなみに」今だってそうだ、って言おうとしたところで第四波が肛門から流れ出た。もう我慢する気も起きなかった。泡みたいだった。第一波は固形。第二波は水を含んで、第三波はほぼ水。そして第四波は泡だ。胃と腸が協力してありもしない幻想みたいな排泄物をしぼり出した結果、泡みたいな下痢が出ることになる。俺のうんこは正当な進化論の記録を現実に刻み込んでいた。ズボンとパンツの防御力では耐えきれなくなったようで、地面にマグマみたいな下痢が溢れてきた。偶然近くを歩いていた働き蟻が、その溶岩流に飲み込まれたのが見えた。天沢は一瞬鼻を摘んで眉間に皺を寄せた。ただその行動が社会的弱者に対してあまりにも失礼だと感じたのか、指を離して「近くに家がある。そこまで歩こう」と鼻声で言った。俺は自分自身に遠慮なんてしなかった。思いっきり鼻を摘みながら「頼む」って答えた。
■十二
天沢にシャワーを借りた。非常にありがたかった。でもあいつが逃げたせいでこうなったんだから、借りを返してもらっただけとも言えた。天沢に対してどんな感情を抱けばいいのか分からなかった。心は宙ぶらりんのまま、俺は必死に体を洗った。人んちだからって、漏らした後の処理を大胆に行うことはなかった。こんな時こそ慎重に繊細に行動する必要がある。どんな人間にも敬意を払うことが重要だ。下半身の大半には油みたいになった便失禁の汚れが付着していた。まずは手の平で汚れをしっかり落としてから、今度はボディーソープをつけて洗った。いきなりボディタオルを使って、無神経に直接うんこを付着させたりはしない。石鹸の香りが便本来の悪質な臭いと混ざり、吐き気がするような悪臭が風呂場に充満する。窓を全開にして換気扇も回す。これは自分のためではない。風呂場を貸してくれた天沢への礼儀だ。人んちの風呂場に悪臭は残さない。当たり前のことだろう。下半身の汚れが取れたら、今度はボディタオルを使用して本格的に体を洗った。もちろん上半身も。そして髪の毛も。直接的には汚れていないかも知れないが、なにかの拍子に明後日の場所へと付着しているのがうんこってもんだ。油断はできない。仕上げに、冷水を頭から浴びた。人間の尊厳をかけたギリギリの戦いが続いてオーバーヒートした思考をクールダウンさせたかった。
天沢のマンションは、カフェが入っている建物の最上階にあった。天沢に連れられて部屋に向かった時、彼が堂々と店の方角に戻るもんだから何事かと思った。もしや、既に痛々しいほど汚れている俺の下半身後方を、店まで戻ってさらしものにでもする気か、と警戒した。だけど、天沢はカフェの入口の手前にあるマンションのエントランスに俺を連れ込んだ。それで気付いた。ここに住んでるのか? って。結構良いマンションだった。見るからに築浅だし、駅チカの一等地にある。もしかしたらカフェ店員の他になにかをやって、悪どく稼いでいるのかも知れない。一瞬気を引き締めたが、まあそれも一瞬のことだった。ズボンの裾からは、恥の自動追尾システムみたいなうんこがグラウンド・ゼロから筋を作っていたし、なにより俺はシャワーを借りたかった。もし貸してくれるなら多少の悪なら目をつぶろうと思えた。
さっぱりした気持ちで風呂場から出ると、脱衣所にタオルと着替えが用意されていた。タオルは太陽の匂いがした。アディダスのオールドスクールなジャージは若干オーバーサイズ気味だったけれど、今の気分にはぴったりだった。汚れからは解放された。体にぴったりフィットするようなものは着たくなかった。そこでふと思った。汚れた俺の服はどうなったんだろうって。出来ることなら、捨てて欲しかった。そうじゃなくても、ゴミ袋に入れて部屋の外かベランダ辺りに出しておいて欲しかった。俺はどうせ、漏らした時に着ていた服は二度と着ないってルールを自分に課しているから手間は取らせたくない。それに、自分が汚したものを、他人にどうにかしてもらうなんて居心地が悪かった。
脱衣所から長い廊下に出る。入る時にも思ったが、最上階には天沢のこの部屋しかなかった。エレベーターの中ではキーをかざしてボタンを操作していたし、この階に玄関は一つしかなかった。長方形の形をした建物だったから、恐らくカフェと同じくらいの面積があるのだろう。右側を見ると薄暗い中に玄関が見えた。俺が廊下に塗りたくってしまったであろう、玄関から風呂場までの汚れは既に綺麗に拭き取られている。左側の突き当りにはドアはなく、そのむこう側にリビングらしき広い空間が広がっていた。俺はリビングに向かった。遂に落ち着いた状態で天沢と対峙出来る。腹痛との戦いは厳しいものだった。分の悪い戦場に駆り出され、そして時には敗北した。でもこれでそんな生活とはおさらばだ。心が踊った。自然と口の中に唾が広がり、俺はそれをゆっくりと飲んだ。
リビングは広かった。天井は高く、ベランダ沿いに展開される窓は大きかった。風通しの良い空間にリビングとダイニングとキッチンが同居していた。天沢の姿はなかった。その代わり、細いジーンズと白いシャツを着た女性の姿が見えた。こっちを向いてアイランドキッチンの流しでなにかを洗っている。視線は手元に落ちていて、俺のことには気付いていなかった。
「あの、天沢は?」声を掛けると、女が顔を上げた。垂れた髪の毛を耳にかけ、こちらに笑いかける。
「彼は一旦店に戻ったの。急に店を飛び出したみたいだし、ちょっと外すにしても引き継ぎしたいからって。でもすぐに戻って来るはずだよ。きみのこと心配してたし」
「はあ、そうですか」
「取り敢えずこれでも飲んで落ち着いて」
女はカップに入れたコーヒーを目の前のローテブルに運んだ。向かい合うソファーに座れってことだろう。カフェインを摂取する気はないが、俺はそれに従った。
「大丈夫? 哲也くん」
突然名前を呼ばれてぎょっとした。顔を上げると女のいたずらっぽい笑顔があった。
「なんで俺の名前知ってるんすか?」
「だってきみ、子どもの頃と雰囲気があんまり変わってないもの。すぐに分かっちゃった。私のことは分からない?」
女の顔をまじまじと観察する。涼し気な目元に記憶がくすぐられた。だけど思い出すことは出来ない。ここで我が物顔をしているってことは、天沢のパートナーなのか? それにしちゃ若いぞ。年齢は俺より少し上ってところだろうか。でも天沢みたいなじじいとは釣り合っていない。あ、でも天沢にはロリコンの過去があるからな。簡単に恋愛対象を絞り込むことはできない。
「いやあ、そうですね、ちょっと」
「そっか、覚えてないよね」
女は少し寂しそうに俯いた。儚げな美人は好きだ。罪悪感が疼いた。同時に性欲も。
「もう少しで思い出せそうなんですけど、なにかヒントもらえませんかね?」
「もういいって。覚えてないのが当たり前だし。きみは小さすぎたから。同級生の佐藤桜覚えてる? 私は姉の玲奈だよ。子どもの頃によく遊んだじゃない」
「ああ」と分かった風な顔をしながら、頭をフル回転させてまずは佐藤桜のことを思い出していた。名前に覚えはあった。姿形もなんとなく記憶にある。確か小学生の、しかも低学年までは仲が良かったけどそれ以降は遊ばなくなった。それで、あいつは多分中学受験をしたはずだ。それ以降見かけることはなくなったし、当然今も親交はない。そうだ。桜には姉ちゃんがいて、抜群に頭が良かった。ちょっと地味だったけど優しくしてくれて綺麗だった。玲奈姉ちゃん。思い出した。最後に会ったのはいつだっただろうか。
「久しぶりだねえ。いつぶりだろ?」玲奈姉ちゃんも同じことを考えていたらしく首を傾げた。「あ、もしかしたら私が高校生の頃、彼のところで会ったのが最後かな?」
彼のところ。玲奈姉ちゃんは高校生だった。事実を羅列すると記憶が刺激され、突然頭の中にある映像が蘇った。俺は天沢と玲奈姉ちゃんが一緒にいるところを見たことがある。そうだ。あれは天沢の宗教施設を一人で尋ねた時のことだ。俺はコスモ星丸のキーホルダーに天沢の力を入れてもらおうとして。それで、渋っていた天沢を玲奈姉ちゃんが説得してくれたんだ。いや、ちょっと待て。あの頃は子どもだったからなんとも思っていなかったけれど、あの時の二人はどう考えても事後って感じの雰囲気だった。人払いをして、畳の部屋に布団を敷いて。それで俺が訪ねた時、天沢は上半身が裸だったし、姉ちゃんは慌てて制服を着たような感じだった。毒牙にかかっていたのか姉ちゃんよ。あんたも被害者の一人だったのか。だとしたら、今も一緒にいる理由はなんだ。ストックホルム症候群の症状が重いやつかなにかか?
「玲奈姉ちゃんがなんでここにいるの? こんなこと聞いちゃいけないかも知れないけど、その、姉ちゃんだって天沢の被害者の一人なんだろ?」
俺はマジでデリカシーのないことを尋ねた。自覚はしていたが、それでも好奇心には勝てなかった。それに、もしも今もまだ姉ちゃんが洗脳みたいなことをされているなら放ってはおけない。
「え、ああそのこと? 別に私は被害者じゃないよ」
「だって、あの時姉ちゃんは天沢にやられてたんだろ? 子どもの頃はなにも気付けなかったけど今なら分かるよ。あんた性被害者だろ」
「だから違うって。確かに彼は宗教みたいな仕組みを利用して女の子に手を出してたけど、それは私と付き合う前のことだから。私と出会ってからはそんなことなかったの」
「嘘だ。天沢は逮捕されたじゃないか。姉ちゃんきっと騙されてるんだよ」
「捕まったのはね、私のせいなの」
姉ちゃんの瞳が突然揺れた。表面張力みたいになんとか俺と視線は交差していたけど、それもやがて床に落ちた。悲し気な女は好きだぜ。言葉の意味はまるで分からなかったけどな。
「なんで姉ちゃんのせいになるのさ。悪いのはあいつだろ。ただのロリコンだよ」
「そうね。そう思われても仕方がないことを彼はした。女の子を騙して関係を迫ったことにかわりはないんだし。私も初めて彼に声を掛けられた時はかなり警戒したし。ほら、私もまだ高校生だったしね。しかも真面目な高校生。哲也くんだって覚えてるでしょ? 当時の私のこと」
「まあね。確かに優等生って感じだった。だから驚いたんだよ。なんで姉ちゃんが天沢と一緒にいるのか分からなくて。もしかしたら、他の人達と同じで、天沢の信者じゃないかって思ったんだよ、確か。だって接点なさそうじゃないか。天沢にしたって、姉ちゃんみたいなタイプより、もっと簡単に騙せる女の方が楽だろうし。今はあんなだけど、当時のあいつは子どもながらに見惚れちまうほど格好良かったから、それだけでついて行っちゃうような軽い女を相手にした方が簡単だろう。大体どこで出会ったんだよ?」
「地元だよ。彼の方から声をかけてきた。確かに今はあんなだけど、当時は漫画の中の王子様に声を掛けられたみたいな気分だった」
「なんだよ、真面目な学生も結局は顔かよ」
「違うの。いや、そうだったのかも知れないけど、それだけじゃないの。彼には私の他に何人も女がいるのは知ってた。格好良いし、そんなものなのかなって思ってた。今考えれば、きっと女の子を上手く利用してただけなんだろうけど。私も本気じゃなかったし。負け惜しみなんかじゃなくてね。恋っていうよりも、興味だったの。私の周りには天沢みたいな人いなかったし。彼、どんなにたくさんの女の人に囲まれててもどこか寂しそうだった。まるで誰も本当の自分のことは見てくれないって拗ねてるみたいだった。だから気になったの。当時の私もそうだったから。自分で言うのもなんだけど、勉強は出来たと思う。真面目だったし。だけどそうじゃない自分のことも自覚していた。もっとどろどろとした、黒い感情を持て余す普通の子どもだったのに、誰もそんな私を見ようとはしなかった。自分でも隠していたし当然なんだけどさ」
つまんねえ話だった。繊細を気取った図太い人間二人の与太話だ。あくびが出そうだった。子どもの頃に憧れた玲奈姉ちゃんも結局はここまでの人間だったかってがっかりもした。誰も本当の自分を見てくれないだってよ。一旦立ち止まって、その本当の自分とやらをどこで見つけたのかを考えてみるといいぜ。結局はそう思ってもらいたい理想の自分なんだろ? 本当の自分なんてどこにもいやしない。誰かがこうだって思うあんたが無数にいるだけなんだから。それでも姉ちゃんはまだ許せる。当時多感な高校生だったんだから血迷うことだってそりゃあるだろう。でも天沢はその時いくつだったんだ? 多分二十代後半とか三十代前半とかだろ。おいおい、じじいの領域に片足突っ込んだ奴が本当の自分とか言っていたのか? いや、ちょっと待てよ。そうやって繊細な自分を自ら演出していたからモテたのか? だとしたら俺だって今からそれやるぞ。
「それでね」
玲奈姉ちゃんは思い出話に夢中だった。俺はその話の中に当時天沢が女にモテた理由の内、ルックスに依存しない部分を抽出することに夢中だった。玲奈姉ちゃんはのぼせ上がっていた。要はこういうことだった。
お互いに寂しさを抱えた男女が、特別に惹かれ合い恋に落ちる。女は男の悪事を止めようと説得する。男も反省し同意する。ところが女はまだ未成年だった。かなり年上の男と付き合っていることを女の親が知ることになる。しかも相手の男は近所であまり評判の良くない男だった。女の親は娘のことを心配するあまり、警察に通報をする。玲奈姉ちゃんが天沢の逮捕を自分のせいだって言い張る理由はこの部分なんだろうな。男は逮捕される。間抜けなことに、男には情事を撮影して後で楽しむ性癖があった。しかも女と真剣に付き合った後もそのデータを処分していなかった。それはそれ、これはこれって感じだったんだろうな。その割り切り方、俺は好きだぜ天沢よ。で、その中には未成年の女子が何人かいた。それで実刑。女には夢があった。自分のカフェを持つことだ。塀の中の男とも手紙で約束をしたらしい。罪を償った後一緒に夢を叶えましょうって。自分の親が通報して捕まったことへの罪悪感だったんだろうな。幸い女は頭が良かった。大学で経営学を学び、色々なカフェでアルバイトをした。大学卒業後は、大手コーヒーショップの社員にもなった。そこで実践的なカフェの経営を学んだ。大胆にも一年で独立し、学生時代のアルバイトと正社員時代の給料を元手に自分だけの小さなカフェを開店させた。経営は上手くいった。ここら辺は流石姉ちゃんって感じだよな。今は別々のコンセプトで三店舗のカフェを経営するやり手ってわけだ。ちなみにマンションの下にある店舗は、一番新しい店らしい。どの段階で男が出所したのか言及はなかった。女が学生時代、既に出所していたのか、それともカフェを出店してから最近になって一緒になったのか。どちらにせよとんでもないことだ。性犯罪者と共に働く夢なんて、誰もが見れることじゃない。一瞬血迷ってそういうことを目標にしたとしても、時間が経てば目が覚める。なんて馬鹿なことを考えていたんだろうってさ。だけど女は違った。女性をたぶらかして乱暴するっていう世界で一番情けない行為を犯した男をずっと待っていた。まったく呆れるね。二人の間にどんな種類の結びつきがあるのかは、結局理解できなかった。いや、姉ちゃんは情感たっぷりって様子で話してたよ。やり過ぎてこっちが冷めたもの。トゥーマッチな演技には辟易した。つまり俺には理解できなかったってことだ。真面目な高校生と、イケメン詐欺師にどんな共通点があるってんだ。お互い似たような寂しさを抱えて生きていた? 笑わせるぜ。誰だって大体同じような寂しさ抱えているもんだろう。姉ちゃんは必死になってその「同じ寂しさ」ってワードを強調していたけどさ、だったら俺だって寂しいぜ。それなのに俺は女とも別れ、浮気相手にさえ振られた。ほら、寂しいぜ。一生かけて養ってくれよ。そうしてくれるなら、くだらない仕事なんてすぐに辞めて、大石良雄ばりの忠誠心でもって姉ちゃんに尽くすぜ。だけどそうはならないわけだろ? ふざけんな。素直にさ、天沢の若い頃のルックスに心底惚れたって言えばいいんだ。今は年齢なりのおっさんだけど、惰性と情だけで付き合っているってさ。それで天沢の方はっていうと、良い金蔓とセックスの相手が同時に見つかったってだけだろうな。宗教を立ち上げて酒池肉林を作り上げるなんて、元々危ない橋だってきっとあいつは気付いてた。そこまでアホじゃないはずだ。でも辞められなかった。性欲をおさえられない程度にはアホだっただろうから。辞め時を見計らっていた。そんな時に、全てを捧げてくれる女に出会った。それで辞めた。ただそれだけのことだろうよ。ま、全部が全部天沢の洗脳ってこともあり得るけどな。天沢が姉ちゃんを洗脳して、今こうなってるってだけで。じゃなきゃ、今じゃしょぼくれた性犯罪者がこんなによくしてもらえるなんてやっぱり変だろう。
「すまん、ちょっと忙しくなってきたから交代できるか」
エプロンをしたままの天沢がリビングに顔を出した。姉ちゃんは俺と天沢の顔を見比べてから「分かった」って言って、部屋から出て行く。二人にまつわる過去の話で気持ちが盛り上がったのか、一瞬天沢と目を合わせた姉ちゃんの顔は火照っていた。今夜は盛り上がるんだろうな。精々頑張ってくれ。
「それで、きみは誰なんだ?」
エプロンを解きながら、天沢は斜向かいのソファーに腰を下ろした。
「俺は中村哲也。子どもの頃、お前に会ってる。お前が警察に捕まる前のことだ。だから正体も知ってる」
「じゃあやっぱり、昔のことを責めに来たってことか」
天沢は覚悟を決めたような厳しい顔で、ソファーの背もたれに背を預けた。
「いや、だから違うって。お前がどんな犯罪を犯してたって俺は気にしない。どっちだっていい。そんなことのために来たわけじゃない」
「じゃあなにしに?」
「お前が不思議な力を持っていることは知っている。昔、キーホルダーに力を込めてもらった。俺を覚えてるか? 願いが叶うようにしてもらったんだ。それ、もう一度やってくれ」
俺はぐいっと顔を近づけた。天沢がそれを避けるように顎を引く。そして「ふふふ」と、落胆したような笑みをこぼした。
「なにがおかしい?」
「悪いけど覚えてない。いや、きみを信じてないわけじゃない。でもあの頃はそういう戦略をとっていたんだ。小学生にはお菓子と子供騙しを。中高生には大人な女や男と現実逃避できる場を。そんな風に少しだけ良い思いをさせて、子から親に俺達のことを宣伝させる。中にはクレームをつけてくる親もいたけど実際に子どもを傷つけたわけじゃない。俺のことを知ってるんだよな? じゃあ俺がしたことも知ってるんだろ? あれは冤罪だ。俺は性犯罪者なんかじゃない。全員合意があったし、子どもには手を出さなかった。中学生だって成熟した大人の体になってる女だっているし、成人でも子どもみたいな体の女だっている。そういうことだ。信じてくれ」
「だからそんなことどうでもいいんだって。気持ち悪いな。普通の会話で成熟した体とか言うなよ」
「それなのに、色んなレッテルを貼られた。ロリコン、セックスカルト、性犯罪者。本当の俺を信じてくれたのは玲奈だけなんだ。こんな俺に仕事も用意してくれて。感謝してる」
天沢は俯きながら話して、なんと目頭を拭うような仕草をとった。勘弁してくれよ。おっさんの涙なんて見たくないんだ。おじさんがめそめそしている横で、俺はどうすれば話をちゃんと聞いてもらえるのかを考えた。いや、考えるまでもない。めそめそモードのおじさんになんて遠慮する必要はないんだ。頭を切り替えた。密かに闘志を燃やす。
「お前の泣き言なんて聞きたくねえんだよ。寝言は夜、ベッドの中で玲奈姉ちゃんに聞いてもらうんだな。俺の話を聞け。お前には不思議な力があるんだろ? その力でもう一度俺の願いを叶えろ」
ぱん。と音が鳴った。俺が思い切り天沢の頬を張った音だ。こっちの話に集中してもらう必要があった。天沢は瞬間的に叩かれた頬を手でおさえた。その後、恐る恐る俺の方を見る。
「なんで、こんなこと?」
「お前を探してたんだよ。やっと見つけた。だからお前は俺の願いを叶える義務がある。その義務からは逃れられない。さあやれ。今やれ」
「でも、できないんだ」
俺はもう一度腕を振り上げた。勢いをつけた掌底を、天沢の頬ぎりぎりで止める。「次は止めないぞ。え? もう一発欲しいのか?」
「違うんだ。そういうことじゃなくて」天沢が体を捻るようにして立ち上がり、こちらとの距離を取る。「できないんだよ」
「よし、そこで目を瞑れ。今度はグーでいくからな」
拳を握りしめた。すると天沢が飛びついてきて俺の拳をおさえつける。
「だから、俺にそんな力はないんだって。きみも大人なら分かるだろ。そんな力この世にあるわけがない。それに、さっきも言ったはずだ。子どもには子供騙しを提供したって。そういう戦略だったから。手品みたいなものだよ。俺は大学で少し心理学を齧ってたから、それを応用して子どもを信じさせてただけ」
「いや、そんなはずはない。信じろ。俺のことも、お前自身の力のことも。こういうのはな、信じることから始まるんだ」
信じられない告白だとは思わなかった。薄々勘付いてはいた。だって俺結構リアリストだし。でも認めることはできなかった。認めてしまえば、長年腹痛がおさまっていた事実も説明がつかなくなるし、今悩んでいる腹痛を治す方法も見失う。天沢の力は今や俺のアイデンティティみたいなものだった。
「信じるもなにも、本人がないって言ってるんだから。さっき俺は自分の罪を否定したよな。全員と同意があったって。それは本当だ。でも不思議な力なんて嘘だ。あれは嘘。子供騙しなんだって。俺は性犯罪者じゃないけれど、嘘つきのイカサマ師なんだ。分かってくれよ」
「嘘だ」言いながらもなにが嘘でなにが本当なのか区別がついていなかった。「分かった。嘘でもいい。信じるから昔と同じようにその子供騙しを俺にかけてくれ。それでいいから。お前の子供騙しに力があるのかも知れない。いや、力なんてなくてもいい。だってそうだろ。俺の腹痛を長年に渡っておさえていたし、玲奈姉ちゃんをいまだに洗脳し続けてる」
「全部きみの思い込みだよ。それに玲奈のことは洗脳なんかじゃない」
「いいからやれ」思わず大きな声を出してしまう。顔も熱い。興奮している自分に気付いた。同時に、腹の中が揺れるのを感じた。着々と新しい燃料を生産しているらしい。そのことに気付くと後は早いぞ。再び腹痛でのたうち回るのも時間の問題だ。「形だけでもいいからやれ。効果があるかないかは後で分かる」
「分かったよ、分かったから」
天沢が顔の前に手をやって防御姿勢を取った。その恐れ慄いた表情を見ると、俺がどのくらい必死になっていたのか分かった。
「よし」
「それじゃあ、えっと、どうやればいいんだっけ。まあ形だけだからなんでもいいか。よし。そうだ。確かキーホルダーとかそういった、普段持ち歩くものが必要だったんだよな」
「いや、いい。もう大人だから直接やってくれ。心配するな。いきなり破裂するようなことはないから」
そう言って、天沢に背中を向けた。天沢は一瞬考えてから「そういえば、そういう制約も作ったな」と笑った。
「やれ」
もう不思議な力の恐喝だった。俺は天沢が持っているはずの力を、奴にその場でジャンプさせてカツアゲしてた。天沢が背後に周り背中に手をかざすのを感じた。目を瞑ると、肩甲骨の辺りが暖かくなっていくのが分かった。イエーイ。これで腹痛ともおさらばだぜ。
■十三
腹の中はまるで東映作品のオープニングみたいになっていた。荒磯に波だ。胃、腸、肛門という三つの岩に、荒ぶる自然の脅威が絶え間なく襲いかかる。乱暴に引いては押し寄せる波が、岩に衝突し白く砕けた。
トイレにこもっていた。体をくの字に曲げて、肘を膝の上にのせようとするが、体が震えているため上手くバランスが取れない。額には玉の汗をかいていた。時折汗雫が眉やこめかみ、そして瞼を通る大冒険を経て目頭に到達した。その度に痙攣したみたいな瞬きで不快感を消していたが、足りなければ背筋でなんとか体を支えて手の平で拭った。もちろん下痢は、断続的に尻の穴から噴出していた。もう何時間トイレにこもっているのか、自分でも分からなかった。毎日同じような生活だった。今が昨日の続きなのかも、明日のデモンストレーションに過ぎないのかも分からなかった。俺はトイレの住民だった。たまに住処から外の世界に出て行くこともあるが、結局は腹痛に呼び寄せられてスイートホームにすごすごと帰っていく。
以前なら神に祈りたくなるような下痢の時だって、俺はもうそうしなかった。ただただ現実を呪っただけだ。だって神なんていないし、この世には不思議な力はないから。そう。天沢に力なんてなかった。俺の腹痛は全然治っていなかった。
天沢の子供騙しに付き合ってから二週間以上経っていた。帰宅してからすぐに腹痛が始まった。いつものことだった。不思議な力が効き始めるのだってある程度時間がかかるはずだ。なんだってそうだろう。すぐに効果が出る努力なんてこの世にはない。そうは思ったものの、一向に体調は良くならなかった。なんなら悪くなっていったかな?
俺の気力を搾り取るような腹痛が続いた。仕事にも行かなくなった。俺には完璧な通勤ルートがあった。自宅を出て、コンビニだとか公園だとかスーパーだとかをなぞって、とにかく五分以上トイレのない場所を歩かなかった。駅についてしまえばこっちのもんだ。各駅にトイレがあるからな。だけどこの頃にはもう、五分なんて生易しいことを言ってられなくなっていた。一分につき一か所はトイレが欲しかった。実際には五分程度我慢できる時もあったけれど、それでは安心できなかった。不安があるってことは、それだけ我慢できる時間を減らすってことだ。家のトイレに閉じこもっている方が安心だった。会社からの電話は無視した。心配しているふりをして、俺に面倒事を押し付けようとする魂胆が見え見えだった。それか、誰だって本当は仕事なんてしたくないのに、その夢を軽やかに叶えている俺に嫉妬して小言を食らわせようとしているか。とにかく電話に出たところで現状は変わらないわけだし、調子を合わせてやる必要もない。会社に本当の理由なんて知らせてない。休み始めた初日に連絡をして、体調不良っていう古典的理由を告げただけだ。次の日からはもう連絡してない。体調不良が続いているって判断するか、飛んだって判断するかは人事部の仕事だ。俺の仕事じゃない。正直に四六時中腹が痛くてどうにもならないって言っても良かった。だけどそんなこと言っても結局同じだろ。病院に行けって言われるだろうけど、医者なんて糞の役にも立たないことは分かっている。ただのズル休みって判断されるかも知れない。だから言う必要なんてないんだ。初日にちゃんと連絡したことで義理は果たした。そこを評価してもらいたいね。それでも、このままならいつかクビになっちまうことも分かっていた。望むところだよ。毎日スーツの後ろ側を汚して出社するのと、クビになるのとどっちがマシか比べてみろよ。大体の人間が俺の選択を支持するはずだ。
そんな感じで最初の一週間が経った後、ようやく俺は現実を認めた。こりゃ治ってねえなって。天沢の野郎、マジでただの詐欺師だったんだなってな。認めれば気持ちが楽になると思った。現状を確認して前に進むことも出来るからな。でもこの時はそんな風に思えなかった。絶望ってやつだな。二度と平穏な暮らしを送れることはないって思い込んだ。どうでも良かったんだ。俺はトイレで暮らし、たまに無理やり食事もする。食欲なんてなかったし、家に碌な食料は残っていなかったからな。当然、食事中だって尻からは排便している。栄養を摂取すると同時に排出しているんだ。これはサスティナブルって言って良いのかな? 摂取量と排出量のバランスが崩れれば俺は死ぬだろう。トイレで、尻を汚しながら痩せ細って栄養失調で死ぬんだ。母ちゃんも息子の死因を他人には説明出来ないだろうな。
そうして二週間が経ったってわけだ。もう家に残っている食料はほとんどなかった。腹痛のせいで食欲が失くなってなかったら辛かっただろうな。体重だってかなり減っているに違いない。髭はぼうぼうに生えていたし、風呂に入っていないから体中がベタついていた。途中で尻を拭くのを諦めたから、パンツとズボンの内側には魅惑のピーナッツバターがたっぷりと塗られていたことだろう。だって拭いても拭いても汚れるんだから。俺は元来綺麗好きなんだ。一生懸命拭き取ろうとすると血が出るんだよ。意味のないことに血を流すなんて戦争みたいなものじゃないか。ピース。はっきり言って、もうどうでも良かった。俺は死を待つだけの情けない人間になり下がっていた。
そんな時だった。トイレに籠もっていると、インターホンが鳴った。遂に来やがったかと思った。職場の人たちが最後通牒を突きつけにやって来たんだ。無視してやろうかと思った。どうせすぐにはトイレから出られないし。だけど自分がトイレに籠もっている時にインターホンを連打されるのも落ち着かないもんだぜ。俺は走れないタイプのゾンビみたいに足を引きずりながら玄関に向かった。他人に見せるには忍びないほど汚い風体だったし臭いも相当なものだったろうけれど関係なかった。死を覚悟した人間には、そういう度胸が備わるから。のぞき窓も確認せずに扉を開けた。そこに立っているのが誰だろうと構いやしない。ありのままの自分を好きになるってこういうことだからな。
母ちゃんが立っていた。俺の姿を見て、一瞬眉間に皺を寄せた。
「なんだよ」
なんとか言ったが、上手く発音できなかった。この二週間誰とも会話をせず、独り言さえほとんど言わなかった俺の喉はすっかり退化していた。表面がからからに乾いて、しかも上手く動いてくれなかった。
「なんだよじゃないわよあんた。汚い格好して。臭いし」母ちゃんは遠慮なく顔を歪ませて、鼻までつまんだ。「会社から電話があったわよ。出社して来ないって。部長さんから。心配してた。様子を見に行ってやってくれって。私情けなかったわよ。息子が社会人になってもまだこんなことで駆り出されるなんて」
「無視すればいいだろ」
「あら? 反抗期に戻ったの? いいから中に入れなさい」
母ちゃんは肩で俺を押しのけて部屋の中に入っていく。途中であまりの惨状に「ぎゃあ」って悲鳴を上げてた。自分では意識してなかったけど、部屋の中は相当散らかっていたから。その背中を追う。母ちゃんは閉めっぱなしだった窓を勝手に開けたり、散らかったゴミを袋にまとめたりし始めた。母ちゃんは高性能のルンバみたいなものだった。AI搭載で二足歩行の。だけど別に嬉しくはなかった。むしろ俺のテリトリーを侵害する敵対国家みたいに思えた。いくつになっても親に掃除をされるってのは、落ち着かない気持ちになるもんだ。ふん。勝手にやればいいさ。俺はお花を摘みに行かせてもらう。
用を済ませた。流石にちょっとしか出なかった。ここのところ多くなっている泡状の大便が、ほんの少し肛門から滴り落ちただけだ。情けないほど少量なのに、一丁前に激痛が走るんだからどうかしてるよな。原因と結果の均衡が取れてないと思うんだけど。腹をさすりながらトイレを出ると、母ちゃんはこの短時間であらかた掃除を終えていた。冷蔵庫にどこかで買ってきたらしき食料を詰めている。助かったとも思ったが、余計なことするなよとも思った。どうせ食欲なんてないし。それでも生存本能が少しずつ食べるように促すもんだから、死への道程が伸びてしまう。死ぬのは怖いが、このまま生きていく自信はなかった。どうせなら早いところ消えてなくなりたいってのが本心だった。
「ほら、これ」
母ちゃんは食料が入ったビニール袋から真剣な顔でなにかを取り出して、こちらに向けた。見慣れないものだった。受け取って袋を開けると豪華なポケットティッシュみたいな形をしたものが入っていた。俺はそれを取り出し様々な角度から観察した。外でうんこをする時はこれを使いなさいってことか? 高級ティッシュだから俺の弱っちい肛門をこれ以上血まみれにはしないはずだからってことなのか?
「なんだよ、これ」
「ナプキン。お腹痛いんでしょ。会社にも行けないくらいなんだからきっと困ってるんだって思って。うんちに対しては防御力弱いけど、それパンツに貼り付けとけば精神的な支えにはなるよ」
舐めるなよって思った。確かに俺は腹痛で死にかけている人間だよ。それは認める。真っ当に生きることを諦めた終わった奴だ。でもな、ナプキンをつけて外出なんてしねえ。それは男性の自尊心を自ら傷付ける行為だ。それに外出時の対策を考える段階はとうに過ぎ去った。外出自体できねえからな。
「なんだよそれ」
でもな。一応貰っておいた。なにがあるか分からないし、この際プライドは脇に置いておくことにすると、ナプキンは悪くないアイデアだって思えたから。男には分からない吸収力があるって聞くしな。
「それで、どうなの? 体調の方は。最悪?」
「まあな。それよりさ、あの時途中でいなくなってごめんな」
まずは謝罪をしたかった。もしかしたら腹痛のことをあまり喋りたくなくて、それで話題を変えたかっただけかも知れない。でもさ、俺が玲奈姉ちゃんのカフェで、母ちゃんを置き去りにして、まいたのは事実だから。しかもさ、直前でいきなり他人に会う仕事を押し付けて、それから消えたんだから母ちゃんからしたら堪ったもんじゃなかっただろうってずっと思ってた。あの後俺は、玲奈姉ちゃんのペントハウスから出てカフェに戻った。店の中に母ちゃんの姿はなかった。駐車場に車もなかった。俺は姉ちゃんや天沢と小一時間やりとりしていたはずだから、突然消えた息子に呆れて帰ったんだと思ってた。それからは腹痛が治る期待と、治らなかった絶望を感じて生きていたもんだから母ちゃんに連絡するのを忘れていた。
「たしかに」母ちゃんは肝心なことを思い出したかのように膝を叩いた。「ちょっと勝手過ぎじゃない」
「悪いと思ってるよ。ごめんな。あの後大丈夫だったのかよ」
「ああ、マコちゃんのこと? あんたが店を飛び出してからすぐに来たわよ。で、まあ、なんだか適当な話をして解散。それだけ」
「それだけ? なんにも言われなかった? なんというか、こっちはあいつを騙していたわけだからさ。嫌な態度をされなかったか?」
「どうだろうなあ? 時間も経ってるしちょっと思い出せないかも。でもまあ、今こうしてあんたの目の前にいる私は元気なわけだしさ」
なんだか怪しかった。まさかあの日の出会いがきっかけになってマコちゃんとの黄昏流星群が始まったとか? げえ。考えたくもない人間交差点だぜ。
「母ちゃんまさかあの男となにかあるのか? 勘弁してくれよ。それならそれで構わないけどさ、息子に悟らせないくらいの気は使えって。これは非常にデリケートな話ですよ」
「違う違う違う。私とマコちゃんが? そんなわけないじゃないの」
「普段からマコちゃんって呼んでるのか? 随分親し気じゃねえかよ。まあいいさ。母ちゃんだってずっと一人で生活するのは寂しいわな。でもな、これだけは言っておくぞ。俺はあいつを父ちゃんだなんて呼ばねえ。それだけは覚えておいてくれ」
「ちょっとなに先走ってるの? そういうところ、本当あの人にそっくり」
「あの人って誰だよ? 父ちゃんのことか?」
「あんた本当になにも覚えてないんだね」
「なにをだよ?」
母ちゃんは肩を落としていた。俺はその仕草を、これ以上惚け切れないと悟った嘘つきが最後に逆ギレを試している様だと解釈した。行動に意味なんてなく、少しでもこちらに罪悪感というダメージを与えたいだけなんだ。母ちゃんはわざとらしく俺の顔色を覗き込むようにして伺ったりしていた。ふふふ。そんなことをしたら、反対に自分の罪悪感が疼くはずだ。なんてったって、俺は骸骨みたいに痩せちまっていたはずだし、健康とは程遠い顔色だろうからな。親として、こんなに自分を不甲斐なく感じることもなかろう。
「マコちゃんを見て、なにか感じなかった?」
「感じたよ。こうはなるまいって思った。みっともねえおっさんだなって」
「そうじゃなくてさ。まあいいわ。じゃあ父親のことは覚えてる?」
「あ? なんだよ急に。そりゃ覚えてるよ。小三の時会ったきりだけどな。当たり前だろ、父親だぞ。それがどうしたんだよ」
「あんたの腹痛が始まったのはその小三の時だよね。父親が出ていって、それで精神的なショックからストレス性の胃腸炎になった。当時お医者さんにかかったの覚えてる? そう言われたの」
「覚えてないけど、それがどうした? 病名が分かったからって、病気が治ったのか? あの後俺は随分と苦しんだぞ。それに、父ちゃんがいなくなったからじゃねえ。俺はそんなことでストレスを感じたりはしねえよ。ただそう生まれてきちまったってだけで、原因なんてないんだよ。だから必死にもがいてさ、自分でなんとかしたんじゃないか。今だってそうだよ。腹のことならずっとなんとかしようとしてる」
「子どもの頃、あんたはある時期を境にお腹の調子が良くなり始めた。多分、親子二人になった生活にも慣れて、ストレスが減ってきたからだと思うんだ」
「だからさ、父ちゃんのせいじゃないって。もちろん、母ちゃんのせいでもない。もうなんて言ったらいいのか分かんねえよ」
「今もあの時と同じように苦しんでるんでしょ? もうあんたも大人だから、私がどうにかしてあげることはできないけど、もしかしたらあの人なら力になれるかも知れない。会ってみる?」
「誰に?」
「父親に」
なんでそうなる。いくら俺の腹痛が両親の事情とは関係ないって説明しても母ちゃんは納得してくれない。本気でもどかしかった。赤ん坊と話しているような気分になった。それに、なんで父親に会ったら俺の腹痛が治るんだ? どういう理屈だ? 母ちゃんの中では腹痛の原因は俺が父ちゃんを失ったことで、治ったのはその状況を受け入れたからっていう理論が出来上がってしまっている。分かった。その理論は認めることにしよう。だけどそれは子どもの頃の話だ。第一次下痢ブームの時の話なんだよ。第二次下痢ブーム真っ只中の俺には通用しない理論なんだ。今の俺はコスモ星丸のキーホルダーを失って、それで腹痛に苦しんでるんだよ。父ちゃんの存在に付け入る隙なんて与えてない。お呼びじゃないんだよ。
ただ、そんなガチガチに固めた俺の理論にも穴があった。コスモ星丸のキーホルダーも、天沢の力も効果がないってことが分かったからな。つまり原因不明だ。俺は一生かけて下痢に苦しんで死ぬんだ。その運命を受け入れつつあった。だから尚更母ちゃんにはやめてもらいたかった。親の真剣な表情で俺を惑わせないでもらいたいもんだね。子どもっていうのはさ、親のそんな態度を条件反射で信じてしまう傾向にあるから。藁を掴むようなこの状況で父ちゃんに会って、その結果今と変わらなかったらそれこそ俺は挫けてしまう。もしかしたら自ら死期を早めるような行動だって取ってしまうかもしれないぞ。分かってるのか?
それとも。それとも本当に腹痛と父ちゃんになにか関係があるのか? 俺はこの不調をどうにか治そうと突っ走った。天沢を見つけたし、不思議な力の恐喝だっておこなった。その結果がどうだ? なにも変わらなかった。希望を失っただけだ。俺以外で俺の腹痛のことを本気で考えられるのは母ちゃんだけだ。自分の計画が失敗に終わったのなら、今度は母ちゃんの案を試してみたって損はないのかも知れない。
だけどどうにも現実感が伴わなかった。だって母ちゃんと父ちゃんに今でも繋がりがあるとは思えなかったから。連絡なんてずっと取っていないはずだ。前に聞いた時、あんたの父親は行方不明ですってはっきり言っていたし。
「どうやって? 父ちゃんは行方不明なんだろ? 嘘だったのかよ? 本当は会ったりしてるのか?」
「それは本当よ。あの人とは離婚してから一度も連絡してない。向こうからもない。お互いに会うつもりはなかったんじゃないかしら」
「じゃあどのみち会えないってことか」口に出してから、自分が意外とがっかりしていることに気付いた。「父ちゃんに会えたら、なにか変わると思うか?」
「うん。あんた、あの人のこと大好きだったから。自分が思ってるよりずっとね」
そういう自覚はなかった。それでも、母ちゃんからそう思われていることは嫌ではなかった。俺を苦しめる腹痛は、本当にストレスが原因なんだろうか。しかも父ちゃんがいなくなったことで生じたストレスなのか。分からない。検討もつかない。だけど、この二週間で初めて腹の辺りに心地良い温かさを感じた。それまでは腹の中に永久凍土をぶち込まれたような冷たさしか感じなかったから余計に。
「じつはさ」
驚くほど自然にこれまでの経緯を口にしていた。腹痛にまつわる、母ちゃんには黙っていた部分をすべてぶちまけた。父ちゃんからもらったコスモ星丸のキーホルダーのこと。天沢の不思議な力のこと。当然、子どもの頃に天沢にされたことも話すことになった。恥ずかしかったが、今更隠すことでもないように思えた。所詮俺はうんこ垂れなんだ。子供の頃にどんなことがあって、それを大人になるまで信じていたり、やっぱり疑ったりしていても等身大の自分の下半身はこれでもかってくらいに汚れている。全部話し終えてから、俺はなんでこのことを長年母ちゃんに黙っていたのかなって考えたほどだ。怒られたくなかったからか? 子どもの頃はそうだったかも知れない。でも今はそうじゃない。これ以上心配をかけたくなかったからだ。秘密にすることで、余計に母ちゃんを苦しめている自覚はあったのに。つまり、女手ひとつで俺を育ててくれた母ちゃんの気持ちより、面倒事を抱えないことの方が大切だったってことだ。それか、母ちゃんの謂れのない罪悪感を利用して、いつか自分のわがままを通そうと企んでいただけか。多分どっちも正解だった。
母ちゃんは俺の話を聞いても動揺は見せなかった。もちろん激怒するようなこともなかった。ただ黙って耳を傾けた後「そっか」って言った。そして「それでもやっぱりあの人には会うべきだと思う」とも言った。真相を聞いた後でも、母ちゃんは主張を変えなかった。
くうーん。腹の中で音が鳴った。今までの凶暴な咆哮ではなく、俺の機嫌を取るような音だった。もしかしたらなにかが変わるかもって思い始めていたのかも知れない。ただもし変わらなかった場合俺はもう諦める。もちろん生きることをだよ。これが最後のチャンスだ。
■十四
待ち合わせ場所は、天沢が働く玲奈姉ちゃんのカフェだった。あの日と同じだ。母ちゃんによると、父ちゃんが決めたそうだ。ってことは、父ちゃんはずっと俺の生活圏内に住んでたってことか? じゃなきゃこのカフェを選ぶことはないだろう。俺はテーブル席について、父ちゃんを待っていた。目の前にはホットレモンティーが湯気を立てていた。さっき天沢が、今度は間違えないで持ってきたんだ。褒めてやるつもりはない。ウエイターなんだから客の注文を間違わずに運ぶなんて基本中の基本だからな。当たり前のことだ。あいつが得意気にレモンティーをテーブルに乗せた時、俺は思い切り無視をしてやった。なんだかちょっと気不味かった。天沢に対しては、俺もやりすぎた面があったと思うし。だけどこちらから謝るつもりもない。だってただの役立たずだったわけだからさ。「やりぎたかも」と「いやお前の方から謝れよ」が心の中に同居して、その結果気不味く無視することしかできなかったんだ。玲奈姉ちゃんの姿は店内にはなかったけれど、もし顔を合わせても上手く対応できないだろう。素っ気ない態度を取ってしまうかも知れない。
こうなることは待ち合わせ場所を聞いた時点で予想ができた。だから嫌だったんだ。しかも、一度大きな腹痛に襲われた場所でもあるから、座っているとすぐに腹が騒ぎ始める。パブロフの犬みたいなもんで、嫌な記憶は俺の心に大きなトラウマを残すのさ。待ち合わせ時間になっても父ちゃんは現れなかった。大体俺は今の父ちゃんの姿が分からなかったんだ。昔の姿ならイメージすることができた。だけど天沢でさえ、こんな風に変わってしまうんだから十五年っていうのは男の風貌を変えるには充分過ぎる時間なんだろう。だからテーブル席に座る俺のことを父ちゃんが見つけるしかない。母ちゃんによると、今の俺が写った写真のデータを送ったから大丈夫とのことらしいが、どうにも信用出来ない。時間が風貌を変えるってことで言えば、父ちゃんよりも俺の方に大きな変化があったはずだ。小三の頃よりも遥かに身長は伸びたし、雰囲気だって変わった。子どもから大人に成長する時期だったんだから当たり前だろう。だから事前に母ちゃんに抗議をした。「心配しなくても、あんたが息子だってすぐに気付くよ。自分の子どもなんだもん」なんて言ってた。そんなもんなのかね。俺にまだ子どもがいないことをいいことに適当なこと言ってはぐらかしていないことを願うよ。
周囲を見渡しても父ちゃんらしき男性は見つからなかった。そこで俺は、一旦トイレに向かうことにした。父ちゃんと会うと決めてから、ずっと緊張していた。なにしろ約十五年ぶりの親子の再会なんだ。でも嫌な緊張ではなかった。どちらかというと、楽しみとか待ち遠しいみたいな緊張だった。ま、良い緊張って言えるのかな。だけど腹の中の悪魔たちに良い緊張も悪い緊張もなかった。違和感は違和感だ。俺の気持ちとは関係なく大車輪の働きで大便を生産し続けた。もちろん家からこの店に辿り着くまでの間も、大人しくはしていなかった。父ちゃんに会えるのは楽しみだったけど、無傷でカフェに辿り着く保証なんてどこにもなくてそれが不安だったくらいだ。結局母ちゃんの車で送ってもらうことになったんだけど、マジで家とカフェの間にある全てのコンビニに立ち寄るつもりで運転してもらった。実際に全てのコンビニのトイレを借りる事態にはならなかったけれど、五軒ははしごすることになった。そんなだから、実際に父ちゃんと再会する直前に、大きな波を感じたとしても不思議じゃなかった。
前にも使ったトイレの個室に入ると、途端に腸が鋭く反応した。テロが起こったビルから我先にと脱出する愚かな人間みたく便が便器へと吹き出した。さっきまでは、まだもう少し我慢できるといったレベルだったのに別の寄生先を見つけた途端こんな反応なんだからまったく現金な奴らだよな。
膝が扉にぶつかるような狭い空間だった。左手の壁には口に出しては言えないような下品な落書きが小さな文字で書かれている。だが不思議と落ち着いた。多分過去に使用したことがあるからだ。どんなに汚いトイレでも、一度命を救われたらそこは楽園。俺は色んなトイレによって生かされて手広くやってる生命体だから、本来なら生活圏は全部天国って言っても過言ではないはずなのに、なんでこんなにも生きづらいんだろうな。
「大丈夫か?」
扉をノックされると、膝に振動を感じた。ノックをした人間に魂を掴まれたような気持ちがした。不快だった。聞き覚えのある声だった。一瞬、父ちゃんかと思ってしまうが違う。天沢の声だ。
「トイレの個室に籠もっている時っていうのは大抵大丈夫じゃない」まともに受け答えをする気にはならなかった。「大体あんたはお呼びじゃないんだ。それともこの店にはトイレケアのサービスが付帯されてるのか? 違うだろ? 分かったら口を閉じて自分の仕事に戻るんだな、この詐欺師が」
「そこまで言うことないだろ。俺はただきみの体のことが心配で。それに不思議な力なんてないことは教えてたはずだし」
「ああ、お前に力なんてないよ。ウエイターとしての力だって怪しいぜ」
「その調子だと、やっぱりきみの願いは叶わなかったようだね」
扉の外から人の気配が消えた。天沢が仕事に戻ったんだろう。彼はもしかしたら、本当に俺のことを心配しているのかも知れない。招かれざる客を見つけて気にしていると、前科のあるその男がまたしてもトイレに立った。ありもしない不思議な力を強請られたとはいえ、その後が気になる男でもあった。トイレに向かいさり気なく声をかける。ところが「詐欺師が」だって。なんて憎たらしい返答なんだ。俺だってそう思う。逆の立場ならたまったもんじゃないだろう。でもさ。うんこしている人間に外から声をかけるなんて、どんなことを言われても仕方がないくらいのマナー違反なんだよ。いい加減に学んでくれ。
トイレから出て席に戻ろうとすると、そこに男の背中があることに気付いた。数分便器に座って俯いたことで方向感覚が狂い、元の席を見失ってしまったのかと思った。店内の様子とトイレの位置を数回確認し直す。いや、俺の席はあそこだ。間違いない。男の背中に視線をやりながら恐る恐る近づく。緊張はしていなかったと思う。ただ、自分の吐く息がやたらと近くに聞こえていてうるさいほどだった。男の背中をゆっくりと回り込む。肩、胸、顔。期待を込めてゆっくりと観察した。マコちゃんだった。
マコちゃんのことを実際に目の当たりにしたことはなかった。動画で視聴して外見を知っているだけだ。だけど考えてみればこの店はマコちゃんのテリトリーなんだ。いても不思議じゃない。だけどタイミングを考えて欲しい。常連なのかも知れないが、今は会いたくはなかった。それにおっさん、席間違えてるぞ。このテーブルには俺が頼んだレモンティーが乗っているだろう。
「あの、ここ、僕の席なんですけど」
少し減ったカップを指さしながら言った。マコちゃんはテーブルの下でスマホを見ていた。俺が声をかけると顔を上げ、スマホの画面を天板につけた形で置いた。
「大きくなったな。困ってるんだろ。俺なら解決出来るぞ」マコちゃんは確かな口調でそう言った。その後で「動画回していいか?」とスマホを持ち上げる。
「ダメに決まってるだろ、イカれてるのか?」
わけが分からなかったが、取り敢えずその手からスマホを叩き落とした。こいつ、なにを言っていやがるんだ。続く言葉が出てこなかった。代わりにマコちゃんの顔をよく観察した。驚いたような丸い目をしているが、恐らくそれは通常の表情なんだろう。鼻は高く骨っぽい。口は横には小さいが縦には大きい。唇が太いんだ。その周りを無精髭が覆っている。というか髭が顔の下半分のほとんどを支配している。そのせいで、本来の顔の印象が掴みにくかった。
「ほら、父ちゃん父ちゃん」マコちゃんは人差し指で自分の顔を指差しながら笑った。「髭で分かりにくいか? 剃ってくればよかったな。でも大丈夫。髭剃ればさ、昔とそんなに変わってないから」
言われてみれば、マコちゃんのむさ苦しい髭面の中に、昔の父ちゃんの見窄らしい面影を感じることが出来た。でもさ、もしそれが本当だったら息子の俺が分からないわけないだろう。動画を見た瞬間にピンと来るはずだ。あ、この馬鹿な動画配信者の正体は父ちゃんだってさ。本当にそうか? 俺は天沢にも気付かなかった。時の流れは残酷だ。美しい青年をただの中年に変える。さっきそのことを認めたばかりじゃないか。それに動画を見た時、俺は自分の腹痛のことばかり考えていた。そこに意識をフォーカスしていたんだ。まだまだモテたいだなんていうふざけた動機で動画を配信する大馬鹿野郎の実態なんて気にもとめなかった。見えてるようで、見てないんだ。意識してなかったから。これはボクシングで言うところの消えるフックみたいなもんだ。相手の拳が消えるなんてことはあり得ないのに、意識しないだけで消えたみたいに感じる。違う。俺は気付いていたのかも知れない。最初にマコちゃんの動画を見た時、いや、トイレの扉のむこうから音声を聞いた時か。彼の声に親しみを感じたはずだ。懐かしいって思ったことを覚えている。今となってはその懐かしさを天沢に感じていたのかマコちゃんに感じていたのかは分からないけれど確かに感じた。あの時はただ、昔の知り合いの声に似ているだけって思ったけれど、顔が見えない状況で感覚が鋭くなっていたのかも知れない。俺は、マコちゃんの声を、ちゃんと父親の声だと認識していた。ただ意識しなかっただけだ。
「なんで?」
「なんでって、愛に頼まれたからだよ。びっくりしたぜ。ファンとの待ち合わせ場所にあいつが現れたんだからな。せっかく楽しみにしていたのにさ、一気に葬式みたいな空気になった」
マコちゃんは当時のことを思い出したのか、顔を歪ませた。右目だけを器用に瞑って、唇を尖らせるその歪ませ方には見覚えがあった。
「あれは、その」
「ああ愛から聞いた。お前、天沢ちゃんのこと探してたんだろ? まあいいさ。ネットの世界で生きてりゃ、こんなのよくあることだよ。愛に久しぶりに会えたしな。向こうはどう思っているか分からないけど、俺は嬉しかったよ。おまけにその後、こうして連絡までしてきてくれた。お前が困ってるって言ってな。あの時せっかく会えたんだから連絡先くらい交換してくれって泣きついた甲斐があったってもんだよ」
母ちゃんのことを、名前で愛って呼んだ。その発音の仕方で確信が持てた。きっとこの人は本物の父ちゃんだ。みっともない動画配信者をやっているんだと思うと泣けてくるが、母ちゃんのことを愛って言う時の甘ったるい発音は変わっていない。それだけで決めつけるなんて変かも知れないけど、でもそう思った。
「俺のこと、どこまで聞いてる?」
「あのキーホルダーを失くして困ってるって聞いた。それで腹が痛くなって大変だって。愛の奴さ、お前を救えるのは俺だけかも知れないとか言うんだぜ。なんか怖いよな。それと、天沢ちゃんからも少し。息子が世話になったわけだし。それよりお前、まだあのキーホルダー使ってたんだな」
「ああ、最近までずっと使ってた。失くしちゃったんだけどさ」
父ちゃんの手が顔の近くまで伸びてくる。咄嗟のことだったけれど、反射的に頭を逸らすなんてことしなかった。その手が何をどうやって掴むか分かっていたからだ。思った通り父ちゃんの手は俺の耳の上辺りを掴んで乱暴に撫でた。体温すら懐かしいって、一体どういうことなんだろう。母ちゃんは言ってた。小三の時に父ちゃんが出ていって俺はストレスを感じたって。自分ではそんなの考えたことがなかった。いや、寂しかったさ。でもストレスとは違う。しかも腹痛の原因になってるだなんて的外れもいいところだ。俺はあの時、本当はなにを感じていたんだろう。子どもながらに泣き叫んでも仕方がないって諦めていただけなのか。母ちゃんをこれ以上傷つけないようにわがままを言うのはやめようって自分を誤魔化したのか。思い出せない。もしかしたら自分でも分からなくなるほど奥の方に感情を押し込めた結果なのかも知れない。寂しかっただけでは済まされない思いがあったのかも知れない。気付くと俺は耳のそばにある父ちゃんの手を握っていた。あったかい。手を繋いで近所を散歩した時のことを思い出す。悪さをして引っ叩かれて泣いた後、涙を拭ってくれた時のことを思い出す。指先から父ちゃんのあたたかさが伝わって、全身が心地良い温もりに包まれる。
「困ってるんだよ、助けてくれよ父ちゃん」
父ちゃんの手は大して大きくもないのに、これでもう大丈夫だって気にさせられる、頼りになる父親の手だった。
「安心しろよ。きっと助けてやれるから」
父ちゃんは俺の髪の毛を掴むのをやめた。そして俺に向けて、手の平を見せるように広げた。右手だった。左手はポケットの中に入れたままだった。指の間から父ちゃんの真剣な表情が見えた。なにをやっているのかは明らかだった。気付いた瞬間は、思わず笑いそうになった。きっと事前に天沢から聞いたのだろう。この姿勢と表情は不思議な力を使う時の天沢とそっくりだった。自分も天沢みたいな力が使えると思っているのだろうか。それとも俺がこういうオカルト的な手法に弱いとでも思っているのか。とにかく、必死になって出来もしないことをやろうとしている父ちゃんが滑稽でたまらなかった。俺はこういう父ちゃんが好きだった。嘘つきでお調子者で、周りに流されやすい。きっと母ちゃんも好きだったはずだ。でも母ちゃんからすると父ちゃんのこんな性格は許せなかったのかもな。浮気性だし。
元々、あのコスモ星丸のキーホルダーは父ちゃんから貰ったものだった。貰った日のことは覚えている。夜の公園で。父ちゃんが家を出ていく二、三日前のことだった。ふと思いついたように、自分の宝物だっていうキーホルダーをくれたんだ。脱いだばかりの下着を洗濯機に隠すみたいにして放り投げて渡された。普通宝物をそんな風に扱うか? って思った。また適当なこと言って、ゴミを押し付けられたんじゃないかってさ。父ちゃんからのプレゼントは嬉しかった。そんなの滅多に貰えなかったからな。だから、貰った瞬間こそ手放しで嬉しかったものの、すぐに冷静になったんだ。少しの間疑心暗鬼になってた。だけど、俺はそれから十年以上キーホルダーを大事にしていた。腹痛が収まるからって理由だけでそうしていたわけではない。父ちゃんの宝物をプレゼントされたって分かっていたからだ。これは我が家の家宝も同然だった。俺はそれを知っていた。何故だ? 何故そんな風に確信できた?
目の前でこちらに向けて手の平をかざし、額に汗をかいている父ちゃんの表情を確認する。ふふふ。やっぱり笑ってしまいそうになる。あんたにそんな力はないだろうって突っ込んでやりたくなるよ。それともなにか。会わなかった十五年間で体質が変わったのか? 超能力体質にでもさ。軽口が今にも口をついて出そうになるが、なんとか堪えた。父ちゃんが冗談でそんなことをしているわけではないことを知っていたから。自分に力があるなんて寝ぼけたことを考えているわけでもないはずだ。ただ俺のことを真剣に考えているだけだ。息子を救いたいって真面目に思っているだけだ。
父ちゃんの真剣な表情を眺めていると、ふと脳裏をよぎる記憶に気付いた。偶然ではないだろう。俺はなにかを思い出そうとして、父ちゃんの顔からそのヒントを得たんだ。あれは、いよいよ父ちゃんが家を出ていく前日の夕方だったと思う。学校から帰宅すると、リビングに父ちゃんがいた。母ちゃんはいない。だって十六時前とかだったし、まともな大人なら働いている時間だったから。数日前から続く両親の喧嘩は最早冷戦状態に入っていた。父ちゃんはポイントを稼ぐために、時々母ちゃんの好きなものを買ってきたりしてたけど全部逆効果だった。母ちゃんの反応はちょっと頑なだった気もするけど、父ちゃんだって配慮が足りなかったからなんとも言えない。コンビニでケーキを買ったのに、それだけで満足してビニール袋を振り回しながら帰るもんだから母ちゃんに差し出す時にはもうぐちゃぐちゃになっていた。それならって、大金はたいてアクセサリーを買ってくるだろ。デパートの一階とかでさ。ピアスだったかな。こう、ハートの形をした可愛いやつ。父ちゃんは期待に目を輝かせながら母ちゃんに渡したんだ。でも母ちゃんは冷めた口調で言った。「こんな高価なもの、誰の金で買ったんだ?」って。父ちゃんはそれを聞いた瞬間に顔を真っ青にしていた。だって、母ちゃんの財布からくすねた金で買ってたから。普通なら、そんなことしちゃいけないって思うだろ? 思わないにしても、意味のないことだって気付く。まともな大人なら。でも父ちゃんは思わないし気付かない。母ちゃんの喜ぶ顔が見たくて、仲直りしたくて、だから脇目も振らずその結果だけを夢見て行動する。厳密に言えばコンビニのケーキだって母ちゃんの金で買ったんだ。父ちゃんは金とは無縁の生活だったからな。でもそれくらいなら、長年の付き合いで母ちゃんも分かっている。だから文句は言わない。見逃してやっているだけなんだ。それなのに父ちゃんは調子に乗るんだ。いつだってそうだ。ケーキで文句を言われなかったんだから今度はピアスだ。これでも喰らえってもんなんだろう。数日の間にそういうことが続いて、母ちゃんは疲れきってていた。夫にキレるのにも疲れ、人の道を諭すのにも疲れ、ついでに息子の面倒を見ることにも疲れていた。話しかけても機嫌の悪い対応をされるだけだから俺は距離を置いていた。こんな時は余計な接触を持たないことが肝心だ。子どもでも分かる道理だった。でも父ちゃんはそういう女心を理解せずに大人になった人間だった。積極的に話しかけては怒られて、しかも堪え性もかったもんだから何度も喧嘩になっていた。両親が顔を合わせれば喧嘩になるような生活は辛かった。だから学校から帰った時、リビングに父ちゃんしかいないことに気付いて少しだけほっとした。もちろん、母ちゃんだけならそれでもいい。どっちのことが好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなかったから。ただ、二人が同じ空間にいるのを見るのは辛かったってだけだ。
「ただいま」「おかえり」って言い合ってから、しばらく経った時だった。その時俺達は並んでソファーに座っていた。正面にテレビがあって、画面になにやら映し出してはいたけれど、どんな番組を見ていたのかは思い出せない。二人ともニュース番組は嫌いだったから、もしかしたら公共放送の料理番組でも流していたのかも知れない。
「ああそうだ、お前、あのキーホルダー持ってるか?」
「え? うん」
俺は頷いた。結局家の鍵を付けて持ち歩いていた。ポケットを探すがない。足元に転がっていたランドセルの中にもない。玄関まで探しに行くと、下駄箱の上に置かれていた。鍵を持ってソファーに戻る。
「それ宝物だって言ったろ? そんな風に雑に扱わないでさ、もっと大事にしてくれよ」
「それ本当なの? また父ちゃんの嘘なんじゃないの?」
「嘘なんかじゃないって。ほら」
父ちゃんは着ていたシャツの胸ポケットからキーホルダーを取り出した。コスモ星丸のキーホルダーだった。貰ったものと同じように塗装がはげていて年代物だって一目瞭然だった。
「なにこれ? なんで同じの二つ持ってるの?」
「ふふん」父ちゃんは勝ち誇ったみたいにして笑った。「これはな、俺の親父に買ってもらったんだ。子どもの頃、つくば万博に連れてってもらってな。親父は俺になんにもしてくれなかった。だから万博に連れてってもらって、お土産にキーホルダーまで買ってもらえて本当に嬉しかったんだ。一つは俺のもの。もう一つは親父にあげた。なんか照れくさそうにしちゃってさ、あんまり嬉しそうでもなかったけど、親父が死んだ後にキーホルダーを見たら俺のと同じくらい使い込んでてさ。それ以来、我が家に伝わる家宝にしてる」
父方の祖父母には会ったことがなかった。どんな人なのか想像つかないけれど、自分の子どもになにもしなかったってのを聞く限り、父ちゃんと似たような人だったのかなって思った。でも、父ちゃんはプレゼントをくれないだけで、他のことはなんでもしてくれる。金がかからなければって条件はつくけれど、よく遊びに連れて行ってくれるし、授業参観や運動会にだって積極的に参加してくれる。まあうちの場合、父ちゃんはほとんど働いていないようなもんだし、暇だっていう理由もあるんだろうけれどさ。爺ちゃんがどんな仕事をしていて、どれくらい忙しかったのかは知らない。だから責めるつもりはないけれど、もしかしたら父ちゃんは自分の親を反面教師にしていたのかも知れないな。
「爺ちゃんは忙しい人だったの?」
「普通だったんじゃねえの? 休みの日は家にいたし。仕事で忙しくて子どもに構ってられないってことじゃなくて、ただそういう人だったんだと思う。別に嫌われてたわけじゃねえけど。子どもになにかしてやるってタイプの父親じゃなかったんだよ」
「そんな爺ちゃんがなんで万博には連れてってくれたの?」
「その頃俺、イジメられてたんだよ」
父ちゃんはなんてことないように言った。それどころか「なんでだろうな?」と首をひねったりしている。その様子を見ると、父ちゃんの方にも原因があったんだって思えた。
「なんで?」
「それが分からないんだよ。でも子どものイジメなんてそんなもんじゃねえのか? 理由なんて後からなんとでもこさえることが出来るけど、本当は些細でしょうもないことなんだよ。気にする必要もない。つっても、それは今振り返って言えることで、当時は苦しい。だから俺は嘘をついてイジメを切り抜けた。自分を大きく見せたり強く見せたり。周りに馴染もうとして必死だった。イジメられてるんだからそれくらいしてもいいだろ? 相手は意地の悪い子どもなんだから、こっちだけ行儀良くする必要もないだろ。それで嘘つきまくってたんだよ。ちょうどその頃、つくば万博が開催されるってクラスで盛り上がってたもんだから、俺は父親に連れてってもらうんだって大ボラを吹いた。父親が連れてってくれるわけがない。近所の買い物にだって連れてってくれないんだから。皆が憧れる場所に行くっていう嘘で、自分を大きく見せたかったんだろうな。覚えてねえけど。だけど、その頃にはもう俺の嘘が周りにバレ始めてた。そりゃそうだ。バレバレの嘘もついてたしな。で、意地の悪い連中は俺を辱めてやろうって企んだ。今度嘘をついたらその場で追求してやろうぜって考えてたらしい。それがちょうど万博に行くっていう嘘をついたタイミングだったんだ。皆に囲まれて『行ったら証拠見せてもらうからな』とか言われた。マジで焦ったぜ。どうしようって思って、かなり追い詰められた。子どもながらに、この嘘がバレたら過去についた嘘も全部追求されるって分かってた。だからダメ元で親父に全部話して、万博に連れてってくれって頼んだ。そしたらさ、いつもみたいに興味ない顔をして話を聞いた後、分かったって」
「急に? 変わった人だね」
「多分、親父にも息子の危機感が伝わったんじゃないかな。それか、俺はその時までなにかをねだったことなんてなかったからたまにはって思ったか」
「それで、万博に行ってキーホルダーまで買ってもらったわけだ」
俺は父ちゃんと爺ちゃんの思い出が詰まったキーホルダーを優しく撫でた。自分だけの宝物ではないんだって実感できた。家族の気持ちが込められた物なんだって。
「学校で自慢したぜ。キーホルダーを見せながらな。皆びっくりしてた。俺は信じてもらえなかった寂しさをたっぷり匂わせてやった。罪悪感を植え付けるために。そしたら、それからイジメはなくなった。人気者になれたわけではないけど、少なくとも辛くない学生生活になった。俺が嘘つきだって噂はまことしやかに囁かれ続けていたし、それからも都合が悪くなったら嘘をつくっていう癖はなくならなかったから、万博に行ったって事実を皆が信じたかは分からない。感覚的に言うと、多分信じてなかった。だけど、所詮は子どもだったから証拠のキーホルダーを突きつけてもっともらしいことを言う奴に反論するだけの知恵が皆にはなかったんだと思う」
「爺ちゃんはなんで急に心変わりしたんだろ」
「だからそれは俺の危機感が」と言いかけて、父ちゃんはなにかを思い出したようだった。「その後、親父は一年もしない内に死んだんだ。癌だって言ってた。だから余命も分かってたはず。それで、最後に俺と思い出を作りたかったのかもな。親父が死んで、お袋と病院に行った時、枕元に俺がやったキーホルダーを見つけた。最後まで大事にしてたんだって思ったよ。元はと言えば親父の金で買ったものなのにさ。俺のと同じくらい色が落ちてた。多分病院でもずっと握ってたんだろうなって感じた。お前にあげたのが、親父のだよ。同じに見えるだろうけれど、俺には見分けがつく。だからこのコスモ星丸のキーホルダーは俺の宝物なんだよ。お前にもなんとなく分かるだろ? 絶対に失くすなよ。代々受け継がれる宝物だからな」
当時は良く出来た話だと思ったよ。感動もした。それでも本当か嘘かは分からなかった。この期に及んでまだ怪しんでいる自分もいた。なにせ父ちゃんは嘘つきだから。だけど、信じることにしたんだ。こっちから信じて、それで幸せになれるならそれで良いって思えた。それにさ、家族の宝物が今俺の手元にあるなんて、なんだかワクワクしたから。父ちゃんはいつもそうやって俺を楽しませてくれた。だから好きだったんだ。
「もういいよ。もう分かったからさ」
父ちゃんの人差し指と中指の間に見える右目を見ながら言った。左の目は薬指に隠れて見えなかった。ふと、父ちゃんの表情が緩む。
「腹、治ってきたか?」
「いやあ、そんなすぐには治らないけどさ」言いながら服の上から腹を撫でてみる。なにも感じない。「母ちゃんから全部聞いたんだろ? 腹のこととか、天沢のこととかさ。それで、同じようにやってくれてるんだろ? ありがたいけど、やっぱり効果はなかったからさ。だからそんな風に汗かくほど頑張らなくていいよ」
「え?」父ちゃんは額の汗をおしぼりで拭きながら心底驚いた顔を見せた。「でも、キーホルダーを持ってることでずっと腹の調子は良かったんだろ? あれを失くした途端にまた痛くなったって聞いたけど。いや、俺には天沢ちゃんに不思議な力があるとかそういうのは分からねえよ。でも実際にお前のお守りにはなってたんだろ? だったら効果があるんだよ。俺の宝物が息子を救うなんて最高じゃねえか。誰の、どんな力でも関係ねえよ。お前にはコスモ星丸のキーホルダーが必要なんだよ」
ほら、と言いながら父ちゃんはポケットに入れていた左手を出した。その手には失くしたはずのキーホルダーが握られていた。色が褪せた具合も、角が取れて丸みを帯びた形もそっくりだった。一瞬、あの日失くしたキーホルダーが時空の狭間に落ちて父ちゃんのポケットから再び現れたのかと思った。でもそんな訳はない。
「ははは、これって」思わず笑ってしまった。もう一つのキーホルダーを手にとって眺める。
「父ちゃんのキーホルダーか」
そうだ。コスモ星丸のキーホルダーは元々二つあった。万博のお土産に買った父ちゃんのものと爺ちゃんのもの。俺が貰ったのは死んだ爺ちゃんのものだったはずだ。
「天沢ちゃんには力がなかったのかも知れないけどよ、俺にはあるから。お前からのエネルギーを右手に感じながら、左手で込めたぜ力。家族の宝物だよ。持ってけ。これが必要なんだろ」
「でもこれは、父ちゃんのだろ?」
嬉しかったが昔話を鮮明に思い出した後のことだった。このキーホルダーが父ちゃんにとってどれだけ大切なものだったかは理解しているつもりだ。ほとんど思い出を作れなかった爺ちゃんとの繋がりを唯一感じられる宝物のはずだ。いくら俺のお漏らしが深刻だからって簡単にもらうわけにはいかない。台風一過の川に捨てられた俺のキーホルダーだって、本来ならそうだ。確かに腹痛予防のお守りだった。あれが手元にあることで安心した。これがあれば絶対に漏らすことなんてないって思えた。そう信じられた。でもそれだけじゃなかったと思う。父ちゃんがくれた宝物だった。小三の頃にいなくなった父ちゃんがくれたプレゼントだったんだ。キーホルダーに触れていると、微かに父ちゃんを感じた。今どこにいるかも分からない父ちゃんと繋がっているって思えた。俺にとっても宝物だったんだ。それを簡単に渡すことなんて出来ない。でも。そうか。もし俺に子どもがいたとして。それなら渡せるか。子どもの危機をキーホルダーで救えるなら。
「まあ、そうなんだけどな。昔話したろ?」
「ああ、万博のお土産で買ってもらったんだろ。爺ちゃんにさ」
「ん? まあ、そうだな」
父ちゃんは歯切れ悪く答えた。
「そうなんだろ? 普段どこにも連れて行ってもらえなかったけど、万博だけは一緒に行った。爺ちゃんは癌で余命わずかだったから、最後に子どもとの思い出を作りたくてさ。違うのか?」
「いや、大体は合ってるけど細部は違うぞ。俺は万博には行ってない。確かにそのキーホルダーは親父に買ってもらったものだけど、多分どこかの土産物屋で買ったんだと思うぞ。あの頃は日本全国どこでも買えたんだ。万博が流行ってたからな」
「はあ? どういうことだよ」
「だからさ、万博に連れてってくれって頼んだんだよ、親父に。連れてってもらうんだって友達に大口叩いちまってピンチだったからよ。それで泣きながら頼んだの。当然断られた。それどころか怒られたんじゃなかったかな? 俺にそんなことを頼むなよ、とか言って。でもある日、どこかでコスモ星丸のキーホルダーを二つ買ってきた。もしかしたら買ってもいないかも知れない。誰かのお土産として貰ったやつかも知れないな、今考えると。それで言われたんだよ。そのキーホルダーで連れて行ってもらったふりをしろって。まあ親父も俺と同じように嘘つきだったからな。疑われたら一つはガキ大将にでもあげろって言うんだよ。そうすることで、周りにも信頼されるようになるからってさ。ま、俺は誰にもやらなかったけどな。二つとも懐に入れた。誰かにやっても、どうせ嘘だって思われるのは目に見えてたし。俺は嘘が上手いことで有名だったから。それにさ、嬉しかったんだ。親父からのプレゼントなんてもらったことなかったから。そんなだから大人になっても、子どもが生まれてもずっと手放せなくてよ。俺の宝物なんだ。でもお前にやる。俺も親父と一緒で、父親としてはなにもしてやれなかった。宝物をやるくらいなんてことはない」
父ちゃんは明らかに悦に入っていた。その顔は動画配信者のマコちゃんに戻っていた。キーホルダーにまつわる思い出が、以前聞いた話とは微妙に違っていた。つまりどっちかが嘘だってことだ。いや、どっちも嘘なのかも知れない。
父ちゃんの額から汗が落ちて、テーブルの水滴と混ざった。だけど、俺のために本気になったってのは本当なんだろう。嘘の気持ちだけじゃ、こんなに汗は流れないもんな。本気で、持ってもいない力を使って、どこから持ってきたかも分からないキーホルダーを目一杯握る。それが子どものためになるって本気で信じていないと出来ることじゃない。
「なんだよ、それ」
吐き捨てるように言った。その瞬間、腹痛なんてまるで感じなかったのは、さっきうんこを済ませたばかりだからだろうか。それとも。
了
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